[Side Y/異世界]Link: エルフ-02
森の匂いは湿っているのに冷たさが無い。
落ち葉が踏まれる前の形を保っていて、僕の靴底だけが異物みたいに音を立てる。
さっき落ちて来た声の温度だけが残っている。
フランクなのに森の空気は静かだった。
静かだから、言葉が消えない。
目の前に白い手袋の人が立っている。
一歩も詰めて来ない。
詰めて来ないのに、目線だけが僕を捕まえている。
背後で葉が鳴った。
道の奥から数人、同じ耳の形が現れて、音を消すみたいに立ち止まる。
揃い過ぎた動きで、道が空く。
誰も白い手袋の人の前を横切らない。
誰も僕を睨まない。
目線は白い手袋の人へ、次に僕へ。順番だけが決まっている。
白い手袋の人は思っていたより小柄だった。
背は高くない。肩幅も広くない。
それでも道の真ん中に立つだけで森の空気が整う。
白い手袋の人はそれを当然みたいに受け取って僕を見る。
黒に近い髪。艶のあるボブが顎の下で揃えられて内側に丸い。
前髪は真っ直ぐで、眉の少し上で切り揃えられていた。
目は光を吸う黒で、刺さるより留まる。
尖った耳が横へ伸びている。
深い緑のマント。
フードが背中に落ちて、重い。
森の風で端が遅れて揺れる。
黒いトップス。濃い茶の短いパンツ。幅広のベルト。
実用だけで揃えたみたいな格好なのに、
妙に綺麗で困った。
そして──白い手袋。
森の色の中で、それだけが規律みたいに目立つ。
手袋の掌がこちらに向く。
白が逃げ道の位置を決める。
一歩も近付かないまま手だけが差し出される。
招きなのか、導きなのか、確保なのか。
全部カモ知れない。
僕はその白を見てから、もう一度だけ顔を見た。
目線が逃げない。
逃げないのに、追っても来ない。
人に名前を聞く時は自分から名乗るのがマナーだ。
例え、相手が既に自分の名前を知っていても。
「僕はユウキ。君の名前は?」
「シルヴェーヌ」
音の並びが綺麗過ぎる。
森の中だと余計に浮くのに『シルヴェーヌ』は飾ってない。
ショートケーキの様に飾らないから、クリスマスツリーと同じで完成していることが当たり前みたいに見える。
「……シル、ヴェーヌ」
一度だけ噛む。
舌が追い付かない。
シルヴェーヌが笑った。
声は立てない。
でも、笑ったのが良く分かる。
僕はその笑いを見て反射で言葉を出す。
「シルヴィ、で良い?」
「うん。それ素敵」
言い方が軽い。
軽いのに雑じゃない。
森の空気にそのまま溶ける軽さだ。
「シルヴィは剣を使うんだ。エルフなのに」
腰の剣に視線を落とす。
柄の位置だけが身体に馴染んでいる。
「えぇ。弓のイメージはよく聞く。でも私は剣が得意なんだ」
手袋の指先が柄を撫でる。
見せびらかす動きじゃない。
確かめる動きだ。
「凄い。格好良い」
「うふふ。ありがとう。ユウキは戦闘は出来るの?」
「全然。でも、折角だから僕も剣を使える様になりたいカモ」
「もし良ければ、私が教えようか?」
提案が自然に出る。
押し付けでも遠慮でもなく、ただ当たり前みたいに。
背後の気配が息を潜めたまま整っている。
「それとも……直ぐに帰っちゃう?」
「ううん。シルヴィが構わないなら、暫く居たい」
「勿論。じゃあ、その間、私が剣術を教えるね」
「ありがとう」
返事一つで森の方も決まる。
空気がほんの少しだけ緩んだ。
「歩きながら話そ。森の中、案内するね」
「うん。お願い」
シルヴィが先に歩き出す。
振り返らないのに僕が付いて来ていることを知っているみたいに歩幅が変わる。
急がせない。置いて行かない。
木々の間を抜ける風が服の袖を押す。
押すだけで道の向きが分かる。
足元の落ち葉が浅く鳴る。
鳴った分だけ森の小さい音が増える。
「私、歩くの早くない?」
「……うん。合わせる」
「合わせなくて良いよ。私が合わせる」
「それ、狡い」
「何が?」
「優しいの」
「優しいの、嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ、良かった」
言葉が丸い。
丸いのに薄くない。
森の人達と擦れ違う度に目線だけで挨拶が落ちる。
声は少ない。
少ないのに、冷たくない。
視線の礼儀がここにある。
「……シルヴィ」
「何?」
「さっきの『待ってたよ』って、軽いのに、ちゃんと残るね」
「残ったのなら、成功だね」
「成功って言い方」
思わず笑ってしまった。
「作戦だったってことにしとこ」
「作戦?」
「うん。ユウキの顔、見たかったから」
「……そういうの、急に言う」
「急じゃないよ。ずっと言うつもりだった」
葉の隙間から刃の様に光が落ちる。
地面にまだらの模様が出来て揺れている。
