蜃気楼の向こう
その猫カフェは、まだ営業している。
メインクーンのはるちゃん、ノルウェージャンフォレストキャットのサハラ、柴犬のゴビ、ゴマフアザラシのとわちゃんがおもな人気の看板動物だ。みな快適で適切な環境を整えられ、ゆったりと過ごしている。とわちゃんだけは接触が不可で、給餌だけが可能。
その猫カフェは脱皮する。
脱皮するたび、存在する宇宙領域を切り替えて転移する。
小山さんはそこの客である。
たまに脱皮して地球に転移してくるその猫カフェに、たまたま入店して以来、ずっとそこにいる。
小山さんは砂漠を探している。
たまたま入って以来、そこからずっと出られないわけではなく、その猫カフェはたまに不時着する。すると見知らぬ場所が店外に広がっており、柴犬のゴビを中心におさんぽタイムと称して、店外に散策できる。
その猫カフェの看板動物の一匹、ミニブタのすみれちゃんは、その散策タイムの仲間だ。
ゴビとすみれちゃんは、自慢の嗅覚でかならずその環境が生命に適切か判断してくれる。
小山さんは散策タイムを用いて、砂漠を探している。
「砂漠セミっているじゃないですか」
「なんですか、それは」
「砂漠にいるセミですよ。それが見たくて」
「砂漠にセミですか」
「いたら、見たいじゃないですか」
「どうでしょうね」
小山さんはゴマフアザラシのとわちゃんに給餌しながら話した。とわちゃんはガラスの向こうで泳ぎながら鳴いた。低い声。
「セミなら、はるちゃんが好きそうですよね」
「はるちゃんが喜びますね」
「セミをどうしたいの?」
「あ、はるちゃん」
小山さんは足もとを見た、クリーム色の、きれいな若い雌猫が、やや神経質そうに座っている。
「あなたはセミをどうしたいの。たべるの?」
「なんでもいいですよ。あげますよ、はるちゃんが欲しいなら」
「ください」
はるちゃんがうれしそうに足に頭をこすりつけた。
小山さんは微笑みながら、顔を上げた。窓の外をノルウェージャンフォレストキャットのサハラが眺めていた。外はまだ暗かった。
「脱皮、うまくいきませんね」
「うまくいってるよ。脱皮は何回も転移を繰り返す。たまたま、まだ砂漠じゃないだけさ」
サハラをながめていたほかの客、 大苗さんが言った。
「サハラも、砂漠が見たいかい」
「にゃーん」
サハラは鳴いた。サハラはしゃべらない。脱皮する猫カフェの1996357853回めの脱皮後、店内にいつの間にかいた猫だ。毛には極稀に黄緑色が混じる。目は深い青。猫はおろか、宝石などでもなかなか見ない。
「サハラみたいな子、またいたらびっくりしますね。砂漠のセミを見たいと思ったのも、この子のおかげですよ」
「そうなんですね」
大苗さんは笑った。虛無が人となったような笑い。
「では、いつか、わたしも帰れるのでしょうか、地球に」
「大苗さん……」
2124233570回目の転移が終る。風景は闇と輝きにつつまれ、爆発。そして、明るい青空のもとへ。
「あ、砂漠だ」
「わん!」
柴犬のゴビはうれしそうに鳴いた。はやく散策タイムに出たそうに尻尾を振っている。
「よしよし、すぐ行こうね」
小山さんはゴビの頭をなでた。
散策タイムは終わった。小山さんはゴビとすみれちゃんを連れて帰ってくる。すみれちゃんは抱きかかえられている。
「ただいま。脱皮まだかな?」
「まだでしょ。今帰ってきたのに、どうしたの」
「砂漠じゃなかった。ここは全てが蜃気楼だ」
「砂漠じゃないのに?」
「そういう感じがする。よくわからない。なんか聞いたこともない音がする」
「危ない場所っぽかったか。じゃ、はるちゃんがその気になったら、脱皮してもらおう」
大苗さんはゴビの毛並みを確かめながら言った。そこに砂はついていなかった。
砂漠の風景は穏やかだった。店内の空調のおかげか、まるで暑さを感じずにいられるせいもあるのかもしれない。
しかし、揺れる空気は、暑さゆえだけではないようだった。
砂漠は浮いていた。蜃気楼特有の感じで、幻のように。
そして、はるちゃんは鳴いた。
「ごはーん!」
揺れる空気の向こうが、雷のように切り裂かれ、大きな目のようなものが覗きこむ。
それが猫カフェを捉える前に、その猫カフェは脱皮した。
「はるちゃん、ごはんはまだだよ」
「あら。もういいでしょうに」
また風景は宇宙だった。はるちゃんはなでられてうれしそうに喉を鳴らした。しかし、すぐ気まぐれに背を向け、猫扉の向こうのバックヤードに去った。
「やれやれ。ごはんはまだか」
「はるちゃんがお腹をすかせるから、この猫カフェは脱皮できるんですね」
「ヘビかよ、って感じですけどね」
すると、大苗さんは表情を消した。
「ここは爬虫類カフェだったんですよ。実は。でも看板ヘビがこう、大きくなりすぎちゃって」
「えっ」
「店を飲み込んで、同化しちゃったんですよ。 それでこの店は、脱皮するようになったんですよ」
「この店、ヘビだったんですか。それ自体が」
「すごいでしょ」
はるちゃんがほくそ笑むように、通りざまに見る。とわちゃんはガラスの向こうで一回転した。
「ねー」
「砂漠、なかったな。また」
「いつものことでしょう」
大苗さんは小山さんに笑いかけた。小山さんは退屈そうだが、ふてくされることもなく、すぐに表情を切り替えた。
「まあ、またおもしろいこともあるでしょうし」
「あるといいですね」
大苗さんは麦茶を飲み干した。猫たちは眠りにつき、柴犬も、アザラシも、ミニブタも眠っていた。窓の外には宇宙。
「でも、なんで砂漠のセミを探しているんですか?小山さんは」
「なんでって……なんもない宇宙ばかりの日々ですし。なんか欲しいじゃないですか、目標とか。」
「そういうことですか……地球に帰る、とかじゃないんですね」
「せっかくなので。脱皮する猫カフェですし」
「そういうことですか」
大苗さんはなるほど、と膝を叩いた。
小山さんは眠るミニブタのすみれちゃんを、やさしくなでた。すみれちゃんは小山さんの膝を枕にしていた。
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