第3話 翻訳者は何を恐れたのか
ここからは、
言葉そのものではなく、
その言葉が置かれたときに起きそうなこと
について考えていきます。
翻訳者が本当にそう考えていたかどうかは、分かりません。
記録も証拠もありません。
ただ、
もし自分がその立場だったら、
どんな選択をしただろうか。
そんな想像をしてみるだけです。
正解を示す話ではありません。
誰かを評価する話でもありません。
言葉が社会に入ったとき、
人の立場や扱われ方が、
どんなふうに変わってしまうのか。
そのあたりを、
少しだけ踏み込んで眺めてみる章になります。
請負人。
この言葉が頭の中に残り続けていた。
本来、請負というのは分かりやすい仕組みだ。
仕事の範囲があり、条件があり、終わりがある。
終われば解散。次はまた別の話になる。
少なくとも、そういう建て付けのはずだ。
それなのに、現実ではどうだろう。
「一回引き受けたら、次もお願いされる」
「気づいたら、ずっとその役割」
「断ると、空気が悪くなる」
請負という言葉があるのに、
請負らしく扱われない。
これはもう、
言葉の問題というより、
扱い方の問題だ。
ここで、また最初の疑問に戻る。
undertaker を
そのまま「請負人」と訳さなかったのは、なぜか。
技術的には、できたはずだ。
意味も、そこまで外れていない。
それでも、
最終的に残ったのは「企業家」だった。
ここで、少し視点を変えてみる。
翻訳者は、
「正しい訳語」を探していたのではなく、
「この言葉を置いたあとに、何が起きるか」を
考えていたのではないか。
もし、
undertaker = 請負人
がそのまま定着していたら。
この国では、
請負人はきっと、
便利な存在になっていただろう。
仕事を投げれば、引き受けてくれる人。
失敗したら、責任を取る人。
うまくいっても、特に評価はされない人。
だって、
請負なんだから。
そういう空気が、
簡単に想像できてしまう。
翻訳者が、
そこまで考えていたかどうかは分からない。
けれど、
もし少しでもそんな未来が見えていたなら、
別の言葉を選びたくなる気持ちは、
理解できなくもない。
そこで出てくるのが、
企業家 という言葉だ。
企業家は、
請負人とは違う。
仕事を「振られる」存在ではなく、
仕事を「作る」側だ。
リスクを取るのも、
引き受けるのも、
基本的には自分の判断。
少なくとも、
「いつの間にか役割が固定された」
という感じにはならない。
もちろん、
現実の企業家は、
そんなに自由でも、楽でもない。
でも、
言葉が持つイメージとしては、
請負人よりずっと強い。
責任を背負う代わりに、
裁量もある。
引き受ける代わりに、
選ぶ立場でもある。
もしかすると翻訳者は、
undertaker という言葉が
この国で「弱い立場」に置かれることを、
無意識に避けたのかもしれない。
それは、
美談でも英雄譚でもない。
ただ、
言葉を置く場所を間違えると、
誰かが損をする。
そのくらいの感覚だったのではないか。
翻訳とは、
意味を写す作業だと思われがちだ。
でも実際には、
力関係も一緒に写してしまう。
請負人という言葉を置けば、
請負人として扱われる。
企業家という言葉を置けば、
企業家として扱われる。
どちらが正しいか、ではない。
どちらの扱われ方を選ぶか、だ。
undertaker を
企業家と訳した誰かは、
もしかすると、
「この言葉を、
この国で、そのまま使うのは危ない」
そう感じていただけなのかもしれない。
確かな証拠はない。
裏付けもない。
ただ、
そう考えると、
少しだけ筋が通る。
翻訳者は、
言葉を歪めたのではなく、
言葉が歪まされる未来を避けた。
そんな仮説が、
頭の中で、
だんだん形になってきていた。




