短編置場
今日は、私たちの記念日。
朝からそわそわして、何度もレシピを確認して、彼の好きな料理を作った。特別なワインも冷やして、テーブルクロスも新しいものに替えて。完璧な夜にしたかった。
「帰るよ」って、さっき連絡があったから──たぶん、あと10分もすれば着くはず。
部屋をもう一度見渡して、ナプキンの角度まで整えていると、カチャッとドアが開く音がした。
「……帰ってきた!」
心臓が跳ねる。たまらず玄関に向かって駆け出す。
「おかえりなさいっ!」
勢いのまま彼の胸に飛び込むと、彼は少しもよろけず、優しく受け止めてくれた。
ああ、この腕。このぬくもり。今日一番欲しかったものが、今ここにある。
「ただいま」
その一言が胸に響いて、目の奥がじんと熱くなる。
私たちは自然に腕をほどき、静かに見つめ合った。
次の瞬間──唇が重なる。穏やかで、でも切ないキス。
──だけど。
「…っ!?」
彼の身体がぐらりと揺れた。顔が、痛みに歪んでいく。
「……ごめんね。でも、ありがとう」
その姿が美しかった。苦しみながらも私を見つめるその瞳に、私はそっと微笑んだ。
こんなにも愛して、こんなにも愛された。これ以上、何を望めばいいの?
彼が静かに崩れ落ちる。私は最後まで、彼の顔を見つめていた。
歪んだその表情を、世界で一番愛おしいものとして。
──プルルル…
携帯が鳴る。私は静かに応答ボタンを押した。
「対象は沈黙したわ」
『今回は随分と楽しんだみたいだな』
「ふふ、そうね。……ちょっとだけ、時間がかかっちゃったかも」
『殺せないんじゃないかと本気で思ったよ』
「バカね、本当に愛してるからこそ、殺せるのよ」
『……やっぱり怖い女だ』
くすぐるような声に、私も微笑を返す。
「ねえ、次の仕事。早く教えてくれない?」
冷めかけた料理にフォークを伸ばしながら、私は思う。
次は、どんな人を愛せるだろうか。どんな夜を迎えるだろうか。
今はただ、静かにその瞬間を味わいたかった。
まだ、この唇に、彼の温もりが残っているうちに。