【1.婚約破棄】
「私は、メルディアーナ・コルウェル伯爵令嬢との婚約を破棄する!」
ダナン・ウェブスター公爵令息のお誕生日パーティで、急にダナン本人が大広間の真ん中に立って観客の注目を集めたかと思うと、大きな声でそう宣ったので、会場中がざわついた。
「ダナン様っ!」
一人の令嬢が目に涙を浮かべてダナンに駆け寄り、腕に縋りつく。
「ついに、ついに、あの女との婚約を破棄してくださいますのね? そして私との愛を宣言してくださるの?」
その令嬢は、フリーダ・カテリング男爵令嬢。
ふわふわのピンクブロンドにお胸の大きな女性。
大きくて潤んだ目はいつも上目遣いで、あの瞳に見つめられてお願いでもされた日には、誰も断れないだろうと皆が噂していた。
「アレに近づいては理性なんか保てたもんじゃないね」
「ははは、玉の輿を狙っていると噂ですからな、餌食になるだけでしょう」
世の男性陣からはそんな感じで軽口を叩かれ、冷静な男性は意図的に距離を置いていたものだったが、ダナン・ウェブスター公爵令息殿はちょっと違ったようだった。
ダナンは熱っぽい目でフリーダの手を取り、
「そうだ。私の愛は君に捧げるよ、フリーダ! 愛しているっ!」
と跪いた。
さて、いきなり名前を呼ばれ、婚約破棄を宣言されたメルディアーナ・コルウェル伯爵令嬢の方はというと、急いでダナンの方へ近づいて行って、腰に手を当てながら、困惑の表情で、
「ええ~っと?」
と説明を促した。
メルディアーナはダナンが自分のことを愛していないことは百も承知だったし、なんだかずっと女の影が見え隠れするなあと思っていたので、そこまで絶望に浸ることはなかった。
ただまあ、こんなお誕生日パーティみたいな晴れの場で、しかも公衆の見世物になるような形で婚約を破棄されることに関しては、全然予想していなかった。
ダナンはメルディアーナを蔑むような目で見下すと、
「婚約破棄の正当な理由を説明してやろう。可愛いフリーダを苛めたことっ! とにかくその一言に尽きる! そして、フリーダの存在に気付いたおまえは私をストーカーし、私の業務を著しく邪魔したのだ!」
と叫んだ。
「……は?」
メルディアーナは身に覚えが無さ過ぎてぽかんとした。
「苛め……、え?」
するとフリーダは、何やら分が悪い空気になると焦ったようで、それを振り払うように大声で叫んだ。
「そうなんですぅ! メルディアーナ様ったら私が可愛いことが気に入らなかったのね、舞踏会で私を突き飛ばしたり、お茶会で下剤を盛ったり、私を無視したり、散々なことをしてくれたんですぅ!」
「あの、それ、本当に私ですか? やってませんよ、そんなセコイこと! どうせやるならもっと派手にやりますっ!」
とメルディアーナが口を尖らせて言うと、フリーダはそれ見た事かといった顔をした。
「ほらっ! する気あるんだわっ!」
そこへメルディアーナの兄が怒りで顔を真っ赤にして、
「何事だ。婚約破棄だって? ダナンからは何も聞いちゃいないぞ! なんでこんな騒ぎになっているんだっ!」
とメルディアーナを庇うように大股で近づいてきた。
ダナンとフリーダとメルディアーナの兄は顔を合わすや否や、ギャアギャアと口論を始めた。
ダナンとメルディアーナの兄はまだ節度を保ち、口論とは言っても皮肉の応酬みたいなものだったが、フリーダの方はここぞとばかりに半端なく罵りをぶつけるので、あまりの口汚さに周囲の貴族は若干ひき気味だった。
メルディアーナは「何だこれ」と思った。
一番の被害者なのに、何だか俯瞰の気分だ。
それから、この状況をどうすべきか冷静に考えた。
公衆の面前で婚約破棄されるなんて、なんという不名誉なことだろう。
しかし、かといって、フリーダに反論して婚約を死守し、ダナンと一緒になりたいかと言えば、それは全くなかった。
そもそもはじめっから、メルディアーナはたいしてダナンのことは好きじゃなかったのだ。ダナンの家の方がメルディアーナの家より遥かに格上で、そこから降って湧いてきた婚約話だった。メルディアーナの方に選択肢はあまりなく、消極的に婚約が纏まったに過ぎない。
婚約自体も、いったいメルディアーナや実家コルウェル伯爵家に何を期待してのものなのか未だにさっぱり分からない。
当の本人のダナンだって、たぶんそれを快く思っていなかった。
婚約したはいいものの、メルディアーナはこの婚約中、ダナンの方にずいぶんとまあ女の噂を聞いたものだ。
かといって、メルディアーナもダナンを一方的に責める気にもなれなかった。
メルディアーナにも『推し』がいたから!
もちろんメルディアーナはその『推し』を誰かに明かすこともなく、ただひっそりと遠目に眺めるだけで満足していたのだが――。だが、全てを取っ払い押しなべて考えてみると、残念ながら、ダナンより『推し』への気持ちが勝っていることは、メルディアーナには疑いようもなかった。
この婚約は双方望まぬものだったのだ。
「婚約破棄、いたしましょう!」
メルディアーナは澄んだ声で高らかに宣言した。
フリーダとダナンが勝ち誇った顔をした。
「えっ?」とメルディアーナの兄は目を剥いた。
メルディアーナは兄の方に小さくウインクすると、さっとダナンの方に鋭い目を向けた。
「でも、慰謝料いただきます。先ほどフリーダ嬢に愛を誓われていましたが、厳密に言うと『婚約破棄前』ですからね。私が何を言っているか、お分かりですよね?」
ダナンは「しまった」といった顔を取り繕うこともできず、ただただ狼狽して、
「いや、そもそもおまえがフリーダを苛めたことは、どう落とし前を付けるんだ……」
と言い返すので精いっぱいだった。
「知りませんよ、そんなの。言いがかりみたいなことしか言ってなかったじゃないですか。証拠があるんならとっくにこれ見よがしに見せて回っているでしょうし」
とメルディアーナは面倒くさそうに言った。
「じゃ、帰りますわね。これ以上ここにいる理由もありませんしね」
メルディアーナはメルディアーナの兄の腕を取ると、くるりと踵を返した。
しかし去り際、メルディアーナは内心ガッツポーズをしていた。
「よっしゃ~! 婚約破棄してもらった! これで何の気兼ねもなく『推し活』に邁進できるじゃないの!」