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めぐりのうた。(現代恋愛 未完)

 ――ずっと、気づかないふりをしてきた。

 自分は愛されていないのだと、とうの昔に気づいていたけれど……目を閉じて、耳を塞いで。

 長い間、真実から目を逸らしてきた。

 誰かの前であれば、あの人が向けてくる視線は優しく見えて、愛されているような気になったから。

 だから、傍に誰かがいてくれることは好きだ。

 ずっと昔から、変わらずに……。

 それはただの逃げかもしれない。でも、見えないふりをし続けることでしか、私は自分を守れなかったのだ。






「うー……ううん…?」


 すでに、窓の外はもう大分暗い。

 人気のない放課後の教室で、頭を抱えて唸り声をあげるのは、十六、七程の一人の少女。

 腰まで届く真っ直ぐな黒髪に、ぱっちりした大きな漆黒の双眸を持つ、愛らしい容貌の少女だった。

 二月のまだ寒い最中、暖房の入れられた教室の片隅にある机の上に、一冊の問題集とおぼしきものを広げて、右手にシャープペンシルを握り締め、左手を頭に当てて、少女はどうしたものかと考えていた。


「わかんないよう……」


 ぱたりと机上に突っ伏して、観念したように少女は動きを止めた。少女の長い黒髪がふわりと広がった、その時。


「――どうした?」


 ふっと顔に影が掛かると同時に、頭上から慣れ親しんだ声が降ってきて、少女は表情を一変させた。


「――っけいちゃん!!」


 がばりと飛び起き、愛すべき幼馴染にすがりつく。


「…本当に、どうしたんだ?」


 いつもと違い、どこか切迫した様子の少女に眉を顰め、何かそんなに悪いことでもあったのかと相手は尋ねた。


「京ちゃん、助けて!!――数学の問題がとけないのお!」

「はあ!?」


 予想外の返答に、なんだそんなことか……とため息をついた。

 黒に近い焦茶色の短く切られた髪と、意志の強そうな同色の切れ長の瞳を持ったその人物、藤宮京は、端整な……俗に「美少年」と呼ばれる類の顔立ちをしていた。背もすらりと高く、どう見ても凛々しい美少年にしか見えない――が、京は、生物学上ではれっきとした女に分類される。いつもいつも、女子生徒からの熱い視線や告白に苦労しており、そのことに頭を悩ませているのだが、もともと温厚な性格のため、やんわりとしか告白を断れず、告白してくる少女たちも諦められなかったりするのだった。


「……りんちゃん。この問題、一昨日授業でやったよ?」


 京に少女が抱きつくような形でいると、涼やかな高めの声が聞こえた。突然現れた存在に驚いたが、何よりその言葉に目を丸くして、少女はそれまで張り付いていた京から勢いよく離れた。


「……っそれ、ほんとう!?」


 声のした方に首をめぐらせると、そこにいた薄い茶色の髪を持った少女はにっこりと笑って友人に朗報を告げる。


「本当よ?ほら……この公式を使うの」


 格闘した跡が見て取れる問題集の片隅に、ちょっと借りるね、とシャープペンシルが持っていかれて、小さめの文字で記号が綴られる。見覚えのなさに首を捻って、


「でも私、これ知らないよ?」


 と、言うと京に額を小突かれた。


「……お前、そのときの授業寝てただろう?」

「―――あ、そっか」


 あはは、と空笑いして納得した様子の黒髪の少女を見て、京は呆れきった表情を見せ、薄茶色の髪の少女はくすくすと面白そうに笑った。


「凜ちゃんは、可愛いねぇ」

「…海音みねにはその台詞、言われたくないんだけど……」


 え、なんで?と首を傾げる相手に、ため息が漏れる。

 金に近い、ゆるやかに波打つ肩まである栗色の髪と、青みがかった黒い瞳の、万人が見惚れる美しさを持った彼女の名は、茉姫まつき海音みねという。まるで西洋人形のように愛らしい外見の少女に可愛いと言われても、妙な気分になるのは当然だろう。

 海音の場合、一家揃って美形揃いであるために、己の外見にそれほど頓着していないようだが。母親は海音を更に西洋人に近い顔立ちにしたような美人で――海音の母方の祖母は英国人らしい――、父親は若々しく整った顔立ちの人。

 海音の兄弟である三歳上の兄と三歳下の弟はそれぞれ、父譲りと母譲りの綺麗な顔立ちをしている。

 弟の方は海音とそっくりで大変愛らしい容姿なのだが、美少女顔が余程のコンプレックスであるらしい。

 ……海音の家族事情は置いておくとして。

 とにかく、大変もてる少女に褒められても、凛としては素直に受け止め難いのだった。

 そんなこんなで、海音は非常に愛らしく、かなりの量の男性から好意を寄せられている……のだけれど。


「ね、ところで凜ちゃん、ひとつ聞いてもいい?」


 教えてもらった公式を元に問題を解いている最中、海音はにっこりと笑って問いかけてきた。


「…そのページ、宿題じゃなかったよね?どうして放課後に残ってまで問題集なんて解いてるの?数学嫌いの凜ちゃんが、自主的にやるはずもないし……」

「そういえばそうだな。私は今まで部活に借り出されていたから遅くなったが、こんな時間まで――って、そういえばお前、特待生なのに数学悪くていいのか?」


 京が尋ね、黒髪の少女――凜は拗ねたように頬を膨らませた。


「……私、数学だけは相性が悪いの!それに、学力特待生じゃないからいいんだもん」


 ぷい、とそっぽをむく。京が苦笑した。


「まあ、たしかにそうだけど……」


 凜は片親と幼い時に死別しているため、現在通っている私立高校の授業料は免除されている。加えて、裕福とは言いがたい経済状況だったので、もうひとつ、人々から高い評価を受けている技能で奨学金を得ていた。その条件に学力は含まれていないのだ。ある程度の水準を保ってはいるが、数学だけはどうしても鬼門なのであった。


