[Side Y/異世界]Link: エルフ-03
二日目。
木の匂いで目が覚めた。
火の名残が部屋の奥で小さく息をしている。
外の葉が揺れる音は少なくて、少ないから一つ一つがはっきり聞こえた。
天井は低い。
低いのに窮屈じゃない。
起き上がる動作が自然に静かになる。
扉の向こうで水の音がしていた。
器を洗う音。
湧き水が木の桶に当たる澄んだ音。
「起きた?」
声が落ちて来る。
昨日の夜と同じ声なのに朝の声は少しだけ軽い。
「起きた……早いね」
「森の朝は早いよ。火を起こすの、好き?」
「やったこと無い。僕の世界ではあんまり無い」
「じゃあ、こっちで覚えて帰って」
扉を開けると冷えない空気が頬に触れた。
湿り気はある。
でも、寒さが無い。
木の家の外は光が未だ薄い。
薄い光が葉の隙間に引っ掛かって、地面にまだらの影を作っている。
影は揺れて、揺れているのに落ち着いて見えた。
シルヴィが持っている木の器の中で湯気が立っている。
「これ、飲める?」
「飲む。美味しそうな匂い」
「草と蜜。苦くない方」
口に含むと温度が先に来た。
次に甘さが来て、最後に少しだけ草の匂いが残る。
残る匂いが朝の合図みたいだった。
「今日の順番、覚えてる?」
「持ち方、足……それと、線」
「うん。合格」
言い方が軽い。
でも、ちゃんと見られている感じがする。
「じゃあ、稽古場へ行こう」
家の外へ出ると森の音が増えた。
増えたのに騒がしくない。
鳥の声は高いけど、遠い。
歩き出すと昨日の距離がまた整う。
一定の距離。
一定の目線。
森の人達は声を出さないまま、そこに居る。
「護衛?」
「護衛……って言うと硬いかな。見守り。森の外の人が森で迷わないように」
「じゃあ、寝惚けて歩き回っても安心だね」
「ユウキの世界の人達は、寝ながら歩けるの?」
稽古場は木々の間隔が揃っている場所だった。
地面は踏み固められていて、草が短い。
シルヴィは腰の剣を外さず、代わりに木の棒を一本手に取った。
剣の形じゃない。
棒だ。
棒なのに持ち方だけで剣が見える。
「先ずは、これ。握り過ぎない」
「握り過ぎないで、握る……」
「うん。預ける感じ。手首は固めないで」
シルヴィが僕の前に立つ。
近付き過ぎない。
でも、指先が僕の手の位置を直す。
直す動きが速い。
速いのに、雑じゃない。
「こう?」
「うん。それで良い。次、足」
足の置き方を教えられる。
前に出る足。
後ろに残す足。
残す足が逃げ道になる。
「逃げ道を残すの?」
「残すっていうか……逃げ道が無いと身体が固まる」
言葉がまた繋がる。
繋がる度に理解が増える──というより、言葉遊びみたいだ。
「次、線」
線。
昨日の夜から残っている言葉。
「線って……通るってこと?」
「うん。通すの」
「何を?」
シルヴィは木の棒の先を地面に向けた。
地面に触れない。
触れないのに、そこに一本、見えない線が引かれたみたいに見える。
「線」
「……線?」
「刃の線。視線の線。呼吸の線。力の線」
どれも目に見えない。
見えない線を……通す。
「剣は切る前に決まってる。決めるのは、線」
言い方が静かだ。
静かなのに、命令じゃない。
教える側の骨がある。
「名前があるの?」
僕が聞くと、シルヴィは少しだけ首を傾けた。
考えるんじゃなくて、選ぶ様な仕草。
「ある。ヴェール=パッサージュ・リーニュ」
音が綺麗過ぎて、森の中で少し浮く。
でも、浮くのに馴染む。
昨日の『シルヴェーヌ』と同じだ。
「ヴェール……って、隠す?」
「隠す、じゃない。透かす──の方」
「透かす?」
「線を、透かして通す」
透かす。
通す。
分かりそうで分からない。
分からないのに、格好良いだけが先に来る。
「厨二病みたいで、滅茶苦茶格好良い」
「なぁに?それ」
「褒め言葉」
「じゃあ、受け取っておく」
シルヴィが笑う。
声は立てない。
でも、昼の光の中で笑ったのが分かる。
「やってみて。線を通す」
僕は木の棒を構える。
握り過ぎない。
足は残す。
呼吸を散らさない。
棒を振る。
空を切る音は軽い。
軽いから、誤魔化しが効かない。
「今のは振っただけ」
「……振っただけ」
「線を通すのは振る前」
シルヴィが僕の目の前に棒を置く。
置くというより、そこに線を透かして通す。
