[Side Y/異世界]Link: エルフ-04
三日目。
湿っているのに冷えない空気が服の首元に柔らかく触れている。
火の名残がどこかに残っていて、見えないのに部屋の角に居るみたいだった。
──シルヴィが居ない。
机の上にパンが置いてある。
昨日と同じ硬さの色で、でも少しだけ焼き目が濃い。
隣に硬貨が置かれていて重さだけが現代と違う気がした。
iPhoneを見る。
画面の明るさだけが森の朝から浮いている。
[エルフ]気持ち良さそうに寝てたから起こさずに行くね。
[エルフ]パンを食べて、お金はお昼ご飯に使って。夜には帰って。ご飯作るから。
短いのに、距離が決まる文だった。
『居て良い』の形だけが当たり前みたいに置かれている。
パンを割ると音が小さく鳴った。
鳴り方が乾いているのに、匂いは甘い。
噛むと固い。
固いのに、口の中でちゃんと解ける。
硬貨を手に取る。
数えるほどの量だ。
でも『お昼の分』と『余り』が作れるように置いてある。
稽古用の棒を持って、外へ出た。
扉を開けた瞬間、森の音が増える。
鳥の声は高くて遠い。
葉の擦れる音は小さくて揃っている。
家の前の道は線で引かれていないのに、道だと分かる。
踏み固められた土が歩く順番だけを覚えている。
僕はその順番を借りて歩き出す。
森の中に人の気配がある。
昨日みたいに整い過ぎていない。
生活の気配は揃っていない方が安心する。
小さな広場みたいな場所に出た。
木の幹に寄り添う様に低い屋根が並んでいる。
煙の匂い。焼いた穀物の匂い。草を煮た匂い。
それらが重なって森の匂いの上に薄く乗る。
子供が走っている。
走り方が軽い。
軽いのに転ばない。
足音が殆ど無いのが怖いくらいだった。
擦れ違う瞬間、一人の男の子が立ち止まった。
尖った耳が小さく揺れる。
瞬きだけで僕を測って、返事を少し遅らせた。
「こんにちは」
「……こんにちは」
声が小さい。
小さいのに逃げる準備はしていない目だった。
「君は、いくつくらいなの?」
「254歳」
数字を言った後、男の子は首を傾けた。
自分の年齢がどれくらいの重さになるか、僕の顔で測ってる。
「何それ、ヤバい」
「ヤバイ?」
眉がほんの少しだけ寄る。
意味が分からないのに、反応だけが先に出るのが可愛い。
「草超えて森」
「クサコエテ…?」
男の子は口の形を真似しようとして、唇が途中で止まった。
「生い茂っては熱帯雨林」
「オイシゲッテハネッタイウリン?」
今度は声に出しながら、言葉を一つずつ拾う。
拾っても意味は掴めないまま、僕の表情だけを見ている。
「あはは」
「なんだよ、それ」
笑った瞬間、男の子の目が少しだけ丸くなる。
笑いが、攻撃じゃないと分かった顔だ。
「何でも無いよ。気を付けて遊ぶんだよ」
行こうとすると呼び止められた。
背中に当たる声がさっきより少しだけはっきりしている。
「お兄さん、剣を使うの?」
「うん」
男の子は視線を腰の辺りへ落として、直ぐ戻した。
確認したいのは武器じゃなくて、僕が何者かだ。
「弓のが格好良いのに」
「弓のイメージはよく聞く。でも僕は剣が好きなんだ」
男の子は返事をしない。
シルヴィの真似をしてみたんだけど……通じない様だった。
ただ、耳が少しだけ動いてから走って行った。
声が少ないのに冷たくない。
視線の礼儀がここにもある。
それがシルヴィの言っていた『森』の形なんだと思った。
木の棚が並ぶ小さな店があった。
看板は無い。
代わりに木の実を束ねた飾りが吊ってある。
中に入ると乾いた草の匂いと金属の匂いがした。
男の店主が棚の上からこちらを見る。
髪の色は淡くて、目は細い。
笑っていないのに、敵じゃない顔だ。
「森の外の人か?」
「そう。一昨日来た」
店主の視線が僕の服と靴へ落ちる。
確認したいのは『危険』じゃなく『迷子』の方みたいだ。
「シルヴェーヌの家か?」
「うん」
店主は一度だけ口元を上げる。
上げ方が小さい。
「じゃあ、迷わない。迷わない代わりに、余計な所へ行くな」
「余計な所って?」
店主は棚の奥を顎で示した。
木の影が濃い場所だ。
「森の中で、森に聞けない所」
言い方が怖い。
でも、怖がらせるためじゃない。
「分かった」
「何か要るか?」
棚には縄、器、乾いた果実、刃物の手入れ道具。
生活の物だけが並んでいる。
「……剣の油ってある?」
僕が聞くと店主の眉が少しだけ上がる。
「剣を使うのか」
「使いたい。でも、未だ持ってない」
言ってから、自分で変だと思う。
剣が無いのに油を探している。
店主は返事をせずに棚を探る。
探り方が速い。
速いのに雑じゃない。
「これだ」
瓶を差し出された。
草と樹脂の匂いがした。
「匂い、嫌いか」
「嫌いじゃない」
店主は瓶を渡しながら視線だけで釘を刺す。
「手入れは嘘を吐かない。先に手入れだけ覚えろ」
「……いくら?」