「――凜ちゃん?ご機嫌斜めのところ悪いけど、私の質問に対する答えは?」


 海音ににっこりと微笑まれつつ聞かれて、不穏な気配を感じた気がした凜は、なんとか機嫌を直して言葉を紡いだ。


「…私が悪いの。三限目に遅れそうだったから、つい廊下を走ってたら……鉄さんとぶつかっちゃって…」


 平べったい顔と、頑固な性格から彼女達の数学を担当している中年の男性教師は生徒の間でひそかに”鉄板”というあだ名をつけられていた。凜は彼を”鉄さん”と呼んでいるのだ。


「なんか、私数学だけ弱いし、機嫌も悪かったみたいで、そんなに元気が余っているなら特別に問題解いて帰れって言われちゃった……しかも五ページ」


 あはは、と少女は乾いた笑みを浮かべる。


「あ、でもね、今海音に教えてもらった問題で一応最後なんだよ?」


 取り繕うように急いで言った。何しろ、もう天敵といえるほど苦手な数学。普段の壊滅的な成績から考えて、最後の問題まで自力でがんばった自分はほめてもらってもよいのではなかろうか。……正答率は、別として。


「でも、凛ちゃん悪くないでしょう?二限目に具合が悪くなった子を保健室に連れて行ったから遅れたんじゃない」

「ううん。走ってた私がいけなかったんだから、いいの」

「そう……」


 やけにあっさりと引き下がった海音。彼女は凜や京が関わることに対して、容赦がない性格をしているので、いつもはこの程度で納得したりしない。その顔に浮かんでいる爽やかな笑顔を見て、なんだか悪寒がした――と、そこで。


「せ、先生!どうなさったんですか!?」

「しっかりしてください、高木先生!」


 近くの部屋で、なにかが倒れたような音がした後で、慌てふためく教師たちの声が聞こえた。ざわめきが広がり、ほとんど目視できなかったけれど、教室の扉の前を、すごい速さで人を担いだ男性教師たちが通って行ったような――。


「……今の、鉄さん?」

「……だな…」


 凜と京は、冷や汗をかきながらふたり顔を見合わせる。

 そして、おそるおそる同じタイミングで一人の少女を見ると…、


「ふふっ…天誅っと」


 くすくすと、とても楽しそうに笑う少女の姿。

 絶妙すぎるタイミング、あの愉悦に満ちた笑み…。

 一瞬、見なかったことにしようかと本気で思った二人だったが、やはり良心がうずいた。


「ね、ねえ、海音。なにか、したの…?」


 一般的に見て、海音にはどうしようもないはずなのだが、彼女がどこにいようと、なぜか必ず凛や京になにか不利益をもたらした人間は、先ほどのようにいきなり倒れたりすることが多い。凜の決死の質問に、少女は異常なまでに可憐な笑顔で、


「…さあ…?な・い・しょ!」

「そう……」


 その瞬間、凜はそれ以上尋ねることを諦め、思考を放棄した。遠くで聞こえた救急車のサイレンも気のせいだ。そう思いたい。触らぬ神に祟りなし、である。天使のように愛らしい少女の実態は、実は末恐ろしい悪魔なのかもしれない――なんて、気にしてはいけないのだ。

