26:丘の向こう側
鬼塚学は最初期のルナティック症候群罹患者だった。当時彼は24歳、大学院で哲学を学んでいた。その道では将来を嘱望されていたが、症候群に罹ったことによりその道は閉ざされた。そしてルナティカンとして覚醒する。現在は46歳だが肉体の若さはその昔のままである。
彼もまた、ルナティック症候群研究所への被検体として移送されるはずだった。だが逃亡し、そこからはひとりで戦い始めた。彼の戦いはルナティカン解放のものだった。差別されるでもなく、憐れみを持たれるでもなく、ただルナティカンも人間として生きられる世界を模索し続けた。だが当初の彼はやや性急に過ぎた。月奈の入っていた研究所の襲撃を指揮したのは彼である。患者の解放、という意味ではその本懐を成し遂げたのであるが、野に放たれたルナティカンたちは結局犯罪者になり、月奈はルナティカン・ハンターとなってしまった。
組織を再編する必要があった。そしてその内容は決して力に溺れぬルナティカンにしなければならない。その中で鬼塚は新たなる着想を得た。新しいい力を得た新人類――彼はルナティカンをそう定義した。そこにはニーチェの思想も加わっていたかもしれない。超人思想である。
ルナティカンは莫大な力を持っている。ゆえにこそそれは正しき道に導かねばならない。だが鬼塚は自分の思想は認めても、それを実行する指導者としての器には欠けていると思った。新時代の導き手が必要だった。それにはもっと若い力が必要だと思っていた。
そこに現れたのが霧島耀司だったのである。耀司もまた、ルナティカンが虐げられ、その反動として暴力が発生するという悪循環に心を痛めていた。そして、月奈を奪った現体制に憤怒を抱いていた。最初は行き場のない怒りだけだった。だが耀司は鬼塚と出会うことで社会への憎しみを、社会を変革しようとする意志に昇華させた。
かくして月命党の母体は生まれた。そして活動を開始し、その勢力は少しずつだが伸長している。もう少しで人々は我々を救世主とみなすだろう。だが、彼らの目的は治安維持ではない。
新人類、ルナティカンを中心とした新世界の構築である。
◇
活動も安定してきて、確固たる拠点もできた。鬼塚はもうそろそろかなと思いつつも、前の失敗が未だトラウマになっていて動けだせないでいた。
「さあさあさ、コーヒーが淹れ上がりましたよー」
のんきな声で言ったのは、エプロンを身に着けた森川桜乃だった。アジトの会議室では彼女、鬼塚、鍵屋、そして耀司がいた。これが月命党の首脳陣である。
「ほらほら、今日も冷えるんだからあったかくして!」
首脳陣、とはいっても桜乃は世話係であり、鍵屋は戦闘部隊の指揮官である。頭脳と言えるのは専ら鬼塚と耀司である。
彼らはそれぞれコーヒーを受け取り、ちびちびと飲んでいく。鬼塚はロングピースに火を点け、耀司もそれにならった。桜乃はあまり煙草は好きではなかった――臭いが苦手なのだ。しかし鬼塚が吸っている姿はとても様になっている。耀司の方はあまりそんな感じはしないが、なんとなく背伸びしている少年の面影があって愛らしい。
「ありがとう、桜乃さん」
はにかむように感謝の言葉を述べる耀司に桜乃は目を細めた。しかしそれでも今日の会議の剣呑さは残っていた。今日、決定的な裁断が下されることは彼女にも分かっていた。そしてそれはもう後戻りできないものであることを悟っていた。
桜乃は月命党、とりわけ鬼塚の思想に全面的に賛同している訳ではない。彼女の理想は人間もルナティカンも穏やかに過ごせる優しい世界だった。しかしそれが不可能であることも分かっていた。だからこそ、まだ近しい思い、少なくとも世界の現状に納得のいっていない者の集い、月命党に参加しているのである。
もっとも、それだけが理由ではないが――
鬼塚が灰皿に煙草を押し付け、吸い終える。会議室の中にはいまだ紫煙が燻っていた。やや置いて、耀司も煙草を灰皿にやった。それから鬼塚は立ち上がり、場を睥睨した。耀司は頬を爪で掻いて平然としている。鍵屋は自分のやることは戦いだけだと言わんばかりに猛然としていた。静かな興奮というものがあれば、それはこの時だった。桜乃はその雰囲気をあまり好きになれなかった。彼女が愛するのはいつだって平穏と安楽なのだった。
だからこそ、桜乃は耀司と鬼塚が進めている「計画」を危惧していた。
「長かったな」
「ええ、長かったです。いや、鬼塚さんの雌伏に比べればぼくのものはなんともないでしょうが」
鬼塚も耀司も決意を持った表情でお互いを見ていた。そういう時、桜乃はどうして自分は男ではないのだろうと思ってしまう。ここに女の入り込む余地はない。強固な男の信頼、友情に対して女は無力であるばかりか、邪魔者ですらある。