店主は首を振らない。
代わりに瓶を僕の掌に押し込んだ。
「金は要らない。サンプルだ。うちのを使ったら、他の店のは使えなくなる」
「凄い自信」
「当たり前だ。自信無い奴から買った武器で戦えるか?」
瓶が温かい。
森の温度じゃなく、人の温度が残っている感じがした。
「ありがとう。きっと、また来る」
店主は頷かない。
でも追い返さないだけで肯定だと分かった。
次に、焼き立ての匂いの方へ引かれる。
女の人の声が聴こえる。
声の大きさが店の奥まで通る。
パン屋だった。
棚に並んだパンの色がさっき食べたのと違う。
焼き目が薄いのに匂いが濃い。
生地の粒が細かいのが見ただけで分かる。
女店主は腕捲りをしている。
目が合った瞬間、表情を変えずに見たことが伝わってくる。
「一番安いパンをください」
女店主は棚を見ずに、一番端を指先で叩いた。
「これだよ」
「美味しい?」
女店主は鼻で短く息を吐く。
「値段なりだよ」
「高い方が美味しい?」
「そりゃね」
言い切ってから、手が一瞬だけ止まる。
粉の付いた指先が少しだけ丸くなる。
「一番安くても、店主さんが作ったんでしょ?」
「う……まぁね」
視線が一度だけ逸れて、直ぐ戻る。
逸らした先は棚じゃなく床だった。
「じゃあ、店主さんの腕を信じる。一番安くても美味しいはずだ」
女店主は棚の奥へ手を伸ばしかけて、途中で引っ込めた。
「待て待て待て。こっちを食べてくれ。こっちのが自信作だよ」
「でも、僕……プレゼント買うためにお金を残したいから、一番安いので」
女店主は硬貨を見る。
見てから、僕の目を見る。
「一番安い値段で良いよ」
「良いの?」
「その代わり、次来た時に感想聞かせておくれよ」
言い終えた後、女店主は急いで棚を直し始めた。
直し方が丁寧で、余計に本気だと分かる。
「分かった。約束する」
女店主は返事をしない。
でも、パンを渡す手だけがほんの少し優しかった。
店を出て、パンを齧る。
甘さが直ぐ来る。
直ぐ来るのに軽くない。
噛むほど匂いが増えて、最後に少しだけ蜂蜜みたいな余韻が残った。
硬貨を数える。
余りが出来た。
余った重さがシルヴィの顔に近い気がしてしまう。
路地の奥に白い花の紋章が彫られた木札が掛かっていた。
中から金属の小さい音がした。
扉を押すと、店内は暗くないのに静かだった。
飾り棚に小さなベルが並んでいる。
女店主は椅子に座って、糸を通していた。
「いらっしゃい」
言い方が軽い。
軽いのに手は止めない。
僕は棚の前で立ち止まる。
ベルの形が森の中で妙に綺麗だ。
「おねーさん。このネックレスとブレスレット……同じベルを模ってるけど、何か意味があるの?」
女店主は目を細めて、先に笑いそうになるのを堪えた。
「あー、それはペアなんだ」
「ペア?ネックレスとブレスレットなのに?」
女店主はベルを指先で軽く弾く。
小さい音が店の木に吸われて、それでも残る。
「あぁ。男は胸にベルを提げて、女は腕にベルを着ける。離れて居てもお互いを呼び合う」
「何それロマンチックが止まらない」
女店主の口元が、やっと上がる。
「だろ?」
「じゃあ、ブレスレットだけ売ってくれない?ペアの片割れが売れてたら、買う人居ないだろうからね」
女店主は首を傾ける。
拒む顔じゃない。
──値踏みする顔だ。
「片割れだけでも私は売り込むよ」
「その時は、縁が無かったって割り切るよ」
女店主は小さく笑って、包み紙を一枚、指で撫でた。
「割り切れる顔じゃないけどね」
言われて、僕は返事が遅れる。
遅れたのを見て、女店主は笑いを深くしない。
その優しさが余計に刺さる。
「ブレスレットだけ、ください」
「腕の方ね」
「うん」
「相手は?森の人?」
質問の形なのに、詮索じゃない。
「……うん」
女店主は包みながらベルをもう一度だけ弾いた。
音が、さっきより少しだけ柔らかい。
「呼び合うってさ。便利じゃないんだよ」
「どういう意味?」
「呼ばれたら、行きたくなるだろ?」
包みを差し出す手が迷いを許さない形だった。
「……うん」
「じゃあ、気を付けて」
気を付けて、が軽い。
軽いのに、重い。
店を出て夕方の匂いを吸う。
煙が薄くなって土の匂いが増える。
帰る時間の匂い。
稽古場へ向かう。
木々の間隔が揃っている場所。
地面が踏み固められている場所。
そこに大きな岩がある。
今日は最初から『的』に見えた。
棒を握る。握り過ぎない。
足は残す。呼吸を散らさない。
線を透かして通す。
……通した『つもり』で振る。
空を切る音が軽い。軽いから誤魔化しが効かない。
もう一回。
もう一回。
昨日は『通ったことになった』。
でも今日は通らない。
通る場所が分からない。
分からないのに、身体だけが昨日の型を真似しようとする。
気付くと、二時間くらい振っていた。
腕が熱い。
息が乱れそうになる。
線じゃなくて、面なら?
