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月奈は真っすぐに見据えてその鈍く光る銀色の投擲ナイフに構えた。腰を少しだけ落とし、身体を捻らせ、かすめ取るようににして、左手でナイフをつかんだ。あまりにぎゅっと強くつかんだので、刃が肉に食い込み、手から血が滲んだ。だが月奈の再生能力によってその傷はみるみるうちに塞がっていく。傷を与えた証拠は手と刃にこびり付いた彼女の血だけだった。
月奈は少しの怒りと、それよりはもっと大きい高揚を覚えながらナイフをからんと投げ捨てた。金属音が倉庫の中に響いた。それはますます中の寒さを増したように感じた。それを使って月奈は精神を研ぎ澄ませていく。興奮はただ胸の中に沈め、熱さを制御する心を作っていくのだ。すでに戦闘モードの心だった月奈にはそれは容易だった。彼女は凄絶に瞳を鋭くして無貌の仮面を睨む。そして手に付いた血を舌でずるりと舐めた。
「こんなことをするってことは、私とやる気ね?」
「ちょっときみの力を見せてもらおうと思ってね。だから今日は先回りさせてもらった」
機械的な音声が月奈を少し不愉快にさせた。顔も声も隠しているところがなにか自分を小馬鹿にしているように思える。いったいどこに正体を隠す必要があるのだろう?
「私に勝てると思っているの? この仮面野郎」
「きみが最強であることは分かっている。だからぼくは自分の位置を知りたいのさ」
「気障なやつ」
この鼻につく言葉回しはどこか記憶にあるような気がした。しかしその正体がよく分からなかった。
これ以上の言葉は必要ない。目の前の相手が敵だというのなら、ただ叩き潰すだけだ。相手にどんな思惑、意図があろうと関係ない。
戦闘の歓びが月奈を包み始める――
「はァッッ!」
月奈は床と平行するように低く、だが長く跳躍した。一気に仮面への距離を詰める。そして息もつかせぬ神速で仮面に右回し蹴りを見舞った。無貌の仮面は腕を下げ、それを受け止める。だがその衝撃で彼はずさぁと後ずさりした。月奈はこのファーストコンタクトだけで相手が只者ではないこと、もしかしたら自分に拮抗し得る存在だと確信した。
「ふっ」
無貌の仮面は余裕を見せるように息を吹いた。月奈は鞘から刀を抜いた。そしてそれを一気に下から薙ぐ――
その直前、無貌の仮面はナイフを構え、腕を伸ばしてその切っ先を月奈の眉間へと突き付ける。月奈の手が止まった。静寂。そして緊張。その睨み合いはしばらく続いた。月奈はさっきからある違和感の正体に気付いた。相手の顔が見えないことで、その心理を見抜くことができないのだった。
「ふぅ、中々やるわね……無貌の仮面と言ったかしら。その名前は覚えたわ」
「それは光栄だ」
数十秒間の均衡のあと、ふたりは同時に跳躍して距離を取った。それは月奈にとってはあまりよくない体勢だった。彼女の本懐は近接戦闘であり、そして仮面はナイフの投擲を得意としている。最初の一撃は不意打ちのようなものだった。ここから先は敵が距離を維持したまま戦うことが予想される。有利なところと言えば、戦場が狭いところだった。のだが。
無貌の仮面もそのことを分かっていたのだろう。彼は牽制のようにナイフを投擲する。さきほどよりも速い投擲であり、さっきのように直接つかむといった芸当はできない。月奈はそれを刀で弾いた。だがその間に無貌の仮面はさらに飛び去り、倉庫の外に出て行こうとしていた。
「さあ、ぼくを追いかけてごらん、最強のルナティカン!」
「このチキン野郎!」
月奈はそれを追いかける。追いかけながら、相手が何本ナイフを所持しているのか、と考えた。テレビゲームじゃないのだから、無尽蔵にナイフが湧いて出てくることはあり得ない。とすれば、奴にすべてナイフを投げさせれば再び接近する機会が現れるはずだ。
月奈は妙な楽しみを感じていた。こうやって戦術を考えながら戦う敵など本当に久しぶりだ。認めざるを得ない――私は闘争が好きなのだ。
戦場は倉庫から埠頭全体に移った。月奈が距離を詰めると、仮面が飛びあがって避けるという攻防が続いた。そして仮面は両手にナイフを構え、投げる、同時に跳躍し、倉庫の屋根に飛び乗る。月奈は迫りくるナイフをいなし、それから叫ぶ。
「こんなオモチャじゃあ、私を捉えることはできないわよ!」
無貌の仮面は屋根という屋根を渡り飛んで行った。もちろん月奈もそれを追いかける。しかしフィールドが一気に広くなったことで捉えるのは容易ではなくなった。もっとも、仮面の攻撃も苛烈ではない――月奈の読み通り、彼はナイフを温存しているのだ。
状況は手練れのルナティカン同士の死闘というよりは、どこか滑稽な鬼ごっこの様相を呈してきた。どちらにも決定打が欠けていた。といったところで、月奈はふとした疑念を抱いた。相手はそもそも決戦を望んでいないのではないか? どこか弄ばれている気持ちがある。そもそも奴には私に敵対する必然的理由はないはずだ。いや、もしかしたらあるのかもしれないが(自分が色々なところから恨まれているであろう自覚はあった)、少なくとも月奈に心当たりはなかった。
虚無の空間から突如現れた男。無貌の仮面にはそんな印象があった。
「さあ、きみの力はそんなものかい?」
機械の声で挑発する仮面にどんどん苛立ちは募る。だが、月奈はそれがよくない傾向であることも知っていた。戦いを制するのは、内なる炎を制御する冷徹な心である。奴はそれを削ぎに掛かっているのだろう。だがあいにく、私はそんな罠には引っ掛からない。
月奈と無謀の仮面は別々の倉庫の棟に立って対峙した。太陽は南天に輝いていた。なにか状況を打開する策が必要だった。生き残ることはそう難しいことではない。だが勝利を得るには相応のリスクが必要だ。そして相手の裏をかく策が。
深呼吸、ひとつ。
月奈は仮面めがけて飛び上がった。仮面はそこに向けてナイフを投擲する。月奈はその斬撃をわざと喰らった。ナイフは右肩に刺さり、鋭い痛みが走った。しかしそんなことなど物の数ではない。私は勝つ、勝って勝って勝ち続けて、最強を証明し続ける!