 海音から目を逸らして壁を見る。と、そこには丁度時計が掛かっていて、その針が示す時間を見てぎょっとした。


「えっ、もう六時!?」


 慌てて机の上に広げていた筆記用具類を鞄にしまう。

 先ほどまで解いていた問題集を手にして、戸惑った。


「…これ、どうしよう?」


 渡すはずだった相手はおそらく病院へ搬送途中だろう。

 困惑してぽつりと呟くと、京が、


「高木先生の机の上に置いておけばいい。どうせ本人はいないんだからな」

「あっ、そっか。じゃあ早速…っ」

「待て」


 荷物と問題集を抱えて教室を後にしようとしたところで、首根っこを京につかまれた。


「うえっ…何?」

「私が出しておく。…今日は、墓参りだろう?」

「う、うん……でも」

「いいから。ほら」


 躊躇っている凜の手から問題集を奪って、少女に早く行くように促した。

 凜は多少逡巡した後、京に申し訳なさそうに笑って、


「ありがとう、京ちゃん。じゃあ、お先に」

「ん。またな」

「じゃあね、凜ちゃん」


 笑顔の京と海音に挨拶を残して、凜は足早にその場を去った。


「…………」

「……」

「……ねえ、京ちゃん」


 凜が去って、しばらくの後。

 海音が口を開いて、京に呼びかけた。


「何だ?」

「凜ちゃんのお墓参りって――」

「ああ……今日は凜の母親の命日だから…」

「そっか、やっぱりそうだよね…」

「明日、行くか?」

「うん、そうだね……そうする」

「………」

「…………」


 再び、沈黙が漂う。

 海音がうつむいていたので、京は少々心配になって、声をかけようとした。


「おい、どうし――」

「と、いうことは……」


 少女はいきなり顔をあげた。

 その瞳は、どこか剣呑な光を宿している。

 ――京は、思わず一歩退いてしまった。


「あの馬鹿教師のせいで、凛ちゃんはお墓参りに遅れたのよね……」

「…おーい…?」


 明確な悪意を感じて、さすがに京は制止の声をあげようとしたが、


「大丈夫よ」


 にっこりと笑った海音が、


「半殺しでやめておくから」


 ――これこそが、絶対零度の微笑み、なのだろう。

 目を爛々と輝かせる少女に、京は盛大に顔を引きつらせたが、結局。


「……ほどほどにな…」


 としか言えなかった。

 誰もが振り返ると思われる程の美しさを持つ美少女の中身はなかなかにバイオレンスで、頼りがいのある見た目美少年はかなりの苦労性なのだった。









「……あれ?」


 小さく声を上げた凜は、首を捻った。


「お父さん、もう来てたんだ……」


 別に、取り立てて珍しいことではないけれど。

 母が生前好きだった花――かすみ草の花束を、毎年、父と娘はそれぞれ別にその墓に手向けるのだ。

 父であるひとは、娘と共に母の墓前に参ることはまずない。一度も、なかった。

 それでなくても、普段の生活で、あまり父とは接点が無いのだ。

 父は、朝早くにやって来て、母のお参りを丹念にする。自分は、学校帰りの夕方、家に帰る前にお墓参りをする。

 それが、何時の頃からか、暗黙のうちに出来上がっていた決まりごとだった。すでに習慣となっていることだから、気にしたことはない――母は父の最愛の人物なのだということはとうに知っていたから、色々と、理由があるのだろうと思っている。


