第五話
始まりは、そんな思いつきからだった。
皆にあまり馴染みのない、片眼鏡で何かできないか。
眼鏡と言えば、みるもの。それなら、未来を視るものにしようか。
未来を視ると言えば、水晶占いの水晶球。それをレンズの材料にしよう。霊力のレベルがある程度高い者であれば、これで未来予知ができるだろう。
だが簡単に知りたい時期の未来の予知ができるものではなく気分屋のように仕立てる。
真新しい水晶球ではなく長らく使われて年季の入った水晶球であれば、何かしらの精霊が宿って付喪神となっているだろう。それをレンズの材料にすれば、二重に面白いことになるかもしれない。
――と。連想や空想をただ並べていても仕方がない。とりあえずやってみよう。
「“それ”は、夢と呼ぶにはあまりにリアルな、Marchの言葉が直接頭の中に入ってくるのと同じような、誰かしらの“思念”だった」
と弥生は言っていた。
「たぶん、“Marchを作った人の残留思念”だと思う」
と。中性的な“声”で、男性か女性かは聴き分けられなかったそうだ。
端から見れば間の抜けたことにMarchをかけたまま寝入ってしまったがゆえに、そんな夢を見たのだろう。
基本的に古瀬弥生という人間は人と比べて、ずば抜けて感受性の強い人間だと思う。私のこのモノローグ(心の声)を普通に声として受け取り、Marchの言葉を、思念として直接頭の中で受け取る。先の夢の件についてもそうだ。目には見えないものを視て、声無きものの“声”を受け取る。そういうことができてしまう。
特に感受性が強いわけではない私がMarchの言葉を声として受け取れるのはきっと、そんな彼の傍にいることによって感化されているからなのではないだろうか。というか、それ以外に説明がつかない。
それに加えて、Marchの水晶製のレンズを通してそこに映した人の少し未来を視ることができるくらいの、霊的な力を持ち合わせている。改めて考えると実に特異な人物だ。
ついでに、今まで説明を後回しにしてきたが、古瀬家はかなりの資産家で、特に土地や不動産などの実物資産を多く保有していて、アパートや賃貸、駐車場などからの収入がある。両親が亡くなっているので、それらは弥生の収益になる。弥生自身が働かなくても生きていくのに困らない理由はここにある。ちなみに我が新嶋家も同じく資産家ではあるが、どちらかというと実物資産よりも金融資産の方が多く、どちらも古瀬家ほどではない。
今さらだとわかってはいるが、ここでどうしても一つ訂正しておきたい。
車にひかれたと言ってもヒヨコさんの場合、車と衝突こそしても、車の下敷きにはならずに済んだ。その上、偶然にも衝突の瞬間にかわそうとして後ろに跳んだことで、撥ねられたダメージはまともに撥ねられるよりも少なからず減少している。厳密に言えば、ひき逃げではなくはね逃げと言った方が妥当かもしれない。もちろんそんな言葉はないけれど。いずれにしても人身事故であることには変わりがなく、もしも車の下敷きになっていたとしたら、また、まともに撥ねられていたとしたら、いくら看護学校の学生たちがその場に居合わせたとしても彼女を救う手立てはなかったかもしれない。それもまた、不幸中の幸いだったと言えるだろう。
またその事故が、看護学生たちの活躍ともに全国区のニュースになったことで、ヒヨコさんの本名や年齢が明らかにされ(身バレし)たが。私たちはあくまでも彼女のことはヒヨコさんやヒヨコ殿と呼ぼうと三者で決めた。
その事は弥生を通して、ヒヨコさん当人にも伝わっている。一度『foresee the future a little』でのルール違反をして以来、“毒を食らわば皿まで”ということでもないだろうがいつの間にか、二人はお互いのLINEのIDを交換し合っていて。今ではメールよりもLINEの方で、なにかと連絡を取り合っているらしかった。