無貌の仮面は二撃目を放とうと構えていた。だが月奈のほうが速かった。彼女は跳躍を続けたまま刀を大きく振りかぶり、刀を仮面に向かって乱暴に投げつけた。こちらからの投擲は予想していなかったのだろう。彼はかろうじてそれを躱したが、刀はその足元に突き刺さり、少しだけ怯んだ。そう、ほんの少しだけだ、だがそれが値千金の隙である。かくして月奈は仮面との距離を一気に縮めた。
お互いの吐息が触れ合うような距離。だが2人は恋人とは程遠い。
「そらぁぁぁッ!」
月奈は突き刺さった自分の刀を抜き取り、逆袈裟斬りのように振りかぶる。仮面の白い服が裂かれ、脇腹が斬られた。それでも顔色が見えないことは不気味だった。もちろん、ルナティカン同士での戦いではこんなものは致命傷にもならない。事実、仮面の脇腹は斬られたそばから再生を開始していた。だが月奈が得ようとしたのはそんなものではない。圧倒的な主導権だ。ここからは逃がさない。自分の距離で戦う。そうすれば私は誰にも後れを取ることはない。
「やって……くれる!」
無貌の仮面の声に初めて焦りの色が見え始める。月奈は勢いを増していた。獰猛な闘犬のように一度くらいついたチャンスは離さない。
月奈はさらに踏み込み、右手をぎゅっと握って拳を作り、仮面の腹に宛がった。意識と力をその一点に集中させ、腰を落とす。足が屋根を噛み、そして衝撃が訪れる。滅多には使わない(というよりは必要のない)大技である。
寸勁。
ぼごぉん、と勢いよく放たれた鉄球が壁を叩くような破裂音が鳴った。月奈の寸勁をまともに喰らい。無貌の仮面はそのまま大きく吹き飛んだ。月奈にとってはあまりよくない展開だった。本当はここでそのまま相手の体勢を崩し、止めの一撃を喰らわせるはずだった。しかし距離は再び開いてしまった。無貌の仮面はわざと吹き飛ばされたのだ。
それでも一撃を喰らわせるだけの時間はあるはずだ、月奈は再び刀を両手に持ち、今度こそけりをつける――そんな矢先だった。
突如大きな岩石が天から降り注ぎ、月奈と仮面の間に落下した。それは一気に屋根を突き破り、倉庫には大きな穴が開く。
「戯れはそこまでにしておけ、無貌の仮面」
そんな声が響いたかと思うと、続いて見知らぬ男の影が舞い、まだうずくまったままの仮面の身体を抱いて飛び上がり、地上に降り立った。月奈はしばらくぽかんとし、それから滾るような闘争に水を差されたことに怒りを覚えた。
「もう、なんなのよ。このゴボウ」
男は痩せぎすの長身を持っていて、そんな印象を与えたのだ。
「あはは……やっぱり今のぼくじゃあ、きみには敵わないようだね」
助けられた無貌の仮面はそんなことを呟いていた。そして言葉は長身の男が続けた。
「我らは〈月命党〉。世界を変革する者だ。そして彼はその党首である。こんな遊びで失う訳にはいかないのだよ」
月奈はその口を黙らせたいと思った。叩きのめしたいと思った。だが2人相手ではさすがの自分でもやや分が悪いという判断ができる理性も残していた。
「我々が活動する限り、きみとは必ずまた会うだろう。その時は敵か味方か分からんがな」
それだけ言い残して、男と仮面は飛び去って行った。あまりの唐突な戦いの幕引きに月奈は狐につままれた思いをしていた。しばし茫然として、それから呆れたように呟いた。
「――月命党ぅ?」
1人残された自分がじつに間抜けなように思えた。そして自分がなにをしに来たのかも忘れていた。力が一気に抜けていった。それから彼女は自分が今すべきことを思い出した。
「ああ、苺を迎えに行かなきゃ……」