[Side M/異世界]Link: エルフ-07
朝は白い。
白いのに冷たくない。
木目の天井に落ちる光が、ここが私の部屋になってきたことを教えてくれる。
私はベッドを降りて、指先で耳の後ろをそっと触った。
痛みは薄い。
薄いからこそ、昨日までの痛みが夢じゃなかったと分かる。
窓を少しだけ開ける。
森の匂いが入って来る。
湿った木と、遠い火の名残。
息を吸うと胸の中が静かになるのに、同時にここで生きる感覚も増える。
机の上にiPhoneがある。
黒い角の重さ。
帰り道の輪郭。
画面は見ない。
見れば数字が減っている。
減っていることは、もう知っている。
私は水を飲んだ。
飲んだだけで身体の中の乾いた部分が静かになる。
ここに馴染むのが怖い気持ちは未だ消えないままだ。
椅子に座って、少しだけ指を組む。
指先が冷たい。
冷たいのに、心臓は落ち着かない。
私は昨夜、暮らしたいと言った。
言っただけで、未だ何も決めていない。
何も決めていないのに朝は来る。
来るから、私は動ける。
動けることが今日の救いだと思った。
外へ出よう。
昨日も私は外を歩いた。
昨日の続きが出来るなら、今日も出来る気がした。
外套を羽織る。
服の重さが肩に乗る。
その重さが部屋の中だけの私を少し外へ連れ出す。
廊下へ出る。
木の床が少し鳴る。
その音はもう怖くない。
庭へ向かう途中で私はふと思い出す。
──シルヴェーヌ。
今日は会えるだろうか。
会えたら、話をしたい。
糖樹の蜜の味。
私がここで暮らすと決めた時の胸の熱さ。
それを誰かに聞いてもらうだけで、決断が現実になる気がした。
庭に出ても彼女は居なかった。
居ないことに、私は未だ理由を付けられる。
隊長は忙しい。
そういう仕事だ。
それに、彼女はいつも居る訳じゃないことも知っている。
居たら嬉しい、居なくても怒ることは出来無い。
そういう距離だ。
私は息を吐いて袖口を整えた。
袖が整うと、心も少しだけ整う。
だから私は別の目的に切り替える。
花畑に居た、あの子。
あの子にもう一度会って、エルフの森の話を聞きたかった。
私が知らないこの世界を、私は少しずつ覚えて行きたい。
歩き出す。
石畳が土に変わる。
土の湿り気が足の裏に馴染む。
馴染む感覚が心地良いのに、その心地良さを許して良いのか分からない。
森は静かだ。
静かなのは、いつも通りだと思った。
鳥の声が遠いのも、風向きのせいだと思った。
遠い声の代わりに木が擦れる音だけが近い。
道は細い。
けれど迷わない。
木の根が避ける場所を教えてくれる。
同じ根を昨日も跨いだ気がして、私は小さく笑いそうになる。
繰り返しがあると、人は安心する。
私は自分が独りで歩けるようになっていることに気付く。
それが少し嬉しい。
嬉しいのに、胸のどこかが落ち着かない。
落ち着かない理由は言葉にしない。
言葉にした途端、私がここに居る理由が変わってしまう気がした。
木の幹に細い縄が巻かれているのを見付けた。
昨日は気付かなかった。
気付かなかっただけで、昨日もあったのカモ知れない。
何かの目印だろうと私は軽く考えた。
森は森のやり方で整っている。
私は未だ知らないだけだ。
小さな小屋が見えた。
木材を積む場所だ。
昨日は誰かが居た気がする。
今日は居ない。
私は小屋の前で立ち止まった。
耳を澄ます。
斧の音も木槌の音も聴こえない。
聴こえないだけで作業をしていないとは限らない。
森は広い。
音は遠くへ逃げる。
私はそのまま通り過ぎた。
通り過ぎる時、木材の匂いが少しだけ濃くなる。
濃さがあるから、誰かが触ったのは最近だと分かる。
最近、という単語が急に現代みたいで、私は一瞬だけ息を止めた。
誰とも擦れ違わない。
昨日は子供が居た。
今日は居ない。
私は立ち止まって周囲を見る。
誰も居ない。
朝が早いだけカモ知れない。
今日は何かの作業の日なのカモ知れない。
私が知らないだけで、森には森の予定がある。
私は歩きながら、花畑のあの子との会話を思い出そうとした。
でも、思い出すほどに分からなくなる。
冠の名前。
役目の名前。
それらは私の舌に馴染んでいない。
だから私は目に見えるものを数える。
木の幹の太さ。
苔の色。
道の端の小さな石の形。
数えると、考えが薄まる。
薄まる分だけ足が前へ出る。
遠くに水の音がした。
川だ。
私は少しだけ寄り道をする。
水を見れば、私はここが自然だと納得出来る気がした。
川の縁には誰も居なかった。
桶も洗い物も無い。
私は手を浸すだけ浸して、直ぐに引っ込めた。
──冷たい。
冷たいから、ここが現実だと分かる。
冷たさが手首を伝うのを見て、私はまた歩き出した。
花畑に着いた。
前と同じ場所。
前と同じ匂い。
けれど、誰も居ない。
子供達の声がしない。
花で遊ぶ手が無い。