私も、そしてMarchも、その事についてとやかく言うつもりはない。むしろ、弥生に新しい友人ができて良かったというように思って歓迎している。その弥生によると、ヒヨコさんの経過は順調で、予定より早く退院できそうだという。
今日のティーポットには、レモンバームティーが淹れてある。名前からも分かるようにレモンに似た爽やかでスッキリした香りが特徴のハーブティーだ。日暮れとほぼ同時に、セット一式を持って、弥生の仕事部屋。そのドアの前に立って、ノックする。
「はーい」
「三月です。入りますよ」
「おう」
お馴染みの、実際の広さよりも広く感じる八畳一間。ティーセット一式をサイドテーブルに置いて、ポットからカップに注ぎ、ソーサーごとデスクに置いてから、ノートPCのディスプレイを覗き込むようにしながら声を掛ける。
「今日の首尾はいかがですか」
弥生はカップを手に取り、香りを確かめてからひと口。
「うん。――今のところは不一致が続いているが、何となく、今日は以前より早く一致案件が出てきそうな予感がしている」
「休憩前に出てくることがないのは変わらないのですね」
思わず苦笑いしてしまう。
「それはご愛敬だ」
と言いつつも、
「正直、たまには、一件目で見事一致! という日があっても良いのにとは思うがな」
と言ってこちらも苦笑する。そしてふた口目。レモンバームは当たりだったらしい。心の中で小さくガッツポーズをする私。だんだんと、弥生の好みが解ってきた。
「半年以上先をみて欲しい、というのはまだいますか?」
《ちらほらいるようだが、増えてはいないようだぞ》
頷くだけの弥生に代わり、Marchが答えてくれた。
「ということは、悪質性はないのでしょうか」
「んー、このちらほらいる奴らが悪質なのかも知れないしなんとも言えないな」
カップを片手に、空いた手でマウスを操作する弥生。
「休憩中くらい手を止めたらいいのに。キーボードに香茶をこぼして知りませんよ?」
「大丈夫だよ――っと。よっしゃ、予感的中。一致した」
「ほんとですか?」
弥生は一覧の中からとある男性の顔写真をクリックして、彼の事前アンケートの詳細を開く。私は半信半疑でそれを声に出して読み上げていく。
「えーっと? 『千葉県』にお住いの『東の岬のコーヒー屋さん』さん。『四十代』の『男性』。失礼ながら、もっと年上に見えるくらい、いかついお顔とご立派なお髭をお持ちの方ですね。予知でみて欲しいのは『三か月後』。『現在、結婚二十四年目の妻と、銀婚式を目前にして関係がこじれて冷戦状態にあります。あと三か月で娘が二十歳を迎え、家を出て独り暮らしを始めるのですが、妻からはそれと同じタイミングで「私もこの家から出ていきます」と予告されています。弥生さんには、それが本当にそうなるのかをぜひみてもらいたいのです。よろしくお願いします』ですか。突っ込んじゃいけないのかもしれませんが、関係がこじれた原因が気になるところですね。――それで、ヒットしたということは、この依頼と同じ時期の予知ができたんですか?」
「ああ。禾楓さんの未来予知をした時と同じように、リビングに貼ってあるカレンダーがちょうど今から三か月後になってたからまず間違いない」
「なるほどです。カレンダー様さまですね。連絡先は――パソコンのメアドのようですね。リモートが可能時間は、『午後九時以降で宜しくお願いします』とあります。早速、連絡と打診を入れておきますね」
「ああ、頼んだ」
