33:HERO IS COMING.
そのことを危険視していなかった訳ではないし、また警戒もしていたはずだった。月奈にとって苺がアキレス腱になり得ることは。あまりにも迂闊過ぎた。だが、あの桜乃が月命党員だったなどと誰が想像できただろう?
「もうなにも信用できないわ……」
彼女を信頼していただけにその裏切りは月奈の心を深く抉った。きっと最初からこのことを考えて接触してきたに違いない。自分は不用心ではなかったはずだ。だが桜乃に関しては、今にしてみれば驚くほど簡単に心を許してしまったのだ。それは桜乃の懐の深さが為したことだった。いずれにせよ、月奈は強い後悔を抱かずにはいられなかった。
だがすべてが終わった訳ではない。苺はまだ生きているのだ。月命党が彼女を人質にして月奈になにを要求するかはまだ分からなかったが、そんなことはどうでもいい。今までも月命党にいい印象は持っていなかったが、これではっきりした。奴らは敵だ。徹底的に叩き潰すべき存在だ。
「思いっきり後悔させてやる」
月奈はこれまでにないほどの憤怒を抱いていた。施設が襲撃された時でさえ、こんな怒りはなかった。
だが、怒りに任せて行動してもいい結果にならない。そのことを忘れないほどには冷静さも失ってはいなかった。なにか策を案じる必要がある。
取り敢えず月奈は宇田に連絡した。
「そういうことになるとはな……月奈、早まった真似だけはするなよ」
「分かってる。それにこれはチャンスでもあるわ。私が奴らのアジトに入り込むことができると考えれば」
「だが最優先するべきは苺ちゃんの命だろう。そうだろう?」
「それはもちろん」
月奈は自分ひとりではこの事態を打開できないことを分かっていた。警察の協力がいる。しかし同時に最終的にことを決めるのは自分の覚悟であることも分かっていた。
「まずは月命党のアジトを包囲する」
「それくらいは相手も想定済みでしょうけどね」
「あとはきみの手管しだいだ。うまくは言えんが……なんとかしてくれ」
それから細かい作戦を詰めて、月奈は通話を切った。それから桜乃の携帯に電話をして、改めて彼らの本拠地に向かうことを告げた。すべてはそこからだ。
彼らに周防月奈を敵に回すことの意味を思い知らせてやる。
◇
苺もまた、信じていたひとに裏切られた心の傷があった。しかし月奈とは違って怒りを持つことはなかった。ただ悲しいだけだった。元々苺は暴力的な感情を持てない子供だったのだ。
「きみにはつらい役目を任せてしまった。すまないね、桜乃」
「いいのよ。私はあなたの為ならなんでもやる」
苺はパイプ椅子に後手に縛られて座らされている。口には猿轡も噛まされていた。苺は暴れることをしなかった。ただ信じることしかできなかった。いや、信じることこそが大きな力だと思っていた。あたしのヒーロー――彼女は必ずやってくる。
「しかし鬼塚さん、彼女を引き込むのは危険でもありますよ」
「それは分かっている。だがこれはいずれ避けられない対決だし、そうであるからにはできるだけ有利な状況を作ることが必要なのだ」
苺は拉致されているにもかかわらず、緊張はせずにただボンヤリとしていた。そのボンヤリした頭の中で、ただ長身の男――彼は鬼塚と言った――と無貌の仮面の会話を聴いていた。苺は子供特有の敏いカンで、彼らが決して悪いひとたちではないことを悟っていた。むしろ優しさすら感じられた。桜乃に関してはなおさらそうだ。しかし、そんな彼らが何故こういうことをするのか、その謎はますます深まった。どうしてみんなで仲良くできないのだろう。友達になれないとは思わなかった。友達は多い方がいい。好きな人がいるのはいいことだ。どうして、どうしてこうなんだろう? 学校でも先生はみんな仲良くと言っている。このひとたちは子供の頃の教えを忘れてしまったのだろうか。
ともかく、苺は月奈を待つだけだった。
どれほどの時間が経ったのかは分からない。何度かおしっこに行きたくなり、それは桜乃の監視付きで許された。それからはまた拘束される。苺はひどく大人しかった。
それからその時はやって来た。月奈が到着したのだ。彼女は監視員に取り囲まれ、無貌の仮面の前に突き出された。月奈は苺の顔を見た時だけはすこし安堵したような表情をしていたが、それ以外はまるで見たことのない厳しい表情をしていた。
あたしのヒーロー。
月奈は拘束されていなかった。彼女の力からすれば簡単な拘束具など無意味であることを分かっているからだった。必要なのは精神的な拘束であり、それが苺に他ならなかったのだ。
苺は月奈を困らせる子にはなりたくなかった。でも、現状そうなってしまっている。ほんのすこしだけだったが、苺は自分なんかいなければよかったと思ってしまった――自分が月奈の自由を奪っているのだ。それでも、そういったことを言ったら月奈に怒られることも知っていた。
当然ながら月奈は武装解除されている。彼女は憮然とした顔で、まるで唾を吐き捨てるように無貌の仮面に言った。
「さあ、来てやったわよ。無駄話はよしましょう――あんたらは私になにを求めるの?」