「私より早く来てるなんて……」


 ふと、疑問に思っていたことを口にする。ここ数年、父親は彼女より遅くに参っていた。それが、今年は違うようだ。


「…仕事早く終わったのかな?」


 まあいいか、と、凜はスーパーのビニール袋を地面に降ろして、墓前に膝をつく。

 お香をあげて、手を合わせ黙祷を捧げると、凜はじっと母の名が刻まれた墓を見つめた。


「お母さん…お父さん、来てくれて嬉しかった?」


 微笑を浮かべて、なんとなしに墓に向かってそう囁く。

 思えば、母が亡くなったのは自分が四歳の終わりを迎える頃で、幼い子供の記憶と言うものは、大概が曖昧なものだ。

 母の記憶は、うっすらと霞がかっていて、不透明だった。

 あまり残っていないその残影の中で、けれど、母はいつも微笑んでいたように思える。

 綺麗な人だったと、記憶にはある。

 母を知る知人には、よく母親に似てきたと言われるけれど、母の方が、もっと、美しかったように思う。

 白く細い腕と、どこか冷たさを感じる病院の白い壁だけが、唯一、鮮明に残っている思い出だ。

 母は、身体の弱い人だったため、彼女についての記憶は、病院の中にしかもう存在しない。

優しいひとだったとも、思う。

 頭を撫でてくれた手は、力強くはなかったけれど、慈愛に満ちていた。

 手を合わせて墓前に向かいながら、遠い記憶を思い返してぼんやりとしていたことに気付き、苦笑する。

 目を開けて、墓を見た。


「お母さん……」


 何故だか、あまり顔を思い出せないけれど。

 あのあたたかさだけは、忘れられない……。

 ごく自然に微笑んだ。

 それは、普段誰にも向けられることのない、ひどく哀しい微笑だということに――少女は気づかない。


「…………」


 応える声は、もうないのに。

 何故、いつも呼びかけてしまうのか、自分でもわからない。それは、己の弱さゆえか、縋る想いからか。

 そこには、一人の人間の亡骸だけが眠っているというのに。


「――あれ?」


 立ち上がって、帰ろうとしたところで、少女は小さく声をあげた。


「なんだろう…?」


 重ねられた花束の下に、わずかに見える何かの影。

 首を傾げつつ二つの花束をそっと取り上げてみると、その下に、もうひとつ、同じ花があった。


「あ、れ……?」


 どうやら父からのものだと思っていた方は、違う誰かからの供物だったようだ。

 明らかに、自分が供えた花束と、そう大差ない質のもの。一番下に置かれていたそれは、次に重ねられていたものとはかなりの差があった。

 はじめ、少女が父親からのものだと思っていた方が、質がよく、量も多い。

 捧げられて大分時間が経っているだろうに、そこいらの普通の花屋で売られているものにしては、まだ瑞々しくくたびれていない。


「これ…誰が?」


 疑問に答えるものは、誰もいなかった。




 少女と少女の父親は、築数十年の古びた小さなアパートに住んでいた。

 帰り着いた頃には真っ暗で、凜はただ、ドアノブに手をかけて捻った。


「あれ?」


 玄関のドアに鍵がかかっている。


「まだ帰ってないの…?」


 早く仕事が終わったなら、とうに父は帰宅しているはずなのに。

 首を傾げつつ、買い物袋を一旦下ろして、鞄から鍵を取り出す。

 ドアを開けて中に入った途端、目に飛び込んできたのは一通の白い封筒だった。

 表に、『凜へ』という文字が書かれている。


「っ……!」


 何だかわからないけれど、背筋がぞくりとした。

 嫌な予感がする。

 とても、嫌な。

 震える手で、封を切って。

 そして―――。


「………!!」


 靴を蹴りつけるように脱いで、家の奥へむかった。

 乱暴に開け放った部屋は、父親のもので。

 何時もなら細々とした物で溢れかえっているそこを見て――愕然とした。


「なん、で…?」


 凜は呆然と立ち尽くす。

 そこには、何もなかった。

 仕事用にされていた机の上に置かれていたはずの物は姿を消していて。

 散らかっていた服も、溜まっていた雑誌も。

 全てが、消えてしまっていた。

 大きな家具以外何も無くなってしまった部屋を眺めて、脳裏に浮かんできたのは見慣れた文字の羅列だった――。





 残されるのは嫌だった。

 一人でいるのは何よりも怖かったから。

 たとえ心は傍にいてくれなくても、一緒に暮らしていてくれたら、それでよかったのに――。

 そうして私には、誰も……いなくなる。




 どんどん、と何かが激しく叩かれる音で、はっと我に返った。

 どれくらいの間、そこに立ち尽くしていたのだろう。

 確かに握っていたはずの紙は、ぐしゃぐしゃになって床に落ちていて、しんとした静寂が落ちる部屋に、物音が響き渡った。

 玄関の方から声がする。

 知らない男の声だ。

 一人ではない――複数の。

 「金返せ!」「出て来い!!」と言った台詞を大声で叫び、幾多もの悪態が、罵声が、薄い壁の向こうから轟いてきた。


 凜は、ぺたりと座り込んだ。


『借金がたくさんあるんだ』

「ど、して……」

『――すまない』


 走り書きで殴りつけたように書かれた文字には、少しも温かみがなかった。


「どおしてよ……」


 声が震える。

 あまりの出来事に涙もでない。


「謝る、位ならっ」


 置いていかないで――。


「っ……」


 もう、何も考えたくなかった。

 聞こえてくる恐ろしい声からどうにかして逃れたくて。

 自分が何をしているのかさえ良くわかっていなかったけれど。

 耳を塞いで、目を閉じて――彼女は、窓枠に手をかけ……そこから、飛び降りた。





 落ちている間はひどくゆっくりと時が流れている気がした。

 家はアパートの二階だから、バランスを崩してもまず死ぬ事はないだろうだろう、なんてことをどこか客観的に、冷静に思った。

 衝撃に備えて固く目を閉じる。

 ぶつかる、と思った時。

 温かな何かに包まれるのを感じた。


「……?」


 いつまで経ってもやってこない固い地面の感触を思って、困惑しつつ瞼を押し上げると、視界一杯に白が映った。


「えっ……」


 驚いて視線をあげる。

 すると、


「――大丈夫?」


 どこまでも澄んだ、耳に心地よい声が聞こえた。

 美しい声が耳に届くのと同時に、声の持ち主がようやく見えた。


「――っ!!」


 思わず息をのむ。

 夜色の髪、同色の瞳――白磁の肌の青年。

 今まで見てきた誰よりも美しい人間が、そこにいた。





 ――これは、一体、どういう状況なのだろう?

 ぽかんと口を開いて、ただただ、目の前にある、物凄く目の保養になるモノを、見つめる。


「…大丈夫?」


 にっこりと微笑んだのは、日本人とは思えない、いっそ恐ろしいほど整った、美麗な容姿のひとりの男性。

 二十代前半といった所だろうか。

 それほど綺麗なものを見たのは初めてで、耳に心地よい低音の、青年の声が聞こえても、相手に見とれてしまっていて、すぐには返事が返せなかった。


「……っあ、だ、大丈夫、です!」


 数秒後に、言われていることをやっと理解して、力一杯返答をした。


「え、えと、えとあのそのっ!」


 そして、至近距離に見知らぬ他人の顔――しかも、とびきりの美形の顔があることに、凜はうろたえた。


(び、びび美人さんだ――!)

「何?」


 少女の心境を知ってか知らずか、青年は微笑んだ。極上品と言える笑顔だと思う。

 凜はその笑顔に見惚れてしまった。


「あの……その」


 しどろもどろに言って、真っ赤になった。

 落ち着きを取り戻す為に、視線を青年の端整な顔からそらす。

 あまりに存在感のある美形を前に、思考力が停滞していたが、だんだんと、理性が回復してきた。数度息をついてから、大分落ち着いてきたところで、はたと思い至った。

 ――足に、地面の感覚がない。

 それは、何を意味するのか。

 考えてみれば自分は二階から飛び降りたはずで。

 そこまで運動神経はよくないので、上手に着地できるはずもなくて。

 地面とぶつかった衝撃もなく、おまけに、今足は地についていない。背中に、いや、寧ろ身体の大部分に何やらあたたかいものがくっついていることに今更ながら気付いて、その直後に、自分が一体どんな体勢でいるのか、理解した。

 背中と膝の裏に添えられた、手。

 ――目の前の、とてつもなく綺麗な、見知らぬ青年の顔。

 それら全てを総合して、導き出される答えは一つしかない。

 それは、つまり。


「うええあえう!?」


 答えに行き着いて、少女は奇声を発した。

 全身の血が沸騰しそうだった。


「どうしたの、凜?」

「どどどうしたってそんなえっとあのあのっ」


 少女は完全に落ち着きをなくしていた。


(ここ、これって、もしかしてもしかしなくてもっ)


 世間一般に言う、世の乙女の憧れたる、いわゆる「お姫様抱っこ」というものを自分はされているのだと、遅ればせながらようやく気づいた少女は、大いに混乱に陥ったのだった。

