こゆるぎさんはゆるがない(恋愛現代?FT)
「小動凪沙って、動くのか動かないのか、はっきりしない名前だよな」
そうやって、名前を揶揄されるのは何度目だっただろうか。
高校生の頃、忘れ物を取りに戻った教室の前で。
ちょっといいな、と思っていた真面目そうな男子が、友人達と自分をネタに嗤っていたのを聞いた。
小さく動く。が、静かに止まる。
まあ確かに、そんな字面だと言われがちな台詞ではあった。
いくら親が願いをこめてつけた名前だとしても。
自分がもっと社交的であれば、相手に印象付けるには最適だ――と、割り切ってネタにすることも出来ただろうに。
けれど、幼い頃から地味系根暗女子という形容詞をほしいままにしてきた自分には、そんな気概もなく。
――ああ、またか。
ただ、そう思った。
その何度目とも知れぬ言葉に、聞き飽きたはずが傷つけられていたのだと気づいたのは、家族が観ていたドラマをぼんやりと受動視聴していた時だった。
『――コイツの名前が、あんたらに何か迷惑かけたか?』
はっとした。
画面の中で、整った顔立ちの青年が、ニヒルに笑って続ける。
『そんなこと言ってる暇あんなら、手伝ってくれよ。こっちは猫の手でも借りたいくらいなんだって!』
茶化しながら肩を組み、じゃれ合うように相手を連れて行く青年。
その背中を、庇われたヒロインは呆けたように見つめていた。
「かーっ、アキってばこういう役似合うわねぇー」
テレビで繰り広げられる青春物語を観ながら、姉が缶ビール片手におっさんのように言う。
「アキ……?」
「そう! 半年前くらいにデビューしたアイドルグループの一人。あんたやっぱ知らないのね。枯れてんだからー。今時の高校生には人気らしいわよ」
「アイドル……」
「S:yncって名前のグループで、『ファンと同じ時を生きる』がコンセプトなんだって」
姉が見せてくれたのは、公式サイトのロゴだった。
グループ名に時計の絵が加えられた、スタイリッシュなデザインだ。
Synchronize――共に動く、という言葉から取った名前だという。
「へぇ……なんか、いい名前」
「洒落てるわよねー。メンバー三人それぞれが、短針・長針・秒針を表してるんだって」
「凝ってるね……アイドルって、そういうコンセプトまで作るんだ……」
「S:yncはアーティスト寄りのアイドルらしいしね。ちなみに、これは有名な少女漫画原作のドラマで、アキは当て馬役なんだけど、案外演技も捨てたもんじゃないのよ。初めてだし、棒読みっぽくはあるけどね。まあ、私が好きなのは先生役の俳優で――」
つらつらと語る姉の台詞は、それ以上、耳に入らなかった。
目蓋の裏で、きらきら光る残像のように、彼の姿が脳に焼き付いて離れない。
なんてことはない台詞。
お芝居なのはわかっていた。
それでも、彼の表情が、声が――自分の気持ちを軽くしてくれたことは事実だった。
きっと、あの瞬間の私も――画面の向こうのヒロインと同じ顔をしていただろう。
この時から、凪沙にとって彼――三人組アイドルグループS:yncのセンター、AKIは誰よりも輝く推しとなったのだった。
◇ ◇ ◇
そして、今。
何が起きているのか、頭がうまく働かない。
社会人になって、動くのか動かないのかと言われれば、動くべき時に動くし譲らないことは譲らない。
そんな、合理性の塊みたいな人間だとよく言われるようになった。
けれど、突飛な出来事には――なかなか脳が対応出来なかった。
「国の遺伝子適性マッチングシステム《GeneLink》についてはご存知ですか?」
白い壁に囲まれた応接室。
いかにも事務職員といった体の、スーツに眼鏡を掛けた男性に尋ねられた。
初めて訪れたその部屋のソファーは高級な革張りで、上品に整えられた調度品や飾られた花の美しさに目が彷徨う。
「あ、はい。少子化対策の国家事業として行われはじめた結婚支援システムですよね。優秀な遺伝子の組み合わせをマッチングし、選ばれた人は補助金が出ることもあると……」
天地が定まらないような心地の中、気づけば口から勝手に解答が滑り出た。
ガリ勉と陰口を叩かれたこともあるくらいの人間ゆえか、どこか教科書のようになってしまった。
「その通りです。そして、今回――小動凪沙さん、貴方が最適相性者であるという結果が通知されました」
「最適……」
「当事務所の風見暁良と、驚異の遺伝子適合率99.98%だそうで……」
なるべく目を向けまいとしていたポスターとばっちり視線が合い、そっと視線を外そうとした所で、それ以上動かせなくなってしまった。
「要は、君と俺の組み合わせが、子孫繁栄の為には最適解だって話だそうだ」
画面の中で、書類上で、観客席で――幾度となく目にした美貌が、完璧な美声を紡いだ。
苦笑とも嘲笑ともとれる表情。
今撮影中のドラマの髪型。
おそらく私服――情報量が多すぎて目が眩む。
生の声。
リアルな息づかい。
えぐい顔面偏差値。
(めがあった。むり。つらい。しぬ)
ご用意されなかった握手会や、ファンミーティングの幻のチケットに涙した日が、脳裏に走馬灯のように過った。
大人気アイドルグループS:yncのセンター、AKI――この世で最も尊い最推しがいま、目の前に……?
