一章 七話 天使〈2〉
〈8〉
「天使様、アラナイさん、今お時間よろしいでしょうか?」
思っていた以上に気さくで話しやすいアラナイさんの雰囲気に呑まれて、僕は随分と話し込んでしまっていたらしい。ドアの外から聞こえてきた声で、ようやくそれに気付いた。
ここタヴァレスタットは、現在有事なのだ。ならば、本当の本当に久しぶりに、まともに他者とコミュニケーションが取れたからと、浮かれている場合じゃない。自身の命に関わる事態である。
「ああ、問題ねえよ」
蓮っ葉というよりも、もはや男らしい口調でアラナイさんが応答すると、女中さんに扉を開かれて、一人の男性が入室してきた。
中肉中背、顎鬚を蓄えた浅黒い肌の、柔和な表情の中年男性。服の仕立ては良く、両手にはさりげなくいくつもの指輪が光っており、他にも嫌味にならない程度に各所に装飾品を着飾っている。随分と、羽振りの良さそうな男だ。
入室してきた男性は一礼すると、さりげなくアラナイさんの方を見て、なんとも言えない表情を浮かべてから、僕に向き直った。
「天使様、お初にお目にかかります。ゴア商会において商会長を務めております、ランドと申します。天使様にお見知りおきを賜れれば、幸甚至極にございます。どうぞ、ご用命の際には、このランドめにお申し付けくださいませ」
……。ど、どうしよう……。正直、こんなあからさまに『デキる大人』みたいな人に慇懃に接されると、人生経験ペラッペラな高校生では、まともに応対なんぞできない。しかも、ただ丁寧なだけじゃなく、バカ丁寧だ。敬語と謙譲語くらい、そこに含まれる丁寧の度合いが違う。
とはいえだ。ここでずっと黙っているのも失礼である。僕は意を決し、口を開いた。
「ぇあ——」
変な声出た。
「ぼ、ぼぼ、僕は、たた橘道雪と、いいます。その……家名が橘です。よ、こちらこそ、よろしくお願いします……」
「タチヴァーナ様ですか。ご尊名を頂戴できました事、末代までの誇りとさせていただきたく存じます」
「えぁ、い、いいえ、その……、そんな大層な名前じゃ……」
やっぱり発音に違和感があるなぁ、などと考えつつも、それを指摘できない自分の気弱さに辟易とする。なんというか、バカ丁寧な対応も含め、疎外感を覚えるのだ。
「そしてアラナイさん、お久しぶりです」
「ええ、お久しぶりです、ランドさん」
アラナイさんとランドさんが挨拶を交わす。どうやらこの二人、以前からの顔見知りだったようだ。
「「…………」」
え? なにこの沈黙? お互いに相手の顔を見つめながら、無言で佇んでるんだけど。この二人の間に、知り合い以上のなにかがあるの?
「それで? なにか用があってきたんだろ、ランドさん?」
やがて沈黙を破ったアラナイさんが、変わらず気さくな調子で問いかけた。その様子に、どこか安堵するように柔和に笑んだランドさんが、緩く頷きながら答える。
「ええ。市政館にて、現在街の主だった者が集まっております。今後の方針を話し合っているのでしょうが、アラナイさんとタチヴァーナ様にもご出席いただきたいという要請が届きました」
「うはっ! おいおい、タチヴァナ様はともかく、アタシもかよ? こいつぁ、偉くなっちまったもんだなぁ!」
たしかに。元はただの鍛冶屋の娘さんだと考えたら、大出世といえるのかも知れない。
「仕方がありません。アラナイさんは現在、帝国に対する、抵抗軍のリーダーともいえる方ですから。見方を変えれば、この街のトップはあなたといえるかも知れません。ああ無論、立場的には天使様が最上位である点は、揺るがしようもないでしょうが。あくまでも、俗人の位階の話です」
やめて、それ……。考えただけで胃がシュクシュクしてくる。つくづく、僕に誰かの上に立つのなんて無理なんだと実感するよ。というか、よく考えたら僕がただの人間であるって、アラナイさんにも説明の途中だった気がする……。もしかしたら、彼女のなかで僕は、まだ英霊って認識なのかも知れない。
ああ……どれだけ浮かれていたんだ僕は……。
「ともあれ、了解だぜ。アタシは市政館に行くのは問題ねえ。タチヴァナ様は?」
「僕も問題ありません。なんとなく察しはつきますが、市政館とは?」
「ああ、王国時代にゃあ代官だの官吏だのが詰めてた館で、街の政を一手に引き受けてる場所だ」
概ね予想通り。ともあれ、とりあえずは僕もそこに赴かねばならないだろう。あわよくば、そこで街の主だった人たちに、僕が天使なんかじゃなく、別の世界のただの人間だってわかってもらいたい。
もし彼らがそれを信じたとしても、きっと僕の身柄は自由にはならないだろう。蜂起してしまった以上、彼らに止まる事は許されず、旗頭として天使というネームバリューはきっととても大切なものだ。僕という存在に、大きな政治的価値がある以上、彼らはその利点を手放したくないはずだ。
