3:唐突なる出会い
新しい服が欲しいな、と思った。
思い立ったら即決行、という信念の月奈はすぐさま行動に移す。お金に不自由はしていない。彼女は警察に十分な援助を得ているのだ。もっとも、警察を頼りにしている訳ではない。その気になれば自分はいくらでも稼げると思っているし、警察に媚びている訳ではない。警察は手っ取り早く平和的なパトロンとして適当というだけだ。
「街に出るのはわりと久しぶりね」
天衣無縫を絵に描いたような月奈にしても。女としてのたしなみは忘れていない。街に出掛けるとなればしっかりお化粧もするし、しかるべき服も選ぶ。という訳で彼女はベージュのニットセーターと灰色のタイトミニスカート。それから茶色のロングブーツを選び、もちろん冬だから上には群青色のコートを羽織った。普段の生活であれば彼女は黒にはこだわらないのだった。
そして朝から上機嫌に髪を梳いていると、スマホから通知音が響いた。ゆったりとそれに目を通すと、そこには男友達のSMSが届いていた。
『今からそっちに行くよ』
と言った内容のショートメールだった。その相手というのは霧島耀司という男である。幼馴染みであるが、ずっと一緒にいた訳ではなく、友達付き合いが再開されたのはわりと最近のことである。そこには月奈の特異な生い立ちが関わっている。
『私も急ぐよ』
月奈は彼のことを中々気に入っていたが、恋愛感情はない。というより月奈はこれまで誰にも恋愛感情というものを持ったことがなく、それが一体どういうものなのか皆目見当が付かなかった。あんまり女らしくないのかな、と自分では思う。命短し恋せよ乙女、などというが女というものはもっと恋愛に興味を持つものなのではないか。そんなことを考えても感じないものは感じないのだから仕方がない。単に鈍感なだけかもしれない。
ともかく、ひとりで街に出るのも無粋だから、月奈は耀司を誘ったのだった。月奈の経験によれば、耀司は月奈の誘いを断ったことは一度もない。
その彼を寒い外に待たせ続けるのも酷なので、月奈は身支度のピッチを上げ、最後にお気に入りのネックレスを掛けてマンションを出た。すると、オートロックを開けた自動ドアの向こうにはすでに彼がいた。
「いや、ゴメン。なんか急かしたみたいで」
「私は気にしないって」
霧島耀司は柔和な笑みを浮かべた。中肉中背の好男子である。そして彼もルナティカンだったが、その性格は至って温和であり、粗暴な男たちが跋扈する中で彼の存在は貴重である。動物で喩えるなら彼は間違いなく犬だな、と月奈は思っていた。
「でも、月奈はいつでも突然なんだから……」
買い物に付き合え、とメールを送ったのは前日の深夜だったのである。しかし、ぷつぷつ文句を言いながらも結局付いて来る耀司は月奈にとって(都合の)いい友人なのだった。
「なんだかんだ言って、耀司はいつでも私に付き合ってくれるもん」
「月奈は一度振り回される側に立ってみるといいよ」
「あら、じゃあ耀司は私を振り回してくれるのかしら?」
「いや、それは……」
耀司は困った顔を見せた。彼に困った顔をさせるのが月奈の趣味だった。それがなんとも可愛らしいからだ。ひょっとしたら私はSの気があるのかしら、と月奈は思っていた。
「さ、早く行きましょ」
「月奈はいつでも即断即決だなあ!」
月奈は颯爽と黒髪を風になびかせて進み始めた。耀司はそのお尻を肩を竦めながら追い始めた。月奈はいつでも彼が付き合ってくれる理由を考えもしなかったし、彼の立場も気にしなかった。ともかく、ふたりは仲のいい友達だった。
◇
繁華街から少し外れた裏路地にある隠れ場的なカフェ、「ミエスク」で軽い昼食とコーヒーでカフェインを補給したあと、月奈は女王のように堂々と商業地区へと向かった。ショッピングは入浴に次ぐストレス解消方法である――もっとも、彼女は滅多にストレスを感じないが。
「で、今日もぼくを荷物持ちにさせるつもりなんだろ?」
「よく分かってるじゃない」
月奈は耀司が下僕のような扱いに嬉々として付き合う心理が分からなかった。彼があんまり強く出られない性格ということは分かっているが、どうやら不満すら持っていないようなのだった。
「たまにはあなたの都合で私が付き合ってあげてもいいのよ?」
「いや、ぼくはこれでいいのさ」
それが諦めなのか達観なのか判別は付かなかった。ともあれ月奈はいつものように耀司を遠慮なく付き従わせた。
豪遊という言葉が相応しいように月奈は爆買いを始めた。すこしでも気に入ったものはすべて購入していく。
「いくら警察から潤沢な援助があるからって、無駄遣いはいけないよ」
「うるさいわねぇ。お買い物は思い立ったら吉日なの。出逢いは一期一会なの。もしスルーして誰かほかの女に買われたら私は一生後悔するわ。それにお金は使ってナンボよ」
「それは刹那主義だよ、月奈」