ドッキリ、ではなさそう。いやドッキリでもいい。死ぬ前に網膜に焼き付けておかなければ。
壁のポスターから一人抜け出してきたようだけれど、実物の方が顔が良い。
一生のチケ運を使い果たした。
我が人生に一片の悔いなし。
…………完。
「……おーい、大丈夫か?」
目の前で手を振られて、口から鼻から穴という穴から、血が出るかと思った。出てるかもしれない。
冥土の土産に、豪華すぎる推しの姿の夢を見たのかと思ったけれど、信じられないことに現実らしい。
ただの白いシャツに黒のスラックスというラフな服装でも、ステージ衣装のように煌めいていて、後光が見える。
(あっ――これダメだ――今日が命日のやつ――)
幸せすぎてたぶん死ぬ。
脈拍が物凄いことになっている。
本当に、存在がもうずるい。
我々S:yncのファンの名前はPulse――彼らの音とファンの心が共鳴して、同じ鼓動を刻む。そんな意味があるのだから。
彼の声ひとつで、心臓が容易に跳ねてしまう。
少しパーマを掛けて無造作に分けた焦げ茶色の髪と、意志の強そうな眉。
濃い影を描く長いまつ毛の下、切れ長奥二重の目元は爽やかで、涙袋がセクシー。重罪。
薄い唇の形の良さにはため息しかでない。
細身ながら広い肩幅とほど良い筋肉のバランスが最高で、写真集三冊買いました。ありがとうございますありがとうございます。
さらっと聞いてしまったが。
アキは、本名を風見暁良というらしい。
親御さんの名付けからもう神すぎる。
神様、地上に天使を生み出してくださってありがとうございます。
――あぁ、私の太陽、暁の明星。
机の下で太腿にぎゅううと爪を立てて、頬の内側を噛んだら痛かった。
血の味がする。
これで傍目には冷静に見えるのだから、良いのか悪いのか。
何を考えているのかわからない。無表情でこわい。
ついつい真顔になりがちでよく言われるその言葉が、今は有り難かった。
(ひえー……顔が良すぎる。声が良すぎる。尊すぎる。……毛穴どこ? いいにおい……生アキ……?)
脳内が大混乱すぎて全くもって落ち着かない。
「……なぁ、息してる?」
生の推しが呼吸が届く程そばにいて。
ぽん、と肩を叩かれた瞬間――意識が飛んだ。
外でしとしとと降り出した雨音に溶けるように。
推しの驚いた声、尊死。
◇ ◇ ◇
小雨が降る日のことだった。
『あの、落としましたよ』
中学時代、見知らぬ人が落とした名刺を届けたことがある。
姉のお下がりのジャージ姿で、屋根付きのバス停で待っていた時のことだ。
前を通った人の手元から、足元にひらりと落ちた一枚の紙。
濡れる前にと慌てて拾って、差し出す時に名刺だと気づいた。
なんて書いてあったか覚えていないし、足を止めて振り返った相手の顔も、雨よけにフードを目深に被っていたこともあってはっきりしなかったけれど――
『……あー……ありがとう』
『……人違いでしたか?』
『いや、俺ので合ってる。ただ、無くしたら無くしたでいいかなって物だったんだ』
『はぁ。……えーと、拾っちゃってすみません。戻ってきちゃった、って言ってます。名刺が』
ぶはっと吹き出した相手の笑い声が、妙に心地よかった。
『きちゃった、って。いや――うん。戻ってきたなら……縁があったってことなんだろう』
拾ってくれてありがとう。
二回目の礼は最初の時よりも爽やかで、目を奪われた。
それから二、三言葉を交わして、バスが来て別れた。
それだけの懐かしい出来事だ。
どうして今、そのことを思い出したんだろう。
そういえばあの時の人の声は、少しだけ推しに似ていた気がする。
◇ ◇ ◇
目を開けると、見知らぬ天井。
さっきまでいたはずの白い部屋も、彼の姿もない。
どこだ、と思うより先に。
「………夢か……」
昔のことはもちろん、推しとの遺伝子マッチングも、推しに会ったことも夢だったようだ。
リアル過ぎた。
残念な気持ちもあるが……やっぱりそんなわけないよね、という思いの方が強い。
自分とのマッチングだなんて解釈違いも甚だしいし。
だがしかし、推しが尊すぎて夢の中でも同じ空気を吸っていたとか信じられない。
推しの吐いた二酸化炭素を缶詰に詰めたら、ファンの家宝になるし地球にも優しい。一挙両得では?
