第三十一話 揺らぐ意志
遙と王が次の扉を開けた瞬間、ひんやりとした風が二人の間をすり抜けた。目の前に広がるのは、果てしない青白い光の空間だった。足元には透明な湖面のような床が広がり、二人の影をぼんやりと映し出している。
「まるで……夢の中みたいね。」
遙が呟くと、王は鋭い目つきで周囲を見渡した。
「夢ならいいが……これは夢じゃない。」
彼の言葉に続けるように、湖面がわずかに波打つ音がした。それは、ただの揺らぎではなかった。どこからともなく響く低い鼓動のような音が、二人の心臓に直接触れるような感覚を生み出していた。
「気をつけろ。」
王が剣を構える。遙も身構えたが、体がこわばって動きが鈍い。先ほどの少年の言葉が、心の奥底に刺さったまま離れないのだ。
「お前が奪ったものに、どう向き合う?」
湖面の中から低い声が響き渡った。遙が驚いて声のした方向を振り向くと、水面に波紋が広がり、一人の女性の姿がゆっくりと浮かび上がった。
その女性は白い衣をまとい、長い黒髪をたなびかせていた。だが、その瞳は冷たく、遙を見つめる視線には敵意が滲んでいる。
「私はお前の罪だ。お前が癒やすたびに奪い去った感情――それが私だ。」
「罪……?」
遙は立ちすくんだ。その耳には再び、過去の癒やしの場面が浮かび上がる。
波紋がさらに大きく揺れ、次々と過去の光景が映し出される。感情を癒された人々の笑顔――しかしその笑顔は次第に歪み、やがて無表情な顔に変わっていった。
「見ろ、お前が生んだ空虚を。」
女性が指差す先には、泣き崩れる一人の少女の姿があった。
遙の心が締め付けられる。
「違う……私は、救いたかっただけで……」
女性は冷笑する。
「救うだと? お前はただ、自分の役割に酔っていただけだ。『癒す』という名目で、誰もがお前に感謝する姿を望んでいただけ。」
その言葉は鋭い刃のように、遙の胸に突き刺さった。
「やめろ!」
王が剣を振り上げ、女性に向かって突進する。しかしその剣は、女性の体をすり抜け、湖面に突き刺さるだけだった。
女性はさらに冷たく微笑んだ。
「お前たちの力では、私を消すことはできない。遙が自らの罪を認めない限り、この試練は終わらない。」
その瞬間、湖面が激しく揺れ、二人の足元に大きな裂け目が現れた。その裂け目から、黒い影が音もなく湧き上がる。それは形を持たない塊のようでありながら、遙の顔に似た輪郭を持っていた。
「お前が向き合うべきは、私自身。そしてお前自身だ。」
遙の目に涙が浮かぶ。自分の過去を受け入れる覚悟はまだできていない――それでも、ここで立ち止まるわけにはいかなかった。
「私は……進む。」
震える声でそう呟いた瞬間、遙の周囲に柔らかな光が広がった。その光は女性の姿や影をかき消すほどには強くなかったが、確かな意志を感じさせた。
王が遙の背中に手を置き、低く言う。
「お前の戦いだ。だが、俺は隣にいる。」
その言葉が遙に勇気を与えた。影と光の間で揺れる空間に立ち、彼女は自らの罪に向き合う覚悟を決める。
(次回に続く)




