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2:なんでもない日





 月が紅く光り輝き始めたことと、ルナティック症候群の発生。その科学的因果関係は証明されていない。しかしそれは確かにほぼ同時に起こったことである。


 21世紀初頭、世界同時多発的に発症者が現れたそのルナティック症候群はなんら感染源が不明、突発的に発症する病気として世界を大混乱に陥れた。その発症者は精神的に発狂をきたし、ついには衰弱して死亡する。その致死率は当初100%だと思われていた。無論、その医療のために研究が世界中で行われたが、ついにはその治療方法は確立されなかった。狂犬病との類似も確認されたが、この病気はなんの前触れもなく突発的に発症することと、発症者から血液を介して(性行為を含む)感染することが確認されただけである。


 一時期紅い満月を見た者が発症するという噂がまことしやかに流布したことによって夜出歩くことが一時的に激減したこともある。しかしやはり月と症候群の関連性は認められなかった。恐るべきパンデミックによって、世界経済は混沌の極みを見せ、その後遺症は未だ残っている。発生から20年経ち、その蔓延率は落ち着いているが、なお民衆の恐怖の対象であることに変わりはない。


 だが、ルナティック症候群はもうひとつの恐怖を振りまいた。というのは、ごく少数の罹患者の中に、特異な兆候を見せて生き残った者がいるのである。かれらは死なず、超常的な筋力、不老の身体、そして驚異的な肉体再生能力を持って生まれ変わったのである。それらはルナティック症候群罹患者の100人に1人は生まれると考えられた。程なくしてかれらは差別の対象とされ、その反動で反社会的な活動を行う者が続々と現れた。世界の治安は激変した。各地で体制とかれらの衝突が起こり、平和な世界は永遠に失われたかのように思えた。


 かれらは畏怖と侮蔑の意を込められ、〈ルナティカン〉と呼ばれた。



        ◇



「ふんふふんふふ〜ん、あぁいい湯だなぁ」


 月奈は人生は愉しまなければいけないと信じる楽観主義者だったが、わけても毎日の入浴は特段の歓びだった。どんなことがあっても湯船は張り、シャワーで済ませることはない。ヒマがあれば温泉旅行にも出かける――もっとも今の彼女にそんなヒマを見つけることは中々に難しかったが。


 一仕事終えたあとの風呂はまた格別である。不快な返り血を洗い流し(服に付着した分はクリーニングに出さなければならないだろうが)、垢も落としてさっぱりする。心がすっきりする。入浴というのは人類の偉大な発明であると月奈は本気で信じていた。自分のような女にとってはなおさらそうだった。張り詰めた精神を穏やかにするためにお風呂は絶対に欠かせないものだった。


「幸せなんて簡単なところに転がっているのに、なんであいつらは暴力に走るのかねぇ」


 彼女は自由について考えていた。暴力で欲望を他者に強要するのは断じて自由というものではないと月奈は考える。それは自由ではなく無法である。


「男ってみんなレイプとかしたいものなのかしら」


 彼女の頭の中には明らかに今夜助けた女の姿が浮かんでいた。彼女らが結果的に助かったのは、まさに女だったからだ。月奈は男と付き合ったことがなかったから、その性衝動については想像に基づくしかなかった。男は総じて下衆である――と断じるほど彼女は愚かではなかった。だが性欲というものがしばしば破壊的な結末をもたらすものである事実を彼女は幾度となく見てきた。男のルナティカンは、その獣性を持て余し、無辜の女性に向かう。幼い時からルナティカンとして覚醒した月奈には、男の下劣さと同じくらいに女の恐怖を理解できない。彼女を無理矢理犯すことのできる男などこの世にはいないからだ。


 そんなことを湯船に浸かって考えている内に熱が回ってきてのぼせてきてしまった。しかし月奈はふらふらするほどに湯船に浸かるのが好きだった。仕事のあとは特にそうだった。緊張、あるいは高揚した心をボンヤリ穏やかにしなければろくに眠れもしないことが分かっているからだった。