「ここ。ここを通す。通したら、後は勝手に行く」
勝手に行く。
昨日の『合わせる』と同じ匂いがする。
「もう一回」
僕は呼吸を整える。
棒を振る。
さっきより音が薄い。
薄いのに、前へ進む感覚がある。
「うん。今のは、通った」
通った。
その一言だけで、胸が少しだけ軽くなる。
「次は木漏れ刃」
「技名、あるんだ」
「ある。叫ばないでね」
「叫ばない……多分」
「格好悪いから」
昨日、光が刃みたいに見えた。
その言葉がここで技になる。
「木漏れ刃は、切る」
「空気を?視界を?気持ちを?」
シルヴィがまた目を見開く。
「へぇ……ユウキはセンスがあるね」
「そうかな?」
「うん。今まで教えた人で、気持ちを切るまで自分で辿り着いた人は居なかった」
「何と無くシルヴィのことが分かってきただけだよ。剣を理解した訳じゃなくて、シルヴィを理解してきただけ」
「私を理解するの早いね。でも、今は空気だけ切って」
シルヴィが棒を振る。
振った音がしない。
音がしないのに葉の影が一枚、揺れる。
揺れた影が切られたみたいに分かれる。
「え、今の……」
「木漏れ刃」
説明より先に見せる。
午前の稽古は、短かった。
短いのに身体が少しずつ変わっていく感じがある。
変わるのは筋肉じゃない。
息と目線だ。
「昼は森を散歩しよ。仕事もあるから」
「仕事?」
「巡回。私、部隊長だから」
肩書きを言うのに胸を張らない。
当たり前の仕事の顔をする。
その顔が軽さを軽く見せない。
森を歩くと匂いが変わる。
木の匂いが薄くなって、土の匂いが増える場所がある。
水の匂いが強い場所がある。
花の匂いが、急に割り込む場所もある。
「ここ、私、好き」
シルヴィが言う。
何が好きかは言わない。
言わないのに、僕は理解する。
「光と──音?」
「そう」
葉の間を通る風が同じリズムで鳴る。
鳴る音は小さい。
小さいのに揃っている。
その時、草が擦れる音がした。
小さい。
でも、揃っていない。
シルヴィの歩き方が変わる。
速くならない。
静かになる。
「止まって」
声が低い。
低いのに怖くない。
止まる理由だけが自然に届く。
前方の茂みが揺れた。
小さな獣が一匹、飛び出して来る。
狼みたいな形。
でも、目が少し丸い。
こちらを見て、鳴かない。
逃げない。
「魔物?」
「魔物。小さい。でも……噛む」
シルヴィは剣に手を掛けない。
掛けないまま、棒を持った。
さっきの稽古の棒だ。
「ユウキ。線」
知らないシルヴィの気配がする。
「今?」
「今。通して」
焦ってないのに緊張が伝わる。
小さい魔物でも、魔物は魔物らしい。
僕の手が一瞬だけ迷う。
迷うのに身体は足の位置を覚えている。
残す足。
逃げ道。
棒を構える。
握り過ぎない。
呼吸を散らさない。
獣が一歩、近付く。
近付き方も遊びじゃない。
「ヴェール=パッサージュ・リーニュ」
シルヴィが言う。
叫ばない。
ただ、合図みたいに落とす。
僕は棒を振る。
振る前に、線を通す。
獣の鼻先で棒が止まる。
止まったのに、獣が弾かれたみたいに後ろへ跳ねた。
跳ねて、直ぐに逃げる。
逃げる速さだけがさっきまでの勇気を置いていく。
「今の……出来た?」
「出来た。二太刀要らず」
「二太刀要らず?」
「線が通ると、二回目は要らない」
巡回の帰り道、シルヴィはいつもの速度に戻った。
戻るのが速い。
速いのに、怖さが残らない。
「ユウキ、さっきの怖かった?」
「怖くない。びっくりしただけ」
「びっくりは怖いの一歩手前」
「じゃあ、手前で止めた」
「偉い」
軽い。
軽いのに、ちゃんと褒められている。
夕方、家へ戻る。
煙の匂いが近付いて、食事の匂いが連れて来られる。
匂いだけで、今日が『帰る側の一日』だったと分かる。
器が並ぶ。
湯気が立つ。
火の明かりが柔らかい。
夜の音は少ない。
少ないから、スプーンが器に当たる音が残る。
「今日、楽しかった」
「楽しいって言うの、早いよ」
「早い?」
「人間は楽しいって言うのに理由を探す」
「エルフは?」
「エルフは楽しいなら楽しい。理由は後で付いてくる」
理由が後で付いてくる。
その考え方が僕の決断と似ている。
食事が終わって火が少し小さくなる。
小さくなると影が増える。
影が増えるのに、怖くない。
シルヴィがふと首を傾けた。
