第1話『王政復古』
「んあぁー…暇だなあ、まじで。」
2035年の初夏。都会の喧騒に包まれた狭い学生部屋で、学生服を着た少年がベッドの上で大きく背伸びをした。彼の名は「ソーナノ」。まだ高校三年生で、来年には大学受験を控えている。部屋は特段広くもなく、机とベッドと本棚、そして最新式のスマートフォンだけがある、いかにも学生らしい空間だ。床には勉強に使うはずの参考書が散乱し、しかし手つかずのまま積み重なっている。
「…うーん、SNSももう飽きたな」
スマートフォンをポチポチといじり、退屈そうにタイムラインを眺めても、そこにはいつもと変わらぬ光景。面白い投稿は見当たらず、気が向けば別のSNSを開いてはすぐ閉じる。その繰り返しで、まったく新しい刺激を得られない。時間だけがだらだらと過ぎていく。
少年は思わずため息をつき、やがてスマホの画面をスワイプした。そこに見えるアイコン…かつて一世を風靡し、今や一部の物好きしか使わなくなったと噂のアプリ、「ウィープレイ」。
彼はスクリーンをまじまじと見つめる。
「んあー、もう暇だからウィープレイでも触るかあ。どうせ喧嘩凸枠しかやってねーけど」
ウィープレイとは、いわゆる生配信アプリやSNSの発展版。主にボイスチャットや動画配信を中心に、さまざまな形でユーザー同士がコミュニケーションをとるプラットフォームだ。その中でも特に人気だったのが、“喧嘩凸”と呼ばれる文化である。
今は2035年。遡ること10年前、2025年ごろから日本で急速に広まった“喧嘩凸”は、当初は配信者同士が言い争いや煽り合いをする程度のネット文化だった。それがある時期を境に、言葉による“口ゲンカ”のプロ同士が戦うエンターテインメントへと昇華し、瞬く間にネット界隈を席巻する。
当初は「口喧嘩の延長でしかない」「ネットの暴言大会」など、あくまでマイナーな娯楽でしかなかった。だが徐々に視聴者数やスポンサーが増え、気づけば企業も絡む大規模なイベントに変貌し、最終的には“スポーツ”と呼ばれるほどに洗練されていった。
アプリ「ウィープレイ」では、喧嘩凸に参加したい配信者同士が“枠”と呼ばれるチャットルームに入り、そこで音声通話を繋ぎ、観客の前で1対1の“口喧嘩バトル”を繰り広げる。互いに煽りや論破を駆使し、最終的に“精神的に折れたほう”が負けとされるのが一般的。大げさなボクシングさながらのリングネームや派手な挑発も相まって、「相手を言い負かす」という単純な競技が若者を中心に大ヒットした。
結果的に、2020年代後半には国内外の企業がこぞってスポンサーになり、大会が次々と開催されるように。賞金総額は最初こそ100万円程度だったのが、気がつけば1000万円、そしてさらに跳ね上がっていく。
それどころか、ボクシングや総合格闘技のようにテレビ番組でも放送されるようになり、あらゆる世代が喧嘩凸の試合観戦を楽しむ時代が到来。特に2030年前後のブームはすさまじく、誰もが「新しい時代の格闘技」「未来の言語スポーツ」などと称賛したほどであった。
そして2030年、日本最大規模の喧嘩凸大会が行われた。ついに賞金は一億円という、もはやプロスポーツ顔負けの超巨大イベント。全国の老若男女がテレビ越しに注目し、SNSでは大会のハッシュタグが何日もトレンドを独占した。
決勝戦のカードは、“喧王”の異名を持つ最強ファイター「ほともと」と、その永遠のライバルともいわれた「ローストビーフ」。どちらが勝利をおさめるのか、全日本が固唾を飲んで見守っていた。
しかし、決勝戦の開始直前、思いも寄らない悲劇が起こる。
ほともとは何者かに殺されたのだ。
