一章 八話 天使〈3〉
〈9〉
アルノルド・イーシェンハティは、空虚に白熱する会議を、冷めた眼差しで眺めていた。
市政館の会議室では、これからのタヴァレスタットの方針をいかにするか、街の主だった者等が角付き合わせて話し合っている最中だった。だが、その会議は、お世辞にも生産的とは言い難い。
「王国に助力を願いましょう! タヴァレスタットは元々王国領。伝手を辿れば、他国よりも早くその庇護下に属せます」
「バカな。王国にはもう、帝国に抗せるだけの力はない。このタヴァレスタットを手放したという一事だけで、それは明白であろう」
「左様。もし我々が王国に助けを求め、とんとん拍子にそれが成ったとて、その事実が帝国を刺激しないはずもない。再び、帝国と王国で戦争になろう。それがわからぬ王国側でもあるまい。ならば、早期に併合されるという目論見も、どこまで成算があるものか……」
「近さからいえば、あとはリールゥ公国とフィッケン連合王国ですが……」
「どちらも力不足であろう? 公国は小さすぎるし、連合王国は分裂しているうえ四面楚歌だ。とても、帝国との火種を抱え込んでまで、我らに味方してくれるとも思えん。特に、王国と連合王国は犬猿の仲だぞ? 下手にフィッケンなどに属せば、帝国と王国の両方を敵に回しかねん」
「それに時間の問題もありましょう。併合を打診して、それが成されるまでにどれだけのときを要するか、その間、帝国がどう動くのか。重要なのは、やはりそこでしょう」
「そうなると、やはり現実的なのは王国では……?」
「だからそれは——」
誰かが意見を述べれば、誰かがその意見を否定する。それ自体は悪い事ではないのだが、この場には決定権を持つ者がいないのだ。主だった者の集まりといえば偉そうではあるが、結局のところ誰も指導者として明白な権力を保持してはいない有象無象といえる。
それ故に、意見百出すれども、それを汲み取って行動方針へとまとめられないのである。さながら垂れ流しの湧き水のようであり、アルノルドに言わせれば時間の無駄としか思えなかった。
堂々巡りを始めたところで、いい加減にしろと一喝しようとしたタイミングで、官吏の一人が会議室に駆け込んできた。
「て、天使様とアラナイ殿が到着されました!」
上擦らせた官吏の声に、場がシンと静まり返った。もし、この不毛な会議を統括できる者がいるとすれば、その二人をおいて他にいない。誰もがそれをわかっているからこそ、実現性の乏しい意見と、対案もなくただそれを否定するだけの罵詈雑言を引っ込めたのであった。
そもそもにして、我々がこうして意見を述べているのが、唐突に勃発した武装蜂起が原因なのだ。その蜂起の先頭に立っているのが、アラナイという名の一人の女性。今やその勢いは街全体を呑み込み、反乱は既定事項となりつつある。だがそれによって、あの強大な帝国と矛を交えねばならぬ未来も、既定されてしまったのだ。
そして、ただでえさえ頭を抱えたいそんな状況に、輪をかけて面倒な存在が、件の天使である。
空を割って降臨した、漆黒の天使。半死半生のアラナイを、奇跡の御業で癒し、この反乱を後押しした存在。それだけ聞けば、たしかにこの反乱に神のお墨付きを得たようにも思える。
だが、とアルノルドは冷めた頭で考えていた。
青空を割って降ってきたという点も、天使の漆黒という色も、神聖性を否定しようと思えばいくらでも難癖を付けられる。光り輝く青空を割る、暗黒の夜空。そんな暗黒から零れ落ちた、純白の対極の色を纏う天使。
帝国からすれば、天使というよりも悪魔であろう。こちらとしても、天使を天使と証明できるだけの論拠が乏しい。だとすれば、帝国は当然そこを突いて我々の正当性を否定してくるだろう。
まして、帝国兵を殺したのは、人智の及ばぬ奇跡の御技などではなく、人の手によるものであったのだ。もしも神の託宣があったというのなら、どうして帝国に直接天罰を落とさないのか。そこに答えを返せない以上、アルノルドは天使を盲信するつもりはなかった。
「天使、トゥアーチ・ヴァーナー様、抵抗軍のリーダー、アラナイ殿、ご入場」
