消毒屋(現代FT?not恋愛)
――その疼く傷痕に、つける薬はありますか?
「――さん、市橋さん」
誰かの泣き声が聴こえた気がした。
……でも、いい。もういい。
生き抜く気力なんて、もう、無い。
「市橋沙耶さん?」
ぽん、と肩を叩かれ、市橋沙耶は驚いてびくりと僅かに椅子から飛びあがった。
「…っ!」
振り向くと、滑らかな肌に表情の乏しさが目立つ、端正な顔立ちをした茶髪の女性が一人。
「診察の準備ができました。先生がお待ちですので、そちらにお入りになってください」
マニキュアなど施されていなくても健康的な薄い桃色の爪が光る、細く長い指で示されたのは、白いカーテンが入口に掛かった一つの部屋。
上の方には『診察室』と書かれたプレートが見えた。
「え…あの」
困惑したが、相手はもう奥の方へ歩いて行ってしまっていた。
「え…」
きょろきょろと見渡せば、沙耶がいるのは病院の待合室のようだった。
あまり大きくはなく、小綺麗にはしてあるものの、診療所といった所か。
勿論、知らない場所だ。こんな所に来た覚えはない。
沙耶は呆然とした。
声を掛けられるまでの記憶が、ひどく曖昧なのだ。
ただ、病院に用がなかったことは確かで、当然ながら受け付けを済ませたはずもない。
それなのに何故か自分の名前は知られていて、診察を受けることになっている。
どうすればよいのかと途方に暮れたが、目は自然と診察室へと向いた。
風が吹いたのか、ふわりとカーテンが揺れる。
――それはまるで、沙耶を招いているように見えた。
「……」
惹かれ、誘われるように、どこか夢見心地のまま、沙耶は足を踏み出していた。
カーテンを捲り中を窺うと、診察室には、机に向かう形で椅子に座っている一人の青年がいた。
白衣を着ていることから、医者だろうと窺える。沙耶に気付いて、医師は顔をあげた。
色素の薄い長めの髪を一つに結び、細い銀縁の眼鏡を掛けている、整った容姿の青年医師は、沙耶を見て微笑んだ。
「ああ、市橋さん。お待たせしました。どうぞ掛けてください」
「あ…」
椅子を勧められ、躊躇いつつも頷こうとしたその瞬間、
「うわっ!?」
「……!?」
ひゅん、と顔の横を何かが飛んでいった。
沙耶はそろそろと、ぎこちなくそちらに視線をやり、壁に垂直に突き刺さった注射器を目にして青ざめる。
「ま、円くん!?何てことを!」
医師が慌てて非難したのは、注射器が飛んできた方角に立っていた女性――先程、沙耶に声を掛けた人だった。
「円くん!危ないじゃないか!」
医師が詰問すると、円というらしい女性はついとわざとらしく視線をそらし、
「…すみません、手が滑りました」
少しも悪いと思っていない様子で、淡々と嘯いた。
「嘘だ!今の間は何!?いや、例え本当だったとしても、市橋さんに当たっていたらどうするつもりだったんだい!?」
「ああ…すみません、市橋さん。怪我はありませんでしたか?」
円は、それまでのしれっととぼけた顔が嘘だったかのように、沙耶に対して爽やかに微笑みかけると、無事を問う。
「は、え…はい」
怯えていたはずが、同性でも思わず見惚れてしまうような笑顔に、知らず知らずの内に警戒が薄れていた。
こくこくと頷く沙耶へもう一度にこりと笑って――円は医師に視線を戻す。
その顔からは、瞬時に表情が消えていた。
「……」
見事なまでのその変わり様にぽかんとした沙耶を置いて、医師と女性の会話は進む。
「先生、避けたら駄目じゃないですか。医者なら、盾になってでも患者を守らなくては」
淡々と抑揚なく述べられる台詞は、論理的なようだが全く筋か通っていない。
「ああ、まあそうだね……って、そもそも君が注射器なんて投げるからだろ!?僕を殺す気かい!?」
「…人聞きの悪い。ちょっと怪我をするくらいでしょう。当り所が悪ければ、せいぜい息の根が止まるくらいで…」
「イコール死ってことじゃないか!…いや、その前に、やっぱりわざと投げたんだね!?」
「…ちっ」
「円くんっ!?」
「――先生、五月蝿いですよ。患者さんを待たせてはいけません」
「君が今更正論を言うのかい!?…ああ、もういいや…」どっと疲れた様子で、がっくりと肩を落とした医師は、椅子の背もたれに沈みこんだ。
対して、円は涼しい顔をしている。無表情ながらどことなく生き生きとしているのは気のせいか。
びくびくしていた沙耶は、一段落したらしいそこで二人を見比べ、ようやくある事を認識した。
円は看護師の制服ではなく、白衣を羽織っていたのだ。
てっきり、最初に対応したのが彼女であったし、医師を「先生」と呼んでいたことから、看護師なのだと思っていた。
診察室に招かれた時は、ぼんやりとしていたために、相手の服装をよく見ていなかったのだ。
…つまり、彼女も医者なのだろうか?