「せつなしゅぎ、とかむつかしい言葉を使うぅ〜」
月奈は耀司のお小言にむぅ、と口を尖らせた。しかし彼がなにを言おうとも買い物を止めるつもりはなかった。彼女は向かうところ敵なしだった。それは昼でも夜でも同様だった。そして耀司には彼女をまったく止められなかった。彼の両腕には次々と紙袋が下げられていった。しかし彼ははにかむような笑みを浮かべるだけである。
「……荷物持ちってそんなに楽しい?」
「ぼくは月奈が楽しそうにしているのが楽しいのさ」
「なに、それ」
それなりに長く友達付き合いをしている割に、月奈にはどうにも耀司のことがよく分からない部分があると思っている。この時もそうだった。だがひというのはそういうものだと割り切ってもいる。向こうだって、こっちの分からないことはいくらでもあるだろう。
そんな感じで耀司を連れ回す月奈。ランジェリーショップに入った時にはさすがに彼も苦い顔をしていたが気にしない。可愛くてセクシーな下着を着るのは月奈の好きなことのひとつだ。別に誰かに見せる訳でもないが。
「ねえ、本当にお金は大丈夫なの?」
「大丈夫ダイジョーブ」
月奈はあっけらかんと言った。今日はしこたま散財しているが、逆に言えばこういう時にしかお金を使わないのが彼女でもあった。だから貯金はたくさんあるのだ。お金を銀行口座に腐らせておくのは勿体ないから、こうやって時たま放出するのである。
それも十分楽しんだところで小腹が空いてきた。ルナティカンも食べなければ生きていけないのである。その辺りは超常的な悪魔とすら恐れられている存在だとしても人間の延長上にある生き物であると言える。
「さ、買い物はこれくらいにして、今度はラーメンを食べに行きましょう!」
「さっきミエスクで食べたばっかりじゃないか」
「だってお腹が空いたんだもの」
「月奈は健啖家だね」
「またいかめしい言葉を使ってる」
月奈は耀司のことをインテリなんだなあ、と思っていた。その割には鼻に付かないのが彼のいいところである。可愛らしさすらある。
周防月奈と霧島耀司の関係はこんなものだった。
◇
今日やることはあらかた終え、あとは変えるだけだなぁと月奈は思っていた。マンション自体が市街地にあるので歩きで帰られる。その点がじつによかった。その頃には時刻も午後4時になっていて、そろそろ夕ご飯の心配を始める頃だ。
「月奈は夕ご飯はなにを食べるか決めてる?」
耀司が訊いた。月奈は首を横にふった。
「いんや。テキトーに宅配で済ませようかと思ってるけど」
「なんならぼくが作ってあげようか?」
「耀司はなんでもできるからねえ」
「それほどでも」
頭を掻く耀司を見て、月奈は本当に彼は善人なのだなと再確認した。それだけに損をしているところも多いのだろうけれど。
「もう12月ね。日が落ちるのが早くて早くて」
月奈は夜は嫌いではないし、昼も隙だったが。こうやっ西日の差す時間帯だけはどうにも苦手だった。なんだかアンニュイな気分になってしまい、それは自分のありようとしてはいささか似合っていないような気がするからだった。
「ま、今日は遠慮しとくわ。一日中こき使うのも悪いしね」
「そう……」
何故か耀司は残念そうだった。
「さてさて、もう帰りますか。きょうはありがとね」
そう言ってマンションに向かおうとしたその時、路地裏から女性の金切り声が上がった。悲鳴だった。それもただ事ではない――なにか直接的な被害を受けたような声だった。月奈は直感で、それがルナティカンの暴行であると思った。理由はないが、間違いなくそうだ。
彼女は駆け出した。
「月奈!」
耀司の制止も聞かずに彼女はその場面へと向かう。人通りのない路地裏には首から血を噴出して倒れている大人の男女2人、そして子供が1人いた。それを憤然と見下ろすようにずいぶんと刃渡りの長いナイフを持った男が立っている。割と若いように見えたが、ルナティカンは発現したときから老化が止まるため、本当の年頃は分からない。低身長で小太りの、髪もろくに手入れしていない男はお世辞にも好男子とは言い難い。むしろ醜男だった。
「ひ、ひひ、ひひひ……お前が悪いんだぞ、先生。お前が僕を虐め続けてきたからっ……そうだ、これは天罰だ! そして罰を与えるために神様が僕に力をくれたんだ!」
男の声は震えていた。興奮と恐怖がまぜこぜになった声色である。人間の殺害には慣れていないような感じに見える。倒すのは簡単だろうと月奈は思った。しかし被害者を助けられるかどうかは分からない。いずれにせよ、ルナティカンの暴虐としてはひどく小規模である。しかしだからといって看過はできないのが月奈の性格だった。
「そこまでよ!」
月奈が仁王立ちして男を指差した。それに遅れて荷物で手が塞がった耀司が付いてきた。男はそれを一瞥するなり、ヒヒヒと卑猥に口を歪める。どうやら彼は月奈の顔を知らないらしかった。