返信は翌日の午前中に届いた。文面には『この度は選出いただきまして、有り難うございます。リモート面談は、前もってお伝えさせていただきました通り、午後九時以降であれば、日付はそちらのご都合に合わせることが出来ます。ご連絡をお待ちしております』とあった。それを弥生に伝えると、
「それじゃあ、今夜九時に。連絡は俺の方からしておく」
ということになった。
「こんばんは、コーヒー屋さんさん」
「はい、こんばんは、初めまして、弥生さん」
「こちらこそ、はじめまして。改めまして古瀬弥生と申します。ご依頼有り難うございました」
面談は、予定通り午後九時から始まった。私はいつもの定位置に。Marchは、《下手にしゃべらないように、意識して口をつぐんでいよう》とのことだった。蛍光灯の灯りなのか、コーヒー屋さんさんが背にしている壁が白く光っているように見える。それに画面を通して見るコーヒー屋さんさんは、顔写真を見て思っていたよりも大柄で割りと野太い声の持ち主だった。
「とんでもありません。まさか選出されると思っていなくて、びっくりしています」
んー? 何かちょっと、違和感が……。
「そうですか。あの、本題に入る前にひとつ良いですか?」
「はい、何でしょう?」
「あの、コーヒー屋さんさんは千葉県にお住まいなんですよね?」
「はい、そうです」
「失礼ながら、その割にはイントネーションが、関西のそれが入っているように聞こえるのですが」
やっぱり、私の聞き間違いじゃなかった。
「ああ、コレですか。そうなんですよ。というのも私、生まれは関西なんです。親の都合で中学の時分に千葉に来てから関西弁は抜けたんですけど、イントネーションだけはどうにもならなかったんです。すみません」
なるほど、そういうことか。道理で。
「いえいえ、ちっとも謝ることじゃないですよ大丈夫です。むしろ、細かいことが気になってしまう性分なもので、こちらこそすみません」
と言って、弥生とコーヒー屋さんさんは互いに頭を下げ合っていた。
口火を切ったのは、弥生からだった。
「それでは、本題に入りますが」
「あ、はい」
コーヒー屋さんさんは居ずまいを正して、弥生の次の言葉を待っていた。
「三か月後、コーヒー屋さんさんの奥さんは、娘さんと同じタイミングで出て行ってしまうようです。止めても無駄とまでは言いませんが、暖簾に腕押しです」
「…………」
コーヒー屋さんさんは、すぐには言葉が出ずに、十何秒か黙ったままだった。やがて。
「そ、うですか…………。残念です」
「はい。でもおそらく決定事項です。奥さんの意志は相当堅いようです。――ちなみになんですけど、今から三か月後というと九月ですよね? 奥さんはともかく娘さんがそのタイミングでご実家を出ていくというのは、ちょっと引っ掛かったのですが」
「留学です。ヨーロッパの方へ。だからそのタイミングなんです」
「なるほど、そういうことですか。納得です」
私も。おかげで腑に落ちた。
「あの……私の方からも一つよろしいでしょうか」
と、ここでコーヒー屋さんさんの方から問いかけがあった。
「はい、何でしょう」
「ひょっとしたらですが……今からの三か月間で、関係の修復なんてことには……」
「無理だと思います」
うわ、バッサリいった!
「何が、関係がこじれた原因になったのかはここでは言いませんが、奥さんはすっかりその気なようで取り付く島もありません」
“ここでは言わない”ってことは、弥生は予知の中で原因を知ったんだな。それを前提としてコーヒー屋さんさんと話をしてるのか。
「一ミリも?」
「一ミリもです」
「そうですか…………つくづく残念ですが、原因は私が自分で蒔いた種だと思うので仕方ないですね……」
コーヒー屋さんさんの方には身に覚えあり、ということかな?