では看護師は何処に、と考えて。
「…え…?」
思わず、声が漏れた。
――おかしい。
此処が何科かは知らないが、普通病院では、咳の音や話し声や人が移動する際の衣擦れの音など、何らかの物音が聞こえるはずだ。
そういえば、待合室には他に誰もいなかった気がする。
患者の気配が一切しない上、看護師がいる様子もない。
あまり繁盛していないにしてもおかし過ぎる。
――ここにいる三人以外、他に人の気配がしないのだ。
困惑する沙耶を見て、意気消沈していたはずの医師は薄く笑うと、身体を起こした。
殆ど音をたてずに背もたれを回し、椅子ごと沙耶に正面から向かい合う。
「――では、診察を始めましょう。…その前に、自己紹介を」
にこりと笑った医師には、少し前のどこか情けない雰囲気など欠片もなく、彼は、却って底の見えない余裕を漂わせていた。
「僕の名前は、月詠生といいます。ここ、月詠診療所の所長兼担当医師です」
「…はあ…」
「そちらの彼女は薬剤師兼看護師の――」
「助手」
「…はいはい。助手の相模円さんです」
冷ややかに口を挟まれ、医師…生は苦笑しながら続けた。
円がふ、と笑って頭を少し下げたので、沙耶も慌てて一礼する。
すると、円が何かのファイルを手にしているのが見えた。
普通だったらカルテだと思うが、何故かはわからないが沙耶は此処に初めて来ているのだから、問診もしていない――それは間違いないだろう――のに、今から作るならまだしも、既にカルテがあるはずがないのだ。
当惑しながら、次は自分の自己紹介の番だとはっと気付き、
「…あの、私は…」
「――市橋沙耶さん。十七歳、O型。誕生日は八月十六日。目立つ病歴は特になし。両親共に健在」
すらすらと読み上げる円に、沙耶は息を飲んだ。
円は手にしたファイルに目を落としている。
それに、沙耶の何もかもが書かれているかのように、よどみなく。
そのファイルが……以前から作られていたカルテ、その物であるように。
「…十二歳年の離れた弟が、一人」
その条項が言葉にされた瞬間、沙耶は身体を固くした。
耳の奥で、弾むような元気な声が響く。
『おねえちゃんっ』
いつだって、向日葵みたいに明るかった子。
「一ヵ月前、自動車事故に遭い、貴方が助けようとしたが」
どくん、と心臓が跳ねた。
――やめて。嫌だ、聞きたくない……!
「…市橋陽太、五歳は打ち所が悪く、死亡した」
相変わらず淡々とした声が紡いだ事実は、沙耶の胸を撃ち抜いた。
世界が一瞬にして色褪せる。
勝手に脳が再生する記憶は、苦し気に伸ばされる幼い手。
『…おねえ、ちゃ…』
――陽太。
「……っ!!」
低くなっていく体温、流れ出る血――か細い息。
握り締めた小さな手のひらは、だんだんと冷たくなっていった。
自分に何が起こったかわからず、怖かっただろうに、泣き叫ぶ私に、弟は小さく微笑んで、名を呼んで見せた。
それが、最期だった。
……まだ、ほんの子供だったのに。
初めて出来た兄弟。
歳が大分離れていた分、可愛くて仕方なかった。
生まれた時からずっと一緒にいたと言っても過言ではなく、あの子はいつも自分を慕って後を付いて来ていた。
「…陽、太」
――守ってあげると、決めていたのに。
何に代えても守りたかった小さな命は、この指先を擦り抜けていった。
飲酒運転の車がいきなり、二人で歩道を歩いていた所へ乗り上げてきたのだ。
相当に酔っていた運転手は、軽傷で済んだという。
人を轢いたという意識も薄かったと聞く。
…何故?
――どうして?
