一章 九話 天使〈4〉
アルノルド・イーシェンハティは嬉々として問う。
「アラナイ殿。貴女はタチヴァーナ様の案ならば、帝国からこの街を守る事は可能だと考えているのか?」
いまだ二十代の青年にしては、あまりにも老練な雰囲気を醸し出しつつ、いかにもやり手の商人といった風情のアルノルド。若輩なれど、彼はこの立地に恵まれた交易都市において、五本の指に数えられる大商会を継ぎ、無難に切り盛りしている男である。
間違いなく、タヴァレスタットの去就を決める立場にある大人物だ。
「言ったろ? アタシに、小難しい話はわかんねえ。だったら、できるかできねえかを、足りねえ頭で考えても時間の無駄だ。アタシはただ、タチヴァナ様の言う通りに動いて、タチヴァナ様の望む成果をあげる。そうすりゃ、帝国に復讐できる。そう信じているから、迷わねえ」
「ふむ……。ふむ……」
そんな青年商人に問われたアラナイだったが、彼女はその問いに信頼という曖昧な答を返すのみだった。それに対し、アルノルドは瞑目し、ゆっくりと二度頷くと、今度は道雪に向き直り口を開いた。
「タチヴァーナ様、お初にお目にかかります。このタヴァレスタットの街で、アルナッツ商会の長をさせていただいております、アルノルド・イーシェンハティと申します。正式なご挨拶は、後程機会を賜れれば幸甚にございます」
「……よろしく、おねがいします……」
アドリブ最弱のコミュ力が、早くも軋みをあげている道雪だったが、なんとか厳かに応答した。
「御意を得たく存じますが、よろしいでしょうか?」
「イーシェンハティさん、そいつぁ……」
「私が直接タチヴァーナ様と会話するのに、なにか不都合でも?」
「い、いや、ねえけどよ……」
咄嗟にアルノルドと道雪の会話に割って入ろうとしたアラナイだったが、まさかこの場で『不都合』だとは言えない。これが『問題があるか』という問いかけであったなら、いくらでも食い下がる事はできただろう。だが、アラナイは別に、話術が達者なわけではない。
道雪とアラナイの二人で補えない部分が、交渉能力であった。
「よろしいでしょうか、タチヴァーナ様?」
「……はい」
本当は断りたい道雪だったが、この状況でそれができる程、彼の肝は太くない。だが、いくら極細の肝っ玉だったとしても、ここで不甲斐ないところを見せてはいけないと、彼は人知れず奮起していた。
「タチヴァーナ様は、この街が単独で、帝国に抗えるとお考えですか?」
「……必要な条件が整えば……」
「その条件とは、先程アラナイ殿が申された、人、時間、資金ですか?」
「……はい……」
「それさえ整えられれば、確実に帝国を退けられるのですか?」
「…………」
言い淀んではいけないとわかってはいたが、道雪はそこで言葉を詰まらせてしまう。何事においても、一〇〇%などというものはない。アラナイと話し合った結果、成算はそれなりに高いと思える策は思い付いた。だが、それが必ず成功するとまでは、道雪には言えなかったのだ。
「なるほど。いいでしょう。案の内容次第ではありますが、私アルノルドは、タチヴァーナ様とアラナイ殿を支持いたします」
だが、道雪が沈黙している間に、アルノルドはさっさとそう宣言する。
「え……?」
思わず素の表情で問い返してしまった道雪に、麦穂のような金髪に、翡翠のような瞳を持ったアルノルドは、不敵に微笑む。
「絶対と断言していれば、協力は控えさせていただこうと思っておりました。胡散臭いですからな。ですが、あなたはそこで悩まれた。必ずしも、成功するとは言い切れないのでしょう?」
「……はい……」
「タチヴァーナ様から見て、どれくらいの成功率とお考えで?」
「……時間次第です……」
「ふぅむ。それは難しい前提条件ですな。人と資金に関しては、私どももある程度は融通できるでしょう。ですが、神ならぬこの身に、時間を生み出すのは不可能です」
「…………」
再び、道雪は押し黙る。正直なところ、この世界の情報が集まりきっていない現状では、確実な事はなにも言えないのである。
だが、このアルノルドという味方を手放してしまうと、次に味方になってくれる者にとって、高いハードルとなってしまうだろう。道雪とアラナイの命を守る為には、なんとしてもこの議場における主導権を握りたい。その為には、なんとしても彼を説得しなければならない。
だからこそ、道雪はしばらく考えると、既に確定した事柄を伝える事にした。