棒を振った軌跡は線だ。
突いた軌跡は点だ。
点と線の次は──面。
面をどうやって通す。
透かして通すのに、面は『透ける』のか。
息を整える。
目線を整える。
森の音を耳で聞かない。
皮膚で聴く。
森の呼吸に自分の呼吸を合わせる。
合わせた瞬間、風の揺れ方が一拍だけ揃った気がした。
棒を構える。
線じゃない。
面。
見えない面を森の呼吸の中に置く。
振る。
音がしなかった。
大岩の真ん中が穴じゃなく『透けた』。
岩が欠けた訳じゃない。
そこだけ岩が『通された』みたいに薄くなっている。
透けた向こうに太陽が見えた。
夜なのに太陽があるんじゃない。
太陽が見える『朝の層』が、そこに重なっている。
僕は息を呑む。
森は騒がない。
騒がないまま、呼吸だけが深くなる。
怖いのに嬉しい。
嬉しいから、もう一回やりたくなる。
同じ呼吸を探す。
探して、見付からない。
振る。
今度は音が戻った。
もう一回。
もう一回。
岩は透けない。
さっきのは僕が出来たんじゃない。
森が、たまたま通してくれただけだ。
家へ戻る道を急がない。
でも、足は勝手に速い。
速いのに転ばない。
灯りが見えた瞬間、胸の中の硬さが解ける。
シルヴィの家には灯りが灯っていた。
煙の匂いが濃い。
夕飯の匂いがその上に乗っている。
「ただいまぁ」
僕が言うと、奥から足音が返って来る。
足音が小さいのに分かる。
「おかえり」
シルヴィが扉を開けて迎え入れてくれる。
扉を開ける仕草だけで部屋が整う。
「遅かったね。稽古?」
「うん。僕さ、分かったかも」
シルヴィは首を傾ける。
傾け方が揶揄いじゃない。受け取りの形だ。
「ちょっと来て」
僕が言うとシルヴィは小さく頷いた。
外へ出る。
夜の匂いが近い。
葉の揺れる音が昼より少ない。
「ヴェール=パッサージュ・リーニュ」
僕は言って棒を振った。
空気が薄く鳴る。
揺れた葉が一枚、遅れて揺れる。
シルヴィは直ぐに微笑まない。
目だけで僕の呼吸を見て、それから口元を少しだけ上げた。
「今のは、振っただけ」
言い方が軽い。
軽いのに逃げ道が無い。
「……だよね。分かってる。分かってるんだけど」
「分かってるなら、次」
シルヴィが言う。
僕は息を整えようとして、整えられない自分に気付く。
「シルヴィ。僕、もう少しで届く気がする」
言いながら、自分の声が少しだけ震えてるのが分かる。
シルヴィの目が少しだけ丸くなる。
返事が直ぐ来ない。遅いのに迷いじゃない。
「届かせて」
短い肯定だ。
肯定された瞬間、胸の真ん中の硬さが少しだけ解ける。
「もう一回、いく」
僕は森の呼吸を探す。
探して、さっきみたいに揃わない。
それでも振る。
ゴォッ。
音が遅れて来る。
遅れて来た音の前に、空気が一瞬だけ『居ない』顔をする。
五十メートル先の大木の幹に、薄い抜けが走った。
倒れない。
折れない。
でも、樹皮の一部が剥がれたみたいに、そこだけ輪郭が消えている。
「えっ……?」
シルヴィの声が初めてはっきり出る。
驚きを隠すのを失敗したみたいだ。
「多分、ヴェール=パッサージュ・サーフェス」
僕が言う。
言った瞬間、自分で分かる。
これは──通せていない。
見えただけだ。
「透かして通すの。線じゃなくて、点でもなくて……面を」
僕は自分の言葉を確かめるみたいに言った。
確かめているのに、確信がある。
シルヴィはゆっくりと僕を見る。
スローモーションみたいに口を開く。
「これは……剣王の技術」
「ケンオウ?」
「白冠の剣王ブランシュ様」
シルヴィが名前を言うと森の音が一段だけ静かになる。
静かになるのに怖くない。
怖くないけど背筋が伸びる。
僕は棒をシルヴィへ差し出した。