 そんなことを誰かにされたのは、当たり前ながら初めてで、おまけにその行為を行っている人間が、自分の何倍も、へたすると何十倍も綺麗な人間、しかも異性だったのだ。

 見知らぬ美人にそんなことをされて平静でいられる人がいるというのなら、お目にかかってみたいものだ。


「あ、あの、おろ…降ろしてくださいっ」

「でも…凜、靴を履いてないよ?」

「いえ、構わないのでっ!」


 必死で答えた。

 地面に立って足の裏が痛くなろうが、そんなことはどうでもいい。

 取りあえず、何を置いても、まず相手の腕から逃れたかった。


「わ、私、重いですから!」


 何を隠そう十代の身。

 体重は最大の悩みである。


「――そんなに重くないけど」


 不思議そうに首を傾げる青年。

 そんな動作も、異様に似合っている。


「とにかく降ろしてください!」


 半泣きで叫ぶと、ようやく青年は地面に足をつけさせてくれた。

 わざわざ足をついてもあまり痛くなさそうなところに、体を支えながらそっと降ろしてくれる辺りが、やけに紳士的だった。


「あ、あの……ありがとうございました」


 青年が受け止めてくれたことは明白であったので、凜はぺこりと頭を下げる。


「たいしたことじゃないよ。でも、危ないからもうあんなことしちゃ駄目だよ、凜」

「もう二度としません……って、え?」


 ぽかんと口を開いた。

 どうしてこの青年は、自分の名を知っているのだろう。


「本当に凜は危なっかしいなあ」


 くすり、と青年が微笑う。

 今度は、見惚れなかった。…それどころではなかった。


「あ、あの…どうして、私の名前」


 知っているんですか、という問いかけに、青年は、理解できない奇妙な表情を浮かべた後、すぐにまた微笑を作った。

 ――どこか、無理をしているようなその笑顔。

 ふっと、その笑顔を見て、何かが脳裏を横切ったような気がしたが、それが何だったのかはわからなかった。


「うーん、…何て言えばいいのかな」


 彼は考え込む。

 途端、少女は、背筋に何か冷たいものが走ったような感覚がして、ばっと後ろを振り返ったが、そこには何も無い。


「?」


 何だったのだろうと少女が思う間も無く。

 ぱっと青年が笑みを浮かべて、意地悪く言った。


「……そうだ、凜はどうしてだと思う?」


 その面白そうに笑う顔に、人形のように愛らしい親友の姿が被る。

 同じ人種か……と凜はがくりと肩を落とした。


「わからないから聞いてるんじゃないですか…」


 青年が、やたらと愉しそうに見えるのは、おそらく目の錯覚ではないだろう。――本音を言えば、心からそうであって欲しかったのだが。

 何故このような人々とばかり関わり合いになってしまうのだろうと、我が身の不幸を嘆いていると、


「――やっと行ったか…」


 青年が、小さく呟いた。


「え?」


 何のことだろう、と凜が彼の視線を辿れば、その先には、少女の家の前からぞろぞろと群れを成して去って行く数人の男達の姿が垣間見えた。

 どことなく、危険な雰囲気を発している男達だ。


「あのひとたち……お父さんの借金の…」


 そういえば忘れていた。

 ぼんやりとその姿が消えていくのを眺めていると、唐突に、傍らの青年が笑い出した。


「は…ははっ…!!くっ…!!」


 必死になって沸きあがって来る笑いをこらえようと口に手を当てて顔を逸らしているが、あまり成功していないようだ。


「え、えっ?あのう、どうしたんですか?」


 心配して尋ねたのに、青年はますます笑い出した。


「な、何なんですか!?」


 腹を抱えて笑う相手に、憤慨したように言う。


「ふ、普通さ、どうしてあの人たちが帰ったのか疑問に思ったり、とりあえずよかったって安心したりしない?」


 笑いながら青年がそう言って、凛はそういえば、と今更ながらに疑問に思う。

 小首を傾げてうんうん考え出した少女に、青年は再び笑い出した。

 さすがに、癇に障る。


「そ、そんなに笑わなくてもいいじゃないですか!」


 困惑と怒りと焦りを感じて、凛は思わず青年の服の裾を掴む。


「ご、ごめんごめん」


 謝りながらも、青年は目に涙を浮かべるほど笑っていた。


「あまりにも凜のぼうっとした表情が可愛かったから、つい…」


 それはどういう意味だろうか?褒め言葉には聞こえないのだが…。

 大笑いされたというのに、何故か青年に対する怒りは覚えても、相手を憎たらしいとは思えず、そのことに自分でも困惑する。


「…あの、私の質問に、答えてくれてませんけど」


 とりあえず、失礼な青年に冷たい視線を投げかけながら、そう言った。


「そうだね…。それに答えるなら、ついでだから、他の疑問にも答えてあげようか?」

「え…?」


 青年は笑みを引っ込めて、考え込んだ様子で首を傾げる。


「…何から話そうかな……」


 悩むほどたくさん話さなければならないことがあるのだろうか?


(あの、借金取りの人たちが帰った理由を知ってるのかな…?)