「ぼくたちはきみを危険視しているが――まったく敵視しているわけでもない。単刀直入に言おう。月奈くん、我々の同志にならないか?」
月奈はせせら笑った。
「愚問ね。そんなことは考えられない」
「しかし、この子はきみにとって最も大切なものなのだろう?」
言ったのは鬼塚だった。そして彼は苺の首元にナイフを添えた。さすがの苺もこの時ばかりは緊張し、おしっこしたばかりなのに膀胱が震えた。
「私としてもこんな可憐で素直な子をどうにかしたいとは思わない。これは最後通告だ。きみに取れる選択肢はふたつ――我々に味方するか、それともここで死ぬかだ」
今度は無貌の仮面が月奈にナイフを突き付けた。状況は圧倒的に不利――それでも苺は、月奈ならなんとかしてくれると信じていた。それは無根拠の確信だった。信心とすら言ってもよかった。月奈はなんでもできる。月奈はどんな敵でもやっつける。月奈は――
苺は身体を揺らして暴れ出した。もちろんその程度で拘束は解かれないし、椅子も動いてはくれない。それでも彼女はなにかできないかと思い、そうする。塞がれた口で「つきな」「つきな」と叫ぶ。それは言葉にならなかったが、鬼塚はすこしだけ動揺した。
「どうした……? ずっと大人しくしていたのに」
苺のその行動がなければ、この後の展開はもっと変わっていたかもしれない。その時鬼塚も仮面も桜乃もすこしだけ、ほんのすこしだけ注意を苺の方に向けた。
その瞬間だった。
月命党のアジト、その壁に爆発音が響いた。それは外に配置された警察によるロケットランチャーによる爆撃だった。だれもが唖然とし、それから恐慌した――ただひとりを除いては。
その一瞬の混乱の中、月奈は無貌の仮面に肘打ちを入れてナイフを奪い取った。それからの行動は一直線だった。彼女はすぐさま苺に駆け寄り、そのナイフで縄を切り、猿轡を外した。苺は拘束から解放された清々しさに感謝した。そして自分の信じるものが正しかったことを証明した。
「苺! 走って! これから警察のひとがやってくるから!」
一時の恐慌からいち早く脱したのは鬼塚だった。彼は苺の脱出を阻もうとした。だが月奈は彼に蹴りを見舞い、それを封じる。
あとは月奈を信じるしかなかった。苺は自分の足には自信があった。なにせ体育の徒競走ではいつでも一番を取っていたからだ。怖い大人たちはいっぱいいるけれど、彼女は明るい未来を信じて疑わなかった。
部屋を出る。そこでは月命党員と警察の戦いが始まっていた。お互いに緊張していて、苺のことなど気にしている余裕はなさそうだった。怖かったが、苺は駆け続けた。そしてゴールがやってきた。警察の確保した陣地に辿り着き、そこでは宇田が待っていた。
「ようし、いい子だ」
そこで初めて、苺は自分がとんでもなく恐ろしいことに巻き込まれていたことを自覚し、へなへなと足を崩れ落とした。だが自分は助かった。
月奈に助けられた!
「あとは彼女を信じようじゃないか」
宇田は苺の肩にコートを掛け、そう言った。苺も同じ気持ちだった。
◇
爆破の余波はことのほか大きく、無貌の仮面も鬼塚もまだ混乱していた。それは自分たちの計画が台無しにされたことにもよるのだろう。
ともあれ、月奈は一気に形勢逆転を狙えるチャンスだと思った。ここで彼らを全員叩き潰せばすべては終わる。ことのほか、あの無貌の仮面を。彼女は荒れた部屋の中で奪ったナイフを持って彼に突撃する。
「月奈、どうして……?」
彼はまだ動揺しているようだった。まさに千載一遇の好機、月奈は一気に無貌の仮面に向かって刃を立てる――
「だめええええええええええっ!」
その間に桜乃が挟まった。月奈は勢いを止められず、刃は無貌の仮面ではなく彼女の胸に突き立てられた。
「桜乃、さんっ!?」
「私は、あなたを……」
桜乃は言い切らないまま崩れ落ちた。無貌の仮面は――仮面を被っていてもなお分かるほどに茫然としていた。しかし茫然としていたのは月奈も同じだった。だがひとつのことだけは分かった。
森川桜乃は無貌の仮面のことが好きだったのだ。
「逃げろ、仮面! 世界は未だお前を必要としている!」
鬼塚が叫んだ。
「逃がす……もんですかっ!」
月奈と仮面は同時にはっとし、それから行動に移った。月奈は再び彼を取ろうとした――だがそれは鬼塚のタックルによって防がれた。仮面は破壊された壁跡から外に飛び出した。
月奈は鬼塚に組み伏せられる直前に鳩尾へ蹴りを入れ、拘束を剥がした。
鬼塚はゆっくりと立ち上がった。表情の変わらない彼は、まるで死神か、それが大袈裟であれば幽鬼のようであった。異様な不気味さと、深い雰囲気を持つ男だった。
「計画は失敗したが、まあいいだろう。私がここできみを倒せばいい話なのだからな」
低く抑揚の効いた声で鬼塚は言った。そこには知性的な響きがあった。月奈は彼が月命党の思想的指導者であることを確信した。
「呆れた男ね。この状況で私に勝てると思っているのかしら」
「すべてはやってみなければ始まらん。それに、きみも私の命を欲しているのだろう?」
「ご託はもうたくさんだわ――分かる? 私は今、凄く怒っているの!」
そして、宇浪野市の魔女と、月命党の魔人の激突が始まった。