陽太の命を奪った人間が生きていて、あの子が死ななくてはならなかった理由が何処にあったというのか。
弟を殺した相手が憎かった。
憎くて憎くて……けれどそれ以上に、弟を守り切れなかった自分が、憎くてたまらなかった。
もう、全てがどうでもよくなっていた……。
「――弟さんに、会いたいですか?」
「…っ」
弾かれたように顔を上げていた。
生は穏やかな表情を浮かべている。
「会うことを、望まれますか?」
死んだ人間に会えるはずがない。
常であれば、何かの詐欺だと思っただろう。
それでも、騙されてもいいから、少しでも希望があるならと。
――沙耶は、その言葉に縋り付いた。
「…たい、会いたいです…!」
後から考えれば、怪しい所ばかりだった。
普通なら真に受けなかったはずだ。
けれど、その時は必死だった。
相手の言葉だけが、ただ一つ、苦しむ自分に与えられた光明だったのだ。
眼鏡の向こうの生の瞳は、どこまでも澄んでいて、冗談を言っているようには思えなかった。
……沙耶は、その選択は間違っていなかったと、後に思う。
「――わかりました」
微笑む生のその眼差しは、慈愛を含んだ柔らかなものだった。
「…おいで、陽太くん」
生は首を捻り、後方へと呼び掛けた。
まさかと思いながら、沙耶は生が声を掛けた奥の方へと目を凝らす。
衝立の向こう側から、やがて、円に連れられて、小さな子供が姿を現した。
「――っ陽太!」
その顔も姿形も表情も、何もかも、愛しい弟のもの。
――見間違えるはずがない。
沙耶は駆け寄って、弟を抱き締めた。
万感の想いを込めて名を呼ぶ。
「陽太、陽太、陽太…!」
――冷たい。
「っ!」
ぎゅう、と抱き締めた身体が、熱を持たないことを知って、言葉を失った。
まるで、氷を抱いているようだった。
「…おねえちゃん」
可愛いその声に顔をあげると。
その顔は、見たことが無い位悲しそうで。
「…陽太?」
「おねえちゃん、ありがとう」
唐突に言われた言葉に、沙耶は目を見開く。
「な…陽太、何言って…」
「僕をまもってくれて、ありがとう。でも、ねえ、おねえちゃん。…泣かないで」
僕もかなしくなっちゃうよ、と言われた。
小さな手が、沙耶の手を握る。
「――笑って?おねえちゃん」
「……陽太」
「おねえちゃん、笑ってよ」
ねだるように言われて、自分が、弟が死んでから今まで、一度も笑っていなかったことを思い出した。
「ねえ、おねえちゃん!」
一生懸命言うその様が愛らしくて。
ねえねえ、とはにかんでおねだりしていたいつもの姿を思い出して。
「…こう?」
自然と、笑顔が浮かんでいた。
陽太はぱあっと表情を明るくすると、にっこりと笑った。
――そうだ、何より見たかったのは、この笑顔。
陽太が笑うと、何処であろうと明るくなったものだった。
陽太が産まれた時、皆で名前を考えた。
太陽みたいに、人に笑顔をくれる明るい子に育ちますように。
そう願いを込めて――陽太、と名付けたのだ。
「うん!…おねえちゃん、笑っててね?」
「え?」
「おとうさんとおかあさんがさびしくなくなるくらい、笑ってて」
「…陽太」
「――僕、もういかなきゃ」「よう、」
「――ばいばい!」
まるで今からどこかに出掛けてくる、といったように、元気に手を振って。
輝くような笑顔だけを残し、幼い子供の姿は掻き消えた。
――カタン、と一枚の小さな木の板が床に落ちる。
「…陽太?」
呆然とする沙耶の横で、今まで陽太がいた場所に落ちていた、墨で何かの文字が連ねられた木の板を生が拾う。
「――先生、陽太は!?陽太は何処にいったんですか!?」
沙耶は生に掴み掛かった。今まで此処にいたのに。すぐ此処に――!
