先悔後に立たず
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
以前、誰かから聞いたことがある。幸福とは無限にあらず、量が決まっているものだと。
ちょっと考えれば、実感できるだろう。たとえばトーナメントだ。
勝者の幸福を得られるのは、優勝したただ一人。それ以外の皆へ不幸を押し付け、手に入れたものだ。たとえ以降でリベンジを果たしたとて、この時、この場での栄光は、すべて勝者が独り占めする。
自分に良いものを呼び込む準備、根回し。これは多かれ少なかれ、誰もがやっているんじゃないかと思うけど、具体的な方法は様々だ。
僕が以前に出くわした話なんだけど、聞いてみない?
「痛ったー!」
午後の図工室に、女の子の悲鳴が響く。
今日は木工の授業。中には釘を板に打つ作業も含まれている。その途中で、彼女は金づちを見事、自分の指へ打ち下ろしたというわけだ。
手をぶんぶんと振ったあと、打った指を必死な表情でしゃぶる彼女を見ていると、こちらまで痛くなってくる。いっそう気を引き締めて、僕は釘の頭を叩いていく。プロペラ型の木切れと、土台の板とのドッキング完了まで、もうわずかだ。
彼女の悲鳴が抑止力に働いたのは僕だけではないらしく、ややざわつきがちだった教室も、残りの時間は粛々と進んでいったんだ。
だが、このときを境に彼女の挙動は、少しずつおかしなものになっていく。
日に一度は、彼女が痛い目に遭うようになったんだ。
引き続き、木工の時間で指を金づちで打つのみならず、友達との遊びで転ぶ、ジャンプした折に、手や頭をどこかにぶつける。棚からものを取ろうとして、余計なものを落とし、自分がその巻き添えを食らうなどだ。
漫画などなら、ギャグとして笑えるかもしれないが、現実に何度も目にすると、ものすごく冷める。こうも毎日だと、作為を感じざるを得ないんだ。
実際、何も起こらずに終わりそうな日だと、彼女は掃除中、ほうきをバット、丸めた手袋をボール代わりに野球する男子たちの間に割って入り、その打球、投球をみずから食らいにいったんだ。
やめるよう注意するなり、無事で通る方法はあるはずなのに、わざわざだぞ?
気味悪く思い、クラスメートが少しずつ離れていっても、彼女は構わず、進んで自分を痛めつけていた。
しまいには自前で金づちを用意し、自分で指を打つこともし出していたよ。そのうえ、機会を見つけては床や地面を滑り、こける。
彼女が身体に、ばんそうこうやガーゼ、包帯を巻かない日はなかった。通学に支障はない程度におさえてあるも、先生方も心配して、たびたび彼女へ声をかけていたよ。
多くの人に知られるのを嫌うようになったか、彼女も表立って傷つく真似はやめていた。
けれど忘れ物を取りに、教室へ戻った僕は、ただひとり残っていた彼女が、金づちを振り下ろす瞬間に立ち会ってしまう。
彼女は頭上高くまで金づちを振り上げ、鉄でも打つのかと思うほど、勢いよく打ち下ろしていた。自分の左指めがけて。
もう彼女は悲鳴をあげなかった。代わりに叫ぶ指と机の響きを残し、すぐ机に突っ伏してしまったんだ。泣くのを耐えて、肩がときおり震えているのが見える。
それだけなら「バカなやつ」と、僕も放置していたかもしれない。
だが、彼女の肩よりはみ出る机の表面に、じわじわ赤いものが広がっていくのを見ては、さすがにほうっておけない。
廊下の蛇口でハンカチを湿らせ、彼女に差し出してやる。
声をかけると、彼女は涙をたたえながら、意外そうな目でこちらを見やるも、ハンカチを受け取ってくれる。
「前々から思っていたけど、なんでここまで痛い思いをしようとするの?」
血を流すほど力を入れるなんて、並みの覚悟じゃできない。かといって、自殺する気でもなさそうだ。もしそうなら、こんな回りくどいことせず、確実な方法をとっているはず。
もしや、おおっぴらにはできない嗜好なのかと、少し引きそうになったけど、やがて彼女は小さくつぶやく。
「先悔後に立たずだから……」
「せ、せん……なんだって?」
「せんかい、あとにたたず」
「なんじゃそりゃ? 後悔先に立たずじゃないのか」
「違う。後悔は後で悔いるもの。決して先にはやってこない。だから先悔は先に悔いておくの。そうすれば後悔はしないから」
――不思議ちゃん……いや、電波ってやつか? わけわかんねー。
そのあと、彼女は「人間万事塞翁が馬」とか「禍福はあざなえる縄のごとし」とか、言葉を並べているも、すでに僕の頭は彼女を「アブナイ人」に認定。
話を早く打ち切りたく、僕は適当に相づちを連発した。彼女も察してか、饒舌なしゃべりをぴたりと止めるや、「ハンカチありがと。洗って返すから」と真顔に戻って告げる。
ランドセルを取り、指に新たなバンドエイドを貼って立ち上がった。見送る僕の目には、彼女の指が少しひしゃげているように思えたんだよ。
それから一カ月後。給食前の授業、終わり10分前。
ぐらり、と足元が揺れた。先生が黒板に字を書く手を止め、クラスのみんなも顔を見合わせてしまう。
また揺れが来た。今度ははっきりと分かるもので、教卓やみんなの机の上に置いたものが、バラバラと転がり落ちる。
地震だ、と机の中に潜り込む律義者もいた。けれど、多くの人は椅子に座ったまま様子を見ている。身を守らないといけないほど、強い揺れだと思わなかったためだ。
揺れそのものは数分ほど続いたが、はっきり感じたのは短い間だけ。あとはそうと気にしなければ、分からないほど弱いものだった。
けれど、先生が直後につけたテレビによると、その震源は隣県と近く、この辺りは震度5あたりだと報じられていたんだ。
過去、震度5を体験した子はいう。もし本当ならこの程度で済まない、教室脇の本棚なんか倒れていてもおかしくない強さのはず、と。
だが、本棚は倒れるどころか、ゆとりをもって入れられた中身の本が、一冊たりともこぼれていない。
かすかなざわつきの後、授業は再開したけど、その間、戸惑う表情を見せる皆の中で、例の彼女だけは、静かにほほえんでいたのさ。