揺れ方に一定のリズムがある。
木漏れ日は森の呼吸みたいだ。
水の音が増えた。
道の直ぐ横を川が流れている。
石の間を通る音が金属みたいに澄んでいる。
「水はここ。冷たいのが苦手なら言って。湧き水は、意外と容赦無いから」
「分かった。容赦無い水……覚えた」
シルヴィの口元だけが上がる。
笑い方まで静かだ。
丸太橋を渡ると木が並んでいる場所が見えて来た。
木々の間隔が揃っている。
地面が踏み固められている。
線で区切ってないのに、ここからここまで、が分かる。
「ここが稽古の場所。弓もやるけど、私はこっちの方が落ち着く」
「落ち着く、って言い方が格好良い」
「うふふ。格好良いって言い方が素直で宜しい」
軽い。軽いのに適当じゃない。
会話が前へ進む速さだけが、気持ち良い。
「剣術覚えたいって言ったよね」
「うん。言ったよ」
「じゃあ、明日から。今日は森を覚えて。森の中は迷うと帰れないから」
「帰れないってのは単純に迷うってこと?」
「うん。森は優しいけど、優しいまま迷わせる」
木々の間に低い屋根が見える。
屋根は目立たないのに煙だけが細く上がって、そこに生活があると分かる。
匂いが先に来る。
火の匂いと焼いた穀物の匂い。
森の匂いの上に薄く重なる。
「今日は私の家に泊まって。森の外から来た人は、最初の夜だけは一人にしない決まりなの」
「決まりなんだ」
「決まり。あと単純に、迷うからね」
「迷うって……寝惚けて外に出るとか?」
「それ。戻れなくなるから」
扉が低い。
入る動作が自然にゆっくりになる。
室内は木の匂いが濃い。
火は小さく、明かりは柔らかい。
「火、近い?」
シルヴィが顔を覗き込む。
距離が近くて困る。
「近くない。平気」
「無理しないで。顔、赤い」
「火のせい」
「うん。火のせいにしとく」
器が二つ並ぶ。
湯気が立つ。硬いパン。
名前の分からない草の香り。
分からないけど、身体は素直に受け取る。
「食べられる?」
「食べる。こういうのは嬉しい」
「嬉しいって言い方が可愛い」
「可愛いって言い方が雑」
「雑じゃない。私、素直なの」
外で葉が揺れた。
夜の音は少ない。
残るのは揺れた音だけだ。
火の明かりが器の縁を薄く光らせる。
「ユウキの世界にも、こういう夜はある?」
「ある。でも、こういう静けさは無いかな……音が絶対にある」
「音があるのは嫌い?」
「嫌いじゃない。でも、音が多いと考えが散るよね」
「じゃあ、散るのは好きじゃない?」
「散るのは好き。戻れなくなるのが好きじゃない」
言い終えて少しだけ間が落ちる。
火が小さく鳴った。
鳴る度毎に静けさが深くなる。
「分かる。森も同じだよ。だから、道が要るんだ」
「道?」
「うん。通るための道。通すための道」
通すって言葉が残る。
昼の光の模様がさっき刃みたいに見えたのを思い出す。
「剣も同じ?」
「へぇ……」
シルヴィが目を見開く。
「何?」
「ううん。そこで剣術に繋がるのが凄いなって」
「間違ってた?」
「ううん。合ってる。剣も──通す」
ちゃんと届く。
届くって言葉が好きだと思った。
「……ねぇ、ユウキ」
「なに?」
「名前。ちゃんと呼べて、嬉しかった」
「シルヴェーヌ?」
「うん」
「噛んだけどね」
「噛んだの、可愛かったよ」
「やめて」
「やめない」
今度はほんの少しだけ声が出て笑う。
笑っても静けさは壊れない。
「シルヴィ、って呼び方」
「うん」
「……嫌じゃない?」
「嫌じゃない。寧ろ好き」
好きが軽い。
軽いのに適当じゃない。
森の空気にそのまま溶ける軽さだ。
「じゃあ、明日から……シルヴィに教えてもらう」
「うん。教える」
「明日の順番、最初は?」
「最初は持ち方。次に足。次に──線」
「線?」
「うん。線。通すの」
火が少し小さくなる。
夜が静かに深くなる。
木の匂いが呼吸の基礎になっていく。
「ユウキ。眠れそう?」
「眠れる。今日は良い日だった」
「うん。良い日。森にとっても」
シルヴィが少しだけ目を細める。
明かりの中で目の黒が柔らかく見える。
僕はそのまま頷く。
「寝る?」
「寝る」
「じゃあ、最後にもう一回だけ」
「何?」
「名前」
「……シルヴィ」
「うん。それ、素敵」
「それ、ずっと言うの?」
「うん。多分、ずっと」
「多分、って逃げ道」
「逃げ道じゃない。余白」
「余白は狡い」
「余白が無いと苦しくなるでしょ」
「分かってるよ」
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ、シルヴィ」
「うん。おやすみ、ユウキ」
外の葉が揺れる。揺れる音だけが夜の合図みたいに残っていた。