ざわりと議場がざわめいた。不明だった天使の名が判明していたのだから当然である。これにはアルノルドも驚いた。議場に集められている者の中には、学者や聖職者もいる。にわかに彼らに注目が集まったものの、残念ながらその顔に困惑を浮かべていない者はいなかった。誰一人として、そんな名の天使の存在を知る者はいなかったのだから、それも当然だ。
困惑は、扉の外で聞いていた道雪も同じである。橘という、漢字で一文字、音にして四文字の日本語が、どういう伝言ゲームを経れば、ファーストネームとセカンドネームにまで希釈されるのか、まったくわからなかったからだ。
だが、人々の困惑など意に介さず、議場の扉は開かれる。
当然ながら、誰も着席のまま彼らを出迎えるなどという事はなく、アルノルドを含む議場の面々はおもむろに立ち上がった。再び議場には重い沈黙が横たわり、ゆっくりと開かれていく扉には圧力となった視線が集中する。
やがて扉は開ききり、その奥には男物の服に、豊かな肢体を無理矢理押し込んだ女性。オレンジ色の長髪を流したアラナイと、もう一人。見た事もない、されど確かに上等とわかる黒い服に身を包んだ、烏の濡れ羽色の髪で目元を隠した少年が佇んでいた。静かに顔を伏せて佇む道雪の姿はたしかに神秘的にも見え、幾人ものため息が議場に漏れた。
まずアラナイが堂々と一歩を踏み出し、その後に顔を伏せた道雪が続く。やがて議場に設られていた最奥の椅子にたどり着く。
「さぁ、どうぞ。タチヴァナ様」
「……ありがとう」
椅子を引いたアラナイに、道雪は静かに礼を言って席に着いた。
言葉少なに、静かに話す。意見はアラアナイを通して述べる。それが、道中の馬車でアラナイと道雪が話し合った『侮られない為の振る舞い』だった。
道雪は人前で上手く話せる自信がないと、アラナイに告げていた。それに関しては、すでに察しがついていたアラナイも、道雪が舐められていい事など一つもないと、対策を講じていたのである。
道雪とアラナイの意見は、会議のイニシアチブを掌握するという一事で合致していた。
アラナイは道雪の隣の椅子の前に立つと、一同を見回してから腰を下ろす。それに合わせて、道雪を立って出迎えていた者たちも着座する。
「まず初めに、アタシから訂正がある」
早々に口火を切ったのは、アラナイだった。
「この方の名が間違ってる。トゥアーチとやらじゃなく、タチヴァナ様だ。ついでに言うとこれは家名で、ファーストネームも別にある。だがファーストネームの方は、アタシにはどうにもきちんと発音できなくてな。間違いを助長しない為にも、ここでアタシの口からタチヴァナ様の御名を告げるのは控えさせてもらうぜ」
無作法なアラナイの発言に眉を顰める者もいたが、それよりもほとんどの者が天使の御名について思いを馳せていた。
「まぁ、一度聞いただけじゃ、うまく伝わらなくても仕方ねえ。タチヴァナ様も、そんな小せえ事で怒ったりはしねえから、官吏を責めないでやってくれ」
「しかし、尊きお方のご尊名を違えるなど、あってはならない失態なのでは?」
一人の男が、アラナイに苦言を呈す。彼の為人を知っていたアルノルドは、相変わらず人の揚げ足を取るのが好きな男だと、呆れ混じりに嘆息した。
「まぁ、普通のお偉いさん相手なんだとすればそうかも知れねえけどよ、相手はこの世のお方じゃねえかんなぁ。一度聞いただけで、あの神秘的な言葉を正確に認識できるかっていうと……まぁ、アタシはできなかったな」
そう言って肩をすくめるアラナイ。苦笑を湛えたまま、彼女は続ける。そういえばと、道雪の胃は収縮する。必要な状況予想と情報を、アラナイの頭に詰め込むのに必死で、まだ英霊疑惑を払拭できていなかった、と。
「なんならアタシが呼んでる『タチヴァナ』って呼び名も、タチヴァナ様からすれば発音に違和感があるんだと。誰も正確に発音できないもんを、どう罰するってんだ? まずアタシを罰してみるか?」
「むぅ……」
