第二話
これは禾楓さんの件よりも前のお話。
前にも話したが、便宜上、私・新嶋三月が勝手にMarchと呼んでいる弥生のモノクルは、レンズがちょっと特殊なものでできている。
それは長い間、水晶占いで使われていた水晶球の一部。
だから、モノクル自体はそう古いものではないがレンズだけは、けっこう年季が入っている。
弥生には視えるが私には視えないといった風に視える人が限られていて、どれくらい先の未来が視えるかは不規則だけど確実な、人の“少し”未来がそこに映るのはそのせい、らしい。
らしいというのは、私はもちろん持ち主である弥生でさえも、どこの誰がこれを造ったのかを知らないからだ。買って手に入れたわけでもなければ、親から譲り受けたわけでもない。ある日突然、小包で、弥生宛てで古瀬邸に届けられたのだ。
送り主は不明。発送場所も不明。それでいて配達日時をきっちり指定して届けられたことから、もしかして爆弾か何かか? と疑いつつ手に取ってみると思いのほか軽く、耳に当ててもチクタクチクタクは聞こえない。いずれにしろ大事にしたくなかったのであえて警察には連絡せず、その分慎重に慎重を期して荷をほどくと。小包の中にはMarchと、これがどういうものかという説明書きとともに「どうか有効に使って欲しい」という手書きの便せんが添えられていた。
「いろいろと制限があるようだが、それでも“未来予知ができる片眼鏡”なんて有り得ないだろう。いったいどこのひみつ道具だよ」と、最初は弥生にも私にも、到底信じることができなかった。「しかし、ものは試しだ」と弥生が半信半疑でMarchを使い始めるまでは。
あくる日、Marchの使用初日。
「三月」
「はい。——あら、良くお似合いで」
呼ばれて振り返ると、弥生の片眼鏡姿は、なかなかなさまになっていた。
「そんなことはいい。お前今日の帰り、襲撃に気をつけた方が良いみたいだぞ」
「襲撃? 誰からのですか?」
記憶している限り、誰かに恨まれるようなことをした覚えはないが……。
「誰っていうか、カラスからの」
「カラスから?」
「そう。でも嘴で突かれるとかじゃなくて、後ろ頭を蹴られるみたいだ」
「後ろ頭を蹴られる。カラスから?」
「カラスから」
帰り道、そんなまさかと思って無防備でいたら、本当に蹴られた。
Marchの使用2日目。リビングでテレビを観ていた時に。
「この芸人、明日不祥事起こして、明後日からしばらく活動を自粛するみたいだ」
「この漫才コンビのツッコミ役の方がですか? 大きなコンクールで優勝して、人気絶頂の時に? にわかには信じられませんが……具体的には?」
「仕事帰りの運転中にタクシーと交通事故を起こすらしい。人身事故にはならないが、現場から逃げ去る。典型的な当て逃げだ」
「そこまで視えたんですか。不謹慎とは知りつつも、明後日がちょっと楽しみです」
翌々日。弥生が視た通りのことが週刊誌にすっぱ抜かれていて、その芸人は活動自粛を余儀なくされた。
日付が前後するが、Marchの使用3日目。ネットサーフィンをしていた最中に、弥生はそこにあったとある芸能人の宣材写真を私に向けて指差して、
「来週、この人が、自分が大病を患っていることを世間に公表するらしい」
「数時間後、翌日ときて今度は来週のことですか。その方の年齢を考えれば、確かにあり得ないことではないでしょうけど……。でもこの方、不思議なくらい今まで何の病気も患っていませんよ?」
「それは俺だって知ってるよ。ただ、視えたことをそのまま言ったまでだ。本当にそうなるかどうかは、来週になればはっきりするだろ」
そしてきっちり一週間後。弥生が視た通りのことが全国放送でニュースに取り上げられ、あまりにあり得ない事だっただけに日本列島に激震が走った。そんな中、弥生と私は別のことで驚いていた。
「どうやらこれは……本物みたいだな」
「ええ。認めざるを得ませんね」
一度や二度ならばまぐれ当たりかたまたまかで片付けられるかもしれないが、三度も続くと、そうもいかない。まるで某ネコ型ロボットのひみつ道具のようで仕組みは全くわからないが、Marchは紛れもなく、未来予知ができる片眼鏡だった。
「でも、『どうか有効に使って欲しい』って、どう使いますか、これ?」
「そうだなあ……」
私の問いかけに対してそう言ってしばし、弥生は天を仰ぐ。やがて私の方を向いて、
「とりあえず、サイトでも立ち上げてみようか」
「サイト……ですか?」
「ああ。『foresee the future a little』って名前で、ほどほどに依頼者を募って、ひっそりとボランティアなんてどうだ?」
和訳すると『少し未来を予知します』。これ以上ないくらい、どストレートな名称だ。って、ボランティア?
