一章 五話 嚇怒〈5〉
〈5〉
どうやらこの全身黒づくめの天使は、随分と階級の低い存在のようだ。神が宿っていたときに放っていた神気など、欠片も感じない。その態度も、どこか自信なさげで頼りない。まるでただの人間だ。
まぁ、然もあらん。あの神は、神の力でアタシの復讐劇を助けたりはしないと明言していた。だとすれば、人知の及ばぬ力を持った天使を派遣するわけもない。恐らくは、最下級の天使を使いっ走りとして、依代に使い、降臨したのだろう。要は、アタシが独力で足搔く様を楽しみたいってこった。
いいだろう。だったら足搔けるだけ足搔いてやるさ。
「貴様等ァ!! ここでなにをしておるッ!?」
聞くに堪えないだみ声が駐屯地に響き渡り、声のする方へ全員が顔を向けた。そこにいたのは、鎧の兵士たち。犬のような面頰の兜を着けた、正真正銘帝国の狗。殺しても殺したりぬ帝国兵の一隊だった。ほとんどチンピラと区別のつかない言動だが、やる事はそれに輪をかけて外道という最低の連中である。
当然ながら、先程殺した三〇人程度の兵が、この街に駐留する帝国の全軍なわけはない。アタシたちは、この駐屯地の兵が手薄な瞬間を見計らって襲いかかったわけで、この街にはざっと一〇〇人程度の帝国兵がいたはずだ。
アタシ等の武装蜂起を聞きつけたのか、はたまたさっきの天使の降臨を目にしたからか、それともただ単に巡察を終えたのか、連中はこの駐屯地に戻ってきた。すると、あろう事かそこは住人たちによって占拠されていたのだ。
ここに集った住人の総数は数えきれない。大雑把に言えば、一〇〇人以上三〇〇人以下といった数だ。そして、戻ってきた兵士の数は一〇人に満たない。ここに集った住人たちを、どうこうできるような人数じゃない。
それを思えば、慌てて声も荒げよう。ざまぁ。
「……だが、参ったな……」
独り言ちつつ、状況を確認して頭を掻く。
流石に、この数を一人で皆殺しにするのは無理だ。アタシは別に、武芸に長じているわけじゃない。運動そのものは苦手じゃないが、他者を圧倒するような才などない。それは、さっきまでただの兵士と殺し合って、相打ちになりかけていた状況を鑑みても明らかだろう。
アタシ一人では、帝国兵たちに抗せない。帝国兵たち一隊では、住人たちを御し得ない。お互いの間にいる群衆の動向次第で、結末は正反対になるといっていい。
だからこそ、連中は去勢を張るように住民たちを威嚇しているのだ。そして、帝国兵の傍若無人さを知っている者等は、そんなコケ脅しの恫喝にも怯えてしまう。
マズいな……。住人たちが、天使と帝国兵たちを見比べ始めた。
思ったよりも、天使降臨の影響が小さい。いや、あれ程の奇跡を目の当たりにしたのだ。影響が小さいはずはない。予想外だったのは、帝国がこの街の人々の心に植え付けた、恐怖心の大きさだ。
彼等は、天使という超常の存在と、帝国兵という差し迫った脅威とを天秤にかけている。普通であれば、比ぶるべくもない選択だ。だがしかし、天使のどこかオドオドとした態度や、これまでの帝国兵の所業を鑑みて、本来自明の理であるはずの選択にも迷いが生じている。そして、その迷いが集った住民たちの心を支配したとき、それはすべてが終わるときだ。
アタシの復讐も、この武装蜂起も、ついでに天使の命運も。
「——立て!!」
だから叫んだ。ここで立たねばならない。ここで立たなければ、次などない。アタシも、天使も、そして住人たちにとっても。
アタシの声に、その場にいた全員の目玉がこちらを向いた。一瞬視線の圧に気圧されそうになるも、なにくそと声を張る。
「立て! 今こそ立て!! 立ち上がるときは、今しかねえ!!」
