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双翼の祈り(天使、兄妹愛、シリアス)


――灼かれるようなこの痛みも、貴方が存在している証と思えば、耐えられた。



光に満ちた(そら)の果て。

純白の翼を持った神の子らが集うその地は、地上の人々に『天国』と呼ばれる場所。

そこでは、神の使者となるべく、幼体の時分から、翼もつ者達――『天使』と呼称される者達が、日々修行に勤しんでいた。


「チェル!」


鮮やかな緑萌ゆる庭園のベンチに腰掛けていた少年は、愛称を呼ばれて、さらりと金色の髪を揺らしながら振り向いた。

腰の辺りまである長い金髪に光を弾いてこちらへ走って来るのは、自分と同じ顔をした少女。


「…やあ、マリス」


チェルムは、春の木漏れ日のように柔らかな笑みを浮かべる。

兄のその微笑みを見て、マリスは顔を輝かせた。


「今日は調子が良いの?」

「うん、これ以上はないってくらいね」


それを聞いて、マリスの大きな瞳が嬉しげに輝きを増す。

全身から喜びの雰囲気を振りまいている様が微笑ましくて、くす、とチェルムは笑い声を零した。

むっと頬を膨らませ、マリスは腰に手を当てて憤慨してみせる。


「何で笑うの?せっかく体調が良いなら、一緒にお散歩しようと思ってただけなのに!」

「ごめんごめん。元気だなあ、と思って」

「…何か癇に障るなあ、その言い方」

「――ごめんって。散歩、行こう?」


困ったような笑みを浮かべた兄は、妹に手を差し伸べた。

拗ねていたマリスだったが、兄の笑顔にほだされ、意地を張るのを諦めて、その手を取った。

仲良く歩く二人の後ろから、柔らかな風が薫る。

穏やかで平凡な幸せは、ずっと、続いていくと思っていた。



金髪碧眼の幼い双子の天使のことは、天界でもよく知られていた。

一つは、双子の存在が珍しく、更にまだ幼いというのに、二人が強い聖性を秘めていたために。

愛らしい男女の双子の、兄の名はチェルム。妹の名は、マリスといった。

彼らが知られている理由のもう一つは、あまり喜ばしいことではなく――悲哀を覚えるようなこと。

彼らの住まう白亜の建物の一角は、時折騒がしくなる。部屋中を包む緊迫感がおさまるまでは、長い時間を要することが多い。

医療に携わる天使達が入れ替わり立ち替わり、一つの部屋で忙しそうに作業をする為だ。

施術を施されているのは自分の半身で、マリスはいつも、隣で手を握っていることしかできなかった。

苦しそうにもがく兄の姿をまざまざと見せつけられる。

――何度、代わってやりたいと思っただろう。

双子の内、兄は病魔に蝕まれ、方や妹は健やかに育っていく。

こうして繋いでいる手から、彼を苦しめる原因が、自分に移ればいいのにと…何度願ったことだろう。

マリスは、何も出来ない自分が、不甲斐なかった。

看病は徹夜になることも多々あり、いつの間にか眠ってしまうことがある。そんな怒濤の一夜が明けた後は、誰かの手が優しく頭を撫でる感覚で目を覚ます。

ぱっと顔をあげれば、おはよう、と穏やかに微笑む兄の姿に安堵して、いつも泣きたくなってしまうのだ。


――神様、神様。どうか、兄をお助けください…。


下級の天使は神の御前に罷り出ることが許されていなかったので、彼女は神殿の入り口で毎日祈りを捧げていた。

上級の天使になれば、神に直接進言することも出来るようになる。

兄の為に己の聖性を磨きながら、マリスは兄の病気が治りますように、と祈ることしか出来なかった。

そんな無垢なる願いを嘲笑うかのように、日に日に、兄の病状は悪化していく。


「――神様っ!」


チェルムの意識が三日戻らなかったある日、マリスは声に出して祈った。

どうして神はたった一つの願いを聞き入れてくれないのだろうと思いながら。

三日の間昏倒していた兄は、目が覚めるなり、ずっと付き添っていた自分の心配ばかりしていた。