 しかし、それにしても、悩む必要などないだろう。

頭の中で疑問符が浮かび上がっていると、考えがまとまったのか、ふと青年が笑みをこぼした。

 それは、いたずらを考え付いた子供のような笑顔で。


「っ――!?」


 思わず背筋を走った悪寒に、凜は身をすくめて辺りを見回した。

 当然、何もいなかったが、そこで、青年が口を開く。


「そうだ、まず一つ目に、凜の今日の最初の疑問からだね」


 黒い瞳がまっすぐに自分を射た。


「はじめの…疑問?」


 名前のこと?と胸中で問いかけると、青年は彼女の心を読んだかのように、


「それじゃなくて…どうして、すずさんのお墓の花が一つ多かったか、って言うことだよ」


 なんだそれか、と納得しようとして、


「え!?」


 何故この青年がそれを知っているのだろうと尋ねるまでもなく、答えが返ってきた。


「鈴さんのお墓に花をあげたのは、俺」


 にっこりと笑って告げられた言葉が理解出来るまで、時間を数秒要した。


「………はい?」


 ぽかんと口を開けてようやくそれだけを口にすると、天使のごとく秀麗な顔に笑みを浮かべた青年が、同じ言葉を口にする。


「だから、草薙鈴さん……凜のお母さんのお墓に花を供えたのは、俺だよ」

「ど、どうして…」


 動揺を隠せない少女に、彼は柔らかく言う。


「今日が命日だからでしょ」

「え、あの、でも…」


 それはそうなのだが。


「二つ目に、あの借金取りの人たちが帰ったのは、俺の部下が話をつけてきたから」

「ぶ、部下?話?」

「そう。ちゃんとお金は払って、丁重にお帰り願ったから、もう凜の所に現れる心配はないよ」


 というか、来させないから。

 笑いながら彼はそう続けたのだが、凜はなんだか急に寒気を感じた。

 目が、笑っていない気がする…。


「あ、の……どうして、そんなこと…」


 こちらの借金を彼が肩代わりする理由が、いったい何処にあるのだろう?

 疑問を投げかけると、青年の瞳がいたずらっぽく輝いた。

 今は、心から笑っているようだ。

 しかし――今度は、また何か違う寒気がした。


「――知りたい?」

(っっっっっっ)


 青年の本性を垣間見た気がする。

 何だか彼の綺麗すぎる顔がとても怖くて、顔から血の気が引いた。

 慌てて首を横に振ろうとしたが……時、既に遅し。


「それはね、凜が俺の――妻だから」


 今度こそ完全に、思考がショートした。

 ぱか、と口を開いて青年を凝視していると、相手はわざわざ手を伸ばしてそれを閉じてくれた。


「な、何の冗談ですか…?」


 妻。つま。…奥さん?

 駄目だ、頭が混乱している。

 いつの間に、自分は目の前の極上のいい男と婚姻をむすんだのだろうか。――いや、そんなはずはない。


「冗談で、こんなこと言わないよ。…ほら」


 そう言って、取り出された一枚の紙。

 初めに目に入ったのは、『婚姻届』という文字。

 そのまま視線を下に下ろすと……信じられないものが飛び込んできた。

 思わず、目玉が飛び出そうなほどに目を見開いて凝視してしまった。


「こ、こ、こー!?」

「…にわとりの真似?」

「違いますっ!じゃなくて、婚姻届に何で私の名前が書かれてるんですか!?」


 妻となる人の氏名欄には、『草薙凜』という文字が記入されていた。しかも、その他の必要な項目も、全て書き込んである。


「私、こんなものに記名した覚えはまったくないんですが!?」

「うん。まあ、凜が書いたわけじゃないからね」


 あっさりと青年がそう言うので、凜は拍子抜けしつつほっと息をついた――が。


「確かに凜の直筆じゃないけど…よく似てるでしょ?役所の人に、これが凜が書いたものじゃないって、どうしてわかると思う?」


 ――悪魔だ。

 少女はそう思った。

 本当の悪魔は、綺麗な顔をしていて人を騙すのだと、何かで読んだ覚えがある。

 …その話が本当なら、このひとは、正真正銘の悪魔ではなかろうか。

 何があって犯罪的な行為を以て彼女と結婚しようとしているのかは、全くわからないけれど。


「最近のああいうところの人間はけっこう不注意だしね。書類が整っていれば、何にも言われないんだよ?凜はまだ未成年だけど、保護者のところの記名もちゃんとしておいたしね」


 捺印まで偽造されている。

 最早、青年の声は、彼女の耳を素通りしていくだけだった。


「まだ、正式には違うけど、どうせすぐに現実になるんだから、妻って言ってみたんだよ」


 満足そうに笑う顔さえ、茫然自失の少女には効果がない。

 式は、凜が高校を卒業してからあげようね。とか何とか言っている声は耳に入らず、少女は再び、ぎこちなく紙片に顔を向けてじっと見た。

 そして、そこに書かれているものをもう一度見て、脳の活動を再開させた。

 先ほどは、埋められている、としか思わずに、見ていなかった夫となる人物の氏名欄に書かれた名前――それは。


嵩音たかね……りつ?」


 その名前が、意味することは。

 少女は、日本で『嵩音』と言う苗字を持っている一族を、一つしか知らなかった。

 信じられないといった表情で見返す少女に、青年は、優しく微笑み、


「三つ目……最後の答え。俺が、凛を知っていた理由は――もう、わかってるよね?」


 青年――嵩音律は、穏やかに、告げる。

 聞きたくなかった、答えを。


「改めて、ご機嫌麗しゅう――従妹殿。生まれた時から存じ上げてましたよ」


 これはきっと、悪夢に違いない……少女は、そう思った。

 そして――視界が、暗転した。






 昔、一度だけ、両親に尋ねたことがある。その時のことはなぜかよく覚えていた。


『私には、しんせきのひとっていないの?』


 幼心に、嬉しそうに祖父母や従兄弟などの話をする他の子ども達を見ていて、気にかかって聞いてみたのだ。


――おばあちゃんとか、おじいちゃんとか、いとこって、なあに?

