[Side M/異世界]Link: エルフ-06
文字が白い。
部屋の灯りより鋭い。
切断。
強制。
残り。
そのどれもが生活の言葉じゃない。
生活の中に居たはずの私が急に『外』へ引っ張られる。
息を吸うと空気が痛い。
痛いのに部屋は静かなままだ。
静けさが私を置いて行く。
私は画面をもう一度見た。
見直しても文字は変わらない。
変わらないまま、秒だけが減っていく。
前まで居ましたという顔で【元の世界との切断】というボタンまで増えている。
私の知らない機能が、私の生存の隣に座っている。
私は【メッセージ】を開こうとして、指が止まった。
開けば、助けを求められる。
けれど、その助け方は正しいのか。
吟遊詩人。
あの人に何を言う?
リンクしている相手の相談を、別の相手に。
それは、私が一番嫌う軽さだ。
私はiPhoneを強く握った。
硬い角が掌に刺さる。
刺さる痛みが現実だった。
ドアの外で誰かの足音がした。
夜番の足音。
一定の間隔。
世界は平気な顔で進む。
私は立ち上がった。
立ち上がると決意が行動に変わる。
変わってしまうのが、少しだけ怖い。
廊下へ出る。
木の床が少し鳴る。
鳴る音が今は怖くない。
怖いのは、きっと音じゃない。
シルヴェーヌを探そうとして、足が止まった。
見付からない。
見付からないまま、不安だけが増える。
私は進路を変えた。
賢王の部屋へ。
リュミエルの部屋の前で、息を整える。
整えてから、ドアを三回ノックした。
直ぐに返事は無い。
無いのに、私は待った。
待つしか無いことが、今は怖い。
部屋の中で動く気配を感じる。
ドアが開く。
灯りが漏れる。
リュミエルがそこに居る。
「どうしました?」
声は同じ温度。
同じ文体。
同じ正しさ。
私は、その正しさに縋りたくなった。
縋る前に、iPhoneを差し出した。
「これが、出た」
リュミエルは画面を見た。
見て、何も変わらない顔のまま言った。
「始まりましたね」
「……何が」
「切断までの期限です」
期限。
その単語が首輪みたいに聞こえた。
「私は、帰れなくなる?」
リュミエルは直ぐに否定しない。
直ぐに慰めもしない。
「その時間が過ぎれば、あなたは『元の世界へ戻る為の手段』を失います」
私は唇を噛んだ。
噛んだ痛みで、泣かないで居られる。
「じゃあ、今なら戻れる?」
「戻る為には、ブロックが必要です」
【ブロック】。
私は、その単語を胸の中で触った。
「ブロックしたら……全部が終わる」
「終わります」
同じ温度で言われると、終わりが確定になる。
確定になるのに、私の中は未だ揺れている。
「……私は、ここで暮らしたいと思った」
私は、言ってしまった。
言ってしまってから、息が詰まった。
言葉は戻らない。
戻らないまま、私の指先だけが冷たくなる。
リュミエルは受け取ったまま置いた。
置いてから、静かに言う。
「それは、悪いことではありません」
悪いことじゃない。
その一言だけで、私は少しだけ息が出来た。
「でも」
リュミエルの『でも』は、脅しじゃない。
条件の提示だ。
「あなたが選ぶ必要があります」
私は頷いた。
頷くしか出来ない。
でも、頷けた。
画面の中で秒がまた一つ減った。
減る音はしない。
それなのに、減り方は見える。
その夜、私は眠れなかった。
眠れない理由は恐怖だけじゃない。
眠ったら、減った秒を取り戻せない気がしたから。
水を飲もうとして、やめた。
喉が渇いているのに、飲むとここに馴染みそうで怖い。
怖いのに、掌にはiPhoneの角の痛みだけが残っている。
窓の外の森は静かで、完璧だった。
完璧な静けさに私は置いて行かれている。
置いて行かれるのに、灯りは優しい色で揺れている。
朝が来た。
来てしまった。
私はまたシルヴェーヌを探した。
探しても見付からない。
森は広い。
広いのに、今日だけは狭く感じる。
枝の影が同じ形で重なる。
同じ形があることが、怖い。
私は、iPhoneの数字を確かめた。
減っている。
減っているのに、私の足だけが遅い。
私は息を吐いて、賢王の方角を見た。
あの人なら何かを決めている。
決めるべきことを決めている。
それが今の私には羨ましかった。
羨ましい、だけで済ませたくない。
私は歩き出した。
昨日より迷いが少ない歩き方で。
リュミエルの部屋のドアを叩く。
今回は直ぐに開く。
彼は既に身支度を整えていた。
服の皺が無い。
髪も乱れていない。
整い方が私の不眠を責めるようで、でも同時に救いでもあった。
「ミユさん。昨夜は眠れましたか?」
私は首を振った。
恥ずかしいのに、隠せない。
「そうですか」
それだけで終わらない。
でも、深掘りもしない。
