32:急転直下
森川桜乃は今の状況に納得している訳ではない。むしろ心を痛めていると言っていいだろう。しかしそれが耀司の志なら、どこまでもついていくとは決めていた。
もうひとつ心を痛めている問題がある――それは、自分がなんの役にも立っていないという負い目だった。いったい自分はなんのために月命党にはいったのだろうという思いは日々募っていった。なにかしなければならないと思いつつも、桜乃は戦闘が苦手であった。桜乃は身の回りの世話だけで満足できるような女ではなかったのである。
「鬼塚さん。ぼくたちは本当に月奈を倒さなければならないのですか」
ここ最近、月奈に刺客を送っているのは鬼塚の判断だった。桜乃は耀司がそれにあまり乗り気でいないことを知っていた。それはそうだろう。彼は彼女のことが――それ以上のことは考えないようにした。自分が惨めになるからだ。
「当然だ。現状、我々の目的を阻む……というより破壊してしまう可能性を持っているのは彼女にほかならない。忘れたか? 彼女は宗一郎を殺したのだぞ」
「それは分かっていますが……」
「情は捨てろ。このまま放っておけば、いずれお前は彼女にやられる可能性がある。それだけはなんとしても避けねばならん」
桜乃は淹れ上がったコーヒーを2人の前に置いた。桜乃は月奈のことも、苺のことも憎からず思っていた。どうしてみんなで仲良くできる世界ができないのだろうと思わざるを得ない。かといって、現状の社会をどうにかして変えなければならないという2人の思想も共感してしまうのが桜乃なのだった。その二律背反に彼女は苦しんだ。
「しかし月奈は強い。今までのように普通に構成員を送っても返り討ちに遭うだけです。人員をすり減らす行為にしかならない。もっと別の方法があるんじゃないですか?」
「分かっている。今はまだ第一段階だ。断続的にプレッシャーを与えて彼女の精神をすり減らすのだ」
「しかし実際に倒すのは誰が?」
桜乃の心に後ろ暗い思いが浮かんだ。今、彼女は月奈たちと仲良く接近している。月奈もまったく警戒していない。そこになにか自分ができることはないかと思って――彼女は提案した。
「それについては私に考えがあります――」
◇
休校も随分と長くなってしまい、苺も家に篭ることが多くなっていた。それではいけないと思って、月奈は久々に少女と外で遊ぶことにした、自分が狙われている現状、それにはやや危険が伴うかもしれないが、苺が鬱屈しているよりかはよほどいい。
大々的に街に出ることはできないだろうと思って、月奈は苺を近場の公園に連れて行った。ちょうど日曜日であり、いつもなら家族連れの子供たちであふれかえるところなのだが、やはり昨今の情勢を鑑みて、外出を控えている人々は多いらしい。月命党の思想からすれば彼らが狙われる可能性は少ないのかもしれないが、大半の市井の人々にとって月命党は得体の知れないテロリスト集団なのだ。それだけたいようテレビ襲撃のインパクトは大きかったと言える。
それでもまったく人がいない訳ではなく、苺は数少ない子供たちとすぐに仲良くなって、いつの間にか一緒に遊んでいた。月奈は必ず自分の目に留まるところで遊ぶように、と言っていたが、それは必ずしも守られるとは限らなかった。しかしながら、子供の無邪気な無軌道というのは大人が簡単に止められるものでもない。苺は小学校低学年と思しき女の子数人と鬼ごっこをして遊んでいた。苺も小学校5年生なのだから、いい加減鬼ごっこなどで無邪気にはしゃぐ歳でもあにはずなのだが、もしかしたらお姉さんぶるのが楽しいのかもしれない。
「こんな空気も久しぶりね……」
2月に入り、空気はなお乾燥していて凍えるように寒い。今日の朝は氷点下まで気温が下がっていたらしく、そしてお昼になっても気温はあまり上がってくれなかった。月奈はそんなに寒いのが苦手なほうではないが、それでもこの寒さはこたえる。十分に服を着こんで、懐には携帯カイロまで忍び込ませているのに。
「なぁんで、この寒さで子供たちはあんなに元気なんだろう」
月奈は缶コーヒーを飲みながら、はしゃぐ苺たちを見てそんな考えを弄んでいた。子供の元気さは冬でこそ際立つ。大人が縮こまっている時季であるからこそ、なおさら。
ともあれ、ちっちゃい子供の中で、ピンクのスカートに白タイツという出で立ちで遊ぶ苺が一番可愛いと思えるのは贔屓目だけではあるまい。彼女は客観的に見ても美少女だった。それを自分自身が気付いていない所が特にいい。
ふと、月奈は淋しくなった。いつまでも苺を自分の元に拘束している訳にはいかないのではないかと思ったからだ。今は純朴に自分を慕ってくれているが、これから先はどうなるかも分からない。月奈のワガママだけで彼女を同性愛という枠に束縛し続けるのは無理なのかもしれない。苺は成長する。いずれは中学校に上がり、高校生になり、大学に進学するだろう。その間、彼女を魅了する異性が現れないとも限らない。しかしそれは彼女の人生なのだ。月奈が苺を束縛し続けることはできない――
「それでも、私はずっとあなたの傍にいるからね……」