――りんちゃんしらないの、「しんせき」のことだよー。


 自分に「親戚」がいることなど聞いたことがなかったために、口にした疑問だった。

 その話をした途端に、両親の動きは停止した。

 凍りついた空気にびくびくしながら、どうしたのかと問う前に、父親は部屋を出て行ってしまい、ぎこちない空気の中で、母親は、静かに答えてくれた。

 親戚はいるけれど、事情があって会うことは叶わないのだ、と。

 ごめんね、と母は謝った。

 「草薙」というのは、母の苗字で、父は「嵩音」という家の出身だったということと、その家は裕福な旧家で、父はその家の長男だったので、普通の庶民の娘だった母との仲を反対されて、二人は駆け落ちしたのだということを母は説明してくれた。

 その「駆け落ち」というものをしたせいで、親戚に会わせてあげることが出来ない――だから、ごめんね、と、母は自分に謝ったのだった。

 幼い自分はその話の半分も意味がわからなかったが、その話をする間中ずっと、母が哀しそうな表情をしていたので、何かとても悲しい事があったのだろうという予想はついた。

 母の顔を見ていると、何だかこちらまで悲しくなってきて、必死で母を慰めようとしたが、堪え切れずに泣き出してしまった。そして、慰めるはずが逆に慰められてしまい、頭を撫でられながら、自分には五歳年上の「律」という名前の従兄かいることを教えられたのだ。

 それ以来、二度と「親戚」について両親に尋ねることはなかったが、小さい時はよく、自分の従兄はどんなひとなのだろうと想像したり、会ってみたいと思っていた。

 何故だか、母にあんな悲しい顔をさせた、母を受け入れてくれなかった他の親戚の人には会いたくもないと思っていたけれど…その従兄にだけは――会ってみたいと、ずっと思っていたのだった。