彼はただ事実を受け取って、次へ進む。
「今日は、私と一日を過ごしますか?」
その言い方は提案に見えて、確認だった。
私がここに来ることを彼が前提にしていたみたいで、胸の内側が少し熱くなる。
私は言葉を探した。
過ごすか?ではなく、『私が』リュミエルと居たいんだ。
探して、正直な言葉が出た。
「……暫く、傍で過ごしても構いませんか?」
リュミエルは少しだけ考えた。
考える時間は短い。
短いのに、軽くない。
「それが──あなたが選ぶ助けになるのなら、断る理由にはなりませんね」
私の心が少しだけ整う音がした気がした。
音はしないのに、整う感覚だけがある。
リュミエルは外套を取り、ドアの鍵に指を置いた。
鍵穴へ差し込む前に、一瞬だけ指が止まる。
ただ確認している。
迷っている訳じゃない。
その一瞬が責任の重さに見えた。
廊下へ出る。
冷えた空気が頬を撫でる。
私は一歩遅れてついて行こうとして、直ぐに気付いた。
彼の歩幅が──私の歩幅に合っている。
合わせられていると分かると、身体が恥ずかしい。
恥ずかしいのに、嬉しい。
彼は振り返らない。
ついて来るのを疑っていない。
森の道を抜ける。
木の匂いと、冷えた光と、遠い火の気配。
足元の土は湿っているのに、歩く音だけは乾いている。
私は何度も、iPhoneを見たい衝動を飲み込んだ。
見たら、現実に戻ってしまう。
戻る先がどこなのか分からないのに。
執務の場は白い木肌と濃い影で出来ていた。
机の上に紙が積まれている。
紙の端が揃っている。
揃っていることが安心の形に見えた。
最初に来たのは、見張りのエルフだった。
報告は短い。
外縁の巡回。獣の足跡。境界の木の印が一つ削れていたこと。
リュミエルは頷き、直ぐに指示を出した。
「印は今日中に補修。削れた原因は調べて、結果は私に。巡回は二人増やしてください」
迷いが無い。
でも、声に苛立ちは無い。
必要な分だけの硬さで、森を守っている。
次は、年配そうなエルフが来た。
木材の配分。
冬に備える量が足りない。
だが、祭具の修繕も急いでいる。
私は、聞くだけで頭が痛くなった。
どちらも正しい。
どちらも今だ。
どちらも失敗したくない。
リュミエルは、相手の話を最後まで聞いた。
途中で止めない。
相槌で急かさない。
言葉が尽きるまで待つ。
「祭具の修繕は、優先順位を一つ下げます」
年長のエルフが息を呑む。
私も息を止めた。
「ですが、修繕を止めるわけではありません。手を入れる箇所を減らし、今冬の機能だけ確保する。見た目の完全さは、春に回しましょう」
相手の顔が少しだけ緩んだ。
私の胸の中も少しだけ緩む。
どちらかを切り捨てる選択じゃない。
今の正解に寄せるという決断。
それからも問題は途切れなかった。
薬草の不足。子供が熱を出した。狩りに出た者の帰りが遅い。
外縁で見慣れない火の跡があった。若い兵が規律を破った。
謝罪の仕方が許しに値するかどうか。
一つ一つが私には決められない。
決められないことばかりだ。
私は気付く。
この場に来るのは、迷いを持ち込む為じゃない。
迷いを終わらせる方法を知る為だ。
若い兵の件で空気が少しだけ硬くなった。
兵は視線を落としている。
言い訳が喉元まで来ている顔だった。
私は、iPhoneの数字を思い出した。
言い訳の時間が無いという感覚が、ここにもある。
「規律を破った理由を言いなさい」
リュミエルは叱責しない。
声を荒げない。
ただ、逃げ道を作らない。
逃げ道を塞ぐやり方が暴力じゃなく正しさだ。
兵は漸く口を開いた。
外縁の巡回の人数が足りず、仲間が倒れそうだった。
自分が持ち場を離れれば罰だと分かっていた。
分かっていたのに、助けたかった。
その言葉で場に困惑が落ちる。
罰するべきか。褒めるべきか。
どちらも違う。
私は決められないことの本質は、どちらも正しいことを初めて見た。
リュミエルは沈黙した。
沈黙は短い。
でも、軽くない。
彼の指が机の端で一度だけ止まる。
責任を握り直すように。
「規律は、守る為にあります」
その一言で、兵の肩が少しだけ震えた。
──罰だ。
そう思ったのが分かった。
「ですが、規律が森の命を削るなら、規律の方を直します」
その場の空気が変わった。
変わったのに誰も声を出せない。
「理由次第で罰が変わることはありません。あなたに罰を与えます」
リュミエルは、やはり冷たく言い放った。
理由次第で、許していたら規則が力を保てなくなる。
それは制度の崩壊だ。
──でも、冷たいと私は感じた。
「罰として、あなたに役目を与えます。外縁巡回の『倒れる前の報告』の手順を作り、来月までに仕組みにしてください。あなたが今日したことを偶然ではなく制度に落とす。それが未来の森を守ります」