先程の夢もどうにか念写できないか、私服の推しの写真が欲しい。
吐息の缶詰と私服生写真のグッズ化お願いします。
――脳内で公式への要望書を書いていたら、ガチャリとドアの音がして、誰かがやってきた。
「あ、気が付かれましたか?」
マッチングシステムの話をしていた事務員さんだ。
体を起こして見ると、他に人影はない。
――ふむ。
なるほど、まだ自分は寝ているようで、これは夢の続きのようだ。
「体調は大丈夫ですか?」
「あ、はい」
「良かった。こちらは救護室になります。救護用AIによると緊急性はないとのことでしたが、念の為医師の遠隔診療を受けて頂きました。血圧低下と神経性ショックによる一時的な失神で、救急搬送の必要はないとのことです」
「それは――大変ご迷惑をおかけしました」
「いえいえ、時折体調を崩される方はいらっしゃいますので」
推しに会って卒倒して迷惑をかけるとは、夢の中といえど申し訳ないばかりだ。
夢で良かった。
現実だったら穴を掘って埋まるしかない。寧ろ自分を埋める。
「安静にされていたら大丈夫だそうです。突然のことで、小動さんも動揺なさってたんですね」
「すみません。表情に出にくいもので……」
「こちらこそ、配慮が足りず申し訳ありません」
頭を下げられて、とんでもないこちらこそ、と頭を下げ返す。
ぺこぺこ謝り合うのが何だか妙にリアルだった。
「あの、風見とのマッチングの件ですが――」
事務員さんの言葉に、反射的に姿勢を正した。
「――遺伝子学的に、アキ、風見さんと私の組み合わせが理論上最適であり、今回は政府が推奨する結婚前提のお見合いである。という認識でよろしかったでしょうか」
「はい。それで――」
「それ自体は素晴らしいと思います。彼の遺伝子が受け継がれるのは、社会的にも文化的にも非常に価値のあることですし。優れた才能や資質は次世代に伝えられるべきです」
「え、ええ……」
だがしかし、だ。
冷静に指を胸の前で組んで続けた。
「問題は、相手がこんな平凡極まりない私である点です。そもそも、風見さんは今、国民的人気アイドルであり、芸能界の中心人物です。S:yncはドームツアーも控えていて、世界にも知られてきた所。そんな方に個人的スキャンダルのリスクを負わせるのは社会的損失です。ファン心理的にも、倫理的にも、炎上不可避です」
「……え?」
「それに、彼の活動スケジュールを考えると、見ず知らずの人間と遺伝子提供プロジェクトに参加する時間的余裕もないはずです。むしろ、多少確率を落としたとしても、もっと適した相手を選定し直した方が――」
「あの、小動さん……」
「あと、私はかなり強めのAKIファンです。これまでずっと応援してきましたが、存在してくれているだけで尊いので、彼と現実でどうこうなるということを考えたことはありません」
おっと、これはちょっと語弊があった。
ドン引きされそうだが夢とはいえ、ちゃんと断るべきだ。それがファンの鑑というもの。
「いえ、嘘でした。多少妄想したことがないとは言えませんが――風見さんの遺伝子がどうであれ、現実的な男女関係の相手を私と想定するのは――違うんです。解釈違いというか……」
自分でも何を言っているのかわからなくなりながら、思わず額を押さえる。
夢なのに、なんでこんなに理屈っぽく真面目に反論してるのか。
でも、それが私。小動凪沙という人間なのだから仕方がない。
事務員さんは心なしか引いていた。
「……なるほど。真面目でいらっしゃるのですね」
「いえ、ただの現実主義者です」
凪沙はきっぱりと答えた。
夢の中だとしても、小動凪沙は揺るがないのだ。
ファンとして、推しへの愛だけは。
ぶは、とどこかで聞いたような笑い声。
いつの間にか開いたドアにもたれて、推しが爆笑していた。
「こゆるぎさんって、やっぱ面白いな」
「え――」
推しが。
私の名前を呼んだ。
「ずっと前、ラジオの質問投稿してくれた時も、受験生なのに俺達の心配ばっかりしてただろ?」