「……僕らは……、このタヴァレスタットを、城塞都市に、しようと考えています……。……僕が知る難攻不落の城郭都市は、千年不落の伝説を持っていました……。……船が山を登らない限り、その、負ける事はない、でしょう……」
どもらないように、ゆっくりと言葉を切りながら話す道雪。だが、そのせいで結局辿々しい口調になってしまっていた。
だが、そんな道雪の姿を見て、大商人として目の肥えたアルノルドは、嘘は吐いていないと判断する。そもそも、名前の響きからしてこの辺りの言語圏の人物ではない。だとすれば、多少どもったり、拙い言い回しだったりしたところで、交易都市の大商人にとっては、然程大きな問題とは思えなかった。
ついでに彼は、道雪たちになにかしらの隠し事はあるようだという点にも気付いていたが、この場で指摘する事はなかった。
「ふむふむ。タチヴァーナ様の知る城塞都市を再現する為に、人、時間、金が必要という事ですか」
こくりと無言で頷く道雪。その額と背中には、じっとりと汗が浮いており、彼の限界が近い事を物語っていた。幸い、長い前髪のおかげで、今のところは露見を免れていた。だがそれも、時間の問題である。
「なるほど。タチヴァーナ様の知る難攻不落の城塞都市を築ければ、帝国を退けられるのかも知れません。ですが、やはりどうしたところで時間が足りなすぎます。城壁のようなものは、建造に十年単位の時間を要します。それまで、帝国が動かないわけがない」
いくら時間が必要といったところで、流石に何十年も必要だとは考えていなかった面々も、渋面を浮かべてアルノルドの意見に頷いた。このままでは、実現性が乏しすぎるのだ。
対する道雪は、現代知識というよりも、ちょっとしたトリビアを開陳する事で、解決策を提示する。
「……ぼ、僕の知る、建築技術を提供、します。……ローマンコンクリートを用いた、建築であれば、所要時間は大幅に、たん、短縮できる、かと……」
とうとうボロがでてきた道雪の様子に、アルノルドも気付く。だが、彼はその姿を見て、大きな勘違いをしてしまう。
大粒の汗を流し、呂律の回らない舌。長い前髪の間から覗く、茶褐色の瞳からは生気が薄れつつあった。アルノルドはそんな道雪を見て、当然ではあるが体調不良を心配した。
「大丈夫ですか、タチヴァーナ様!?」
「ああ、こいつぁヤベぇな」
思わず駆け寄ろうとしたアルノルドだったが、その前にアラナイが道雪の体を支える。
「誰か! ミチューキ様が休める部屋を用意してくれ! 誰でもいいから、早くしろ!」
アラナイの剣幕に急かされ、バタバタと官吏たちが駆け回り始める。
「だ、大丈夫だよ、アラナイさん。ぼ、僕は……——」
「ああ、わかってらぁ。きっと大丈夫なんだろうが、今のアタシらにとって、ミチューキ様以上に大事なもんなんざねえんだ。そんな姿じゃ、こっちが心配になっちまう。ここはアタシらの為だと思って、大人しく休んでくれ」
「…………」
ニヤリと微笑むアラナイに、体良く自分を追い払うつもりなのだと察した道雪だったが、正直願ってもない話である。これ以上、アルノルドのような有能そうな人間と対話を続けては、対面を保ち続けるのは困難だった。
情けない話だという自覚はあるが、ここで退場するのが自分たちの影響力を残しておくうえで、最善だと道雪は理解していた。
「……わかりました」
せめて最後までは演技を続けようと、静かにそう応えた道雪。アラナイが頷くと、彼もまた頷く。
やがて幾人かの官吏に連れられて、道雪は静かに退出していった。残った面々は、なにが起こったのか分からず、アラナイに説明を求める視線を投げかけていた。
「……アラナイ殿、タチヴァーナ様は大丈夫なのでしょうか? もしなにかしらの病をお持ちなのであれば、先んじて教えていただきたかったのですが……。ご負担であれば、無理にこのような会議にお連れする必要は……」
ないとも断言できなかったが、出席時間を減らすなどの対応はできた。決定や方針を、後追いで承認してもらうだけという、一番負担がなく、見方を変えればただの傀儡政権とする状態にもできたのだ。アラナイと道雪が無理を押して会議に出席したのが、そんな状況に陥らない為であったというのは、この場で明かすわけにはいかない。
アルノルドの他、幾人もの非難がましい視線を浴びて、アラナイは視線を逸らす。
「あー……、そうじゃねえんだ。ただな、なんて言えばいいか……」
アラナイは別に頭のいい女ではない。どちらかといえば、直情径行な人間である。