月奈はいささかそれが病的な思いであることを知りつつもそう呟いた。恋愛感情は別にしても、月奈は苺を立派な大人に育てる責務があった。それは彼女を引き取った時から思っていた覚悟ではなかったか? いずれ苺が少女でなくなることは、淋しい。だが時間は待ってはくれないのだ。
「つきな〜」
子供たちと遊ぶのにも飽きたのか、苺はノンビリした顔、ノンビリした声で月奈の座っているベンチに戻ってきた。外であからさまにスキンシップをすることはなかったが、彼女は当然の権利のように月奈の隣に座った。
「月奈、寒いの?」
「確かに寒いけど、どうしてそう思ったの?」
「だって月奈、なんか淋しそうな顔をしてたから」
それが子供特有の敏感さなのか、それとも苺の個性なのか、ともかく彼女は月奈の細かい異変を敏く気付いてくる。まったく敵わないな、と月奈は思った。
「そうね。私は苺を取られて淋しかったのよ」
「ふぅん。そ〜なんだ〜」
苺はニコニコする。それはこの世の宝石をすべてかき集めても敵わない至宝の笑顔だった。
そこに突然桜乃が現れた。いや、唐突というのはタイミングの問題であり、元々は彼女とも会う約束をしていたのである。
「よっほー」
相変わらず玲瓏の美女らしからぬ快活な顔で挨拶する桜乃なのだった。苺は彼女にも笑顔を見せた。月奈はすこし苦笑しながら手を振った。
「もーう。月奈ちゃん違うよぉ。『よっほー』って呼ばれたら『ほっほー』って返さないと」
「どこの部族の挨拶なのよ」
「ほっほー」
あまりにも純真に苺がそう言ったので月奈は笑ってしまった。掛け値なしに、月奈はこのお姉さんのことが好きだった。気持ちのいい性格ということもあるし、それは苺の情操教育にもよさそうだし、なにより彼女は自分の思いを気付かせてくれた恩人だったからだ。
「苺ちゃんはよくわかってるねえ。さあ、ご褒美に飴ちゃんをあげよう」
「わーい、ありがとー」
「ちょっとそれはババ臭くない? ていうかなんで丁度よく飴玉なんか持ってるの」
「そりゃまあ、こういう事態を想定して準備しておくのが淑女の嗜みございますわ。おほほほほ」
「なんだそりゃ」
苺を拾った時から、自分の運はよく回り始めたのかな、と月奈は思った。こういった時間が過ごせるのは幸福としか言いようがない。
これまでひどく乾いた人生を送り、それになんの疑問も持っていなかった私が――
不意にスマホに着信があった。宇田からだった。月奈は一気に現実に引き戻され、血を冷たくした。仕事だ。しかしこの状況でなどと、敵はまったく空気を読んでくれない。
「ちょっとだけ待ってくれない? 今苺と外だから、この子を一旦家に送って……」
「急いでくれ、火急の案件だ。相当大規模な暴動に発展している」
それまで横で月奈の通話を聴いていた桜乃が不意に声を上げた。
「月奈ちゃん、仕事なのね」
「ええ、でも苺を……」
「苺ちゃんは私が送っていくわ。月奈ちゃんは街の平和を守らないといけないのでしょう? ええ、分かっていますとも」
月奈は少しだけ逡巡した――だが、桜乃への信頼はあった。多分大丈夫だろう。
「ええ、お願い」
月奈はそう言って、すぐさま現場に向かった。
◇
暴動の鎮圧はすぐに終わった。月命党とそれを快く思わない半グレルナティカンの衝突だった。両方とも月奈の敵ではなかった――太刀を持たなくともナイフと拳だけで鎮圧し、後始末は警察に任せる。どうということのない仕事。気になるのは月命党員がこれまでよりも消極的なことだった。だが鎮圧できたのならそれはそれでいい。
月奈は相変わらず深いところまでは考えない性質の女だった。
少しずつ陽の落ちる時間も遅くなっていたが、それでも冬の西日は変わらない。今日のところはこれ以上頑張るつもりはなかった。また家に帰って、お風呂に入って、ご飯を食べて、苺とイチャイチャして――
「ふぅ」
月奈は自分がニヤニヤと笑っていることに気付いていなかった。
とにかく早く帰ろうと思った。苺の待っている家に。桜乃は鍵を持っていないが、苺は持っている。オートロックまで送って、あとはお別れというのが約束だった。苺は気丈な少女だが、楽しい公園遊びから急転してひとりにさせられる淋しさはあるだろう。早急に癒さなければならない。そして自分も癒されるのだ。
「ぐふふ」
ああ、苺、苺。待っていて、私の愛しい人。すぐにあなたの元に辿り着くから……
だが。
家に戻っても苺の姿はなかった。家の中は出掛けた時とまるで様子が変わっていない。荒らされた形跡もなく、ただ苺がいない。月奈は急に不安に囚われた。まさかとはおもうが、信用していたはずの彼女が? だがそんなことをしてなんの得がある?
その想像を裏書きするように、桜乃の番号から着信があった。焦りと憤怒がないまぜになりながら月奈は応答した。
それは確かに桜乃の番号だったが、出たのは彼女ではなかった。まったく知らない男の声だった。
「初めまして、周防月奈。私は月命党の鬼塚と言う」
「なんなのよ、あんた……苺を、苺をどうしたの!」
「きみの娘はこちらが預かっている。なに、きみがこちらの指示に従えば危害は加えない。だがもしそうでなければ……」
月奈はかくかくとスマホを持つ左手が震えるのを感じていた。自分の不用意さを呪い、そして月命党に対する憤怒で溢れた。
この時より、月命党は月奈の不倶戴天の敵となった。