「一つお節介ですが、今から三か月後には、これまで通りにカフェを営んでいくのは難しくなると思いますから、新しい店員が見つかるまでの間だけでもニックネームの通りコーヒー屋さんに変えることをお勧めします」
コーヒー屋さんさんってカフェの経営者だったんだ。知らなかった。弥生は今回も面談の場で予知結果の全部を明かすつもりはないんだな。
「そうですね、そうしようと思います」
「最後に。こんなこと、人生の先輩に言うことではないかもしれませんが、間違いは誰にでもあります。三か月後は終わりではなく再出発だと思って、どうか前向きに頑張ってください」
「有り難うございます、善処したいと思います。今日は、本当に有り難うございました」
お別れの礼をする大柄なコーヒー屋さんさんの体が心なしか委縮して見えるくらい、なんだかしんみりした空気の中、今回のリモート面談は終了した。
《結局のところ、夫婦関係がこじれる原因となったのは何だったのだ?》
通信を切って開口一番、Marchが私も知りたいことを弥生に問い掛けてくれた。
「ありきたりと言ってしまえばそこまでだが、浮気だ。お互いの」
「なるほど、それは確かにありきたりですね――って、え、お互いの?」
私は耳を疑った。が、
「ああ、先に浮気をしてしまったのはコーヒー屋さんさんの方だったらしいが、それを知った奥さんが、目には目を、浮気には浮気を、とばかりにやり返したらしい」
聞き間違いじゃなかったー。夫婦そろって浮気なんて、こじれにこじれまくっているではないか。
「コーヒー屋さんさんの顔写真をレンズに映した途端に、彼がその奥さんと思われる女性と言い争っているビジョンが視えてな。その内容を聞くに、コーヒー屋さんさんの方はいわゆる一夜の過ちだったらしいが、奥さんの方は浮気相手に本気になってしまったらしくて。場面が変わって、奥さんが出て行こうとするのをコーヒー屋さんさんが引き止めようとしても聞く耳持たず。コーヒー屋さんさんの制止を振り切って出て行く際に奥さんは『私はここを出て彼と幸せになりますから、邪魔者は消えますから、あなたは彼女と仲良くカフェをやっていけばいいじゃない!』と言っていた」
《ということは奥方は、コーヒー屋さん殿の浮気が一夜の過ちだとは思っていないのだな》
「そうだな。予知で視た限りだが、どうも奥さんは思い込みの激しいタイプみたいだったからな」
「実際には、コーヒー屋さんさんの方は浮気相手に対して本気になっているわけではないから、奥さんに出て行かれるとカフェの経営が成り立たなくなる。だからあんなお節介を言ったんですね」
「ああ。だがニックネームから察するに、コーヒー屋さんさんは、俺に言われるまでもなくそのつもりだったんだろうな。それを思うとあれは蛇足だったかもしれない」
「そう言えば娘さんは? この事情をご存じだったのでしょうか」
「あー、それは何とも言えないな。予知で視たビジョンには一切登場していなかったから、訊くのも忘れてた」
「そうですか……」
たぶんだが、娘さんはこの事情を一切知らずに旅立ったのではないだろうか。だってもし知っていたら、留学どころではないだろう。それとも、すべての事情を知った上で「別に私の知ったこっちゃないし、親たちだってイイ歳した大人なんだから、勝手にすれば?」的なスタンスだったりするのだろうか。
「なんか、今すぐそうなるような感じで話してますけど。三か月後のことなんですよね」
《おそらくコーヒー屋さん殿にとっては、長い長い三か月になるであろうな》
「なんか俺、今回ほど、この予知が外れりゃいいのにって思ったことないかもしれないわ」
それは私も同じだった。Marchも、ブリッジ部分でコクコク頷いていた。
後日。
リビングでテレビを観ていると、関東ローカルの旅番組で千葉県の特集が組まれていて。その一つとして、とある岬で営まれているお店が取り上げられていた。
「あ、これ。この景色と外観。俺、予知で視たことあるぞ」
と弥生が言ったかと思うと、店主が出てくるや否や。
「「コーヒー屋さんさん《殿》!」」
期せずしてみんなでハモってしまった。
ご立派な髭は剃られていたが、いかついお顔と大柄な体躯ですぐに彼だと分かった。それでも、少し瘦せただろうか。変な言い方だが、残念ながらあの予知は的中してしまったらしく、彼は独りで、太平洋を一望できるロケーションの良さと自家焙煎が売りのコーヒー屋を営んでいた。ただ、元気そうだった。何よりだ。出番終わりに彼が出した、意外にもポップなフォントで手書きされた『~スタッフ募集中ー!~』のフリップが私たちの笑いを誘った。
続く