圧倒的な強さで数々の強豪を一蹴してきた彼には、当然ながら多くの敵や恨みを持つ者がいた。試合直前、警備体制が敷かれていたにもかかわらず、奇妙な形で命を落とした。犯人はいまだに不明。決定的な証拠もなく、捜査は難航したという。
当然、試合は中止。日本中が激震し、世界中のファンが喪失感を抱いた。「ほともと」という圧倒的カリスマを失った喧嘩界隈は、そのまま急速に勢いを失う。
喧嘩凸は「また殺人事件に繋がるのではないか」「やはり野蛮すぎてスポーツとは言えない」と、かつてのブームが嘘だったかのように一気に廃れていった。
こうして2035年の今。
壮絶な人気を誇った喧嘩凸ももはや見る影はない。アプリ「ウィープレイ」の喧嘩凸枠に訪れる人はわずかで、やっている配信者も素人ばかり。その程度の試合に興奮する視聴者もおらず、いつの間にか廃墟同然のコンテンツと化してしまった。
「んあぁ……暇だし開いてみるか。どうせロクなのやってないけど」
ソーナノは物理キーがほとんどなくなった最新機種のスマホを握りしめながら、ウィープレイのアイコンをタップした。アプリを立ち上げると、見慣れた初期画面が表示される。
ユーザーネームは「ソーナノ」。昔から使っているIDをずっと変えていない。理由は特になく、ネットではこれで通っているからだ。
いくつかの枠を覗いてみると、やはりどこも盛り上がりに欠ける。部屋には十数人から数十人いるだけで、過激な煽り合いもなければ、論理的な議論もない。ただ適当な悪口が飛び交い、どこか飽き飽きした空気が漂っている。
一昔前なら何万人という視聴者が群がっていたのに、この末期的な状態はソーナノの目にも明らかだった。
「…あーあ、こりゃもうアンインストールかな。こんなに人いないんじゃ時間のムダだしな…」
そう呟きながら、長押しでアプリ削除モードに入り、バツマークに指を伸ばす。
が、その瞬間――
「うおっ!!?なんだ!?!?」
突如、スマートフォンの画面から強烈な光が溢れ出した。まるで部屋全体、いやこの世界をまばゆく照らすかのように眩しい。
ソーナノは反射的に目を閉じ、ベッドの上でバランスを崩して転がり落ちそうになる。そんな彼の手の中で、光の粒子が渦を巻き、ひとつの人間の形へと収束していく。
「な、なにが起きて…っ!?」
転がり落ちたソーナノは、床に手をついたまま呆然と立ち上がる。そこには、かつてテレビで誰もが見ていた、あの姿があった――
「………ほ、ほとも、と。」
少年の目に映ったのは、“喧王”と呼ばれた男、ほともと。
死んだはずの伝説が今、自分の部屋に幽霊のように立っている。ほともとは自分の両手を見つめ、静かに呟いた。
「………五年、か。」
厳しい表情でありながらも、どこか寂しげな色を帯びた瞳。まるで再びこの世の空気を吸うことを噛みしめるかのように、ほともとは深く息をしているようにも見えた。
ソーナノは完全にパニック状態だ。
「お、おい!お前なんなんだよ!どうやって現れた!?てか誰だ!?」
心臓はバクバク。冷や汗が頬を伝う。だが、ほともとは少年の恐怖心など意に介さないかのように、つぶやいた。
「俺のことを知らないわけないだろ。そのアプリをやってるならな」
かつての伝説のスターは、昔と変わらぬ傲慢さを漂わせている。そんな態度に苛立ったソーナノは、咄嗟に枕を掴んでほともとへと投げつける。
「もーなんなんだよ!」
だが、枕は彼の身体をすり抜け、そのまま壁に当たって落ちる。どうやらほともとは半透明の“霊体”のようだった。
「なるほど…どうやら俺は本当に死んだらしいな。おいおまえ、ウィープレイを見せろ」
まるで当然のように命令するほともと。ソーナノは「はあ!?」と眉間にシワを寄せる。散々な目に遭っているのは自分のほうだというのに、まるで王様気取りだ。