「なんなんだよぉ。こいつが悪いんだよぉ。こいつがぁ、高校で僕を虐め続けたんだ。そうだ! これは正当な復讐なんだよぉ!」
「どうせしょうもない逆恨みでしょう。小物の顔が隠せてないわよ」
「月奈、今は武器を持っていない……」
それは大した問題ではなかった。こんな相手ならどうとでもなると月奈は断じていた。
「なんだよぉ! お前まで僕を馬鹿にするのかよぉ! 見ず知らずの女になにが分かるって言うんだ!」
「醜い心は醜い顔に出るものよ」
男はナイフをぶんぶん回して威嚇する。それから下卑た顔をさらに歪ませた。
「そ、そうだ。僕は生まれ変わったんだ……だからなんでもできるんだ! お前を犯して殺すことだってなぁ!」
「童貞臭いのよ。言ってることが」
月奈が小馬鹿にするように肩を竦めると、男はいよいよ暴発した。ナイフを構えて月奈に突進してくる。しかし月奈の目にはそれはひどく緩慢に見えた。彼女はゆったりとコートを脱ぎ捨てながら、その斬撃をすんでで躱す。月奈はなお彼を小馬鹿にしていた。
「月奈、やるなら早くやらないと」
耀司は荷物を下ろすことはしなかった。助太刀はしないつもりなのだろう。この程度の相手なら月奈が後れを取ることはないと信じているようだった。
一撃目を躱された男は大きくよろめいた。その間を突いて月奈は距離を取った。耀司に言われるまでもなく、次の交戦で決めるつもりだった。腰を落として構える。
「あんたはアンラッキーだったわね。こんなタイミングで私に見つかるなんて」
「お前がなんだってんだよぉぉぉぉッ!」
男が突撃する。だが月奈はその中にある一瞬の隙を見逃さず、相手の懐に飛び込んで鳩尾に肘打ちを喰らわせる。男はお腹を下した時のように身体を屈め、その苦悶のままナイフを落とした。それを月奈は見逃さなかった。それを拾って自分の得物とすると、そのまま悶絶したままの男の心臓に抉るようにして突き刺した。過度な出血はさせたくなかったのである。それは相手を思ってのことではなく、ただ自分が汚れるのを嫌ったからだった。
男は物言わず崩れ落ち、絶命した。耀司はキリスト教徒でもないのに十字を切る仕草を見せた。
「しかしまあ、本当に不運だったね、彼にしてみれば」
「因果応報ってやつよ」
「なら、月奈やぼくにも因果応報が来るのかな」
「あら、私は品行方正に生きているわよ」
軽口を叩いている場合ではないことは分かっていた。犯人を仕留めたあとは被害者に気を使わねばならない。
きっと親子連れだったのだろう。倒れた男は中年から初老に差し掛かろうとする年頃に見え、その妻であろう女はそれに連れ合うにはやや若いように見えた。そして2人の子供と思われる少女はまだ小学生と思われるほどに小さい。休日の団欒だったのだろう。その親子の幸せがこんなところで悲劇と化すなどとは許せないことだった。
「ダメね……みんなもう死んでいるわ」
「いや、ちょっと待って」
耀司は少女に駆け寄って脈を取った。子供も無残に首を掻き切られていたが、かろうじて動脈を外しているように見えた。それでも出血多量ではある。
「この子、まだ生きている」
耀司は言った。その時感じた閃きは、月奈にとっては後々も不思議に思うことになった。自分にも母性があったのかも、と彼女は思った。
「早く救急車を呼んで……」
「ダメよ。病院に行く前に死んじゃうよ。それよりかは」
それは一か八かの賭けだった。しかしこの場で少女が生き残る可能性があるのはそれだけだった。
「月奈、なにをする気……」
躊躇していれば耀司に止められることは分かっていた。だから月奈はすぐに行動に移した。持っているナイフで手首を切り、その自分の血を少女に飲ませたのである。ルナティカンである月奈の血はルナティック症候群を感染させる。しかしどの道このままでは彼女は息を引き取るだろう。しかしルナティカンとして覚醒すれば――
「お願い」
神頼みは滅多にしない月奈もこの時ばかりは天に祈るしかなかった。
「……月奈は賭けに勝ったようだね」
少女の変化を見て耀司は呟いた。それにしては渋い声色だった。いくらルナティカンとして新生しても、彼女にはつらい人生が待っているだけではないのか。そういったことは月奈も思わないではなかった。でも彼女は生きてさえいればいいことはあるはずだと考える強靭な楽観主義者だった。
少女の傷はみるみるうちに塞がっていく。それは彼女が変身した証拠だった。息も穏やかになり、安らかな顔になっている。だがまだ意識は取り戻していないようだった。
「とにかく後始末は着けないと」
「ええ、宇田さんに連絡するわ」
「この子はどうするの」
「取り敢えず、私たちで保護しましょう」
それはそれだけの話だった。だがこの事件の意味を月奈たちが知るにはもう少し時間が必要だったのである。