「商売にはしないんですか?」
「しない。だって俺にはこの先、生涯働かなくてもお金に困らないくらいの親の遺産があるし」
「ああ、そうでしたね」
都内とはいえ都心からかなり離れたところにあって、広い部屋ばかりある大きな家に住んでて庭も広いのに、いわゆるミニマリストだし全然贅沢しないから身近にいるとちょいちょい忘れそうになるが、そういえば超・大金持ちだったんだった、この人。
「それに何より、こういう得体の知れないもんを金儲けの道具にするのは気が引ける」
「ああ……なるほど」
その気持ちは、なんか、わかる。きっと私が弥生でも同じだと思う。
「だから、賭け事には絶対使わない。クライアントにも、絶対ギャンブルには使わせない。見たい先の未来が視えるとは限らないとしても、コイツの予知の的中率から言って、ほぼ百パーセント、ズルになる」
「ええ。それが良いかもしれませんね」
――そうやって『foresee the future a little』は始動した。
そうしてここからは、禾楓さんの件より後のお話。
日暮れからクライアント選びをしていると、不意に弥生が声を上げた。
「こいつは……」
「どうしました?」
「久しぶりに、不吉な未来が視えたぞ」
「え?」
二人の間に緊張が走った。これまでに弥生が視た不吉な未来というと、数時間後に事故に遭う場面であったり、翌日誰かに殺されてしまう場面であったりしたが……
「……具体的には?」
「この人が、海で溺れる場面が視えた」
弥生の手が、画面上の女性の顔写真を指差していた。何故だろう、初めて見る顔のはずなのに既視感がある。
「水難事故ですか」
「ああ。どこの海かまではわからないが、人がたくさんいたから夏場の海水浴場だろうな。波にさらわれて沖へ流された子供を助けようとして後を追ったが、途中で足がつったか何かして溺れたみたいだ。予知はそこで途切れたから、そのまま溺れ死んだのか、誰かに助けられたのかまではわからない」
「この人ですね」
私はマウスを手に取って、一覧の中から彼女の顔写真をクリック。アンケートの中身をクローズアップしてそれを読んでいく。
「ニックネームは『琴音』さん。都内に住んでる『三十代』の『女性』。視てもらいたいのは『三か月後』。『その頃に家族で海へ行く旅を計画しています。無事に行って帰って来れるかどうかみて欲しいです』ですか。連絡先は携帯電話のメアドですね。依頼された時期が予知した時期と一致しているかどうか微妙なところですが、リモート面談の打診してみます?」
「そうだな……できれば、旅行の詳細を知りたい。ただ、リモートが可能な時間は『子どもが寝静まった後なら』ってことだから打診だけして、夜が更けるまで待とう」
「わかりました」
了解してすぐに、私は琴音さんに選出された旨とリモート面談ができる具体的な時間を問うメールを送った。すると一時間ほどして返信があって、「すみません返事が遅くなりました。午後九時くらいでもいいですか?」と綴られていた。それを弥生に伝え、「もちろんです。では後ほど」と、弥生の方から返信してもらった。
「こんばんは、初めまして琴音さん。古瀬弥生といいます。」
「こんばんは、選出されると思っていなかったので正直驚いています。弥生さん、よろしくお願いします」
画面の向こうの琴音さんは黒髪のショートカットで、瞳が大きく、口元の、向かって右側にほくろがあり。何かスポーツでもやっているのか見た目にも上半身ががっしりとしていて、そのわりに雰囲気的に柔和な印象を受けた。——うーん。やっぱりどこかで会っているような気がする。どこだっけ。
「こちらこそよろしくお願いします。早速なのですが琴音さん、8月にご家族で海に行かれる計画だという事なのですが、どちらの海か訊いてもいいですか?」
「はい。でも旅行といっても仕事柄、遠出は出来ないので近間なんですが、子どもの夏休みに千葉県の九十九里浜に行く予定です」
「なるほど九十九里浜ですか。ちなみに、それはもう決定事項ですか?」
「そうですけど……何か良くない事でも?」
怪訝そうな琴音さんに、弥生はMarchを指差して、
「実は、このモノクルで僕に視えたのが、あなたが海で溺れる場面だったもので。ただ、夏場の海水浴場であるらしいのはわかったんですが、どこの海かまではわからなかったので、お訊きしたんです」
「私が海で溺れ――そうですか……」
どうしてか、琴音さんは何やら苦笑いをしていた。
「ん? もしかして何か変でしたか?」
「ぁいえ、これでも私、学生時代はずっと水泳部だったので当時は泳ぎには自信があったんですけどね。社会に出てからはほとんど泳ぐ機会がなかったままでこの歳まで来てしまいましたから、昔より泳げなくなってしまっていても不思議はないかなと思ったんです」