桜乃は2人のことをただ眺めていた。「計画」に関して細かい話を詰めている。それが実行されれば、よかれあしかれ、社会は変わるだろう。しかしそれが彼らの思う通りになるとも思えない。秩序というものはそう簡単に破壊はされないものだ。
「来週日曜日に決行する。我々はもう戻れない――その覚悟はあるか?」
鬼塚の問いに、耀司と鍵屋は引き締まった顔で頷いた。ただひとり、桜乃だけが浮かない顔をしていた。しかし鬼塚たちは私の意向などどうでもいいのだろう。いや、今の社会を変えるためになにかの行動が必要なのは分かっている。ルナティカンたちの自由――それはもっと強力に希求されていいものだし、だからこそ桜乃は強く反対はしない。私は私のやれることをやるだけ――そう思っていた。
◇
桜乃が耀司と知り合った時、彼女はただのOLだった。ルナティック症候群もルナティカンもどこか遠くの事件に思っているただの一般人だったのである。ごくごく平凡の人生を送っていたところに、災厄は隕石が降ってくるようにやってきた。
そもそも桜乃は自身のセックスアピールについて無頓着だった。その身体が男の劣情をどうしてもくすぐってしまうものであることを――それまで彼女がルナティカンに襲われなかったのは奇跡としか言えないのだったが、奇跡は永続するものではない。ある夜、彼女はひとりで歩いてる時にルナティカンの集団に襲撃された。その目的はまったく性的なものだった。
よくある事件といえばよくある事件である。だが彼女にとって幸運だったのは、そこにたまたま耀司が通りかかったことだった。かれは瞬く間に暴漢たちを片付けてしまった。ルナティカンの暴虐な力に初めて晒されながらも、一見優男に見えながら鋭く力を行使し、桜乃を助けたその力に魅了されていた。
「大丈夫ですか?」
へたりこんだ桜乃に、耀司は優しく手を差し伸べた。彼女はその瞬間を決して忘れることはないだろう。
ひらたく言えば、桜乃は耀司に一目ぼれしてしまったのである。
彼を振り向かせるためにはなんでもすると思った。会社を辞め、月命党に参加した。それだけでは飽き足らず――彼女は耀司の血を受けることを懇願した。
耀司は困惑していた。当たり前ではある。
「本気なの? 十中八九死ぬことになるし、もし生き残ってもこれまでの人間としての生はすべて水泡に帰すことになる」
「それでもいいの……私が、あなたのそばにいるためならなんでもする」
桜乃の強力な説得に、結局耀司は折れてしまった。
結果として、桜乃はルナティカンとして新生することになった。そして月命党の中枢に入り込むことになった。
桜乃の人生の中心に耀司が据えられることになった。個人として心配しつつも、結局のところ計画に反対しないのは、彼に殉ずる覚悟を決めているためである。
鬼塚と鍵屋が席を立ち、会議室には桜乃と耀司がふたりきりになった。この時間がずっと続けばいいのに、と思いながら桜乃は再びコーヒーを淹れ、耀司の隣に座った。彼は申し訳なさそうな顔をしていた。それだけを見れば、耀司は年下の可愛い子である。だが桜乃はその柔和な外見、仕草の中に強い芯があることを知っている。
「桜乃がこの作戦にあまりいい気はしていないのは知っている。でもやらなきゃダメなんだ。誰かがやらなきゃいけない――それがぼくであることにまったく後悔はしていない」
「いいの。あなたはあなたの道を行けばいい。私はそのあとにずっと付いて行くから」
2人は肩を寄せ、コーヒーを飲み干してから耀司は桜乃の肩をつかんだ。桜乃は蕩けるような時間を味わった。それでも哀しみは残る――彼が本当に好きなのは桜乃ではないことを知っているからだった。だから、月奈に初めて接触した時、自分はもっと嫉妬を覚えるのではないかと思った。しかしそうはならなかった。いや、嫉妬はしているが、それほどでもなかったということと――周防月奈に予想外の好意を抱いたからだった。
それゆえに、桜乃の心は引き裂かれた。彼女が月奈たちに接触したのはまったく独断行動だったが、こんなことになるとは思っていなかったのだ。
「どうして、世界はみんなが幸せにはなれないようにできているのかしら」
桜乃は耀司に導かれるままに肩を寄せた。哀しいことも、つらいことも、今はひととき忘れたい。彼に溺れたい。しかし――
「なんだか悪いな。ぼくは――あなたの好意を好き勝手に使っている」
「それでもいいの。あなたの心が私に向いていなくても。ただこうやって傍に置かせてくれるのなら……」
桜乃は女の弱さを感じずにはいられなかった。それでもどうしようもない。
私は、彼を好きになってしまったのだから。だからどこまでも付いて行く。それがどうしようもない地獄への道だったとしても。