私は花を一つだけ指で触れた。
花弁が薄い。
薄いのに、折れない。
折れない強さが羨ましい。
胸の中が少しざわつく。
ざわつく理由を私は未だ言葉にしない。
言葉にした途端、戻れなくなる気がしたからだ。
私は花畑の端まで歩いた。
端まで歩けば誰かが居る気がした。
気がしただけで、誰も居ない。
私は小さく呼び掛ける。
「誰か居ますか?」
返事が無い。
──ただの屍のようだ。
返事が無いのに、私はもう一度だけ待った。
待つ間、風が花を揺らした。
揺れる花はいつも通りですって顔をしている。
私は息を吸って、吐いた。
吐く音だけが自分の耳に戻る。
それが少し可笑しくて、可笑しいのに笑えない。
朝が早いだけだ。
皆、どこかで作業をしているだけだ。
私はそういう理由を、胸の中へ置いた。
置かないと、静けさに名前が付いてしまう気がした。
私は花弁から指を離した。
薄いのに折れない。
折れないまま揺れている。
だから私は引き返そうとする。
戻れば良い。
戻って、部屋で過ごそう。
その時、背中の方で枝を踏む音がした。 軽い音じゃない。
急いでいる音だ。
「ミユっ!」
名前を呼ばれて身体が跳ねた。
声は知っている。
知っているのに温度が違う。
振り返ると、白い手袋が見えた。
次に、顔。
シルヴェーヌが息を乱していた。
髪が少し乱れている。
乱れ方がいつもの彼女じゃない。
「シルヴェーヌ。久し振り──」
「今直ぐ、帰るよ。外に出たら駄目」
言い方が短い。
短く命令の形をしていた。
私は言葉の続きを探す。
「それはどう言う──」
「良いから」
シルヴェーヌが私の手を掴んだ。
白い手袋越しでも、異常事態なことが分かる。
強い。迷いが無い。
私達は走った。
走りながら私は周りを見る。
見て、そこで初めて気付く。
静か過ぎる。
静か過ぎるのに、空気だけが固い。
さっきまで私は『朝だから』で済ませていた。
でも今は違う。
シルヴェーヌが焦っている。
焦りが私の世界の輪郭を一気に変える。
「どうしたの?何があったの?何で皆、居ないの?」
私は息を切らしながら言う。
シルヴェーヌは答えない。
答えないまま足だけが速い。
速さが怖い。
速いのに置いて行かれる気がする。
私は声を上げた。
「ねぇ!シルヴェーヌ!」
私は手を振り払った。
止まらないと、私は置いて行かれる。
シルヴェーヌが立ち止まる。
私を見る。
その目に苛立ちみたいな影が一瞬だけ走る。
言えないんだろうか?
言えない理由があるんだろうか?
私はその理由を勝手に想像しない。
想像した途端に私の恐怖が先に育つからだ。
シルヴェーヌは真っ直ぐ私の目を見たまま、何も言わない。
言えない沈黙。
沈黙の形だけが答えになる。
「……分かった。言えないんでしょ?私は戻れば良いのね」
言い終えると胸が少し痛んだ。
痛いのに私はそれを飲み込む。
飲み込まないと走れない。
シルヴェーヌの目がいつもの目に戻る。
戻ったのに、焦りは残っている。
その焦りが彼女の仕事中の顔だと、私は遅れて理解する。
「ごめん」
「ううん。私の方こそ、大きな声を出してごめん。行こう。急いでるんでしょ?」
「うん。急いでる」
私達はまた走った。
走って戻る道が行きより遠く感じる。
そう感じるのは、私の心が追い立てられているからだ。
門の内側に近付く。
近付くほど気配が増える。
増える気配は、人の気配だ。
そこで私は、さっきまでの静けさが『静けさじゃなかった』と理解する。
隠されていた。
隠されていたというより、表に出さない様にされていた。
建物の近くに兵が居た。
昨日より多い。
目線が鋭い。
鋭いのに私を刺さない。
刺さない代わりに通り道だけを作っている。
ドアの前には見張りが二人居た。
昨日は一人だった。
私は数えてしまう。
数えることしか出来ない。
私の足音が少しだけ大きくなる。
この森の静けさに私の音だけが浮く。
ふと、思い出す。
なぜ今頃になって思い出したのか自分でも不思議だった。
──ヒュドラは狙った獲物を逃がさない。
その言葉が、意味を持って浮かび上がる。
ヘリウムガスみたいに。
私は未だ何も知らないのに、身体だけが先に怖がる。
シルヴェーヌは私を部屋の前まで連れて行った。
ドアの前で短く言う。
「今日は、なるべく出ないで。分かった?」
「……分かった」
分かった、と言うしかない。
理由が分からないままでも。
私は彼女の焦りだけは分かった。
シルヴェーヌはドアに手を掛けて、それから私を見た。
いつもの目だ。
いつもの目なのに、薄く疲れている。
「もし……ドアを叩かれても、回数が違ったら開けないで」
「回数?」
「四回以外は、開けない。私か、リュミエル様の合図」
私は頷いた。
頷くしか出来ない。
シルヴェーヌは小さな石を、私の掌に置いた。
──転移石?
