[Side Y/異世界]Link: エルフ-06
五日目。
目が覚めても、身体の中の夜が終わっていなかった。
木の匂いは同じなのに、火の匂いが薄い。
薄い分だけ、昨日の言葉が残っている。
──あなたは最後です。
──獲物になります。
机の上に器。
草と蜜の湯。
パン。
硬貨。
いつも通りの並び方が、今日は妙に『作ってある』みたいに見えた。
整っているのに、整い過ぎている。
家の中に気配がある。
リビングに行くと、シルヴィが居た。
目が少しだけ固い。
固いのに、顔色は変えない。
変えないから、余計に分かる。
「起きた?」
「起きた……昨日、シルヴィは寝てない?」
「寝てる。寝た振りも上手いよ」
軽く言う。
軽く言うのに、笑わない。
笑わない軽さは、冗談の形をした確認だった。
「今日、外に行かないで」
「外って、稽古場も?」
「稽古場は良いよ。でも、村の端は駄目」
「分かった」
言った瞬間、シルヴィの肩から少しだけ力が抜ける。
抜けるのが速い。
速いから、戻すのも速い。
「……村、変なことになってる?」
「なってる。だから、『変』に慣れないで」
慣れないで、が刺さる。
刺さるのに命令じゃない。
お願いに近い形だ。
僕は草と蜜の湯を飲む。
温度が先に来る。
甘さが遅れて来る。
最後に草の匂いが残る。
残る匂いが、今日は合図じゃなく警告みたいだった。
「今日の順番は?」
シルヴィが問う。
問い方は普段と同じ。
同じなのに、音が硬い。
「線」
「うん。線。呼吸。足。戻る場所」
「戻る場所?」
「そう。戻れる形で振って」
言い切る。
言い切るのに、追い詰めない。
その余白が逆に怖い。
稽古場へ向かう道は、昨日までと同じ土の硬さだ。
同じなのに、視線の硬さが増えている。
村の方から人の気配がする。
声が少ない。
少ないのに、動きだけが増えている。
子供が走らない。
走る足音が無い。
無いから、生活の音が一つずつ尖って聴こえる。
露店の棚が低く畳まれていた。
畳み方が丁寧で、本気だと分かる。
通りすがりのエルフが僕の服と靴を見て、直ぐ目線を外した。
敵意じゃない。
礼儀だ。
礼儀の形が今日は『距離』に変わっている。
境界の方へ向かう巡回が二列になっていた。
二列なのに足音は増えない。
増えない代わりに、肩の線が揃っている。
その列の端で、小さい声が落ちた。
「洞窟……」
「……切断……」
「……ブロック」
単語だけ。
いくつかの単語だけが、耳の内側に貼り付く。
僕は聴こえなかった振りをして稽古場へ行った。
聞いたら、何かが変わりそうだった。
変わるのが怖かった。
棒を握る。
握り過ぎない。
足を残す。
呼吸を散らさない。
線を透かして通す。
頭では言える。
身体が言えない。
振る。
音が軽い。
軽いから誤魔化しが効かない。
振る。
振る。
振る。
通らない。
通らないまま、汗だけが増える。
瓶を思い出す。
剣の油。
剣が無いのに油だけがある不釣り合い。
その不釣り合いが、今日の自分のままだった。
不意に草が擦れる音がした。
小さい。
でも、揃っていない。
僕は棒を下ろさずに、目線だけを動かした。
稽古場の端。
木々の影が濃いところに、あの小さい狼が居た。
鳴かない。
逃げない。
ただ、こちらを見る。
前に対峙した時と同じ目。
同じなのに、今日は待っている目だ。
他の気配がする。
狼に焦点を置いたまま、視界の端で周りを拾う。
葉の揺れ方が違う。
風じゃない。
呼吸だ。
一瞬でざっと周りを見渡す。
脳に焼き付いた映像を数える。
一匹、二匹、三匹、四匹……八匹。
囲まれている。
円を作って、僕の『逃げたい』を測っている。
