10:眠れない夜には
明日は土曜日である。ということはつまり、苺の学校は休みということだ。事件からこっちずっとばたばたした日々が続いて、それから今日登校再開があって、ようやく苺とノンビリ過ごせる日がやってくる。もっともルナティカンが暴れることがなければだが。
月奈は自分が妙にうきうきした気分になっていることを感じていた。こんな気分は今までないことだった。何故そうなるのかは未だ分かってはいなかったが、とにかく浮かれていることには間違いない。
夕食を食べ終えたあと、2人で皿洗いをして、それからリビングでくつろいでいる。2人ともそんなに口数は多い方ではないので、会話はあまり発生しない。というより、月奈はまだ苺との距離感を完全には把握できていなかったのである。それに迂闊なことを言って、塞がり始めたはずの苺の心の傷を再び抉ることは避けねばならなかった。とはいえ腫れ物に触るような感覚で関わっていたらそれはそれで傷付けてしまうかもしれない。じつに繊細な手付きが求められる場面だった。
苺は再び月奈の隣でマンガ本を読んでいる。タイトルは「メイドと星と王子様」。どうやらその題と表紙絵を見る限り異世界宮廷恋愛もの、それも身分差の恋を描いたものであるらしい。
「苺、それ面白い?」
「面白いよ。何度も読み返してるの」
「苺は恋愛に興味があるの?」
月奈がそう問いかけると、苺は相変わらずのボンヤリ顔で天井を仰ぎ見た。それから少し考えたのか考えていないのかよく分からない表情で月奈に向き直った。
「よく分かんない」
月奈は肩をコケさせた。
「分からないのに面白いの?」
「んー、恋愛が面白いっていうよりは絵が好きなの。女の子は可愛いし。それにギャグも好き」
「へぇ……」
テーブルにはそのマンガシリーズが5冊ほど積み置かれていた。月奈もマンガは読まないこともないが、少女マンガ、それも恋愛ものはまったくの守備範囲外である。ひょっとしたら本当に面白いのかもしれない。新しい世界が拓けるかもしれない。
「それ、私も読んでいい?」
月奈がそう許しを乞うと、苺はにっこりとした。
「うん、いいよ!」
許しを貰ったので、月奈は1巻をぱらぱらと流し読みした。結論から言えば、面白いのかどうかよく分からなかった。確かにふんわりとした絵柄で女の子は可愛いが、四六時中男のことばかり考えているメイドの主人公にいまいち感情移入できない。それに相手の王子様もなんだかきざったらしくて好きになれなかった。それとも、そう感じたのは自分は恋を知らないからだろうかとも思った。恋愛に興味を持てば、また違った見方が出てくるのかもしれない。
このマンガが好きだという苺に気を使って、直接感想を述べるのではなく別のことを言った。
「ひとを好きになるっていうのは、どういうことかしらね」
「んー、あたしは恋なんかしたことないからよくわからないけど……」
月奈は改めて苺の顔を見た。ぽかんと口を開け、なにやら思案顔である。そのぽややんとした表情がじつに愛らしくて、月奈は温かい気持ちになった。苺が月奈に新しいものを与えているのは間違いなかった。
「きっと、それは素敵なことだと思うな」
恋をしたことがないという意味で、月奈はこの子と同じくらい子供なのだろうかと思った。
だが、恋愛を知ることで自分は弱くなってしまわないか。月奈はそれだけを危惧していたのだった。
◇
燃え盛る炎の中で月奈はただ独りだった。彼女はまだ少女だった。だから、いったいなにが起こっているのか分からなかった。施設では外に出る自由こそなかったが、不満はなかった。毎日のちょっとした検査と学校教育に準じた授業を受ければあとは施設内でノンビリ過ごしてよかったし、ネット環境はなかったものの、ゲームはやり放題だったし、テレビも見放題で、アニメビデオもふんだんに用意されていた。本も沢山あった。自分の置かれている特異な状況は理解していたけれど、職員や看護師たちは総じて優しく、自分は大切にされていると感じていた。
まだ未成熟な月奈にとって、施設がすべての世界だった。
その世界が炎上していた。辺りにはかつて世話をしてくれた職員たちは物言わぬ屍となって転がっていた。彼女は混乱した。自分の信じていたもの、支えていたものががらがら崩れていく感覚だけがあった。