私が知っているのと色が少し違う。
「これ、落とさないで」
「……これ、転移石?」
シルヴェーヌは答えなかった。
答えないまま私の指を軽く握って、直ぐに離した。
「ごめん」
それだけ言って彼女は廊下の方へ走って行った。
走り方がさっきと同じだった。
ドアが閉まる。
閉まったドアが私を守っているのか、閉じ込めているのか分からない。
私は石をスカートのポケットに入れた。
分からないモノをただ信じることしか出来なくなるほど、怖さが増える。
ドアの外で誰かの足が止まる気配がした。
止まって、直ぐに遠去かる。
私は息を止めたまま、足音の数を数えた。
数え終える前に音が消えて、私は自分が何をしているのか分からなくなる。
私は石を取り出して、掌で転がした。
乾いた手触り。
軽いはずなのに、落としたら終わる気がする。
終わるモノが何なのかは──分からない。
部屋の中は静かだ。
静かだから外の固さが余計に分かる。
私はベッドの端に座って膝の上で手を握った。
iPhoneに手が伸びる。
伸びるのに、止める。
数字を見たくない。
見れば現実に戻ってしまう。
自分がどこに居たいのかさえ、未だ分からないのに。
私は【メッセージ】機能を思い出した。
押せば誰かに助けを求められる。
けれど、その誰かは──誰であるべき?
リンクしている相手に弱音を吐くべきか。
別の相手に相談するべきか。
そもそも異世界同士が同じ世界なのかも分からない。
──吟遊詩人。
私は一昨日の夜、自分の中の軽さを嫌った。
嫌ったから、今も指が止まる。
机の上に朝のパンが置かれていた。
いつの間に置かれたのか分からない。
分からないことが少し怖い。
でも、食べないと身体が動かない。
私は小さく千切って口に入れた。
噛む音が部屋に響く。
響く音が外の固さと繋がっている気がした。
外で足音が増えた。
増えて、遠去かる。
遠去かって、また増える。
私は窓へ近付こうとしてやめた。
見れば、見た分だけ恐怖が形になる。
代わりに部屋の小ささを数えた。
机、椅子、ベッド、窓。
四つだけで生きて行けるかを試すみたいに。
試すほどに、私は生きている。
時間が過ぎた。
過ぎたのに、私は時計を見ない。
iPhoneを見れば時間も分かる。
分かるのに見ない。
だから私は、呼吸を数えた。
一つ、二つ、三つ。
数え方は正しくない。
正しくないのに、私はそれに縋る。
木の外で短い合図みたいな音が鳴った。
笛なのか、木片なのか分からない。
分からない音が今日の恐怖だ。
ドアが二回、短く叩かれた。
私は動かなかった。
──四回じゃない。
静かになってから、ドアの外で物が置かれる音がした。
何かを引き摺る質量のある音。
私はドアに近付きたいのに、近付けない。
近付けば開けたくなる。
暫くして足音が遠去かる。
私は漸く息を吐いた。
無意識に息を止めていたことにハッとする。
私はベッドの縁に座った。
座ると、身体の重さが分かる。
重さがあるから、私は未だここに居る。
ドアが叩かれた。
四回。
私はポケットの中の石の形を確かめた。
石は左のポケットに黙って隠れている。
ドアを開けると、リュミエルが居た。
光の中に居るのに、影が深い。
深い影のまま、視線だけが真っ直ぐだ。
外套の裾に、森の露が少しだけ付いている。
「中に入っても?」
「……どうぞ」
リュミエルが私の部屋に入る。
ベッドで介抱してくれた時以来だ。
その事実だけで、胸が少し熱くなる。
彼は部屋を見回さない。
見回さないのに、全部を把握している気がする。
私は居場所を見透かされるのが怖い。
「ミユさん。この世界に残るか、決まりましたか?」
想定外の角度からの質問に、私は戸惑った。
リュミエルに答えを求められることは、初めてに近い。
──ここに居たい。
言いたいのに、言えない。
言えば、戻れなくなる気がする。
戻れなくなるのは怖い。
でも、戻りたいのかも今はもう分からない。
私は『分からない』の檻の中に居る。
沈黙が落ちる。