――あんなに優しい兄を、何故、神は救ってくれないのか。

マリスは思わず、神に不信と疑問を抱いてしまった。


…その疑問こそ、闇の付け入る隙だとも知らずに。


「――カミサマには、兄貴の病気の原因を取り除けないからだ」

「…っ!?」


ぎょっと振り向いたマリスの目に、邪悪な闇が映った。


「あ…悪魔っ!?」


驚愕して、マリスは後退る。

黒い髪に紅い邪眼。

――闇よりも濃い闇を宿す、蝙蝠の羽に似た背中の皮膜。

空気が歪む程に禍々しい美しさを持つ魔性は、にたりと嗤った。


「ど、どうしてここに…」


この場に在るはずのない存在に、ひどく戸惑い……恐怖を感じた。

悪魔は、己の住処である魔界に居て、神聖な空気に満ちたこの地には侵入できないはず。

それも、相手はかなり力のある悪魔のようだ。

マリスの本能が、逃げ出せと訴える。

けれど――身体が、動かない。


「お前の兄貴を蝕むもののおかげで、俺は此処にいられるのさ」

「…え?」

「――チビ。お前達天使が必死に守護してる人間は今、天界も人間界も魔界も穢すような空気を作り続けている。それが全ての原因だ」

「そんなはず…っ」

「じゃあ何で天使が病気になんかなるんだ?神の使いなのに。何で俺が此処にいられるんだ?全て、人間が醜い争いの果てに吐き出した歪みが、世界を汚す瘴気を生んだせいだよ」

「…!」


嘘だ。

悪魔は嘘を吐くものだ。人も天使も、それに騙されてはいけない。

わかっているのに、聞いてはいけないと思うのに――何故か、耳を塞げない。


「人間界で溢れた瘴気は天界や魔界にまで押し寄せた。瘴気で此処の神気も大分薄れたから、俺のような上位の悪魔はもう結界内に入ってこられる。地上の空気さえ生身では障りが出るのに、瘴気が天界に入りこんでいたら、天使には耐えられないな」

「そ…んな…」

「地上の人間は神なんて信じちゃいない。目先の欲望にしか目がいかないんだから。――嘘だと思うか?」

「じゃあ…チェルの、病気は…っ!」

「そう。チビの兄貴は、瘴気に蝕まれてるんだよ」

「――っ!」

「カミサマに祈ったって無駄なことだ。ヒトの作った瘴気はカミサマすら穢すから、手の出し様がない」

「そんな…ことって…」


嘘だと思いたい。

けれど、それが嘘なのだとしたら――何故、神は何もしてくれない?

天使は『絶望』という感情を知らない。

彼らは、何より清らかな心で在ることが求められるから。

…その瞬間、マリスの心には闇が漂った。


「うそ…」


侵食する。

暗い影が――光を。


「…チビの兄貴、もう長くないな」

「嘘…っ!」

「ここの所容態が良くないだろう?穢れに耐性の無い天使の幼体のことだ、あと一回、発作でも来たら――消えるな」

「――っ!」


聞いてはいけない。

平気な顔で偽りを騙る悪魔の言葉など、耳にしてはいけないと…思うのに。

それが真実であれば、全てつじつまが合うのだ。

…本当に、これは嘘?

ぐらり、と幼い天使の心は揺れた。

そこへ更に、悪魔は追い討ちをかける。


「天使は、人間と違って役目を全うするまで転生出来ないから…どうなるだろうな?消滅してしまうかもな…『お兄ちゃん』は」



――決定打だった。

消える?

消えてしまう…あの、笑顔が。

あの――温もりが。

この世界の、どこからも。


「や…やだ…っ!やだあっ!!」


ぽろ、と透明な雫が少女の瞳から零れ落ちる。

どんどんと涙の量は増えていき――マリスは、泣き叫んだ。


「神様…っ!神様、助けて神様…っ!――誰か、チェルムを助けて…っ!」


半身が消え失せるなど、想像しただけで背筋が凍る。

そこには何もなく、ただ空虚な闇だけが在るだろう。

以前、チェルムと同じようにして、消えてしまった天使がいた。人の死とは違い、天使はまさにその存在が消えうせる。

嫌だ。

自分から兄を奪わないで…!