「りん……凜?」


 耳に心地よい声が聞こえて、その声に含まれた優しげな響きに、過去に戻ったような気がした。


「ん…お、父さん…?――ちが、誰…?」


 呼んだ後で、そういえばあのひとがこんな風に自分を起こしてくれることなどありえないと思い至って、寝起きでうまく回らない舌で言葉を紡いだ。

 その問いに応えたのはあたたかな手のひらで、優しく頭をなでられるのと同時に、再び誰かの声が聞こえた。


「誰、はないんじゃないかな、凜。自分の夫に向かって」


 苦笑を含んだその声に、瞬時に意識が目覚めた。

 大きく見開いた目に映ったのは生半な俳優なんか逆立ちしても敵わないような整った美貌で。

 思わず叫んでしまった。――自分ですらくらくらしそうな音量で。


「……元気がいいね」


 何故だがその大音声を至近距離で聞いておきながら、従兄にあたる青年は、少女の口元を塞ぐこともせずにわずかにその美麗な顔をしかめただけでやりすごした。

 青年にそんな台詞を返された辺りでこの上なく定まらなかった視界が安定したのだが、ようやく自分が置かれた状況に気が付いて、凜は再び叫びそうになった。

 そこで、流石に二回目はごめんだったのか律はなだめるように少女の口元に指を置く。


「落ち着いて。俺はただ、隣で眠っていただけだよ」


 諭すような口調に、活性化していた神経が静まった。


「うん、良し。おはよう、凜」


 甘い笑顔、と称するべきであろう完璧な微笑を浮かべて、彼は言った。


「おはよう……ございます」


 反射的に答えると、嬉しげな笑みが返された。

 よく笑うひとだなあ、と思っていると、くすくすと微笑って律は告げた。


「よく眠ってたよね。もう、十時過ぎてるよ?」

「え、えっ!?」


 ついつい目の前の綺麗な顔に魅入ってしまっていたために、初めは何を言われているのかわからなかった。


「が、学校!!」


 ようやく言われていることを理解して、真っ青になって慌てて跳ね起きようとすると、青年に防がれた。


「大丈夫、今日は土曜日。今週の土曜は休みでしょ?ついでに言うと、明日は日曜」

「あ、そっか……」


 ほっと息をつく。

 しかし、そこで、起き上がろうとして――


「……あの」

「ん?」

「…離してもらえませんか?」


 動きを阻むように抱きしめてくる相手に真っ赤になりながら抗議した。が、その返答は容赦のないものだった。


「駄目」


 にっこりと微笑まれて、ああそうですかともう何だか諦めてしまった。

 もう今までの経過で、そう簡単に解放してくれはしないということを何となく理解できていた。


「…あれ、諦めたの?」


 少々驚いたように覗き込んでくる綺麗な顔。

 軽いため息と共に答えた。


「――言っても離してくれないんだろうってことくらい、わかります」

「…ふうん。じゃあさ、今日一日このままで……」

「それは嫌ー!!!」

「っていうのは冗談だけどね」


 じたじたと暴れる前に、するりと解ける腕。


「軽い食事でも摂ろうか。凜、夕べもずっと寝てたから、お腹空いたでしょ?」


 開かれたカーテンの隙間から、柔らかい光が射し込む。

 向けられた笑顔は、赤面しそうなほどに美しかった。




「………あー…」


 まだ誰もいない教室の自分の机に突っ伏して、凜は呻くような声を出した。

 これ程学校に来ることが憂鬱だったことはない。といっても、来ないという選択肢は初めからなかった。

 何しろ、通学しないということは、必然的にある人物との接触が密になるということだからだ。

 いつもなら、今時の学生の例に漏れず、授業は退屈だと感じても、連休が明けて親しい友人と話せることを楽しみにしている所だが――今回は何もかも、勝手が違う。

 己の首元をちらりと見て、ふうと息を吐く。

 引っ越した、とも言いづらいなあ……と内心で凜は頭を抱える。

 友人に伝えづらい秘密そのいち、父親が借金を抱えて逃げました。

 秘密そのに、初めて会った従兄がその窮地を救ってくれました。

 秘密そのさん、従兄の元に引っ越し――結婚しました、なんて。

 友人の反応を予測して、言えない、と身悶えした。

 特に最後の事項は、自分でも信じられないのだ。土曜日の朝、目覚めてから素晴らしく優雅な朝食を摂り――何しろ、現在住んでいる従兄の家は一般家屋とは次元が違う――紅茶を飲んで一服していた所、見せられたのは『婚姻証明書』と記された書類。思わず紅茶を噴き出しかけた。

 「もう手続きを済ませたから」と神々しいまでの笑顔を見せられて、暫く放心してしまった。自分は知らない内に人妻になったらしい。

 土日に律にべったりとはりつかれ、構われ倒し、ひたすら混乱していた自分が、冷静に友人二人に現状を説明できるはずもない。


「どーしよー…」


 人影がちらほら見え出した。

 今朝は、凜にしては早すぎる登校。その原因は従兄の律のスキンシップ――何の漫画だと言いたくなる程に抱きしめたり頭を撫でたりと何かと接触してくる――にあり、それから逃れる為の早い登校だったのだが、今ではあの二人が早く来てしまったらどうしようと悩む時間を持ってしまったという不利益も感じていた。

 クラスメイトと朝の挨拶を交わし、うーんうーんと密かに悩んでいた凜の背に、ふわりと何かが圧し掛かった。


「りーんちゃん。おはよう。今日は早いのね」


 先に来たのは危険な方だった。凜は己の運の悪さを呪う。


「お、おはよう、海音…」


 今日も輝かしい程の美少女だ。そんな彼女に後ろから抱きつかれているという世の男性からしてみればかなり羨ましい状況にありながら、凜は若干顔を蒼くし、だらりだらりと冷や汗をたらす。

 駄目だ、とても冷静になれない。この場はどうにかしてやり過ごし、落ち着いた頃合いを見計らっていつか打ち明けよう――そう思った時。

 細い指がついっと伸びてきて、銀の細鎖を掴みあげた。

 その拍子に制服の襟元から零れ落ちる、円い輪。


「あ……」

「『R to R』……凜ちゃん、これ、どうしたの?」


 至近距離で密着していた分、襟から鎖が見えやすくなっていたのだろう。

 普段アクセサリーの類をしない凜が珍しいなと好奇心にかられたのか、第六感的なものが働いたのか――この少女に関しては後者の方が限りなく真実に近いだろう――常識は弁えている海音が、プライバシーを侵害するような行為に出たことで、隠したかったことが一つ明らかにされてしまった。

 銀色のシンプルなその指輪は、裏側に彫られた文字からしても贈り物かつペアリングのそれに見える。結婚指輪だとは思うまいが、今まで異性関係をにおわせる話が微塵もなかった凜が指輪なんて持っていたら、勘の良すぎる友人は何かに気づく。

 笑顔でありつつも背後に逆らえない真っ黒な何かを感じて、怯えながら凜が口をぱくぱくと開け閉めしていたその時。


「こら」


 救いの神は現れた。

 ぱこん、と軽い音。海音の頭が薄いノートで叩かれた音だった。


「京ちゃん…」

「困ってるだろ。人が嫌がることはしない。凜は大事なことなら話してくれる。こんな人が多い所で問い詰めることでもない」

「でも、京ちゃん…」


 ぶう、と唇を尖らせた海音の頭を今度は優しく手のひらでぽんぽんと叩き、京はふっと笑みを浮かべた。


「何かあったんだろう? まだ気持ちの整理がつかないみたいだから、お前が落ち着くまで待つよ」


 その頼りになる笑顔に、姿勢に、普通の女の子だったら間違いなく蕩けているだろうな、と凜は思った。格好良すぎます、京さん。

 取り敢えず一難は去ったが――ここまで信頼されたからには、応えたい。

 今日の放課後、と約束した所で担任が教室に入ってきて、その場はお開きになった。


(ああもう……律さんのばかー)


 この指輪が嫌いなわけではない。むしろ好みのど真ん中をついている。ゴールドよりもシルバーが好きだし、一見シンプルながら良く見れば細かな細工が施されているデザインは大変気に入っていた。

 これを渡されたのは土曜の午後。学校にもつけていくようにと言われ、流石に指には出来ないと言うと、周到なことにチェーンを渡された。

 虫よけだからという言葉はあまり意味がわからなかったが――彼女は今まで一度ももてた記憶がない――海音や京が知れば納得はするだろう。何しろ、凜は友人二人のように人目を引くような容姿ではないが、そこそこ愛らしい顔立ちをしているし、何よりそのほんわかとした雰囲気が一部にとても人気があった。それを陰で全て追い払っているのは彼女達だ。

 周囲のことなどいざ知らず、もうもう、と小さく恥ずかしそうにしながら、凜は再び仕舞った指輪を衣服の上から無意識にいじり、美貌の夫に内心で文句を言い続けたのだった。


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