揚げ足を取ろうとした男が、言葉に詰まる。彼にとってここで明確に、アラナイと敵対するのは不本意だった。今後、状況の推移次第では、この女の重要度はさらに高まる。だとすれば、下手に不利益を被らせるのは得策ではない。
男が思考を巡らせている間にも、アラナイは喋り続ける。
「なにより、タチヴァナ様が気にしてねえってんだから、くだらねえ罰とか下す必要はねえんだよ。……うん?」
アラナイがそう締めくくったところで、道雪が彼女に耳打ちした。これにも、周囲の面々は驚愕する。どうやら天使とアラナイの仲は、思った以上に深いらしいと、認識を新たにする。
「ふぅん。いいのかい?」
なにかを言われたアラナイが問い返したところ、道雪が決意を秘めた瞳で頷く。
「喜べ。あんたらに、タチヴァナ様からご尊名を拝聴する機会ってやつが与えらたぜ。このままじゃ誰かが罰されちまいそうだからって、タチヴァナ様からの気遣いだ。謹聴しな!」
どこまでも偉そうに、アラナイは議場の面々に号令する。その事に反感を覚える者もいたが、逆に頼もしさを覚える者も多かった。アルノルドもまた、その一人だった。
少なくとも、先程までのまとまりのない議会を頂点とするよりも、この女を頭に据えた方が物事がスムーズに進む。有事においては、その円滑さこそが必要不可欠だ。
アルノルドのなかで、アラナイという女性の価値が高まっていた。では、天使の方のはどうだろう? 視線が集中砲火を浴びせる先で、やはりただの子供にしか思えない天使が、おもむろに立ち上がった。
「僕の名前は、橘道雪といいます。橘が姓、道雪が名となります。橘は果樹の名、道雪は道に落ちた雪は、そのあるところを変えないという意味があります。どうぞ、よろしくお願いいたします」
そう言ってペコリと頭を下げる道雪。内心はともかく、紋切り型の自己紹介くらいならば、気合を入れればつっかえずに話せた。とはいえ、それも何十分も前から心の準備を整えていれば、という注釈のつく話であったが。
そこかしこから、感嘆のざわめきが漏れてくる。アルノルドもまた、感心していた。
なるほど、これはたしかに、耳慣れない音の組み合わせだ。おそらくは、口馴染みもしないだろう。アラナイが官吏を庇うのも、さもありなんといったところだ。
それにしても、若い男の声だったな……。集めた情報のなかには、威厳ある大人の声だったというものもあったが、誤報だったのか?
アルノルドが首を捻っている間に、そつなく自己紹介を終えた道雪は再び目を伏せて着席した。アルノルドから見て、彼の振る舞いにはある程度の教養が感じられた。だが、その所作は厳しく躾けられた王侯貴族の振る舞いというよりも、ちょっと裕福な商家で自由気儘に育てられた子供程度のものだ。それくらいの子供なら、探せばどこにでもいるだろう。
総評すれば、名前の並びと音以外には特別なところは感じられない、というのが道雪に対するアルノルドの第一印象だった。
「さて、アンタらがこれまで話し合っていた事についてだが——」
「——うむ。我から説明してやろう。まず喫緊の課題は——」
「——大方、どこの国につくかって話だろ。王国は力不足、公国は小せえし、連合王国は味方にするだけで敵が増える。そんなトコか?」
「う、うむ……」
ほぅ、とアルノルドは改めて感心した。彼はアラナイという女性の経歴も調べており、ごく普通の町娘だったという結果は比較的早く判明した。そんなただの町娘が、自明とばかりにこれまで自分たちが話し合っていた内容を言い当てたのだ。彼女を侮り、イニシアチブを握ろうとした男が、気圧されたように頷く。
「結論はでてんのかい?」
「…………」
「まぁ、予想通りだぁな」
肩をすくめる姿には、知性的な印象はない。むしろ、荒くれといった雰囲気だ。そんなアラナイが、この場にいる誰よりも賢しく思えるのは、先程までの醜態が故か、はたまた知勇兼備の英雄が故か。
「ああ、勘違いしねえでくれ。アタシはこういう、小難しい話はわからん。今話したのは、ここに来るまでにタチヴァナ様が教えてくれた予想だ」
だが、そんなアルノルドの期待を、あっさりと覆すアラナイ。だがしかし、アルノルドの顔に失望は浮かばない。