――絶望の淵に天使の雛が立った瞬間。


「…助けてやろうか?」


悪魔は、にたりと嗤って、その牙を剥いた。




ふ、とチェルムは目を覚ました。

己の内を喰い破るかのような激痛を与えてくる病魔が、今も尚息づいているのを感じる。

だが――耐えられない程ではない。これしきの痛みなど。

自分の身体の中のことなど、自分が一番よくわかっている。

もうあまり、時間が無いことも。

病気のせいか、彼の翼はとても小さかった。

通常の天使や妹の翼と比べると、半分以下の大きさしかないのだ。

これでは飛ぶことも出来ない。

――飛べない天使など、天使と言えようか。

前々から、もう、楽になりたいと何度も思っていた。

激痛に、飛べぬ屈辱に耐えながら、それでも生きていたいと執着する理由はただひとつ。

――大切な、片割れがいるからだ。

寝台に横たわったまま、チェルムは妹のことを想った。

消滅は、常に身近に在ったから、それに対しては、今ではもう麻痺しているような意識しかない。

一番重く感じるのは、妹を哀しませているという罪悪感。

小さく息を吐いたその時。

――ふと、違和感を感じた。


「…マリス――マリー?」


いつもなら傍らにいる妹の姿がない。ここにいないだけでなく、何故か、この付近から気配を感じ取れない。

何かが変だ、と眉を寄せた瞬間、嘘のように、息苦しさが消えた。


「…え?」


一時的に苦痛が落ち着いたというのではなく、病魔そのものがなくなったかのような、解放感を感じる。

驚く彼の背中には――大きく立派な、純白の翼が顕在していたのだった。




『助けてやろうか?』


たとえ相手が悪魔であろうと、その言葉が、ただひとつの救いだった。


「…助けて」


白き者を闇に染め上げた時ほど、愉悦を覚えることはない、と悪魔は思う。

極上の聖性を湛える碧眼に暗い翳りを落とし、助けを乞うあどけない天使のその絶望の表情こそが、彼の糧となる。


「兄の痛みを引き受ける覚悟は?」

「…ある」

「では――堕ちる覚悟は?」


堕天――。

マリスは僅かに目を見開いたが、すぐに、決意を秘めた瞳で頷いた。

悪魔は愉快そうに目を細める。


「では、対価として…その瞳をひとつ、頂くが?」

「――瞳?」

「ああ。それほど見事な聖性に満ちた瞳は珍しい。まして碧玉ならば、この上ない装飾になるからな」

「……あげる。チェルを助けてくれるなら――両方あげたっていい」


マリスのその言葉に、悪魔は、くっと哂う。

悪魔の言動はより乱雑になり、残酷な本性が垣間見えていた。

それに気付かぬ位、必死な天使の雛。

いっそ喰らってやろうかと思う程、マリスの姿は嗜虐心を煽った。


「見上げた兄妹愛だ。…だが俺は優しいから、一つは残してやろう」


マリスは、何の感慨も無く、ただ首を縦に振る。


「――契約、成立」

「――っ!!」


悪魔がそう囁いて嘲笑った時、少女の身体を――激痛が貫いた。


「かはっ…!!」

「兄の痛みを――瘴気をお前が引き受ける。その身は闇に堕ち、左の眼は光を喪う」


身体の内側から、何かが己を食い破ろうとしているのではないかと思う程の痛みがした。


「あ…あぐっ…っ!」

「代わりに、兄には健やかな身体を」


闇が蠢いた。

背中の真白き翼が、根元から黒く染められていく。

身体の中を何かが這いずり回っているかのような不快感、底知れぬ恐怖、気が遠くなる程の苦痛――。

……これに、兄は耐えていたのだ。

どれ程痛かったろう、苦しかったろう。いつだって、そんなことを悟らせないように、彼は優しく笑っていた。

そう考えただけで、身体だけでなく、心までもが痛みを訴える。


「うぁ…ぁああっ!!」

「…漆黒に染まって尚、美しい翼、か…」


ぼそりと皮肉げに悪魔が呟いた。

それを知覚出来る程の余裕は、責め苛む痛みに支配されたマリスにはなかった。

――彼女の背中の翼は、鮮やかな漆黒に染め抜かれていた。