「今から消すところだったんだよ。喧嘩なんてもうぜんぜん流行ってないんだし。第一、俺は受験勉強もしないといけないんだよ。とりつくなら他の人にしろよ、幽霊」
「祟るぞ」
「…………はあ、分かったよ」
まるで脅迫にも似た一言に、ソーナノは渋々スマホを取り出してウィープレイを開く。そこに表示された“喧嘩凸枠”を見ると、参加者は20人程度。その中で突出して暴れているユーザー名があった。名を『アラスカ』。
彼は荒々しいトークスタイルと、煽りの鋭さで有名だという噂を耳にしたことがあるが、喧嘩界隈が下火の今では名前を知っている人も少なくなっているらしい。だが、それでもなお一定のファンを得ているらしく、そこそこ人を集められる実力者だと聞く。
「どうも…あの、喧嘩凸あんまりしないんですけど、よかったらお手合わせ願います」
ソーナノは試しに通話に上がってみた。引け腰な挨拶に、アラスカはすぐさま食いついてくる。
「は?喧嘩凸あんまりしないやつのこと相手にするわけなくね?初手から間違えてるじゃんw」
ソーナノは慌ててミュートを押す。初心者丸出しの発言をしてしまい、思わぬ煽りを受けたことで頭が真っ白になる。
「お、おい…ほともと、これどうすんだよ?」
不安げに幽霊ほともとに目を向けると、そこには不敵な笑みを浮かべる男の姿があった。まるで、ワクワクする勝負を前にした格闘家のような眼差しだ。
「おまえのことをこれからソーナノと呼ぶ。いいかソーナノ、今からお前に乗り移る。安心しろ、乗り移るといっても話すことくらいしかできない。…ただ、喧嘩凸に勝つには口だけで十分だ」
「と、とりつくって…そんな簡単に言うけど、大丈夫なのかよ…」
ソーナノはここまでの展開を受け入れられず、頭が混乱していた。受験勉強もあるというのに、なぜ自分はこんな超常現象に巻き込まれているのか。
「はぁ…もういいよ、どうにでもすればいい。勝手にどうぞ」
開き直ったようにソーナノは言い放った。ほともとはニヤリと笑うと、ソーナノの身体にゆっくりと手を重ねる。すると、電流が走るような感覚がソーナノを襲い、ほともとの霊体が同化していく。
――ドクンっ。
一瞬、心臓が大きく鼓動し、ソーナノの思考と声色が混ざり合う。そこには、かつて最強だった男の精神と技術が流れ込んできていた。
「最初の煽りだけでビビってミュートにするのダサすぎだろまじでw」
アラスカは得意気に煽り続けている。
ミュートされて相手が沈黙しているのをいいことに、一人で声高々に馬鹿にしているのだ。
しかし今のソーナノには、ほともとの知識と経験が乗り移っていた。
(いくぞ、ソーナノ)
脳内にほともとの声が響く。指先が、反射的にミュート解除ボタンをタップした。
そのまま、王が口を開く。
「ミュートを見計らって声高々に煽るの、随分と余裕がないな(笑)」
その声は低く滑らかで、しかしはっきりと聞き取りやすい。押しつけがましい煽り口調でもありながら、どこか威厳を帯びている。まるで最初からミュートを計算していたかのように、この状況を逆手に取った形だ。
コメント欄は一瞬ざわつく。喧嘩凸に慣れている観客たちは、状況をうまく使った煽りに敏感だったのだ。
アラスカは一瞬驚いたが、すぐに反撃を開始する。
「声高々に煽ってるからと言って余裕がないとは限らなくない?早計じゃんおつかれ!」
相手の指摘を「早計だ」と突っぱねるのは、喧嘩凸ではオーソドックスな返し方。アラスカは長年の経験から、この返しを瞬時に繰り出したのだろう。
だが、今のソーナノはほともとの“経験”を背負っている。
「落ち着けよ(笑)目の前の餌に我慢できずくらいつくように早計宣言するな(笑)さらに余裕なさそうに見えるが(笑)」
軽妙な口ぶりで相手を翻弄する。よくよく聞けば“論理的反論”とは言いがたい言葉選びだが、それ以上に雰囲気で飲み込む煽りの凄みがあるのだ。言葉尻よりも“主導権”を握ることが重要な喧嘩凸では、この攻め方が圧倒的に強い。