ボリボリと頭を掻いた彼女は、議場の一同を見回したのち、ガバッと頭を下げた。
「まずはすまん。アタシは意図的に、あんたたらの勘違いを訂正しなかった」
その行為に、周囲の非難の色はいっそう高まる。天使の体調不良を意図的に隠し、議場における自分の発言権を高めていたのだろうと、誰もが見たからである。
だが、次にアラナイが発した言葉は、議場に集まる誰にとっても、予想外のものだった。
「実はタチヴァナ様、天使じゃねえんだ」
——シン。
まるで世界から音が消えたのではないかと錯覚する程、議場には痛い程の沈黙が舞い降りた。
道雪が天使であるという事への疑念。それは、この場に集まる誰もが、一度は脳裏をよぎった考えだった。だがそれを表立って口にできなかったのは、アラナイが頂点に立つ抵抗軍の存在が故だ。
彼らは、道雪が天使であるという事を、確信している。なにせ、天より舞い降りてきた瞬間を目撃した者も多い。アラナイの傷を癒した奇跡を目にし、道雪の号令で帝国兵を倒した彼らにとって、道雪が天使であるというのは、犬が犬であるという事と同義であるのだ。
よもやそんな連中の前で、『彼は本当に天使なのだろうか?』などと口にできるような者は、そう多くはない。下手をすれば、袋叩きにされてしまうだろう。
暫定的に彼らを抵抗軍と呼称しているのも、反乱軍ではあまりにイメージが悪い為、会議の冒頭で決定された為である。それだけ、現在のタヴァレスタットにおいて、抵抗軍という暴力装置の存在感は大きいのだ。
だが今、そんな抵抗軍のトップが、よりにもよって道雪が天使であるという事を否定したのである。驚くなという方が、不可能な話だ。
誰もが二の句を継げずにいる間に、アラナイは言葉を続けた。
「これは、アタシもさっき聞いたばっかだから、勘違いしてたのは無理ねえ。あんたらが勘違いしてるってのはわかってたんだが、詳しい説明をする時間が惜しくてな」
繰り返しになるが、アラナイは別段頭のいい女ではない。海千山千の面々に対し、稚拙な嘘が通用するなどとは、考えていなかった。だから、どこまでも正直に、彼女はそう言った。
だが、そんな彼女の明朗さに、議場の面々は怒り心頭に発する。
「ふざけるなッ!!」
怒号をあげたのは、最初に官吏の揚げ足を取ろうとした、小太りの男だった。
「貴様ら、よくも我々を謀ってくれたなッ!? 既に、帝国との争乱は免れぬ状態なのだぞ!? 冗談でした、ではすまんのだ!!」
「冗談? アタシはタチヴァナ様が天使じゃねえって言わなかっただけで、冗談を言った覚えはねえぞ?」
「それが言語道断だというのだッ!! あのガキが天使でないのなら、もはやこの反乱に正当性などないではないかッ!! 貴様らの無謀な火遊びに、我々を巻き込むなッ!!」
男の感情的な言葉は、しかし真っ当な意見であった。その証拠に、追従するように罵声の雨が、アラナイに浴びせかけられた。
たしかに、彼らの怒りはもっともだ。もしも道雪が、その辺の適当な子供であり、この反乱騒ぎの発端が、道雪とアラナイが仕掛けたトリックであったのなら。それに巻き込まれ、否応なく命をかける羽目となった者からすれば、怒るのも当然だろう。
だが、そうではない。
「テメェ……」
途端に、アラナイからは覇気が放たれる。彼の存在が認め、降臨するだけのアラナイの憤怒。彼女に罵声を浴びせかけていた面々も、思わず口を噤んでしまう程に、その迫力は凄まじいものがあった。そんな怒気を、真正面から浴びせられてしまった男は、たまったものではない。
「ヒッ……」
腰を抜かし、思わず尻餅をついてしまった男に、アラナイは一歩詰め寄る。
「ミチューキ様を侮辱するって事ぁ、アタシに喧嘩を売るも同義だ。すなわち、アタシにぶっ殺されても文句は言えねえよなぁ?」
「よ、よせっ! わた、私は、ノッコ商船組合のルーダン・ノッコだぞっ!?」
「だからどうした。ミチューキ様を侮辱したテメェは、帝国と同じクソだ。クソにどんな名前が付いてるかなんざ、知るかボケェ!! こんな綺麗な部屋にクソが落ちてていい道理なんざ、ねえだろうがよォッ!!」
ダンと、大きく床を鳴らしてもう一歩踏み出すアラナイ。先程までの勢いはどこへやら、ルーダンと名乗った小太りの男は真っ青な顔で震えていた。
「アラナイさん」
そんな状況で二人の間に割って入ったのは、アルノルドだった。だがそんな彼も、豹変したアラナイの様子に、冷や汗が伝うのを抑えられていなかった。