歓喜で脳が破裂するかと思う程ボルテージが上がっていた所へ投下された爆弾に、固まる。
「へ……」
「こゆるぎなぎさ――珍しい名前だし、ペンネームかと思ってたけど、本名だったとは……」
最初読めなかったからスタッフに教えてもらったんだ、という推し。
よくあることです。その頃ペンネーム使うことが思いつかなくて、と何とか返せた自分――百億点えらい。
鼓動が弾けそうでギリギリ持ち堪えたのが良かった。
あと、涙腺が決壊しなかったので。
「受験のモチベーションの上げ方を聞いときながら、『皆さんは無理せず楽しく活動してください。ファンはS:yncが存在してるだけで頑張れます。Pulseと同じ時を刻んでくれてありがとう』みたいに書いてあったよな」
さっき思い出したんだ。ごめんな。
なんて言われても、寧ろ記憶領域に留めていてくださってありがとうございます。貴方が神か、知ってた。としか。
受験勉強をしながら聴いていた深夜ラジオで自分の投稿が読まれた時、人生最良の日だと受験前に一人パーティーを開いたことを思い出す。興奮しすぎて応援されたこともあり、死ぬ程勉強した。死ぬ気で合格せざるを得なかった。
「うぅ……今日も生きていてくれてありがとうございます……」
「いや、こちらこそ応援ありがとう。……あの、拝まれるのはちょっと恥ずかしい……」
「恥ずかしがる様子はレア……」
ぽり、と長い指が頬を搔く。
爪の先まで美しい。
両手を合わせてしまうのはもう仕方ないと思う。推しが神々しくて尊いから。
「えーっと、お邪魔しまーす」
開いたままだったドアをコン、とノックして、推しの後ろに人影が二つ現れた。
「こんにちは。具合は大丈夫?」
「……失礼……します……」
頼りになるお兄さんといった体の好青年と、いかにも成長途中の儚げ美少年だ。
(しししS:ync揃ったー!?)
三人並ぶと破壊力がすごい。
ライブでもあり得ない距離感に、脳がバグる。
アリーナ中央のチケットを取れたこともないのに。
「二人とも、なんでここに?」
「暁良のマッチング相手が気になって。救護室にいるって聞いてさ」
「……ショウさんが行こうって……」
「おい、レオ無理に連れてきたのか?」
「いや、レオもお前のこと気にしてたんだよ」
やいのやいの。
ライブでも見られない掛け合い、尊すぎる。
やっぱりここは夢の中に違いない。
そう思いつつも、ふうっと体の力が抜けた。
天国すぎる。
(地上の楽園を見た……)
ぱたりと手を組みながら救護室のベッドに倒れ込んだ凪沙に、三人三様の反応が返された。
「大丈夫か!?」
「驚かせちゃったか、ごめんな」
「……えっと……あの……大丈夫ですか……」
上からセンターのAKI、リーダーのSHO、最年少のREO。
時計になぞらえて、長針、短針、秒針にそれぞれたとえられている三人は、イメージカラーが金、青、赤で信号機なんて呼ばれることもある。
凪沙の最推しはAKIだけれど、グループのことも大好きだ。
「えーと、小動さん……もしかして、俺達のファンだったりする? なんか、反応が……」
「夢で良かった……話しかけられるなんて、SHOファンに殺される……。Signal発売の頃からのファンです……」
「ころ――大丈夫、そんなことにならないよ。Signalって懐かしい曲名だなあ。結成一年ちょい位の頃かー……結構古参のファンなんだね。応援ありがとう」
「いえ、もうほんとにこちらこそ健康に生きてて下さってありがとうございます」
「また拝んでる……」
つい手を組んで拝んでいると、推しが困惑の声をあげていた。
オタクですみません。
夢だとしても、今日が命日なのでしょう。
「……夢じゃない……です……」
なんという美声。
天使もかくやと称される、弟的ポジションREOは話し声も天上の音楽のようだ。
じゃ、なくて。
「――え? 夢ですよね?」
「夢じゃないよ」
「現実だね」
「え……?」
げんじつ?
