小姫君と従者の生活(現代not恋愛)
――世界は、ひどく醜いもので出来ているのだと思っていた。
小さな手が、それを否定するまでは。
両親は馬鹿な人間だった。
連帯保証人なんかになって人を信用したために、とんずらした他人の負債を被り、家族全員を貧困に追いやった。
その上、それを返済する前に事故で死んでしまった。
残されたのは、長女と長男……姉と俺の二人。
それに、親の保険金で返しきれなかった、赤の他人の多額の借金。
たかたが高卒の女が一人と中卒の男一人に、出来ることなんて――限られていた。
だから、俺達は夜の世界に入った。
姉弟で頑張って働いたために、借金はなんとか返済することができた。
姉は数年前、夜から抜け出し、結婚までした。
――けれど俺は、未だ夜の仕事から足を洗っていない。
そろそろどうするか、身の振り方を考えなくてはいけないのに……二十六歳という年齢に達しながら、俺は何も将来について決めていなかった。
最近は、姉とも連絡を取っていない。
「――じゃあ、美味しいカクテルを作りますよ。どうぞ、上がって下さい」
レディーファーストは勿論鉄則。
俺は店が用意した部屋に住んでいる。
貢ぎ物で貰うこともあったが、ややこしいことになりそうなので、毎回断っていた。
普段は寝床にしている此処にも、あまり客は入らせない。
だが今回は相手がしつこく、お得意様でもあったので無下にはできず、同伴で連れてこさせられたが……早々にお引き取り願うつもりだった。
しつこい女は嫌いだし、客を喰うような気分でも年でもないからだ。
――幸か不幸か、酒を飲ませる前に、追い出す口実が出来るとは思わずに。
いきなり、女が悲鳴をあげた。
何事かと玄関を覗いて、
「…は?」
俺は思いっきり素の顔で呟いていた。
おそらく、間抜け面をさらしていたと思う。
そこには、四つか五つくらいのちまいガキ――もとい、女の子供がいて、きょとんと瞬きを繰り返していたのだ。
取り敢えず客の女を丸め込んで丁重にお帰り願った。
タクシーを捕まえて女を追いやると、部屋に戻る。
玄関のドアを閉じたら、再び子供と目があった。
ふわふわの茶色い髪、光の加減で色彩が微妙に青にも黒にも変化して見える瞳。
十年もすれば、だれもが振り向く美少女になるだろうというその容貌。
……何というか。
恐ろしいまでに自分の小さい頃にそっくりな子供を前にして、力が抜けた。
――先程の客にも間違えられたので言っておくが、断じて俺の子ではない。そんなへまはしていないし、心当たりも……そんなにない。
いや、それ以前に、相手の正体を俺は知っていた。
前に会ったのは一度だけで、ずいぶん前のことなのだが――。
「…榎麻…?」
その子供の名前だと思われるものを記憶の片隅から引っ張りだして、口にした。
すると、愛らしい顔がぱあっと輝く。
「…りや?」
相手の身元が当たっていたことにほっとして、思わず頷こうとしたが……おい、ちょっと待て。
俺は屈んで、子供――榎麻と視線を合わせた。
「え・ま・ちゃん?何で俺を名前で呼び捨てにしてるのかなー?」
こんなちびに呼び捨てにされる理由はないぞ、おい。
榎麻は唇を尖らせた。
……いやまあ、可愛い仕草ではあったが、ほだされてはいかん、うん。
「…だって、ままがそうよびなさいって…」
――あのくそ女。
榎麻の母親――由香子を思いっきり脳内でなじりつつ、俺は榎麻に問い掛ける。
「…俺のことはお兄ちゃんって呼ぼうね?で、榎麻。そのママはどうしたのかなー?」
引き攣りかける頬をそこはプロ根性で正し、にこやかに笑いながら尋ねると、幼い少女は一通の手紙を差し出した。
味気のない普通の白い封筒を受け取って、中に目を通す。
そこには――、
『拝啓、理哉。
元気?あんた最近顔も見せないで…って前置きはどーでもいいのよ』
おい、どうでもいいのか。
なら書くなよ。
『で、本題なんだけど、うち二人目が産まれるのよ。旦那の親もいないし、あたし一人でもやれることはやれるんだけど、旦那も榎麻も心配しててね』
あーそうかい。そりゃおめでとさん。
……何で俺が関係あるんだ。
『そこで思い出したのがあんたよ。どうせ暇でしょ?』
暇じゃねえ。思いっきり暇じゃねえ!!
『ホストやってて暇じゃないとか言うんなら、しばき倒すわよ。いい機会だから、これを機に足洗うのね。あんた一応大検取って大学もイイトコ出てんだから、探せば仕事はいくらでもあるでしょ』
知るか!