棒を構え直す。
握り過ぎない。
足に逃げ道を残す。
息を整える。
透かす。
左右から同時に、首元を目掛けて跳んで来る。
身体が先に引ける。
半歩だけ下がって、肩を落とす。
左右の影が頬の近くを掠める。
正面から三匹。
距離が詰まる。
詰まるのが速い。
──迎え打つ。
振る。
木が当たった手応え。
手応えの重さが薄い。
通っていない。
「くそっ……やっぱ通らない!」
背後。
気配が刺さる。
振り向き様に棒を振る。
通らない。
でも、明らかにクリティカルヒットして、狼が一匹、地面を転がる。
後七匹。
──後ろが空いた。
大丈夫。
走れる。
つま先を二回、地面に打ち付ける。
自分に合図を出す。
合図が無いと、足が固まる。
一気に全力で走る。
背後から追われているのが、はっきり分かる。
それは狼じゃない。
──死、だ。
呻き声が頭の真後ろから聴こえた。
反射で上半身を折る。
背中に重さが乗る。
息が詰まる。
視界が斜めにズレて、地面が近付く。
転ぶ。
失敗した。
咄嗟に振り向いて、背中から倒れ込む。
立ち上がる隙が無い。
狼達が宙に浮き、僕に向かって落ちて来るのがスローモーションで見える。
遅いのに、間に合わない。
間に合わないことだけが想像になる。
「クッソ!」
身体を転がす。
草が頬に張り付く。
転がった勢いのまま立ち上がる。
背中が幹に当たる。
当たった痛みで位置が分かる。
位置が分かるのに、逃げ道は分からない。
ヤバいヤバいヤバい。
策が無い。
全く手が思い浮かばない。
息が散る。
必死に逃げる方法を探そうとするけれど、頭は誰かが助けてくれることだけを望んでいる。
狼が、ゆっくりと僕を取り囲む。
ゆっくりなのが怖い。
時間を与えてくれている顔をして、逃げられないことを確認している。
左の殺気が濃い。
きっと、来る。
集中する。
駄目だ。
失敗したら死ぬ。
失敗したら死ぬ。
失敗したら死ぬ。
呼吸を整える。
整えるために息を吸うと、胸が痛い。
痛いのに、吸う。
透かす。
通す。
絶対に通す。
絶対に。
──その瞬間、恐怖が薄れる。
消えたんじゃない。
恐怖の輪郭が息の形に変わる。
身体の内側に押し込められて、外の音が静かになる。
左に居た二匹が、同時に飛び掛かって来る。
棒の間合いを測り、タイミングを合わせて振る。
棒の先が、風を切る音が変わる。
軽い音じゃない。
一本の線が、空気を割る音。
狼二匹に当たる。
当たった場所が跳ね返らない。
振り抜く。
通った。
二匹が大きく吹き飛ぶ。
後五匹。
狼達が一瞬、距離を取った。
怯えたというより、測り直している。
今の僕が何をしたのかを、理解しようとしている。
頼む。
このまま、どこか行ってくれ。
頼む。
頼む。
後五匹。
三匹倒した。
でも、後五匹。
倒れた狼の方へ寄りながら、僕もゆっくり距離を取る。
背中を見せない。
見せたら終わる。
このまま行ける。
このまま離れることが出来れば──。
集中を切らさない。
呼吸だけを数える。
一、二、三。
追って来ない。
見えなくなった時、どっと疲れが押し寄せた。
心臓も呼吸も、ずっと居たけどって顔をして戻って来る。
思い知らされる。
これでは、僕は戦力にもならない。
自分で自分を守ることも出来ない。
──シルヴィに会いたい。
家へ戻る道を急ぐ。
急ぐのに、走らない。
走ったら追われる気がした。
灯りが見えた瞬間、胸の真ん中が少しだけ解ける。
解けるのに、手は震えたままだった。
家に帰ると、シルヴィは僕を見るなり──
「何があったの!」
大きな声。