「はぁ、気持ちよかった……」


 いい加減風呂から上がり、彼女は肩上まで切り揃えたストレートのボブカットの髪をタオルで拭いていく、それから全身を乾かし、ゆったりとした灰色のスウェットに着替えるのだった。外に出る時はぴったりした服を好む月奈だが、家にいる時は打って変わってリラックスした服にする。その時、風呂から上がった彼女を見て、魔女など死神などと呼ばれる最強のルナティカンを見出すものはいるまい。


 いつの間にか時刻は午前1時を過ぎていた。いつもならそのまま眠るところだが、この日は風呂に入っても戦闘の高揚を完全に払拭はできなかった。眠気は一向に来ずに、むしろ目は冴える一方だった。こういった日はどうすればいいか、彼女はよく分かっていた。


「酒だ酒だー!」


 月奈の住処は宇浪野市の都心にある高層タワマンの最上階である。女ひとりが住むには大きすぎる家であるようにも思えたが、彼女はその豪奢な生活を存分に嗜んでいた。それが彼女の自由の証明だった。自由に食っちゃ寝、自由に仕事し、自由に戦闘する。周防月奈は人生を謳歌していた。ルナティカンとなったことも前向きに受け入れていた。


 バスタオルを頭に巻いたまま、彼女は大きな冷蔵庫からロゼのシャンパンとつまみのスモークチーズを取り出した。そしてそれをテーブルに置いて、自堕落にふかふかのソファへ身体を投げ出す。幸せな瞬間は入浴から地続きにある。彼女はシャンパンの栓を開け、グラスにも注がずにそのままラッパ飲みする。彼女はウワバミであり、お酒は幾ら入って行っても自失するほど酔うことはない。ふんわりした酩酊感をずっと味わえるお得な体質だった。


 静かなのが嫌だったので、月奈はテレビを点けた。60インチの4Kテレビである。チャンネルをたいようテレビに合わせる。この時間はアニメがやっているはずだった。あんまりテレビなど見ない彼女だが(そのくせ大きなテレビを持っているのは、彼女の浪費癖を端的に物語っている)アニメはそんなに嫌いではない。少なくとも退屈な芸人が空騒ぎするバラエティよりかはずっといい。


「がんばえー、マジカルリリィ」


 童心に返ったつもりでアニメの主人公にエールを送る。ずぼらに酒を煽りながらこんなこともできる。それが彼女が積み上げた仕事の成果であり、その上で手に入れた自由だった。月奈はひとりだったが、それで淋しくも悲しくもならない。自分はひとりで生きていける自信があった。自分を邪魔できる存在などいないのだから。


「最強ゆえの孤高ね……」


 深夜アニメらしく、ダークな魔法少女ものがやっていた。マジカルリリィはひとりで痛快に化け物どもを屠っていく。こういった作品がはびこるのも世相を反映した結果なのかもね、と月奈は思った。そして圧倒的強さで敵を蹂躙する魔法少女に共感できる女は私くらいのものだろうと思った。マジカルリリィは畏怖を覚えさせるキャラ付けがしてあって、親しみをもたせる人物像にはないのだが。


 しだいに頭がボンヤリしてきて、アニメの内容も入ってこなくなる。この後はスポ根もののサッカーアニメがやるはずだったが、そこまで見るつもりはなかった。ようやく眠りに着けるな、と思ったところに急にインターフォンが鳴った。


「ああん、もう」


 月奈は腰をくねらせながら起き上がり、すでに空になっていたシャンパンのビンをテーブルに置いてモニターフォンに向かった。誰が来たかは分かっていた。分かってはいたが億劫にすぎる。


 モニターにはがっちりとした体格の中年男性がなんだか疲れた顔をして立っていた。宇田である。宇田喜朗(うだよしろう)。県警の刑事であり、月奈の「仕事」のサポートを行っている男である。きっと今日の事件の報告に来たのだろう。こんな深夜にご苦労なことだ、と月奈は思った。そんなことは明日に回してもいいのに。