このタヴァレスタットは結構大きな街のようだ。ゴア商会から市政館に向かうのに、徒歩では時間がかかるとの事で、ランドさんが馬車を手配してくれた。ゴロゴロと車輪を鳴らし、ガタガタと揺れる馬車の中でも、僕はこれからの身の振り方について考えていた。
「タチヴァナ様?」
問題は、アラナイさんも同乗している事だ。いや、別に彼女が一緒である点に不満があるわけじゃない。問題なのは、なぜかランドさんは別の馬車に乗っているところである。つまりは、現在僕らは二人きりなのだ。
「な、なんでしょう!?」
顔を覗きこまれて声をかけられ、僕の声は格好悪く上擦ってしまう。やっぱり、美人にこんな風に話しかけられると、緊張してしまうのだ。
「いや、なんかスゲー思い詰めた顔してたからよ。心配事があるなら聞くぜ? 手助けになれるとまでは、確約できねえけどよ」
「えっと……」
口籠もりつつ、僕は考える。彼女も、きっと僕が天使と呼ばれるのを望むだろう。その方が、反乱において有利であるのだから。
「……ア、アラナイさんは、今後どういう目的で動くんですか?」
だからちょっと遠回りな質問をしてみる。対して、アラナイさんはその勝気な双眸に赤黒い炎を灯し、肉食獣のような笑みを浮かべて応答する。
「勿論、帝国兵を皆殺しにする。帝国兵という名の悪魔どもを、この地上から根絶やしにしてやるぜ!!」
強い決意の籠った言葉だった。この人なら、本当に言葉通りのジェノサイドに手を染めるのかも知れない。それくらいのバイタリティが、彼女にはあった。
「じゃ、じゃあ、今後のこの街の先行きについては、どう考えてます? こ、この街は、直近で三つの、いえ大別するなら四つの選択を迫られます。ひ、一つ目の選択肢は、その……、帝国に降伏し服属する、というものです」
「あり得ねぇ!!」
「そ、そうでしょうね。しかし……、選択肢としては存在します。つ、次が、王国に属し、協力して帝国に抵抗する」
アラナイさんの剣幕に怯みつつ、僕はさっさと第二の選択肢を提示した。それを聞いたアラナイさんは、先程までの怒気はどこへやら、困惑を面に浮かべて首を傾げていた。
「役に立つのか? 王国はタヴァレスタットを手放さなきゃなんねえくらい、追い詰められてたんだぜ?」
「さ、さぁ……。ぼ、僕は王国の内情や周辺情勢には疎いので、その……なんとも言えません……。ですが、心許ないという意見には賛同します。アテにしていたら、その……痛い目を見そうだというのが、僕の正直な感想です……。すみません、わかったような事を……」
「うん、アタシも同意見だな! つーわけで、その意見も却下だ却下!」
アラナイさんは顰めっ面で、大仰に手を振ってみせる。どうやら、帝国だけでなく王国にも強い不満があるようだ。まぁ、事情のさわりを聞いただけの僕ではあるが、わからない話じゃない。
僕としては、この二つは捨て案——というか、街全体としても賛同者が少ない意見だと思っていた。次の意見はかなり成算の見込みの高いものである。
「次に、二つ目の選択肢と似てはいますが、別の国に服属して、その国協力を得て帝国に対抗するというものです。な、なにもこの大陸には、帝国と王国しかないわけではないのですよね? 幸いこの街は立地に恵まれた交易都市です。ほ、欲しがる国は、枚挙にいとまがないでしょう」
「うーん……」
今度はアラナイさんも即座に意見を返せず、唸り始めた。その眉間には深い皺が刻まれ、なにやら深く考えているようだ。
「最後に、この街が独力で、帝国に抗するという選択です。はっきり言って、これは困難を極めます。で、ですが、目標を我々が設定でき、墨守できるというメリットもあります。帝国人を根絶やしにする、なんて目標はその……、たぶん無理でしょうけど、帝国をこの世から消す程度なら、できなくもないかと……」
「うん? そいつぁどういうこった?」
「その……、も、もし他国に属した場合、その国の首脳部と帝国が和睦した際には、この街もそれ以上の交戦は控えねばなりません。下手に国の意向を蔑ろにすれば、今度はその国と帝国、二つを敵に回しかねませんので……」
「はぁ!? お上の意向次第じゃ、一戦も交えず終結する可能性もあるのかよ!?」
「あ、あると思います……」
「そんな事になれば、またタヴァレスタットが帝国に割譲、なんて事態にもなりかねねえじゃねえか!!」
「可能性はあります。とはいえ、それは戦況次第でしょうが……」
早期に講和が実現すれば、その国もせっかく得た街を手放したくないだろうし、帝国に売り渡される心配も少ないと思う。
聞く限り、帝国というのはかなりの軍事大国で、好戦的だ。だが、王国との火種が燻っている状態で、二正面作戦をよしとする程、後先考えないとも思えない。となると、早期の講和は難しい話じゃない。もしかすると、アラナイさんの言う通り、一度も干戈を交えず手を取り合うと言う流れも、あるかも知れないのだ。