彼女の大きな声を聞いたのは初めてで、心臓がどこかに飛んで行った。
「この前の小さい狼が、仲間連れて仕返しにやってきた」
「……噛まれた?」
「噛まれてない。引っ掻かれた。背中、ちょっとだけ」
「見せて」
「大丈夫」
「大丈夫じゃないから言ってる」
言い方が強い。
強いのに、怖がらせるためじゃない。
僕の言葉を押し退ける力がある。
服を脱いで背中を見せる。
シルヴィは眉を寄せた。
寄せたまま、何も言わずに薬草の匂いのする布を持って来る。
布が冷たい。
冷たいのに、触れられると落ち着く。
落ち着くのが悔しい。
「八匹居た。スライムなら、キングスライムになるくらい」
「……八匹?」
キングスライムは無視された。
「数えた。八」
「一人で?」
「一人で」
「馬鹿」
短い。
短いのに、刺さる。
刺さるのに、怒られているだけじゃないと分かる。
刺したい相手が僕じゃない感じがする。
「逃げた」
「逃げ切れた?」
「……転んだ。追い付かれた。死ぬかと思った」
「死ぬよ」
即答だった。
嘘でも大袈裟でもない。
事実の言い方だ。
「でも、三匹倒した」
「自慢じゃない」
「……分かってる」
「分かってるなら、次は言って」
「言えなかった。シルヴィが居なかった」
「居なかったのは私のせいじゃない」
「……うん」
「でも、謝る。今日、稽古場なら良いって私が言った」
そこで、シルヴィの声が少しだけ落ちた。
落ちた声の方が、さっきの大きい声より胸に来る。
「今夜は、ここから動かないで」
「……分かった」
「棒、見せて」
「ここで?」
「巫山戯無い」
僕が棒を差し出すと、シルヴィは受け取って、表面を指先で撫でた。
撫で方が丁寧だ。
丁寧だから、彼女が本気で怖がっているのが分かる。
「当たった場所、覚えてる?」
「覚えてる」
「もう一回、同じ距離で振ってみて」
「今?」
「今。怖いのを置いたまま、身体だけ確認する」
外へ出る。
夜の匂いが近い。
だけど冷えない。
冷えないのが逆に不安だ。
息を整える。
整えたつもりで、整ってないのが分かる。
棒を構える。
振る。
音が軽い。
さっきの感覚が来ない。
通った音じゃない。
「……これが現実」
シルヴィが言った。
「さっき倒したのは、偶然。偶然だと、次は死ぬ。今日は疲れてるから、もう寝よう」
「……明日は?」
「家でじっとしてて」
「稽古は?」
「家の傍でやって」
「……分かった」
やっとシルヴィは息を吐いた。
吐いた息が、いつもの呼吸に戻ったみたいに見えた。
食事は静かだった。
スプーンが器に当たる音が残る。
残る音が、今日の僕の震えを少しずつ薄くする。
寝る前、背中の傷にもう一度布が当てられる。
布の冷たさが眠りの入口みたいだった。
「ユウキ」
「何?」
「明日、私が戻れなかったら……鍵を掛けて、火を消して、隠れて。絶対に外へ出ないで」
「……分かった」
「約束」
「約束する」
「うん」
短い肯定。
短いのに、重い。
六日目。
朝、シルヴィの枕の匂いで目が覚めた。
身体が痛い。
痛いのに、噛まれてない。
噛まれてない痛みが、弱さを露骨にして余計に悔しい。
机の上に草と蜜の湯とパン。
硬貨は無い。
代わりに、短い紙みたいな皮が置いてある。
『今日は家の近くで。私が戻るまで、どこにも行かないで』
僕は湯を飲み干して、外へ出た。
家の近くの土は踏み固められていない。
踏み固められていない分だけ、自由に見える。
自由なのに、怖い。
棒を握る。
握り過ぎない。
足を残す。
呼吸を散らさない。
振る。
振る。
振る。
線は安定しない。
安定しないのに、昨日より逃げ方が減っている。
逃げ方が減るほど、出来ない場所が見える。