「…沙耶さん」
諫めるように名を呼ばれて、優しく手が解かれた。
「陽太くんはね、死んでしまってからも、貴方のことが気掛かりで、ずっと成仏出来ずにいたんですよ」
「――え?」
「これはヒトガタという、陰陽師が使う呪具の一つを応用したものです。今回は、陽太くんたっての願いで、最後にお別れを言うために僕が力を貸して、彼はこれに乗り移っていたんです。――僅かな時間でしたが」
「…」
「知ってますか?死者を悼む涙があまりにも悲哀を含み、いつまでも絶えないと、故人は黄泉へ旅立つことが出来ないんです」
「……っ」
「『おねえちゃんはいつも泣いてばっかり』って、陽太くんが言ってました」
「…じゃあ、私のせいで、陽太は…」
「そう気に病むことじゃありませんよ。人の心は複雑なものですから」
「……」
「……僕の仕事について、お話ししましょうか」
生は、優しく沙耶にそう言った。
「僕の職業は医師ですが、そちらは専門にするものは特にありません。外科内科皮膚科、どんな症状でも扱います。…けれどそれは僕の本業ではない。主な仕事は、患者さんの傷の消毒をすることです」
「――き、ず?」
「ええ、心の傷。僕が完全に治すことは出来ません。身体の傷だって、大きい傷は跡が残るでしょう?整形すれば別ですが……心の場合はそれは歪みを来します。大きい心の傷を抱えた人の傷を消毒するのが、僕の役目」
「…消毒って…」
「傷を治すお手伝いですね。精神科とは違いますが……知人に名付けられてから気に入ったので、一応『消毒屋』と名乗っています。僕が消毒するのは、生きている人だけじゃありません。ですから、今回は貴方と陽太くんの傷を消毒させて頂きました。――沙耶さんはまだ、途中ですが」
優しく促され、椅子に座らされた。
「…ああ、貴方はここに、傷があったんですね」
取られた腕には、歪な裂傷があった。真っ赤な血をだらだらと流す、大きな傷が――弟を守れなかった、両腕に。
そこに傷があったことなど気が付いていなかった沙耶は、驚いたように目を見張る。
認知したと同時に、激しい痛みが走った。
そんな沙耶を宥めるように、生は声を掛ける。
「――はい、消毒です」
脱脂綿に浸した消毒を付けられた。
普通の傷に付ける時とは違って、それは、とても奇妙な感覚がした。
「…っ」
「染みますか?…陽太くん、嬉しそうに笑ってましたね。お姉ちゃんがこれで笑ってくれる、って」
「…陽太…」
「いい子ですね。自慢のお姉ちゃんだ、って言ってましたよ。…そうだ、慌てんぼうの陽太くんは、一つ言い忘れたみたいですけど…貴方には、『聴こえる』でしょう?」
消毒終わり、と手を離された。
大きな傷でも、余計に治るのに時間がかかってしまうので、縫うことはしないのだという。
「さあ、貴方をずっと待っている人達のもとへお帰りなさい。――呼んでますよ」
「――あ…」
「きっと、次からは陽太くんのあの笑顔を思い出してあげられると思います。…さようなら」
生と円の微笑を最後に見て、沙耶の意識は暗転した。
「――成仏したんじゃなかったのかい、陽太くん?」
空中に浮かぶ霊体に、医師は声を掛ける。
慌てんぼうの子どもの霊は笑って、またひとつ忘れてたのだと告げた。
『あのね…ありがとう』
それだけ言うと、今度こそ、空気に溶けて消えていった。死後の世界へ旅立ったのだ。
「…逝ったね」
「ええ。…先生、さっさとカルテ書いてください。私も暇じゃないんです」
「全く君は…」
生は苦笑いして、カルテにペンを走らせる。
「大体、カルテなんていらないと思うけどな…もう来ないんだし」
「この不良医者。医者なんだからカルテくらいちゃんと書きなさい。記録です、記録」
「…はいはい」
「――さん、市橋沙耶さん?聞こえますか?」
沙耶はふっと目を開いた。
ぼやける視界には、中年の医師らしき姿と、
「沙耶!沙耶…!よかった!」
「陽太だけじゃなくてお前までかと…!」
泣きながら手を握ってくる両親。
――ずっと聞こえていた泣き声は、二人のものだったのか。
「おと…さん、おかあ…」
沙耶はたくさんの医療器具につながれていた。
ああそうだ、と思い出す。
事故が起きた時、沙耶は陽太を庇った。
けれど庇い切れずに陽太は死に、その直後、頭を強打していた沙耶も意識を失ったのだ。
実に一ヵ月の間、昏睡状態だったことになるそうだ。
意識を失っている間、陽太を守れなかったことだけが心を占めていた沙耶は、自責の念に苛まれ続けていた。
それはきっと、沙耶の目覚めを妨げていたはず。
そんな姉を、弟は心配してくれたのだろう。
――あれはきっと、夢じゃない。
「…陽太」
沙耶の頬を冷たい雫が伝った。
今だけ、今だけだから。
これで泣くのは終わりにする。
だって自分は姉だ。
陽太は笑ってくれたのに、姉の自分が泣いていたら、陽太に格好悪いと思われる。
でも今は、涙が止まらないから。
――だから、泣かせて。
『おねえちゃん、だいすき』
陽太の声が、「聴こえた」気がした。
退院したら、墓参りに行こう。
あの子が好きだった向日葵を花束にして。
もう、大丈夫だよって、陽太を安心させてあげられるように――。
貴方の傷を消毒します。
完全に癒すことは出来ないけれど、ほんの少しのお手伝いに。
癒えないその傷に、貴方にとっての優しさという消毒を。
明日へと、道が続いていけるように。
誰もにその道が開かれるようにと、願いながら。
またもやHPから。
なんか兄弟ネタ続いてすみません。偶然です。