兵は顔を上げた。
涙は無い。
でも、目の色が変わっている。
リュミエルは続ける。
「守りたいなら、勝手に動いてはいけません。守りたいなら、皆が守れる形に変えなさい」
叱られているのに、救われている。
私は、その矛盾の中に『安心』の作り方を見る。
誰かを責めないまま、森を強くする。
それが出来る人が──賢王だ。
昼を過ぎた頃、私は一度だけ水を飲んだ。
飲むと馴染みそうで怖かったのに、今は飲めた。
冷たさが身体の内側に落ちていく。
落ちていく感覚がここで生きる為の感覚に近かった。
「疲れましたか?」
私は首を振った。
嘘じゃない。
「……不思議です。疲れているのに、ここに居たい」
言った瞬間、私の言葉が自分の胸に刺さった。
刺さったのに、痛くない。
寧ろ形が分かる。
リュミエルは少しだけ目を細めた。
笑ったのかどうか、判別できない程度に。
「それは、良い徴候です」
「良い?」
「あなたがここを生活として見始めている」
生活。
その単語が昨日は遠かった。
今日は掌の痛みの近くにある。
私は堪えきれずに、iPhoneを確認した。
数字が減っている。
減っているだけだ。
なのに、心臓が一回余計に跳ねる。
私は直ぐに画面を伏せた。
見なかったことに出来ない。
でも、見続けていたら壊れる。
壊れるのは、私だけじゃない気がした。
夕方、狩りのエルフが戻って来た。
無事だった。
それだけで場の空気が一段柔らかくなる。
リュミエルはそれを見届け、漸く小さく息を吐いた。
息を吐いたことに、私は驚いた。
賢王は、常に整っているものだと思っていた。
整っているのは努力だ。
努力は呼吸に出る。
その呼吸が見えた瞬間、私は改めてここに居たいと思った。
夜。
人の出入りが途切れた。
灯りが静かに揺れている。
時間の揺れ方が昼より遅い。
机の上の紙の山が、森の人数みたいに見えた。
名前の無い人数。
それを守る為に、リュミエルがここに居る。
私は彼の背中が初めて、孤独に見えた。
リュミエルは椅子の背に、ほんの少しだけ身体を預けた。
預けたのに、崩れない。
崩れないまま、疲れだけが薄く見える。
それが怖いくらい綺麗だった。
私は堪えきれずに聞いた。
今日一日、ずっと胸に溜めていた問い。
「どうして、そんな簡単に決断出来るんですか?」
リュミエルは直ぐに答えなかった。
簡単な答えを選ばない沈黙だった。
「簡単ではありません」
それから彼は淡々と続けた。
「私が決めないと、皆が困る。迷うのは、皆の仕事です。迷って決められないことが私の元に来る」
「迷って……決められないこと?」
「そう。だから、私が自分の責任で決める。それが皆に『安心』を与える方法です」
私は、その言葉を受け取ったまま黙った。
安心。
私が今、一番欲しいもの。
私は、もう一つだけ聞く。
「リュミエルの安心は?」
彼は少しだけ瞬きをした。
初めて見た『揺れ』だった。
揺れは短い。
短いから、胸が痛い。
「私の安心は──」
一拍置いて、彼は言った。
「あなたが与えてくれています」
その瞬間、私は息の仕方を忘れた。
胸の中で、何かが『これかも知れない』と形を持つ。
私は反射で言い返そうとして、言葉が出なかった。
リュミエルは続ける。
続ける声は同じ温度だ。
でも、内容だけが少しだけ危うい。
「初めて見た時に、これほど美しい人は見たことが無いと感じました」
エルフは嘘を吐かない。
初めて出会った時の彼の言葉が私の逃げ道を塞ぐ。
私は何も言えなくなってしまった。
褒め言葉を受け取る経験が私の人生には足りなかった。
足りないのに、拒むと彼の安心を壊す気がした。
沈黙が落ちた。
落ちた沈黙は、痛くない。
寧ろ守られている。
私は立ち上がった。
立ち上がると、決意が行動に変わる。
今度はその変化が怖くなかった。
「……戻ります」
戻る、という言葉が現代に帰る、じゃなくて。
自分の部屋へ戻る、という意味になっていることに気付く。
その気付きが、胸に熱を残す。
リュミエルは頷いた。
「おやすみなさい。ミユさん」
私は廊下を歩く。
木の床が少し鳴る。
その音がもう怖くない。
部屋に戻って、iPhoneを見る。
秒は減っている。
減っているのに、昨日みたいに胸が裂けない。
私は【元の世界との切断】を押さなかった。
押さない理由が怖さだけじゃない。
私は今日、決めた。
ここで暮らして行く。
暮らして行ける自分になる。
答えは、未だ言わない。
言わないまま、私は灯りを消した。
暗闇の中で、白い数字だけが減っていく。
減っていくのに、私は目を閉じられた。