「……ねぇ。今日はどうする?」
「どうする?」
「泊まる?帰る?」
昨日は『決まり』があった。
今日は決まりが無い。
無いから、言葉が少しだけ重くなる。
「決まりは、最初の夜だけでしょ?」
「うん。最初の夜だけ」
そこでシルヴィが口元だけで笑った。
悪戯っぽさに近い。
僕は首を傾げた。
「生まれて初めて嘘吐いてみた」
「嘘だったんかーい」
僕が言うと、シルヴィの肩が少しだけ揺れた。
声は立てない。
でも、笑ってる。
「ユウキは人間だから、そういう建前。っていうか、文化?に合わせるのも大事かなって」
「僕専用?」
「ユウキ『対策』」
「合格です」
何故か嬉しい。
嬉しいのに、取り繕えない。
「じゃあ、決まりじゃないけど……」
僕が言いかける。
言いかけて、言葉を探す。
「泊まっても良い?」
シルヴィは直ぐに返さない。
直ぐに返さないのに、迷っている感じじゃない。
火の明かりを一度見る。
それから僕を見る。
「良かった」
短い。
短いのに、胸の真ん中が落ち着く。
「良かった、って……」
「うん。言いたかったから言った」
シルヴィは言葉の出し方が夜になると少しだけ丁寧になる。
丁寧になるのに、重くならない。
「名前、ちゃんと呼べるの、やっぱり嬉しい?」
「嬉しい」
「シルヴィ」
僕が言うと、シルヴィは目を細めた。
明かりの中で黒が柔らかく見える。
「うん。それ素敵」
昨日と同じ言葉。
同じ言葉なのに、今日は少しだけ深い場所まで届く。
「ねぇ、ユウキ」
「何?」
「今日、線が通ったとき。森が、少しだけ喜んだ」
「森が?」
「うん。森は、通るのが好き」
通る。
通す。
透かす。
昼の稽古と、夕方の巡回と、夜の火が、一本に繋がっていく。
繋がっていくのに説明っぽくない。
ただそう感じる。
火がまた少し小さくなる。
夜が深くなる合図みたいに。
「木漏れ刃以外にも技ってあるの?」
「あるよ。あまり使う機会は無いけど……追撃」
「追撃」
「落ち葉崩し」
落ち葉崩し。
音の並びが格好良過ぎる。
「技名、叫びたくなる」
「叫んだら、森が笑う」
「森、笑うんだ」
「笑う。静かに」
静かに笑う森。
そのイメージが今夜の空気に合う。
「でも、今日シルヴィも言ってた。ヴェール=パッサージュ・リーニュって」
「それは技名じゃない。技術の名前」
「落ち葉崩しッ!」
「ダサ過ぎ」
シルヴィは口を開けて笑った。
僕は寝る前に、iPhoneを開いた。
現代の生活音はここには無いのに、画面だけが現代の明るさを持っている。
LINEを開いて、咲希に送る。
僕は『気を付けてね』に既読を付けていなかった。
『剣術、覚えた』
送って、既読が付く前にもう一通打ってしまう。
『ヴェール=パッサージュ・リーニュ』
送信してから、やっと自分で笑いそうになった。
声は出さない。
出さないのに、胸だけが軽い。
『何それ、俺Tueeeee!ってやつ?草超えて森』
『今、森に居る。邪気眼を養ってる』
『厨二病をその歳で発症したら致死率500%だよ。共感性羞恥がシンドいから、剣術の名前は名乗らないでね。可愛い妹からのお願い♡』
『でもでも、木漏れ刃とかカッケー技も習った』
『剣術には敬意を表するけど、せめて技名を叫ばないで。笑』
『スターバースト・ストリーム!!』
『キリトかな〜、やっぱ』
『違う。木漏れ刃』
『追撃で殺すな』
『違う。追撃には落ち葉崩し。でも、ヴェール=パッサージュ・リーニュは別名「二太刀要らず」だから、追撃は要らないって、シルヴィが言ってた』
『シルヴィって、エルフ?』
『そう。可愛くて、楽しくて、優しい』
『でしょうね。まぁ、気を付けてね』
『魔物に?エルフに?』
『おや?誰か来たようだ。うわ!なにをするやめ』
『おーい』
暫く待っても既読は付かなかった。
『ぬるぽ』
『ガッ』
──咲希は無事らしい。
「何してるの?」
シルヴィが聞く。
声は小さい。
覗き込んで来ないのに画面の光だけは見られている気がした。
僕はiPhoneを伏せるでもなく、そのまま指を止める。
「妹に報告」
「仲良いね」
言い方が軽い。
軽いのに探る感じじゃない。
ただ事実を拾って、口に乗せただけみたいだ。
「仲良い。多分」
「多分って、余白」
余白と言った瞬間だけ、シルヴィの口元が少しだけ上がる。
