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24/37

24:めばえ





 冬休みはとてもいい時間だったな、と月奈はしみじみ思った。ずっと苺と過ごせたからだ。それが終わればまた小学校が始まり、苺と半日別れる毎日が続いた。もちろん送り迎えはしていた。だが、苺がにこにこした顔で手を振りながら校舎に消えて行く時、月奈はどうしようもない淋しさと切なさを同時に味わうのだった。


 こんな気持ちは初めてだった。苺のことを思うと身が焦がれるような思いになり、嬉しくなり、身体が熱くなる。それはますます加速していった。あの動物園の日からそれはどんどんひどくなっていった。確信に変わったのは、あの森川桜乃とかいう女が現れた時かもしれなかった。月奈は彼女と苺が楽しくお喋りしている時――正体不明の嫉妬に駆られたのである。


「……修行が足りないわ」


 心を乱すことは決してあってはいけないことだった。どんな時でも平静でいなければならなかった。それが戦いに身を投じる使命を持つ自分の責務だと思っていたし、また矜持でもあったのだ。


 それでも月奈は嬉しかった。なんというか、説明は難しいが――乾いた人生に潤いが与えられたような、そんな気持ちだった。苺は砂漠の中に見つけたオアシスだった。


 月奈はいつものように苺を送った後、家に帰る気にもなれず、かといってなにかをする気にもなれず、ただどうにもならない思惟を抱いてふらふらしていた。そうこうしている内にいつのまにか繁華街にまで来てしまっていた。もちろん、平日の昼前だから人通りは少ない。事件が起きる臭いもしない。月奈は幽鬼のように、あるいは糸の切れた凧のように街をふらつき、彷徨っていた。自分がなにをしたいのか、なにを求めているのかも分からなかった。ただ苺のことが頭から離れないでいたのだ。


「はぁ……」


 どうにもならない思いだけが膨らんでいく。いったいどうしてここまで切ないのだろう? そもそも切ない、という感覚自体が月奈にとっては新しいものだった。しかも、そこにはどこか甘い味がある。苺のことを考えるとうきうきする。どきどきする。そして今ここに彼女がいないことに途方に暮れ、また切なくなる――そんなことの繰り返しだった。


 天下の周防月奈がこんなことでいいのか。


「よくないっちゃ、よくないんだけど……」


 心のどこかで、この整理の付かない気持ちが、とても大事なものであると確信していた。それは決して捨ててはいけないものだと直感していた。しかしもどかしいことにも変わりはない。


「ああ、もう」


 歩いている時もずっと苺の笑顔が脳裏に浮かんでいる。どこを進んでいるかも分からない。じれったい気持ちと、意味不明に幸せな気持ちが交差し、彼女から理性を奪っていく。


 自分はひとりだった。これからもひとりであると思っていた。ひょっとしたら、あの時苺を拾ったのが間違いだったのではないかという疑念もよぎる。少なくとも彼女の登場で単純明快だった自分の人生に深い惑いと難解な謎が生まれた。


 そんな感じでほとんど朦朧していたものだから、SNSに通知があったこともしばらく気付かないでいたのだった。気付いたのは気分を紛らわせるために公園で休み、ゲームでもやろうとした時だった。


 相手は森川桜乃だった。文面にはこうあった。


『お暇でしたら、一緒にお茶でもどうですか?』


 このタイミングで彼女がそんな誘いをしてくる理由が分からなかった。だが月奈は思った。こんなに煩悶するのは暇だからなのだ。誰かと過ごしていれば少しは気が紛れるかもしれない。そうしていつの間にか苺を迎えに行く時間になる。そうすればこんな惑いともおさらばだ。それに、月奈はすでに桜乃のことを気に入っていた。彼女と喫茶店なんかでお喋りとなれば楽しい時間になるに違いない。


 それがある種の現実逃避だとは分かっていても、月奈はそれに縋る以外の選択肢はなかった。



         ◇



 桜乃はそのまま月奈が佇んでいた公園に来てくれた。彼女は女としての魅力をふんだんに振り撒く格好をしていた。紫のタイトミニワンピースに黒いコートを前をはだけて着ている。僕初的な巨乳は惜しげもなくその存在を主張し、むちむちの太腿は黒パンストを穿いてよりその魅力が強調されている。ここまで圧倒的な差を見せ付けられると、嫉妬するよりも笑ってしまう。そんな彼女に恋人がいないというのは恐るべき謎である。


 男なら10人中10人が彼女にしたいと思うのではないか。少なくとも自分が男ならそうなってしまう自信が月奈にはあった。いや、女の立場ですら彼女には魅了されていた。背筋が凍るほどの美女――それが森川桜乃だった。


「やほほーい」


 その美貌にそぐわぬ気さくさで彼女は手を振った。いささか気の抜けた気持ちで月奈は手をひらひらして返答した。


「うほほい、月奈ちゃんは今日もかわいいねえ」

「こんにちは」

「うーん、ザッツクール。お姉さんぞくぞくしちゃう」

「あなたはいつでもそんな調子なの?」


 多少呆れ気味に月奈は言った。桜乃はてへへと頭を掻き、ぺろりと舌を出した。


「こんなだからモテないのは分かってるんだけどねえ、最初はいいけどみんなそこで引いていっちゃうの」

「はぁ……」


 世の中にはそのギャップにやられる男も多いだろうと想像したのだが、彼女がそう言うのだから、まあそうなのだろう。単に男運がないだけかもしれない。


「でもまあ、ごめんね。急に誘っちゃって」

「私も暇だったからいいわよ」

「苺ちゃんの出迎えまで時間があるから?」

「まあ、そういうこと」


 桜乃は自分が周防月奈であるということを知って接しているはずだ。宇浪野市では月奈の名前を知らない者はいない。その程度の自信はあった。しかし桜乃はじつに自然体でこちらに接し、むしろ気圧されているのは月奈のほうだった。