「直に、その痛みも薄れるさ。天使とは違って、悪魔は瘴気に慣れることが出来るから、それ程苦痛じゃなくなる」


悪魔は笑った。


「さあ、その眼を貰おう」


灼熱の焔に巻かれているような痛みがした。

右眼に感じる喪失感、激痛――。

後のことは、よく覚えていない。



チェルムは、病魔の消えた身体に戸惑いながら、天界のあちこちを彷徨っていた。

妹が――マリスが行方知れずになってから、二日が経つ。

彼は、自分に起きた出来事に、奇跡だと皆が驚嘆するのがおかしいと思っていた。

きっと…奇跡なんかじゃない。

妹が姿を消したのと同時期に、自分が健康になったなど…偶然がすぎる。

何か、あったに違いない。

胸の辺りに奇妙な焦燥感が渦巻いている。

嫌な予感が、いつまでも消えない――。

探して、探して。

あらゆる所を回ったのに、妹は見つからない。

一体何処に行ったんだ、と一度自宅へ戻ったその晩。


「…マリス?」


ふと誰かの気配を感じて、目を覚ました。


「…チェルム」


少し離れた場所に立っているのは間違いなく、マリスだった。

外套のようなもので頭から全身を覆い隠しており、かろうじて、碧い左目と金色の前髪だけが見える。


「マリー!!何処に行って…」

「――チェル。お別れを…言いにきたの」


静かに囁かれた言葉に、耳を疑う。


「…え?」

「あのね…それで、お願いがあって」


マリスは外套の隙間から腕を出した。

その左手首と右腕上腕には、薄紅色の、特殊な布製の輪が填められている。

地上の人間には、リストバンドと呼ばれるらしいそれは、いつだったか、地上の任務より戻った上司から貰ったものだった。

マリスは薄紅色、チェルムは銀色と、二人で色違いのお揃いなのだ。

マリスもチェルムも、毎日身に付けている。


「これ…交換、してくれない?」

「…?」

「片方、私のとチェルのを、交換して欲しいんだ」


唐突な言葉に、戸惑いを隠せない。

いつもなら、特に理由を訊かずとも、笑って快諾していただろう。

けれど今は、自分が知らない所で何が起こったのかさっぱりわからず、嫌な予感が彼を苛んでいた。


「…何で、いきなりそんなことを?」

「……」

「…今まで、何処に居たの」

「………」

「答えなよ!」


黙ったままのマリスに、チェルムは珍しく怒った。

温厚な彼が怒りを露にすることは珍しく、声を荒げるのも稀だった。

しかし今は、正体のわからぬ恐怖と不安に満ちているためか、常よりも気性が激しくなっていたのだ。


「――チェルム。私ね、天使失格なんだ」

「…は…?」


またもや突然の言葉に、呆気に取られる。


「神様に仕える資格もないの。だって――」


マリスは悲しそうに微笑んだ。


「チェルの病気が人間のせいだって知った時、人間なんか滅びればいいと思ったの」

「……!」

「今でもね、赦せないし、憎んでる。――人々の幸福と安寧を願い、見守るのが私達の使命なのに、ね」

「…マリス…」

「だから、私はもう、天使じゃない。気付いてると思うけど…」


ゆっくりと、マリスは纏っていた外套を脱いだ。

罪を覆い隠すかのような暗い色の布の下から現れたのは、予想もしていなかったものだった。


「…マリー…!」


目を、見張る。

いつも見ていた背中の純白は、闇のように漆黒に染まっていたから。

そして何故か、片目は黒い眼帯に覆われていた。



「私は、天使じゃなくなっちゃった。それならこの翼は、チェルにあげようと思ったの」

「ば、」

「チェルの病気を治して、立派な翼をチェルにあげるって言ってくれたひとがいたから、頼んだの」

「――それで、その目が…!?」


チェルムは聡明だった為に、そこまでくればすぐにわかった。

妹が――何と、契約を交わしたのか。

何を、引き替えにしたのか。


「どうして…どうして悪魔なんかと!!」

「…チェル」