 ということを部屋に迎え入れて言うと、宇田はいかつい顔を綻ばせて返した。


「俺は明日が休みなんだよ。休日出勤だなんてまっぴら御免だ」

「仕事熱心なのか、そうでないのか意見が分かれるところね」


 月奈が酒を勧めると、宇田は車で来たといって首を横に振った。そして空になった酒瓶を呆れるような目で見ていた。


「あんな仕事のあとで、よくもまあここまで空けられるものだ」

「お酒は人生の愉しみよ。これがないと私は干からびて死んじゃう」


 それから月奈は宇田の報告を退屈そうに聞いた。本当なら寝っ転がったまま聞きたいところだったが、彼女はそこまで不躾でもない。


「……問題なのは被害者のメンタルケアだな。しかしそれは警察の管轄ではないからな」

「私の管轄でもないわね」


 それにしても、と月奈は思う。宇田はコワモテの外見に比べて(そのがっしりした体型は学生時代ラグビーで培ったものである)善人すぎるのだ。仕事は仕事、と割り切るには正義感が強すぎる。それがいずれ彼の致命傷にならないかしら、と月奈は心配するのだが、かといってどうしようもない。それに、その性格があればこそ、月奈と宇田はこれまでうまくやっていけたのだった。


「正直なところ、こういった事件は増加の一歩を辿っている」

「ルナティカンは中々死なないからねぇ。それが増えていけばまあそうなるでしょ」

「俺としてはきみのような協力者がもっと増えてくれればいいのだが」

「それは難しいねぇ」


 基本的にルナティカンは反社会的な存在として卑下されている。国家権力、なかんずく警察に恨みを持っている者は多い。月奈はその能力、性格、そして経歴的に例外的すぎる存在なのである。


「ううむ。すまんね。愚痴を言いに来た訳ではないのだが」

「気にしないで。私はこれでも聞き上手だから」

「それは認めるよ」


 月奈は宇田の顔をまじまじと見た。


「それにしても、あなたって本当に刑事らしい刑事面をしてるわね」

「それは褒めているのかい」


 宇田はあまり嬉しそうではなかった。少なくとも格好いいと言われている訳ではなかったからだ。


「しかし、これだけ酒を飲んで、女ひとりの部屋によく男を入れられるものだな」

「仕事なんでしょう?」

「それはそうだが……たまにきみの無防備さが心配になるんだよ」

「宇田さんは、私をどうにかできると思っているの?」

「それは無理だろうな」

「つまりはそういうこと」


 圧倒的な力は敵を屠るとともに自らの身を守るのにも役立つのだった。


「いやはや、恐ろしい女性だよ、きみは」


 それからふたりは他愛もない雑談をして過ごしたが、やがてさらに夜が更けてきた。いい加減月奈は休みたいと言うと。宇田も同じ気持ちだと言った。


「月奈は明日の予定はあるのかい?」

「ない。明日――って言ってももう今日だけど――はずっと寝正月」

「正月にはまだもう少し時間があるだろう。なにを言っているんだ」

「宇田さんは彼女と過ごすの?」

「俺に彼女なんぞおらん」

「結婚とかは考えないワケ? もう39歳なんでしょ」

「こんな危険な仕事をしているのだから、所帯を持つ訳にはいかんのだよ」

「危険だからこそ癒してくれるお嫁さんがいればいいんじゃない?」


 月奈がけらけらと笑うと、宇田は少し顔を赤くして苦笑した。


「それは俺の問題だ。きみにいちいち言われる筋合いはない」

「それもそうね。ゴメンナサイ」


 そうして宇田は月奈宅から去っていった。あの様子じゃ、彼も寝正月だろうなと月奈は思った。


 いい加減酔いも深く回ってきた。寝るべき時である。そして一回寝たからにはなにが起ころうとも自分が置きたい時まで眠る決意を固め。ふかふかのキングサイズベッドに飛び込んだ。


「今日はなんでもない日だったな」


 そんなことを言いながら、月奈は深い夢の世界に入って行った。

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