「シルヴィなら、出来るよ。僕、言葉に出来ない。でも、見た通りにやればきっと届く気がする」
シルヴィは棒を受け取る。
受け取る指先がほんの少しだけ震えて、直ぐ止まる。
息を整える。
整える速さが剣の人の速さだ。
整えた後、呼吸を一拍だけ森に預ける。
振った。
ヒュゴオッ。
目の前の空気が掻き消えた。
掻き消えた瞬間、森が一拍だけ息を止める。
真空を嫌った空間が急いでそこを埋め、風が遅れて戻って来る。
葉が揺れる。
揺れ方が怖いほど整っている。
シルヴィは棒を下ろさず僕を見る。
顔色を変えないのに、目だけが強い。
「……見えた?」
「見えた」
僕が言うと、シルヴィの口元が少しだけ上がる。
上がるのに笑わない。
「ユウキも覚えて。今日のは『出来た』じゃない。『通った』だけ」
「通っただけ」
「そう。面は線の上にしか乗らない」
言い切らないのに、背中を押す言い方だった。
家へ戻ると夕飯が出来ていた。
器が並ぶ。湯気が立つ。
スプーンが器に当たる音だけが残って、それが落ち着く。
食べ終わって火が少し小さくなる。
影が増える。増えるのに怖くない。
僕は百合の紋章の包みを取り出した。
出す瞬間、シルヴィの視線が一度だけそこへ落ちる。
「シルヴィ、これ」
「私に?」
「うん。似合うかなって思って」
シルヴィは袋を開ける。
開けた瞬間、呼吸が一拍だけ遅れる。
目線が落ちる。落ちたまま動かない。
「……これ……」
「付けて」
シルヴィの指先がベルに触れる。
触れた瞬間、直ぐ離れる。
離したのを誤魔化すみたいに袋の端を整える。
「ユウキ。これ……百合の紋章のお店で買った?」
「……?うん」
僕が答えるとシルヴィは返事をしない。
代わりに立ち上がって、ベッドへ行く。
枕元に置いてあった袋を持って戻る。
「これ、ユウキに」
差し出す手がいつもよりゆっくりだ。
袋の中にベルを模ったネックレスが入っていた。
昼に見たネックレスだ。
「これ……」
「同じお店でお互いのプレゼントを買ってたんだね」
シルヴィは頷かない。
でも、目だけが柔らかくなる。
そこで肯定になる。
「同じ音」
シルヴィが言って、ブレスレットのベルを指先で弾いた。
小さい音が鳴る。
僕の胸元のベルが遅れて同じ音を返した気がした。
「呼び合うってやつ」
「……便利じゃない、って言われた」
「言われたでしょ?呼ばれたら、行きたくなる」
シルヴィは火を見る。
火は小さい。小さいのに熱がある。
「明日、私は大長老のところへ行く」
「僕は?」
「ユウキは一人稽古」
言い方が命令じゃない。
当たり前の順番を渡すだけだ。
「……分かった」
「今日のサーフェス、叫ばなかったの偉い」
「叫ばないって決めた」
「決めたなら、後は努力」
シルヴィの言葉がどこかで聞いた価値観と重なる。
胸の奥じゃない。
胸の真ん中に落ちる。
「明日こそ、スターバースト・ストリームを完成させる」
「リーニュをものにしなさい。面は線の上にしか乗らない」
「はぁい……。おやすみ、シルヴィ」
「うん。おやすみ、ユウキ」
暗い部屋で、シルヴィのブレスレットの音が耳元で鳴る。
暗いのにシルヴィのシルエットが僕を見ているのが分かる。
「眠れないの?」
「……」
チリンチリン。
「こっちおいで」
チリン。
左腕にシルヴィの頭の重さを感じる。
右手で髪を撫でる。
影は嘘を吐かない。
チリン。
「明日も一緒に居られると良いね」
チリンチリン。
「……ずっと?」
チリン。
「そうだね。ずっと居られると良いね」
チリン。
「未だ僕対策してる?」
頬に触れていた髪が揺れて、見えないのに『困ってる』のだけが分かった。
……。
……。
……。
チリンチリン。