見える場所が増えるほど、身体が固くなる。
固くなるのを息で剥がす。
剥がしても直ぐ戻る。
遠くで足音がする。
足音は小さい。
小さいのに数が多い。
巡回だ。
昨日より多い。
多いのに、声は無い。
村の方から器を片付ける音が聴こえた。
聴こえるのに、生活が遠い。
昼、シルヴィは戻らなかった。
戻らないまま日が傾く。
僕は棒を置いて家の中で待った。
待つのが苦手なのに、待つしかない。
お腹が空いた。
夕方、扉の外で礼儀正しいノックがした。
一昨日と同じ、急ぎの混ざった叩き方。
扉を開けると、部隊員が立っていた。
目線が硬い。
硬いのに、乱暴じゃない。
「シルヴェーヌ様は未だ戻りません」
「……何かあった?」
「村の端を畳んでいます」
「畳む?」
「外の者が出ないように」
言い切る。
言い切るのに、責めない。
部隊員はそれ以上言わずに去った。
足音は無い。
無いのに、家の中が急に狭くなる。
夜、シルヴィが戻って来た。
顔色は変わらない。
変わらないのに、目が固い。
部隊長の目だった。
「……ごめん。遅くなった」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない顔」
言われて、僕は返事が遅れる。
遅れた返事を、シルヴィは責めない。
「シルヴィ」
「何?」
「お腹空いた」
「うふふ、直ぐ作るね」
今度こそ、シルヴィが家に帰って来た。
器が並ぶ。
湯気が立つ。
火が柔らかい。
柔らかいのに、スプーンの音が尖る。
「今日、何してた?」
「家の近くで稽古。線、全然通らない」
「通らなくて良い日もある」
「昨日も言ってた」
「昨日より、今日はもっと」
もっと、の後に言葉が続かない。
続かないまま、火を見る。
「村の端を畳んだって聞いた」
「ユウキは大丈夫。気にしないで」
「割りとヤバい感じ?」
「……勘が良いね」
「良くない」
「良くないね」
シルヴィは笑う。
笑って、戻す。
「僕の順番って──」
「先に森。次に暮らし。最後に外の者」
その順番が出た瞬間、火の音が一段だけ大きく聞こえた。
「僕は……最後」
「そう。だから私が先に守る」
先に守る。
順番が最後のはずなのに、シルヴィだけが順番を守らない。
外の葉が揺れる。
揺れが揃っていない。
揃っていない揺れが、昨日より近い。
「……ねぇ、ユウキ」
「何?」
「明日、また来るかも」
「狼?」
「狼だけじゃない」
だけじゃない、の言い方が、部隊長の言い方だった。
軽さの奥の骨が、今日初めてはっきり見える。
「怖い?」
僕が訊くと、シルヴィは直ぐに答えない。
答えないまま火を見る。
一拍だけ数えて、言った。
「怖いよ。だから、順番を守る」
順番。
その言葉が、今日は温かくならなかった。
寝る前、シルヴィが僕の脛の巻き方を確認する。
指先が速い。
速いのに、優しい。
「明日、稽古は線」
「うん」
「線が通らなくても、呼吸は通る」
「呼吸」
「呼吸は、嘘を吐かない」
外の音が少ない。
少ないから、一つ一つがはっきり聞こえる。
そのはっきりの中に、揃っていない揺れが未だ混ざっている。
僕は目を閉じた。
閉じたのに、眠りの方が来ない。
「ユウキ」
「ん?」
「大丈夫」
「うん」
「怖くないよ」
「怖がってる様に見える?」
「見えない。だけど……不安かな?って」
僕は少し、言葉を選ぶ。
「シルヴィが居てくれるから、僕は楽しいよ。全然怖くない」
不意に、頭を引き寄せられる。
「ユウキのことは、私が守るから」
風の音が静かに小さくなっていく。
どこか遠くに行ってしまう合図みたいに。