短針と長針に肯定され、今までの自分の言動を振り返り――凪沙は文字通り気絶した。
その後のことは、記憶にない。
◇◇◇
目を覚ますと、また白い天井。
でも今度は、機械の電子音と、消毒液の匂いがした。
「……病院、か」
あれだけリアルだった夢が、頭の奥で霞んでいく。
あの人の声も、表情も、全部綺麗すぎて、現実味がなかった。
――ああ、やっぱり夢だったんだな。
推しとのマッチングの夢とか、自分の願望が強すぎてショックだけれど、実際、本当にあったことだったら、他のファンへの申し訳なさで平気ではいられない。
夢の中だからこそ、推しとどう会っても、想っても自由なのだ。
「握手、してもらえば良かったな……」
夢でもファンとして一線を踏み外さないように努めていたのは、えらいと思うけど。
ファンとアイドルの間には、どうしたって越えられない壁がある。
アキには、私なんかよりもずっと、容姿も中身も素敵な人がいる。
遺伝子の相性がいいなんて、そんなわけないのだ。
そう思って、少し笑って……ぽろりと、涙がこぼれた。
推しが好きだ。尊い。もっと良い相手と――そう思うのは本心で。
でも、誰のものにもならないでほしいという、あさましい気持ちも確かにある。
自分の気持ちなのに、思うようにはいかないことにため息をついて、涙をぬぐった。
しかし、なぜ自分は病院にいるのか。
(まさか、妄想のしすぎで倒れた?)
あり得そうで嫌なことを思いつきつつ、周りを見渡すと――ベッドサイドのテーブルに、立派な果物籠が置かれていた。
そして、封筒が一つ。
宛名の字が、どこか見覚えのある崩し字で。
『小動凪沙様
体調は大丈夫ですか?
俺達のせいで驚かせてしまってすみませんでした。
仕事で直接見舞いに行けず、申し訳ないです。
ゆっくり休んでください。
長い間応援してくれてありがとうございます。
これからも支えてくれると嬉しいです。
退院したら、改めて直接話をしたいので、下記の番号か、事務所まで連絡をお願いします。
風見暁良(S:ync AKI)』
S:yncのロゴがデザインされた封筒と便箋。
先日告知されていた、今度のライブのグッズに違いない。
推しと事務所の連絡先が書かれていて――色んな意味で、発狂した。
◇◇◇
「――大事なかったみたいで良かったな」
そう声をかけられて、アキは微笑む。
「ああ、肉体的には何の問題もないらしい」
「ファンの子ってたまに失神するからびっくりするよな……それだけ応援されるのは嬉しくもあるけどさ」
「……でも、ちょっと慣れました……」
「あー、お前は人見知りなのがライブで豹変するし、笑顔によく皆悩殺されるからな……」
ショウがレオの頭をかき混ぜるように撫でる。
レオは、痛いです、と文句を言いつつも、兄貴分に構われて少し嬉しそうだ。
「に、しても……なんか、すごい偶然だよな」
「ああ、ほんとに」
ショウに相槌を打ったアキは、珍しい名前の遺伝子マッチング相手を思い出して頷いた。
彼女は覚えているかわからないが――アキは、アイドルとしてデビューする前に彼女に一度会っている。
容姿などは覚えていなかったが、珍しい苗字と合わせて、思い出したのだ。
「あの時、名刺を拾ってもらわなかったら……俺はここにはいなかったかもな」
高校生になったばかりの頃。
遅い成長期と声変わりを迎えて、自分の容姿に困惑していた最中に、街中でスカウトされた。
自分が芸能界だなんて――と、もらった名刺を持て余しながら歩いている内に、小雨が降り始め、傘を持っていなかったのでフードを被って屋根伝いに進み。
あの、と声をかけられなければ、名刺を落としたことにも気づかなかっただろう。
落とし物を拾ってくれた少女のぶかぶかのジャージには、KOYURUGIとローマ字が刺繍されていた。
『名刺が戻ってきちゃったって言ってますよ』だなんて、面白いことを言う、珍しい名前の子だな、と思った。それだけだった。
数年後にラジオで読んだ手紙の名前が同じで、まさかの遺伝子マッチング相手も同じ。
偶然も、続けば必然になるという。
「S:yncさーん、そろそろ出番です」
楽屋の外から声をかけられて、三人で応答した。
収録の時間になってしまったので見舞いに行けなかったのは残念だが、手紙と見舞いの品を届けてもらった。
色々と話をして、少しずつ関係を築いていけたらいいなと思う程には、アキは彼女に惹かれるものを感じていた。
あの日、拾ってもらった未来のように。
「静かな海から動き出す――素敵な名前だよな」
ぽつりと呟いた言葉は、羞恥と困惑に狂う本人に届く日はくるのか。
これは、推しへのゆるがない愛を試されはじめた、こゆるぎさんの揺らぐ日々の――はじまりのお話。
独立短編でしたがこちらに格納。
ゆるーく連載【ちょっとだけファンタジー】にすることにしたので、読んで頂けたら嬉しいです。




