起こり
呪われた四層の廊下を進むと、メリーはいよいよ扉の前に立つ。ただのマンションの一扉のはずが、感情の地獄へと続く最後の門として聳えている。
取っ手を握ると、冷えた心が手を伝って流れてくる。それは雪女の寒さとは一線を画した異質な悪寒。
身に纏う不吉を堪えると、意を決したメリーは四〇四号室の扉を開いた。
玄関から続くフローリングの床板は、何の変哲もない素朴なもの。どころか今までの悪寒が嘘のように、和やかな気配すら感じられる。
メリーの心に去来するのは優しい気持ち。
廊下の先の一室には暖かな陽の光が射していて、その色合いは懐かしさを覚える夕暮れの赤色だった。
「あれれ? 外はまだ朝だったような気がしたんだけどな……」
部屋にはテレビにタンスに、そして落書きの目立つ木製のテーブルと、床にはたくさんの玩具が転がる。
その中には子供向けの玩具の電話があって、メリーは電話を拾い上げると、愛おしそうに抱き締めた。
「懐かしいよう……遊ぼうよう……マリア……電話しよ……」
テーブルの上に電話を置くと、椅子に腰掛けたメリーは拙い手付きで、一つ一つダイヤルを回す。
耳に受話器を添えるメリーは、幼きあの時の声質で陽気に喋り出す。
「私、メリー。もしもしマリア? 元気にしてた? これから一緒に遊ぼうよ。今日はメリーがお嫁さん? 料理をたくさん作ったの。帰ったらご飯にする? え? お風呂がいいのね? うん、分かったよ。マリアの為にお風呂を沸かしてくるね」
メリーはその場を立つと、部屋を抜けて風呂場まで、パタパタと拙い足取りで駆けていく。
風呂場の明かりを点けると浴槽には蓋がしてあり、メリーは袖を捲ると、蛇口を片手に浴槽の蓋を外した――
浮かぶのは西洋人形。
赤の瞳からひたすらに涙を流し、浴槽いっぱいを満たしていた。
「いやぁああああああ!!!」
突如、風呂の明かりはぷつりと途切れて、メリーは暗闇に取り残される。
風呂場から逃げ出すと、リビングに射す暖かな日差しは闇に堕ちて、暗がりの部屋へと変貌していた。
「置いてかないでぇ! 暗いのは嫌ぁあああ! 私を捨てないでぇえええ!」
頭を掻き毟り、部屋の隅で蹲るメリー。
すると廊下の奥の風呂場の方から、ひたひたと微かな足音がした。
「ま……まさか……そこにいるのはマリアなの?」
哀しみに潤むメリーの目は、歓びに見開かれて涙が伝う。
「私を見つけて! マリア! メリーはここにいるの!」
そろそろと、ぴちゃぴちゃと、次第に近付く足の音。
「マリア? お願いだから返事をして?」
じっとりと床を塗らす足あとは、まあるい斑点の形を成している。
「マリア……じゃない……」
恐怖に駆られたメリーは屈んだままに手を着いて、押入れまで逃げ惑う。
同時に足音は、ばたばたとけたたましくメリーの後を付いて来る。
あと少し、ほんの少し。後ろ髪に何かが触れて、息遣いが耳元まで迫ってきて、その刹那のところでメリーは押入れの中に飛び込んだ。
すぐに引き戸に手を掛けて、リビングとの境を閉じる間際――
メリーはこの世の、見てはいけない形相を垣間見た。