『…と、言うわけで、榎麻を一ヵ月よろしくね』
……何が「と、言うわけで」だ何がっ。
『寂しいけど、あんたんとこに行きたがったのは榎麻だし。その子しっかりしてるから、逆に世話してくれるんじゃない?あーおかしい。想像するだけで笑えるわ』
ならアホな想像すんな。
『んじゃ、よろしく』
よろしくじゃねえ。
『追伸
榎麻にはあんたを名前で呼ぶように言い聞かせたから、変えさせようとしても無駄よ。じゃーね。
麗しのお姉さまより』
……誰がお姉さまだあのドグサレが!
思わずぐしゃりと手紙を握り潰していた。
続けて悪口雑言を口にしようとしたが、
「…りや…?」
小さな声に振り向くと、大きな目がじーっと見ていた。
「えま、きちゃだめだった?」
うっ……。
いかん、目を合わせるな。
ガキは意外と確信犯なんだ、自分の可愛さをわかってて利用してるんだ。
大体俺はガキが嫌いだし苦手だし、暇でもない!
だからきっぱり断るん、
「…りーや…?」
昔よく聞いたその呼び方に――幼い頃、母と姉が呼んでいた名前に――つい目を合わせてしまって。
心なしか潤んでいるような目を見た瞬間……降参してしまった。
「…いや、駄目じゃない」
ほとんど反射的にそう口にすると、目に見えて榎麻の雰囲気が明るくなった。
にこっと全開の笑みが見せられる。
「えへ、りーやっ」
きゅう、と小さな身体が片足に抱きついてきて、思わず可愛いと思ってしまった俺は、自分に嘆息した。
……こうして、俺、逢坂理哉は、姉の由香子の娘――つまり俺の姪っ子である榎麻を一ヵ月という短いようで長い期間預かることになったのだった……。
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どうやって部屋の中に入ったのか、と聞くと、きょとんとした榎麻は、鍵で開けて入ったと言った。
……ああそーか。そういや何年か前に、合鍵は姉貴に渡してたんだった。
何となくの行動だったのだが……今では後悔。
――引っ越し時かな、俺。
榎麻はいくつだったかと考えて、気付いた。
……今、夜中の一時じゃねーか。
大人でも寝る時間なのに、ガキが起きてちゃまずいだろ。
「…榎麻、いくつになったんだっけ?」
「みっつだよ。もうすぐよっつ!」
「…へえ」
寝なさい、と言ったはいいものの。
――他にベッドとかねーんだよここ……。
なるほどたしかに榎麻は出来た子だ。
着替えやら歯ブラシやらは自分で考えて持参したらしいし、パジャマのボタン掛けもちゃんと出来る――このくらいの年の子供ってたしかそういう細かい作業が苦手だったような――上、お礼や謝罪もきちんとする。
……誰に似たんだ?間違いなく姉貴じゃねーな。
で、だ。
仕方なしに俺のキングサイズのベッドは広々としているから半分を榎麻に譲ったのだが。
「…おーい」
何時の間にやら俺の腕の中に擦り寄ってきている榎麻に呼び掛けるが、返事はない。
寝息からして、熟睡しているようだ。
「…子犬じゃあるまいし」
呟いて、それがあまりに的を得ていることに気付いた。
ベッドに入るまでははしゃいでいるようだったのに、枕に頭を付けた瞬間、榎麻は寝入ってしまったし。いや、時間が時間なだけに仕方ないが。
……子犬って団子みたいに丸まって固まって寝るよな。
何気なくそのわんころの頭をくしゃりと撫でてやると、寝顔が嬉しそうに綻んだ。
……やべー、可愛いかも。
今までガキを可愛いと思ったことなんてなかったんだが……。
「…寝よ」
深く考えないでおこうと、目を閉じた。
「…や、りーや、おきて」
ぺちぺち、と頬を何かが叩く――というより触れるに近かった――感覚と呼ぶ声に、ふっと目を覚ました。昔の自分によく似た、しかしより女の子らしい小さな顔がドアップで映って、数秒固まった。
「りーや、おきたっ」
にこぉっと笑うのは……ああそうだ、姪っ子の榎麻だ。
そうそう、昨日預かることになったん…だ……。
「りや、ねちゃ、めっ」
ぺちぺちと再び頬が叩かれる。
……うるせーなあ。
ちらりと片目を開けて時計を確認。
……げ、まだ朝の七時じゃねーか。俺の出勤は夜の八時なんだから、まだ寝てていいんだよ。
俺はごろりと寝返りを打ち、榎麻に背を向けた。
「りーやーっ」
ぺちぺちぺちぺち。
反対側に回り、尚もちびっこは頬を叩きまくるが、痛くもなんともない。
無視無視。
ほっときゃ諦めるだろ。
「りーやぁ?」
ちょっとむすくれたような声がして、諦めるかな、と半分夢の世界に旅立っていると。
「…えいっ」
……ちょ、なんかもぞもぞする…ってえ!