なるほど、たしか鎧騎士の倒し方を教授したという話があったな。だとすれば、このタチヴァナという少年は、知識に長けた者なのかも知れない。
アラナイが勇を兼ね、道雪が知を兼ねて、二人合わせて智勇兼備。
悪くないと、アルノルドは薄く笑った。
「し、して、天使様はなんと仰せで?」
小太りの男がアラナイを急かすも、彼女は軽くため息を吐いて肩をすくめる。
「まぁよ、アタシより頭のいいあんたらなら、もうわかってる事だろうぜ。他国の支配下に入るって事ぁ、その国方針に振り回されるって事だ。王国、公国、連合王国、ちょっと遠くの法王国のどこに属したって、迷惑をかけるだろうし、迷惑をかけられるだろう。最悪、もう一度生贄として帝国に差し出される覚悟は、必要だってこった」
「「「…………」」」
水を打ったように、議場は静まり返った。どこに属すかを話し合っていた彼らにとって、属したあとどうなるかという話は、目から鱗が落ちような話だった。とはいえ、これは彼らが愚かだからではない。このタヴァレスタットという街に、それだけ余裕がないという事である。眼前の問題を片付けられねば、その先などないのだ。
だが、アラナイの言はもっともだ。他国にとってこの街は、帝国との火種でしかない。厄介者扱いされたうえ、再度帝国に売り渡されるという危惧は、非現実的な未来予測ではない。そうなったとき、自分や家族の生命、街の住人の扱いがどうなるかを考えると、誰の顔にも暗澹の色が浮かんだ。
「だからな、アタシとタチヴァナ様はこのタヴァレスタットの、独立都市化を推す。帝国に独力で抗い、自主独立を堅持する」
「「「な……ッ!?」」」
議場を驚愕が揺るがした。
「む、無理だ……ッ!? 帝国がどれだけ強大な相手か、わかっているのか!?」
「左様左様!! タヴァレスタットを一とすれば、帝国は一〇〇か二〇〇かといった相手なのだぞッ!?」
「一つの都市と、幾つもの国を支配下におく帝国。子供でも、その優劣はわかるであろう!!」
「英雄譚にでも酔っているのですかッ!? それに我々を巻き込まないでいただきたい!!」
非難轟々。誰もが天使に直接文句を言うわけにもいかず、これまでの横柄な態度を苦々しく思っていたのも影響し、アラナイに罵声が集中していた。当のアラナイは、涼しいかおでそんな罵倒を受け流している。
「じゃあどうする?」
一通り文句を聞き終えたアラナイが、逆に問い返す。
「他国に属すという選択に、それ程メリットはない。精々、帝国と戦う際に多少兵が増えそうだって程度だ。デメリットは前述の通り。この街の先行きを、どこの誰とも知れねえ支配者に委ねなきゃなんねえって点だ」
「し、しかし、その兵こそが重要なのでは!? 独力で帝国に抗うなどといっても、地力が違いすぎるのですよっ!?」
「ああ、その点はアタシもそう思った。だがタチヴァナ様はこうおっしゃった」
そう言ったアラナイは、勿体ぶるように一拍置いてから、厳かに口を開いた。
『帝国に侵攻せず、防衛に徹するなら、必ずしも不可能じゃない。必要なのは、人と、時間と、時間と、時間と、ついでにお金』
そう宣ったアラナイは、誇らしげにその豊かな胸を張る。だが、多くの者はそんなアラナイと、ついでに道雪にも疑いの視線を投じ始めていた。そんな彼らの機先を制すように、アラナイは言葉を続けた。
「まぁよ、侵攻せずってのには、アタシも不満がねえわけじゃねえ。帝国に攻め入って、あの悪魔共を根絶やしにしてやりてえって思いは、今なお強い。いや、実を言うとアタシは、帝国に侵攻して暴れ回るって野望を捨てたわけじゃねえ」
そこで道雪が、驚いたようにアラナイを見る。それは聞いていない話だった。アラナイは多少バツが悪そうに頬を掻いて、そっぽを向きつつ言葉を続ける。
「だが、今のままじゃそんなのは無理だってわかってる。だから、まずはタチヴァナ様のおっしゃられる通りにして、帝国からタヴァレスタットを守る。それができなきゃ、先もねえ。逆に言やあ、それができれば先があるってこったろ?」
「面白い」
口を開いたのは、アルノルドだった。