琴音さんは、そう言ってはにかんだ。
「そうでしたか。では、僕からお節介を一つ、良いですか」
「お節介?」
「はい。当日、もし子供が波にさらわれて沖に流されても、あなたが助けようとせずにライフセーバーに任せることをお勧めします」
「子供が波にって……その子供ってまさか、うちの子ですかっ?」
当然、その可能性はある。琴音さんに限らず、子を持つ親ならば真っ先にそう考えるだろう。しかし、焦って取り乱す琴音さんに対して弥生は冷静だった。
「それはどうでしょう。僕が視た限り、あなたのそばにも子供が居ましたし、波にさらわれたその子は水色に白いドット柄をしたワンピースタイプの水着を着た小学生くらいの女の子でしたが……娘さんですか?」
「水色に白いドット柄……。そうですか。なら、うちの子ではないようです」
琴音さんは、文字通りほっと胸をなでおろした。
「とにかく私が、その子を助けに行かなければいいんですか?」
「はい。不完全で申し訳ありませんが、予知では、その子を助けようとした途中で溺れたあなたがその後どうなったのかまではわかりませんでした」
そこでいったん言葉を切って、弥生は頭を下げた。そして顔を上げると、たぶん真剣な表情で、真面目な口調でこう言った。
「この予知を、信じてくださいとは言いません。ただ、最悪の事態を避けるための転ばぬ先の杖だと思っていただけたらと思っています」
過去に、クライアントが危機に陥る不吉な予知をしておきながら被害者を出してしまったことが、二度ほどあった。一人はケガで済んだが、もう一人は亡くなってしまった。どちらにも忠告はしていたのだが、「所詮は占いでしょう?」と言われ、忠告を受け入れてもらえなかったのだ。
Marchによる弥生の予知には一般的な占いによる予知とは一線を画する“何か”がある。それを信じる・信じないは基本的にはクライアント次第だが、もしまた不吉な未来が視えた時、もう二度と、彼らのような被害者を出すわけにはいかない。そこで思いついたのが、今の言葉だ。転ばぬ先の杖。「(この予知を信じて、)くれぐれも注意してください」などと言うよりはいくらか信憑性がある言葉だろうと思っているのだが……——
「わかりました。おっしゃる通り転ばぬ先の杖として、心に留めておきます」
琴音さんは、穏やかな笑顔でそう言ってくれた。良かった。どうやら今回は、受け入れてもらえたようだ。
「ありがとうございます。要らぬ世話かもしれませんが、ご旅行が無事に行って帰って来られるよう祈っています。夜分遅くに失礼しました」
「とんでもありません、こちらこそありがとうございました」
琴音さんのお子さんが寝静まっていることもあって、今回のリモート面談は終始静かに行われ、そのまま静かに幕を閉じた。
「今回はいちゃもんのつけようが無いだろう?」
通信を切ってすぐに、弥生はくるりと椅子ごとこちらに向いて、どこか得意げにそう言った。
「いちゃもんって、別にそんなつもりはないですよ、毎回わたし」
「そうか?」
そこで何で不思議そうな顔するかな、この人は。
「そうですよ。――でも、そのモノクルで視えた水難事故ですから、起こるんでしょうね」
すると弥生は真面目な顔になって、
「ああ、女の子が波にさらわれるのはどうしようもないが、それに対する琴音さんの行動次第でな」
「一応、転ばぬ先の杖は渡しましたけど、考えるよりも先に身体が動いてしまうタイプの人じゃないと良いんですけどね」
「そうだな。その辺、訊いとけば良かったかな」
弥生はそう言って苦笑する。だが、今となってはもう遅い。後の祭りだ。ルールのひとつとして、面談が終わってそれ以降、こちらから再びクライアントにコンタクトを取ることはない。自制というか、禁止している。逆にクライアントからは、再びこちらに連絡してくることを禁止というか、遠慮している。もっとも、弥生の予知に対して何かしらのクレームがあればその時は、その限りではないが。そのように、サイト内にも明記してある。
「ま、こちらがやれることはやったんだ。あとは、祈るしかない」
「そうですね」
後日。
今年の夏は、水難事故のニュースは少なかった。九十九里浜で水難事故があったというニュースは、ひとつもなかった。逆にライフセーバーが子供を救ったという類のニュースもなかったので、弥生の転ばぬ先の杖が役立ったのかどうかは分からない。もちろん役立っていれば良いなと思ってはいるが、少なくともクレームが入ったりはしていないので、悪いことは起きていないのだろう。そうであって欲しい。
ついでに私の、琴音さんに対して既視感があった件については、結局わからずじまいだった。もしかすると、琴音さんによく似た芸能人と見間違えていたのかもしれない。
続く