17:追憶
月奈は今まで自分の人生には自分ひとりしかいないと思っていた。知人や友人がいない訳ではなかったが、それでも自分は孤独だと思っていたし、それになんら哀しみも持っていなかった。
そもそも月奈には両親がいなかった。彼女の人生の記憶は孤児院から始まる。両親は雪国に旅行に行った時に交通事故で死亡し、月奈だけが生き残ってしまったのだ。その時わずか1歳。ゆえに月奈は家庭というものを知らなかった。
それでも孤児院の空気は温かったことを覚えている。特になにかしらちょっかいを掛けてくるひとつ上の男の子がいて、それが霧島耀司である。だがその記憶は曖昧で、13年後再会した時、耀司に幼馴染みだと言われてもピンとこなかった。そもそも幼馴染みというのは長く連れ合った関係を言うのではないかと思った。しかし彼にとってはそういうことなのだった。
それはともかく、月奈の幼い時期にはもうひとつの転換点があった。ルナティック症候群に罹ったのである。ルナティック症候群はいまでも謎の病気だが、当時はさらに正体不明の奇病であり、まだルナティカンの存在も一般には認知されていなかった。孤児院でそれに罹ったのは彼女だけだった。その時は4歳だった。まだ生のいみも死の意味も分かっていない月奈にその短い人生の終わりがやって来たように思われた。
だが月奈は死ななかった。ルナティカン(まだその呼称は存在しなかったが)として新生したのである。そしてそれが、また彼女の人生を変えることになった。
当時はルナティカンの脅威も顕現していなく、まだその生命力の強化も知られていなかった。生存者自体がごく僅かだったのである。つまり月奈が罹患したのはまだルナティック症候群蔓延の初期だったのである。ゆえに生き残った月奈は希少として注目された。そして彼女は開設して間もないルナティック症候群研究機関に送られることになった。
もう少し孤児院での生活が長ければ、もしかしたらそれは嫌なこととして記憶していたかもしれないと月奈は思う。だが月奈はあまりに幼かったため、自分になにが起こっているのかも知らなかった。ただ数奇な運命に流されるままだった。
月奈は純粋に研究対象だったが、研究所では過酷な実験があったわけでもなく、毎日の診察と検査があるほかは伸びやかな生活が保障された。だから月奈はその環境になんの不満もなかった。そもそも不満に思うほかの基準もなかったとも言える。それでも月奈は今になっても研究所の10年間はそんなに悪くない記憶として残っている。担当医師も看護師も職員も優しい人ばかりだった。それは幼くしてこういう境遇に陥った彼女に対する同情なのかもしれなかったが、それでもよかった。
ただ不満と言うよりは疑問に思っていたのは、ほかの患者との接触が禁じられていたのと、外出不可であるということだった。月奈はしらなかったが、その頃からルナティカンによる暴動、犯罪が急増していたのである。それらはそのことに対する処置だった。
ルナティック症候群そのものの治療方法はまったく確立されなかった。月奈たちが施設に収容されたのは、元々はそれが目的だったのだが。しかしルナティカンへの研究は進んだ。筋力増強、不老、再生能力に対しての研究は進んだ。その中でも月奈が役に立ったのは不老という点に対してである。彼女は珍しい幼児での罹患者だった。だが彼女は肉体的には成長を続けた。月奈がそうであったことで、ルナティカンは少なくとも成人までは成長することが確認された。
その時は知られていなかったが、月奈は幼少期からルナティカンとして育ったため、成人してからルナティカン化した者よりもより強靭な肉体を手に入れたのである。それが後に彼女を最強足らしめた主要因なのだった。
学校には行けなかったが、それに値する教育は行われた。それは家庭教師と生徒の関係に近かった。今にして思えばとても恵まれた環境だったように思えたが、月奈は自分があまりいい生徒ではなかったことを今でも恥じている。自分の好きな教科がは熱心に授業を受けたが、それ以外はほとんど聞いていなかった。
月奈の知っている世界は狭い世界だったが、それでも不幸だとは思わなかった。
だから、施設のルナティカン解放を掲げて襲撃したテロリストたちは彼女にとっては迷惑でしかなかったのである。いや、迷惑という言葉では生温い。彼女は今でもそれに対して憤怒を覚えている。彼らは月奈を甲斐甲斐しく世話していた恩人たちを殺してしまったからだ。
そして今でもたまにうなされるあの悪夢の現場につながる。