だがもし、帝国が思った以上に好戦的で、タヴァレスタットの所属をめぐって戦争が起こり、その戦いが長期化したとすれば、話は随分と変わってくる。その国にとってここタヴァレスタットがお荷物となり、どころか火種を持ち込んだという風潮になれば、どうなるだろうか……。
こちらの案も、確実に安泰というわけではない。
「ナシだな。そもそも、早々に国同士が和解しちまったら、アタシの復讐はどうなるよ? まだまだ全然、帝国兵を殺し足りねえ。神に誓った復讐劇も、そんな事になったら興醒めだぜ」
「……そ、そうですか」
思わず安堵の息とともに、そう言ってしまった。
僕の提示した今後の方針は、第一は帝国に降伏する。これはたぶん、僕もアラナイさんも死んじゃうので、選択されると非常に困る。第二に、他国に服属して、帝国と争う。他国といっても、王国に関しては別枠と捉える方が適切な為、選択肢は四つとなる。その第四が、自主独立の道だ。
戦争の激化を回避するなら、他国に服属するのは常套手段だ。とはいえその場合、僕が『天使』と勘違いされている状況は、その国にどう映るか。正直、目の上のタンコブなんじゃないかと思う。下手に国の中枢に近付けるのも、遠ざけるのも悪手になりかねない。かといって、排除したらしたで民衆の怒りを買う。おまけに、帝国との関係を悪化させる火種。帝国と講和した際には、不満に思うタヴァレスタットの民衆の旗頭として、今回の二の舞だ。
うん、本当に厄介な存在だな、僕!
だからまぁ、アラナイさんの目的が自主独立であるというのは、実は僕の目的とも合致する。勘違いを加速させかねない、という点に目を瞑ればだが。
「うがぁぁぁぁああああああああ!」
「うぴぃっ!?」
唐突に、アラナイさんは絶叫をあげた。両手で頭を掻き毟り、豊かなオレンジ色の髪がぶわりと広がる。僕はそんな、猛獣の唸り声のような叫びに、ついついハムスターのような悲鳴をあげてしまう。
「むっずかしい事ぁわっかんねぇんだよ! アタシにできんのは、目の前に現れた帝国兵を、皆殺しにするだけだ! それ以外になんもできねえ!!」
「……な、なるほど……」
ドキドキと早鐘を打つ心臓を押さえつつ、僕は納得したような声を返すが、仮にも反乱軍のリーダーがそれでいいのかという思いも抱く。
とはいえ、それも仕方のない事かもしれない。ここがどの程度の文明の世界なのか、まだまだわからない点は多い。だがしかし、義務教育という概念すらないだろうこの世界で、ただの町人だった彼女に、国家的視点で物事を判断できる教養が身に付いているはずはない。
こうなれば、僕が説得するべきは市政館とやらに集まっている、知識層という事になる。だが、そんなおっかなそうな連中相手に、この僕がまともに話せるのか? ……無理だ。即答できる。
「……」
とりあえず僕の第一目標は、天使という誤解を解いて、この反乱軍の旗頭にされるのを拒否する。だが、この目標の実現性は、著しく乏しい。いや、はっきり無理だと断言していいだろう。
ならば、次善の策だ。反乱軍の旗頭にされるのは、もう仕方がないから諦めよう。民衆に天使と誤解されているのも、そうなると撤回は難しい。だとしても、街の首脳部くらいには僕の正体を知っていてもらいたい。そのうえで、最低限身を守れるだけの戦力を提供してもらいたい。
最悪でも、アラナイさんの近くにいさせてもらえれば、反乱軍のリーダーと一緒に、ついでに旗頭も守ってくれるだろう。僕としても、意思疎通が円滑にできるアラナイさんが近くにいてくれた方が、さまざまな点でやりやすい。
うん、第一目標、第二目標、第三目標はこんなものか。第三目標の達成はそこまで難しくないだろうが、第二目標はどうかな……。旗頭にする以上は、守ってくれるとも思うんだけど、今のこの街に余剰戦力なんてあるのかどうか……。
「——あれ?」
僕が人知れず、達成すべき交渉目標を定めている間、目を回しながらヘアスタイルをファンキーにチェンジしていたアラナイさんが、まるで停止ボタンを押されたようにピタリとその動きを止めた。
「どうしました?」
「タチヴァナ様さぁ、さっき言ったよな?」
その端正な顔立ちに、子供っぽい疑問の色を浮かべてこちらを見るアラナイさん。その表情は、まるでサンタさんは実在しないのだと教えられた五歳児のようであり、この世の真理を覆されたかのような驚きが浮いていた。
「帝国人を根絶やしにするのは無理だが、帝国を消すのならできる、って……」
「え? あ、はい。そのくらいなら、できると思いますよ?」
僕は当たり前の事を、当たり前に肯定した。
「地図から帝国の名前を消すだけの事なら、それ程難しくありません」