「僕のため!?それなら、こんな翼はいらなかった!病気が治らなくたってよかった!僕は――」

「チェルムのためなんかじゃない!!」

「――な、」

「私のため!全部全部、私自身のためだもの!」


マリスは脱いだ外套を、再び被った。

兄の目に、罪を映すまいと。


「チェルムがこのままだと、消滅しちゃうことなんてわかってた!ずっと、奇跡が起こるかもしれないって、祈ってた!」

「…マリー」

「でも!…もう時間が無かった。私は、神様を信じられなかった――そして、天使である資格を失った」

「そんなことない!」

「ううん、自分でよくわかってるの。…私はね、チェル」


ひたと兄を見据えた片方だけの翡翠の瞳は、とてもとても、美しかった。


「――チェルがいなくなることが、嫌だった。例え神様の御元にチェルが還るだけだとしても…神様にだって、チェルを取られたくなかったの。…私欲に、走ったんだよ」


だからもう、自分は本当に、天使ではなかったのだ、とマリスは呟いた。


「此処にはいられなかった。だからこそ、堕ちたの」

「…そんな…」

「見つかったら大変だから、もう行かなくちゃならない。…その前に、どうしてもチェルムに会っていきたかった」


ごめんね、とマリスは言った。



「…マリスが謝る理由なんて、ないよ」


自分がもっと強ければ、病気になどならなければ、マリスを悲しませることがなければ――こんなことには、ならなかった。


「…神様に懺悔をすれば、もしかしたら、翼を返してくださるかもしれない――でも、嫌なんだね?」

「…うん」

「…行くんだ?」

「……うん」

「……そう」


チェルムは、俯いた。

自分に、妹を止める力は無い。

何故、こんなにも無力なのだろう――。


「…交換、しよう」

「え?」


チェルムは、左手首から銀の輪を引き抜いた。

掌に乗せて、マリスへと差し出す。


「ほら。マリーも」

「あ、うん…」


マリスも、薄紅色の輪を取った。

それをチェルムに渡しながら、彼のリストバンドを受け取る。

手首に填めた瞬間――チェルムは、マリスの左手を握った。


「…チェル?」

「――いついかなる時も、君が無事でありますように」


それは、祈り。


「…どうか、幸せでありますように」


それは、願い。


「どんなに離れていても、心は側に在るから――」


…それは、誓い。


「いつか…いつかきっと、また逢えるのを、待ってる」


きっと、どれ程離れようと、どれ程時間が経とうとも、二人の仲は変わらない。

目に見える形として、これが僕らを繋いでくれる。

ずっと、待っているから――。


「――っ」


ぽろ、と一つになった翡翠の眼から、涙が零れ落ちた。

悲しませて、ごめんなさい。

勝手な真似をして、置いていって、ごめんなさい。

自分を責めさせて、ごめんなさい――。

言いたいことは、謝りたいことは、たくさんあったけれど。


「チェル…!」


どちらからともなく、抱き締め合った。

これが最後の抱擁になると、どちらもわかっていたから。

悪魔と天使は、触れ合うことは出来ないと聞いていた。

ならばきっと、この時の温もりは、奇跡だったのだ――。


「ありがとう…ありがとう、チェル」

「…うん」

「…大好き」

「うん、僕も」

「双子の片割れが…チェルで、よかった」

「……僕も…マリスでよかったと思ってるよ」


行きたくない、と思った。

離れたくない――そう思わないはずがない。

けれど、行かなければならないから。

言い残すことが無いようにしなければ。


「…マリスは知ってた?このリストバンドの裏。僕達にとっては、物凄く正しいことが刻まれているんだよ」

「え…?し、知らない」

「そっか。じゃあ…向こうに行ってから、見てみて。ここでは駄目だよ」

「…どうして?」

「だって、せっかく泣き止んできたのに…また泣いちゃいそうだから」