今や地獄と化した施設の中を月奈は彷徨った。どうしていいか分からなかった。その中で今まさに殺されようとしている職員と、手に掛けようとしている侵入者がいた。賊はあっさりと職員を縊り殺すと、こちらに向かって――場違いにもほどがある優しい笑みを向けた。
「いやぁぁぁぁぁぁっ!」
月奈は狂乱状態になり頭を抱え、うずくまる。そんな彼女に男はゆっくりと歩み寄った。
「安心してくれ。俺たちは敵じゃない――きみたちを解放しに来たんだ」
その言葉を聞いて、月奈の頭にある混濁はあるひとつの道標を指し、決定的な、今まで持ったことのない感情を芽生えさせた。
それは、怒りだった。
「私はそんなこと、望んでいない!」
「混乱しているのは分かる。だがルナティカンの人権は回復させなければ――」
「うるさいうるさいうるさいっ! みんなを、みんなを返せェェェェッ!」
月奈は割られたガラスの破片をつかみ、その鋭い刃を男ルナティカンに向けた。そしてがむしゃらに突進し、男の頸動脈に突き刺した。鮮血を撒き散らし、崩れ落ちる男の身体に馬乗りになり、何度も何度もガラス片で滅多刺しにした。男が息絶えているのも分からず、月奈はそれを延々と続けた。おびただしい返り血を浴びているのも気にならなかった。
――それが、月奈にとって初めての殺戮だった。
◇
「もうやめてッ!」
月奈は記憶の中の自分に向けて叫んでいた。それから夢であることを次第に悟り始め、跳ね上がった心拍数も少しずつ落ち着いていく。冬だというのに嫌な汗が出ていた。心を平静にするように深呼吸を続ける。ようやくリラックスしたところで、彼女は忌々し気に呟いた。
「久しぶりね、この夢を見るのも……」
施設での記憶。その優しい世界が奪われた記憶。
その夢は頻繁というほどではないが、定期的に訪れる悪夢だった。それでも年が経つごとにその頻度も減ってきたし、いずれは忘れ去る記憶なのだと思っていた。だが悪夢はこうやって債鬼のように月奈へ現実を突き付けるのだった。
月奈はベッドから起き上がり、電気を点けた。この夢の一番厄介なところは、深夜に起きてしまってそれ以後眠り直すことができないことだった。単純に言って不愉快である。
「仕方ないわね……」
さて、どうしようかと思っていたところに、唐突に扉にノックがした。なにごとだろう、と思って扉を開けると、そこには枕をもった寝間着姿の苺がいた。少女の顔はどこかしら青ざめているように思えた。
「どうしたの、苺?」
苺は青ざめているだけでなく、なにか恥ずかしがっているようにも見えた。
「おしっこで起きたんだけど、ベッドに戻ったら急に怖くなっちゃって、寝れなくなったの」
仕方のないことなのかもしれない。苺の心の傷は癒しても完全には塞がらないものに違いない。きっとそのトラウマは一生残るだろう。そう、私のように――
そこで月奈は、ああそうかと納得した。私はこの少女にかつての自分を見ているのだ。
月奈は苺に微笑みかけた。
「私と一緒ね。私も怖くなって起きちゃったの」
そう言うと、苺の顔もすこし穏やかなものに変わった。
「ねえ月奈。一緒に寝ていい?」
「うん、いいよ、今夜はずっと一緒ね」
ということで、2人は再びベッドに潜り込み、電気を消した。月奈は苺の頭を優しく撫でながら、彼女の恐怖をすこしでも和らげようと努力した。そうした甲斐もあって、苺の呼吸は少しずつ穏やかなものに――眠りに入る時のようになっていった。
「あたし、月奈がいてよかったな、って思うよ」
「どうして」
「だって、月奈は格好いいし、強いし、優しいもん」
月奈は顔が火照るのを感じた。それを誤魔化すために言い繕う。
「私も苺がいてよかったと思っているよ」
そうすると、苺は月奈の腕の中でくすくす笑った。
「あったかいね……」
「そうね」
そうしている内に苺は眠りに落ちていった。自分のほうは眠れないかな、と思っていたのだが続いて月奈にも柔らかい睡魔が訪れた。不思議なことだった。あの夢を見てまた眠りたいと思ったのは初めてだったからだ。
「私も苺に癒されているのかしらね……」
そんなことを呟き、微睡みに任せるまま月奈は入眠した。
それからはびっくりするような安眠が得られた。