「は、はぁ?反論になってないが!!反論しないということはやっぱり指摘が刺さってるんだ!逃げるな!」
アラスカは焦り、早口でまくし立てる。しかし流れをほともとが握った今、もはやアラスカ側に勝ち筋は薄い。
ソーナノに乗り移ったほともとは、冷静に言葉を重ねる。
「だって、店員が奥に行った瞬間にクレーム言い出すイキリ客とおなじじゃんお前(笑) たかだかミュートでそこまで煽り散らすって、よっぽど限界が来てたんだな(笑)」
そこまで言い放つと、コメント欄は「アラスカ押されてるw」「これは完全に負け確だろ」などという反応で溢れ返る。
喧嘩凸は“論破”という言葉がよく使われるが、実際には論理的に勝つ以上に、“勢い”や“雰囲気”が大事な部分も大きい。アラスカが強豪といえど、この勢いの前ではすでに敗北を確信しているようだ。
「お、おれが…負けた?こんな初心者に…?バカな…」
それだけ呟くと、アラスカは通話から静かに落ちていった。
かつてはそれなりに名を馳せ、一般人程度なら簡単に黙らせるレベルと言われていたアラスカ。だが、亡霊ほともとが乗り移ったソーナノの強さは、その程度では太刀打ちできなかった。
ソーナノはそのまま枠から離脱した。ほともとが心の中で小さく呟くのが聞こえる。
「こんなものか」
それは、かつて数々の強豪と闘ってきた王の感想。あまりにも簡単すぎたのだろう。
そして、ソーナノに一時的に融合していたほともとの霊体は分離し、元の姿へと戻った。
「…ほ、本当にほともとなんだな、おまえ」
初めて体験する圧倒的な戦い方に触れ、ソーナノは震える声で認めざるを得ない。あれほどリアルタイムでテレビやネットを熱狂させた男が、いま自分の目の前にいて、自分の身体を操って喧嘩凸を支配した。
夢なのか幻なのか――しかし確かな現実として、彼の身体に残った感触が物語っている。
「おい、ソーナノ。これから毎日おまえに乗り移って喧嘩をする。覚悟しておけ」
その言葉に、ソーナノは素っ頓狂な声を上げる。
「はあ!?いやいや、受験勉強あるんだけど!? こんな超常現象に付き合ってる暇ないって…」
ほともとは軽く鼻で笑い、言い放った。
「女にモテるぞ」
その一言で、ソーナノの瞳は一瞬にして輝きを取り戻した。
「はい、毎日やりましょう」
あっけなく心変わりするソーナノ。彼も17〜18歳の高校生、恋愛への興味は多分にある。合格発表よりも、ちょっとしたモテ期への期待を優先してしまう男心は否めない。
こうして、まるで奇妙な“相棒”になったかのような二人。果たして、これからどんな展開が待ち受けているのか――
⸻
一方、先ほどほともと(が乗り移ったソーナノ) vs アラスカの喧嘩を見届けていた視聴者の一人がいた。名を『ショタガキ』。
彼はかつて喧嘩界隈で猛者として名を馳せたこともあるらしいが、今はあまり表舞台に出てこない。しかし、コメント欄やチャットログなどを丹念にチェックしており、喧嘩凸の動向を密かに見守っている存在だ。
そのショタガキが、今回の異様な“雰囲気”を放つソーナノに目を留めた。
「…あの雰囲気と戦法、まるでほともとさんみたいだ…。あの人の真似をするなんて、中途半端なやつがやっても侮辱でしかない。今度見かけたら論破してやる」
低く囁くように独りごちたショタガキ。彼が何者で、なぜここまで喧嘩凸の世界を追い続けているのかは定かではない。ただ、その瞳には怒りとも熱狂ともつかぬ光が宿っていた。
ほともとを真似る男を、ただでは済ませない。
そう決意したかのように、ショタガキはウィープレイの画面を閉じ、静かにスマートフォンを置いた。今はまだ、その表情を誰も知らない。