 2人はそのまま「ミエスク」に移った。ミエスクは一件渋い喫茶店に見えるが、その実女性向けのメニューは多く、隠れファンは多いのである。という訳で桜乃は大盛りでバナナまで付いてくるチョコレートパフェを頼んでいた。注文の品が来た際にはきらきらしたように目を輝かせ、その様は少女のようですらあった。その豊満な肢体を維持するにはそれくらいのカロリーが必要なのかもしれない。


 月奈はブラックコーヒーを頼んだ。甘いものが欲しい気分ではなかったのだ。


 最初は他愛もない話が続いた。元来雑談というものが得意ではないが――他人と色々接する機会が少なかった生い立ちのせいで――桜乃の巧みな話術と雰囲気作りで月奈はいつになく饒舌になっていた。彼女はカウンセラーかなにかをしているのかと思った。


 そうやって無防備にさせられた月奈の心臓に鋭く突き刺さる一撃が放たれた。


「月奈ちゃんは、恋をしているのだと思うのよね」


 あまりに唐突な一撃だったので、月奈は目を丸くして茫然とした。


「ど、どうしてそう思うの?」

「だってぇ、ほらぁ、恋する女の子のオーラってのは隠しようがないものよ。相手が誰だか知らないけど、ああまったく羨ましい。たとえ実らなくても、恋をするというのはそれだけで幸せなもんよ」


 私が恋などと。


 人生で一番無縁だと思っていた言葉を前に、月奈は知り合いの異性の顔を浮かべた。まずは耀司だったが、彼にはまったくときめいていない。次に宇田だったが、こちらは歳が離れすぎている。恋と言われても相手が分からない。


「恋なんて、してないわ……そもそもそんな感情も持ったことがないし」

「そうかしら」

「だって、私の回りには魅力的な男なんていないもの」


 月奈の言葉に桜乃はちょっとだけ――よく観察していないと見過ごす一瞬だけ眉をひそめた。いったいどういうことなのかと思ったが、藪から蛇を出すのも嫌なので月奈はそれを無視した。


 桜乃はすぐにいつもの調子を取り戻して言う。


「恋の相手は異性だけとは限らないよ」

「私がレズだって言うの?」

「いや、会ったばかりだから分からないけど。でも月奈ちゃんがレズだったら、私も付き合っちゃっていいかなー、なんて」

「そんなことはない……そんなことは」


 苦々しく呟く月奈に、桜乃はけらけらと笑った。


「ま、私は可能性のひとつを言っただけだからね。あんまり深く考えなさんな」

「そんなことを言うために私を誘ったの?」

「そんな訳ないじゃない……と言いたいところだけどじつはその通り。なんか月奈ちゃん、会った時から悶々としてたから、お姉さんとしてはちょっと手助けしたかったのよね」

「はぁ……それはどうも」

「素直に自分の心を見つめてごらんなさいな。そうしたら答えは自ずと見えてくるよ」


 桜乃は続けた。


「頑張りなさい。お姉さん応援してるから」



        ◇



 などとミエスクで話している内に苺の下校時刻が迫ってきた。桜乃とはそこで別れ、そのまま小学校に向かう。


 惑いは大きくなるばかりだった。自分の中に自分が制御できない感情があるのがどうにもじれったく、しかし幸せな気持ちもある。これが恋というものなのだろうか? もしかしたらそうなのかもしれないが、人生を闘争に費やしてる自分が持っていい感情なのだろうか。


「素直に自分の心を見つめる……」


 一旦そうすると、自分の中には分からないものでいっぱいなことが分かる。これまで顧みなかった心――様々な感情が自分の中で渦巻いている。その中の深奥に、まるで盗掘を恐れる王族の墳墓のように守られた宝石があった。それに触れると、背筋がぞくりとし、頭がぽわぽわして、身体の芯から切なくなるような思いが溢れ出てくる。


 恋。


 恋。


 それは彼女に初めて生まれた芽生えだった。無性に嬉しくなるような感覚。自分は馬鹿になっているのではないかと思った。しかしそれを無理矢理押さえ付けることはできなかった。そうすればそうするほど、指で蛇口を抑えた水のように激しく漏れ出す。


 しかし、恋をしているのだとすれば、それはいったい誰に?


 そんなことを考え、頭が沸騰しそうになっていた頃、ちょうどランドセルを背負った苺が下校してくる。ひとりでボンヤリと歩いていた彼女が、月奈を見ると満面の笑顔で手を振り、駆け出してきてそのまま月奈に飛びついた。


「つきなー、ただいまー」


 その満面の笑顔を見て、そしてその温もりを感じて、月奈の中でなにかが弾けた。


 恋。


 まさか。

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