「あははははははは!」
「おーきーてーっ」
こしょこしょこしょこしょ!
「くっすぐって…やめ、や…はははっ!」
「おきて、りや!」
脇腹をくすぐられて、身悶えした。
やめっ…俺そこ弱いんだよ……!
「っはははっ…っこのっ!」
「わあ!」
散々俺をいじってくれた小悪魔を押さえこんだ。すると、榎麻は目をぱちくりさせている。
……まったく、俺の睡眠時間を削りやがってこのちびは。
「えーまー?よくもくすぐってくれたなあ?」
「…りやがおきないからだもん!」
お、口答えした。
見かけによらず意志は強いらしい。
……まあ、あの姉の子だから当たり前か。
「ふーん、そっか、じゃあ…俺もくすぐってやる!」
榎麻の脇っ腹と足の裏をくすぐる。
と、ちび娘は笑いながら暴れた。
「きゃははははっ!くすぐったい、きゃははははは!!」
……何か、喜んでないか?そういやガキはくすぐられるのが好きだった。
「…やれやれ」
一通り復讐をすると、すっかり目が覚めてしまったので、ベッドから降りる。
着替えるか…って。
おい、わんこ。何じっと見てんだよ……。
「りや、まだあ?」
「…今行く」
寝室から追い出すと、榎麻は廊下で待っていたらしく、のろのろ着替えをする俺に痺れを切らして呼んできた。
ため息をつきながらドアを開けると、廊下の壁に寄り掛かっていた榎麻が身を起こした。
「りや!ごはん!」
…ああそーだよ、飯食わせなきゃいけねーんだった。
ったくガキはめんどくせ、
「…オイ」
キッチンに足を踏み入れた俺は、顔を引きつらせた。
皿の上に置かれた二枚ずつのトースト、並べられたバターとジャム。
コーヒーの香り漂うそこに、俺は呆然とした。
「――もしかして、お前がやったのか…?」
尋ねると、榎麻はかなりの身長差のせいかほとんど真上に顔を向けて俺を見て、笑った。
「うんっ。ひはつかっちゃだめっていわれてるからつかってないけど、とーすとといんすたんとこーひーはままにもつくってあげてるの。ままが、りやはあさこーひーのまないといけないから、つくってあげなさいって」
……あの女は幼い娘に何を仕込んでんだ、何を!
今頃は高笑いしているであろう姉の教育方針に呆れつつ、榎麻に、苦労してんなお前も、と髪をくしゃくしゃにしてやると、一瞬ぽけっとしたが榎麻は、すぐに破顔した。
「…りーや、ごはんたべよっ」
「…ああ」
トースターとポットがあったから榎麻にも作れたらしいそれらを口にすると、少し冷めているものの、味はまずまずだった。
……俺が湯をいつも沸かしてる人間でよかった…。
自分でやかんでも使って沸かしかねない、このちび……。
ひやりとした俺は、末恐ろしい姪の将来を案じつつ、適当にスクランブルエッグでも作って――何故かちょこまかと動きちびも手伝った――榎麻に食べさせ、朝食を終えた。
軽くぼさぼさになっている榎麻の髪に気付いて、仕方ないと櫛で解いてやりながら――ホストの性分か?綺麗な髪なんだからもったいなくてつい――聞いた。
「そうだ榎麻。お前、保育園だか幼稚園だかに行ってるんじゃないのか?」
素朴な疑問だった。
「ままが、おやすみしなさいって」
…おいおい。一月もかよ。
「…お前は行かなくて平気なのか?」
「ちょっとさみしいけど、りやといるほうがいい!」
……一日も経ってないくせに、何言ってんだかこのお子様は。
嘆息しつつも、もう榎麻を迷惑だとそこまで思っていないことに気付いて驚いた。
榎麻を見ると、満面の笑顔をくれる。
……ガキなんか、嫌いだったんだけどな…。
――ちなみに、榎麻はほとんど我儘を言わない。
姉貴、あんたは反面教師か……?
それから暫く、幼い少女と青年の生活は続くのだった。
これもHPより。
叔父と姪のほのぼのが書きたくて。
将来的にすごい過保護になればいいと思う。