福音の鍵<中>
幼い頃、ほんの数日だが、自分は「神隠し」とやらにあったことがあるらしい。
その時の記憶はほとんどないのだが、そういえばやたらと綺麗な女の人に会ったような覚えがあるような、ないような……。
時折夢に見るのは、緑に乏しいこの都会ではほぼ見られない、自然なままの山の木々――その一枚一枚の葉は、いつか博物館で見た珍しい蝶の羽のように美しく、透き通るような緑色をしていた。
あんな木は、地球ではまずない。夢の中のこととわかっていても、想像力がそんなに豊かでないはずの自分の夢に登場するにしてはやけに奇妙だと思っていた。
それが、実際に目にしていたとなれば、夢に見ていても不思議ではない。
生まれてすぐに両親が事故でなくなり、身寄りのなくなった自分は、ある家に引き取られ、そこで男として育てられた。血縁の家ではあったのだが、女だとばれたら無理やりに見も知らぬ人間と結婚させられる可能性があったからだという。自分の血族は、血の繋がりを重視する割に、女の少ない一族で、女児が生まれたとなればすぐさま誰かと婚約させられるらしい。
その閉鎖的な環境を疎み、飛びだしたのが自分の両親。それを助けてくれたのが、育ててくれた人たちだった。
幸い、容姿も中性的だったため、何の疑いもなく男だと思われていたので、男なら用がないと、血族の者達の関心も薄くてすんだ。
そんな中、十八の誕生日を迎える前になって、育ての親も亡くなってしまった。
もう、守ってくれる人はいない。今まで男として育てられてきた分、どうやってこれから生きていけばいいのだろうか――自分は戸籍すら、男として届けられている。
幸いなことに残された屋敷と少しばかりの遺産があったから、思考に耽ることはできた。
そんな時だ。十八の誕生日を迎えた夜中、夢の中で、ふと思い出したことがある。
幼い頃に会った、とてもとても綺麗な女の人――今思い返せば、十代の中頃程の線の細いあの美貌の主が、にこやかに微笑んで、教えてくれたことがある。
額に降った、柔らかで仄かな熱。そこに、『印』を刻んだと。
会いたくなったら、いつでも呼ぶようにと――。
眼裏に、何故忘れていられたのか不思議な程に存在感の強い美しい人を思い描く。
「……我は、誓いの鍵を持つ者」
忘れては駄目だよ、と、何度も何度も、紡がれた言葉。
すっかり忘れていたことに罪悪感を覚えつつ、自然と口がそれを唱えた。
「至高の輝きを誇る太陽の眷属たる暁の空に繋がりし者」
……そういえば、何故だかこの部分を口にしていた時、序盤をやけに苦々しそうに口にしていたような。
気分が高揚する。どこか、熱に浮かされたように、ふわふわと頼りない感覚がした。
空が白み始めた頃、自室の寝台の上で、己の額に浮き出た鍵のような不可思議な形をした紋様のことなど知りもせずに、記憶を辿ってぽつぽつと呪文を紡ぐ。それが何なのか、知らぬまま。
「古の契約の下、我が身と我が魂を、半身の元へ――扉よ、開け」
暁の空を目にした瞬間に、世界は激しく揺らいだ。
そしてまた、次の瞬間――ひどくあたたかな腕に、抱かれていた。
「……やっと、来てくれたのか」
嬉しそうなその声音は、やや低いけれども、どこか神聖な響きを持つ音色。
見上げた先に、あの空と同じ薄紅と黄色を混ぜたような、美しい暁の双眸が在った。
すみません前中後篇になりました。