誰もいない会社
いつの間にか会社から、人が消えていた。
僕はふいに怖くなって、足音を殺すようにしてフロアを歩き始めた。
受信トレイを開く。
そこには、キリッとしたグラフと、過不足のない文章が、規則正しく並んでいた。
怖い。そう思った瞬間、針で刺されたような痛みが頭の奥を走る。
どのメールも同じだ。
語尾の揺れも、言い淀みもない。
完璧な丁寧語が、ひどく気持ち悪い。
かつては、回りくどい言い回しや、不格好な文末の向こうに、書き手の焦りや虚勢、あるいは善意が透けて見えていた。
そうした歪みが、「一緒に仕事をしている」という感覚を生み、画面越しなのに、確かに温かかった。
今は、温かくもなければ冷たくもない。
いっそ、露骨に冷たいほうがよかった。
そこにはまだ、怒るべき人間性が残っているはずだから。
メールの中に、人はいなかった。
会議室の前で立ち止まり、ガラス越しに中を覗く。
見る前から、どうなっているかはわかっていた。
それでも、ノブに手をかけてしまう。
扉を開けると、当たり前のように誰もいない。
椅子は等間隔に並び、モニターと会議卓は沈黙している。
心霊現象でもいいから、画面が一瞬ちらつくとか、椅子がわずかにずれているとか、そんな痕跡があればよかった。
今のこの部屋は、静かすぎて、生が感じられない。
完全に、処理済みだった。
僕は会議室の監視カメラの映像を開き、再生バーに指を置いた。
一秒だけ巻き戻そうとして、やめた。
知らなくていいことが、そこにある気がしたからだ。
静止した映像ほど、怖いものはない。
僕はそっと画面を閉じた。
この会社は、今日は休みなのだろうか。
そう思いながらサーバーの管理画面を見ると、ストレージには無数のファイルが、今も生成され続けていた。
数字が増えるたび、画面の奥で何かが脈打っているように見える。ファイルの生成が、この会社の鼓動なのだと、錯覚してしまいそうになる。
いや、違う。
捏造してはならない。
死んでいる場所ばかりの環境に、
生の手触りを無理やり与えてはいけない。
僕は、この会社で何が起きたのかを、知っている。
現場ではなく、資料として。
人が減っていく過程を、数字と効率の言葉に置き換え、決裁として通してきた。
それは合理的で、誰にとっても正しい判断だと、少なくとも会議室では、そういう言葉で呼ばれていた。
首がいくつ飛んだのかも、把握している。
……飛んでいいはずなんて、ないのに。
名前は、一覧から消えただけだった。
予定表も、席も、権限も、データの更新と同時に削除された。
それでも、歩いてみると、数字では削ぎ落としたはずの何かが、床の上に落ちている気がしてならなかった。
僕は画面を閉じ、別のフロアへ向かった。
ICカードの認証音が、やけに大きく響く。
歩きながら考えてしまう。
僕はここで、誰から何を盗もうとしているのだろう。
立ち止まってポケットを探ると、
いつの間にか、誰かの社員証を握っていた。
表には、確かに名前が印字されている。
一度、モニター越しに見たことのある名前だった気がする。
だが、どんな声だったのかは思い出せない。
それを使って開けたい扉が、
もうどこにも見当たらなかった。
ガタリッ。
不意に物音がした。
僕は反射的に身を低くし、
近くのデスクの下に潜り込んだ。
背中に、じっとりと汗が滲む。
見つかってはいけない気がした。
ただ、この場所には、もう人がいないはずだった。
鼓動の音がやけに大きい。
耳の奥で血が脈打つ。
静まり返ったフロアに、自分の呼吸だけが異物のように浮かんでいる。
カタタタタ。
小刻みな音が、床を這うように近づいてくる。
逃げるべきか、動かずにいるべきか。
考えるほど、身体が言うことをきかなくなる。
僕は祈るような気持ちで、ただ目を閉じた。
「清掃のお時間です」
低く、感情のない声が、部屋に落ちた。
ウィーン。ガガガ。
しばらくして、音は遠ざかっていった。
僕はゆっくりと顔を上げ、デスクの下からフロアを見渡した。
そこには、相変わらず誰もいなかった。
誰も、戻ってはこない。
削除されたものは、復元されない。
それでも、
画面の向こうに押しやったはずの何かが、
この空間に残っているのではないかと、
一瞬だけ期待してしまった。
僕はなぜかとても寂しくなり、
いっそ誰かに見つけてほしいと思ってしまっていた。
ここにいてはいけないのは、
もしかすると、
人を処理する側に回ってしまった、
僕のほうなのかもしれない、と。