月奈が愛した閉じた楽園は永遠に失われた。ひょっとしたらその時こそが、自分はひとりであると悟った時なのかもしれなかった。テロリストは皆殺しにしたが、月奈には行くところも帰るところもなかった。孤児院も閉鎖されていた。そんな中で月奈は突然自分で生きる糧を探すことを強いられたのである。じつに15歳の時だった。
これからはひとりで考え、ひとりで生きる。それはまだ少女に過ぎなかった月奈には中々難しい問題であった。頼りになるのは自分に宿った超常的な力だけだった。しかし始めはそれを行使することに躊躇した。それではあのテロリストと同じになってしまうと思ったのだ。しかしほかになにも持たない少女にとって選択肢はなかった。
それはある意味で復讐の意味もあったのかもしれない。彼女は同じルナティカン――それも法を破るルナティカンを狩ることに決めた。そうすると、自分の力が思っていたよりもずっととんでもないものであることが分かった。彼女には誰も敵わなかった。だが月奈はその強さに溺れることはしなかった。彼女の精神は強靭なものだった。そしていずれ月奈は自由を希求するようになる。
始めはひとりで活動し、金品を奪って生きる有様だったが、やがてルナティカン狩りをするルナティカンがいるということで警察の方が彼女に目を付けた。自分も無法ルナティカンと同じなのではないかという疑念に苛まれていた月奈にとってそれは渡りに船だった。それにその日暮らしのような生活には辟易していたのである。
それからは宇田が彼女を担当した(月奈のようなルナティカンを警察はほかにも何人か確保していた)。月奈の望みはなんでも叶えられた。得物に日本刀を要望したのもこの時である。
贅沢な暮らしがやってきた。月奈は自由を手に入れたのだ。いや、それが真の自由とは程遠いことは分かっているが、それでも彼女は満足した。
かくして漆黒の魔女、夜の死神、ルナティカンハンター周防月奈は誕生した。
そして今に至る。
◇
「月奈、なんだかヘンな顔してる」
ふと囁かれた苺の言葉で、月奈は追想から現在に戻った。はっとして振り向くと、座っていたソファの隣には苺が心配そうな顔をしてこちらを見ている。月奈は頭を振り、改めて少女に向き直った。
「そんなにヘンな顔してた?」
「してた、ていうか今もしてる」
苺は打って変わって悪戯っぽい笑みを浮かべて、月奈のほっぺたを両手でぐにゅぐにゅ弄り始めた。
「いつもの月奈に戻れー」
「こ、こらっ、こらっ、止めなさい! 止めなさいって!」
「戻ってくれるまで止めないもん」
力ずくで離す訳にもいかず、月奈はすっかり困ってしまった。しかし、誰も並ぶ者のいない自分が子供にいいように弄ばれていることに妙な可笑しみも感じていた。
「戻った! 戻ったから離しなさい!」
「ホント?」
「ホントだから」
苺は訝し気な顔をしていたが、やがて手を離した。そしてにっこりと笑った。
「よかった。いつもの月奈だ」
「もう……」
「あたしのおかげだねっ」
そうして苺はけらけらと笑う。ひところに比べると苺も感情豊かになってきたように思える。というより、これが彼女本来の姿なのだろう。にこやかで、イタズラっぽく、いつでも明るい。苺は誰にも愛されただろうなと思った。
少し落ち着いたところで月奈は少女に訊いた。
「苺、あなた部屋でなにかしてたんじゃないの?」
「それはひと段落付いたから、月奈の顔が見たいなぁと思ったの」
「愛い奴じゃのお」
月奈は苺の髪をくしゃくしゃと触った。そうしている内に過去の記憶が呼び覚ます、陰鬱な気持ちもどこかに飛んで行ってしまった。
「なにを考えてたの?」
「んー、考えてたっていうか、思い出してたっていうか……昔のことをね」
「そうなんだ」
苺はそれ以上は訊かなかった。繊細な心の機微も分かる子なのだった。
「なんていうか……私はずっとひとりだったなぁ、って」
「だいじょぶだよ。今は月奈には苺がいるよ」
健気なことを言う少女に月奈はすっかり切なくなってしまった。そういった気持ちになるのも珍しい。だが親を失ってなお気丈に振る舞う彼女にそう感じずにはいられなかった。
「それに、あたしには月奈がいるもん」
「そうね」
「ふたりなら、淋しくないよ。だから月奈も楽しくやっていこうね」
ひとまわり近く幼い少女にそう諭されるとどうしようもない。しかし確かにそうだった。2人なら、2人ならなんでもやっていける。そう確信した。
月奈が苺のことをかけがえのない存在であると認識したのはこの時だったのかもしれない。しかしそれがもう一段特別な感情に昇華するまでにはまだもう少しの時間を必要とするのだった。