そう言われて、涙が止まっていたことに気付いた。

意味深な台詞に気を取られて、顔一杯に疑問符を浮かべたのを見て取ったチェルムは、苦笑した。


「あとで。…今は、笑っていてほしいんだ」

「……うん」


そうだね。笑顔がみたい。

大切な人にはいつだって、笑顔でいてほしい。

だからきっとチェルムは、いつも笑顔なんだ――。

双子だから、わかる。

本当は彼が、とても苦しくて悲しい思いをしていること。

それでも泣かないのは…笑顔でいるのは、私を悲しませない為だと。

それがチェルムの強さで、兄らしさを感じさせる所。

私が、一番好きな所。


「…さよならは、言わないよ」


チェルムはそう言って、笑った。

マリスの大好きな笑顔で。


「――行ってらっしゃい。…またね」


また泣きそうになったけれど、必死で堪えた。

そして、兄の為に、笑顔を作る。

不自然にならないようにと浮かべた笑顔で、言った。


「行ってきます――また、ね」


身体が、手が、離れる。

魂を引き裂かれるような思いがした。

今は黒く染まった翼を広げて、窓から出る。

最後に交わした笑顔は、二人の記憶に強く強く残った。



姿が見えなくなった後も、チェルムはずっと、窓辺から、妹が行ってしまった方角を見つめていた。


「…マリー…」


きっと、もう二度と、顔を向き合わせて彼女の名を呼べる日は来ない。

…本当は、平静でなんていられなかった。

生まれた時からずっと傍に居た片割れを失ったというのに、平気なはずがない。

けれど彼女は、きっと泣き顔なんて、見たくないだろうと思ったから――。


「…もう、いい、かな…?」


もう、泣いてもいいですか。


誰にともなく問い掛けた後、チェルムは嗚咽を漏らした。

我慢していた分、止めどなく溢れた涙は、暫くの間、留まることが無かった。







…触れていた温もりは、此処には無い。

天界を出て、地上に降りながら、マリスは己の手を見つめていた。

消えた温かさが、既に恋しかったから。

ふと、リストバンドについて思い出して、チェルムからもらった銀の輪を裏返す。

その途端、目に飛び込んできた文字に、マリスは、チェルムの言葉通り涙を浮かべた。


Vinculm(ウィンクルム)


その意味は――『絆』――。


『どれ程離れても、僕らは繋がっているから』


…この布が、私たちを繋いでいる。


心を入れ替えるように、手首の銀色に口付けを一つ落とすと、長い髪を二つに結わえた。

己を自戒するかの如く、髪を結ぶリボンは緋色。

これから彼女は、『堕ちた天使』として生きていくのだ。

――翡翠の瞳は、驚く程澄んでいた。

闇に堕ちたというのに、その眼は輝きを喪わない。

それはとても、神聖なものを宿していた。


…すぐに頭を切り替えられる程、器用じゃない。

だから…今だけは、純粋に、兄を、天界を想っていてもいいだろう。

もう、手を伸ばしても、届かない所に在るのだから…。


何処に居ても。

何をしていても。

きっと――二人の願いは同じ。

黒と白の双つの翼が、祈ることはただひとつ。


どうか、君が――幸せでありますように。


空の彼方と地の果てで、彼らはお互いを想う。

かけがえなき、対の存在を。

何者も、彼らの絆を裂くことは出来ない。

それが、双翼の一番の誇りだった。


叶わないかもしれないけれど。

いつかまた――巡り合うその日まで。

片割れの無事を願おう。

他には何も、望まない。



リストバンド云々は事情があるのですがお気になさらず。昔頂いたイラストから作った話だったので、それに合わせる為にああなりました。

天使の男女の双子のお話でした。ここに載せてもいいのかなと思ったんですけどまあいいか、と。この話があるので残酷表現の項目を追加しました。

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