沈黙は部屋の中で大きくなる。
私はその大きさに耐えられず、口を開いた。
「……未だ、決め切れていません」
リュミエルは頷いた。
頷きは責めない。
責めないのに、逃げ道も作らない。
「強制切断──その意味を考えたことがありますか?」
リュミエルは問う。
声は淡々としている。
淡々としているから、逃げられない。
「……私が帰れなくなる?」
私の返事にリュミエルの表情がほんの少しだけ変わった。
柔らかい、に近い。
でも、優しいとは違う。
「いいえ。あなたが『戻れるかどうか』だけが、意味ではありません」
リュミエルは一拍置いて続けた。
「期限があるから、人は決めます。期限があるから、相手は待てます。期限が無ければ、待つ側の心は摩耗します」
何かが、掴めそうな気がする。
私が気付いていない……何かが。
「摩耗した心は、ある日突然折れます。折れたことに気付けないまま、笑ってしまうこともある」
私はその言葉が怖かった。
怖いのに、否定出来ない。
待つ側の痛みは、待たせた側には見え難い。
見え難いから、私は今まで見ない振りをして来たのかも知れない。
私は息を吸った。
摩耗、という言葉が現代みたいで、怖い。
でも、意味は分かる。
分かってしまう。
「昨日、私の決断の方法を聞いて、どう思いましたか?」
私は息を整えた。
合っているかは分からない。
でも、感じたままに言う。
「周りの皆を安心させるために、リュミエルが責任を引き受ける」
リュミエルは頷く。
頷きが小さい。
小さいのに肯定だと分かる。
私は恐れず続ける。
「だから、もし決断が間違っていても、悩んでいた人は傷付くことは無い。そのために、リュミエルが決めてる」
私は言いながら、自分の胸が少し熱くなるのを感じた。
その熱さは羨ましさに近い。
私は決められない側だからだ。
リュミエルは微笑んだ。
微笑みは短い。
短いから、意味が残る。
「やはり、あなたは美しい」
褒め言葉はいつも突然だ。
私は受け取り方が分からない。
分からないまま、逃げないで居ようとする。
「例えば、強制切断が無く、いつまでも悩んで居られるとしたらどうでしょう?」
「……私なら、いつまでも決められない」
「えぇ。その間、私はどういう思いで待ちますか?」
その瞬間、私は理解した。
私が決めないことは、私だけの問題じゃない。
決めない時間が、リュミエルの心を削る。
長い時を過ごしていても、いつブロックされるか分からない。
ほんの些細な衝突で、ブロックされて二度と会えない。
その不安を、私はリュミエルに渡したままになる。
私は、昨夜の自分の言葉を思い出す。
──『ここで暮らしたい』。
言っただけで、相手の未来を揺らしていた。
「分かりましたか?あなたは、ずっと私の心を壊すスイッチを無自覚に掴んでいるんです」
私は手に持ったiPhoneの重さを確かめるように握った。
黒い角が掌に当たる。
当たる痛みが今日の現実だった。
私が決めないことがリュミエルの不安を増やしていた。
私は遅れて気付く。
気付いたから胸が痛い。
私は決断した。
決断は大きな音を立てない。
でも、私の中で確かに固まった。
ただ、最後に一つだけ確かめたい。
確かめないまま言えば、私の決断が『逃げ』になる気がした。
私は自分の人生から逃げたくない。
「最後に一つ、質問させてくれませんか?」
リュミエルは頷いた。
エルフは嘘を吐かない。
だから頷きが重い。
「どんなことでも」
私は呼吸を整えた。
私なら言える。
そう思わないと、言葉が折れる。
リュミエルの指先が僅かに動いた。
それが私の質問の重さを量っているみたいに見える。
私は目線を逸らさない。
逸らした瞬間、私の決断が崩れる気がした。
私は一度だけ瞬きをして、肺の奥まで息を入れた。
吐く時、肩の力が少しだけ抜ける。
それでも、怖い。
怖いまま言う。
静寂は時々、知ったか振りの表情をする。
私はその表情に騙されないように、言葉を落とす。
「私を選んだ理由を教えてください」