揶揄うんじゃなくて、確認。
僕の癖を覚えている顔。
「余白は必要だから」
僕が言うとシルヴィは頷かない。
頷かないのに納得した気配だけが落ちる。
シルヴィが口元だけで笑う。
「じゃあ、寝よう。明日は足が筋肉痛になる」
寝ようの一言で空気が整う。
僕の手からiPhoneの光が遠退いて部屋の暗さが戻って来る。
「エルフにも筋肉痛、あるんだ」
「ある。でもこれは、人間に合わせてるよ」
さらっと言う。
胸を張らない。
揶揄ってもいない。
当たり前みたいに『合わせる』と言うから、こっちが勝手に弱くなる。
「ありがとう。シルヴィは優しいね」
言ってから少しだけ遅れた。
褒め言葉がこの森ではどこまで踏み込むのか分からない。
「ユウキだから」
即答だった。
即答だから軽く聞こえてしまうのに、軽く流せない。
「それ禁止」
僕が言うとシルヴィは首を傾ける。
怒ってない。面白がってる方に近い。
「どれ?」
「特別扱い」
「特別扱いは恋の一歩目でしょ?」
言葉が落ちた瞬間だけ、火の音が大きく聞こえる。
僕の呼吸がほんの少し遅れる。
「……否めない」
否めないって言ってしまう自分が悔しい。
悔しいのに、引けない。
「私、恋するためにGatePair: Linkしてるから。ユウキは違うの?」
シルヴィの目線が外れない。
追って来ないのに、逃げ道だけが消える。
「否めない」
同じ言葉をもう一度言うと、シルヴィは満足したみたいに目を細める。
勝ち負けじゃないのに負けた感じがする。
「それ、流行ってるの?」
わざと軽くしたのが分かる。
踏み込み過ぎた分だけ戻るための冗談。
「明日は何するの?」
僕が話題を切ると、シルヴィは許すみたいに視線を緩めた。
会話のハンドルを握り直した感じ。
「明日は仕事があるから大長老のところに行く」
「僕も行って良い?」
言ってから自分で子供っぽいと思う。
でも、言わないと損をする気がした。
「ダメ。明日一日は一人で訓練してて」
言い方は優しい。
でも、結論は動かない。
『決まり』じゃなくて、『順番』として渡される。
「分かった。じゃあ、新技考えておく」
負け惜しみみたいに言うとシルヴィは笑わない。
笑わないのに肯定してくれてる空気がある。
「どんな技?」
「スターバースト・ストリーム」
言った瞬間だけ僕の中の現代が跳ねた。
森の静けさに名前の派手さが浮く。
「格好良いね」
即答。
否定しない。
否定しないから、余計に恥ずかしくなる。
「キリトかな〜、やっぱ」
「キリト?」
分からないをそのまま聞く。
興味が無いんじゃなくて、知らないだけの顔。
その素直さが逆に可愛い。
布団代わりの厚い毛皮は匂いが草と煙の間にある。
タバコみたいなモノかと思う。
嫌じゃない。
寧ろ、安心する。
「あ、文化に合わせないと」
「文化?」
シルヴィがまた首を傾ける。
さっきより距離が近い。
近いのに触れて来ない。
「一つ屋根の下、男女が二人で──」
「駄目だから。そういう決まり」
言い切りが速い。
叱る速度じゃない。
止める速度だ。
「エルフの?」
「ユウキだけの」
ユウキだけって言葉が妙に柔らかい。
柔らかいのに、逃げ道が無い。
「僕専用?」
「ユウキ『対策』」
対策と言って口元が少し上がる。
それが冗談なのに内側は本気の形をしている。
「……生まれて二回目の──」
「嘘は吐いてない」
被せる。
被せるのに乱暴じゃない。
会話の線を折らないで曲げるだけ。
「先っちょだけ」
僕が言うとシルヴィは一瞬だけ目を細める。
怒ってない。
呆れてる。
「それ、通したら線になって戻れなくなるの知ってるでしょ?」
戻れなくなるが刺さる。
巫山戯た会話なのに一瞬だけ真面目な骨が見える。
「否めない!」
勢いで返す。
勢いで返したから誤魔化せた気がしてしまう。
「戻れなくて良いの?」
問いが静かだ。
静かだから、今度は誤魔化しが効かない。
「ぐぬぬ……」
僕が黙るとシルヴィは追い詰めない。
追い詰めないのに、答えを待ってる気配だけは残してくれていた。
「うふふ。素直で宜しい」
その一言でまた空気が軽くなる。
軽くなるけど距離は縮んだまま。
「……おやすみ、シルヴィ」
「うん。おやすみ、ユウキ」
心が落ちる。落ちた心の温度だけが布団の匂いの中に残る。