誰もが思っていたはずだ。帝国の苛政に耐えつつ、いつかきっと機会が訪れる。いつかきっと。いつか、と。そう思っていたから、大事なものの為に、街の仲間が躙られるのを見てみぬフリをしたはずなのだ。その機会を逃さず掴む為に。そうでなければ——……
「今でなければならない!! 今以上の状況など、今後どれだけ待とうとも訪れない!!」
それはそうだろう。天使の降臨と、神の託宣だ。これ以上の機会を待つというのは、単なる逃げ口上でしかない。今動かない事の言い訳でしかないのだ。
だがしかし、住人たちの反応は芳しくなかった。皆一様に、気まずげにアタシから顔を逸らした。此の期に及んで尚、立たないとでも言うように。
――ああ……、やっぱりそうなのか……。
こいつ等は結局、怯えていただけなのだ。いつかきっと、などとは考えていない。今このとき、自分の大事なものが傷付かなければ、それで良かったのだ。代わりに誰かの大事なものが傷付こうと、自分と自分の家族さえ無事なら、どうでもよかったのだ……。
飢えた獣の腹を満たせるのなら、捧げる生贄は誰でもいい。自分と、自分の家族以外ならば。
そう思っていたのだろう……。わからない話じゃない。きっと、アタシと彼等の違いは、置かれている状況でしかないのだ。もしかすると、あっちに立たされたら、アタシも彼等と同じ事を思い、同じ行動を取ったのかも知れない。
だが、だからといってこっちに立つ者からすれば、そんな態度は度し難い。
ざけんじゃねえ。ただ耐えるだけで、帝国という獣は去ってはくれない。腹が空けば、際限なく生贄を求め、いつまでもこの街を苛み続ける。いつかは尻に火が付いた連中の方が多くなり、いつかは否応なく立ち上がらざるを得なくなる。だがそれは、この街が弱りきったあとの話だ。それじゃあ意味がないから、だからアタシ等はここで立った。そして死んだ。
だってのに――ッ!!
「今ここで立たねえヤツに、明日を待つ資格はねえ!!」
アタシは言い放つ。怒りのままに。鬱積した不満を吐き出すように。
「天に与えられた機会ですらも、立ち上がるのに不足だってぇなら、一生蹲っているしかねえだろうが!? 今この瞬間が、テメェ等が待ち望んだ機会じゃねえのか!?」
アタシは、懇願するように思いの丈を吐き出す。
「今ここで立たねえなら、ソイツぁもう帝国の民だ! 連中に都合のいい、飼い慣らされた奴隷だ!! すなわち、アタシの敵だ!!」
この胸中の憤怒の厄介なところは、なにもかもに対して怒っているという点だ。帝国のすべてに対しては勿論、これまで協力してくれなかった街の連中に対して、アタシ等を捨てた王国に対して、無力な自分に対して、この状況に甘んじる原因となったすべてに、アタシは怒っている。下手をすれば、思い通りにならないというだけで、憤りを覚えそうになる。頭の片隅に追いやられた、冷静に怒っている部分でアタシはそう自分を客観視し、それを良くない兆候だと判断する。
だが、今はこれでいい。今この瞬間だけは、怒りのままに思いの丈を吐き出そう。
「選べッ!!」
アタシは睨む。帝国兵を、ではない。さっきまで守ろうとしていた街の住人たちを、である。
「テメェ等の敵はどちらにいる!? あっちか!? こっちか!?」
ここで日和見など許さない。一度敵となったなら、アタシはたとえこの街の人間であっても、その命を摘み取る事に、躊躇はしない。そいつはもう、この街を占領した帝国の民なのだ。憎き、帝国の一部なのだ。
帝国の一切合切を灰塵に帰すと誓ったのだ。ならばここで揺らぐような弱さは、これからの復讐劇において許容されるものではない。
「――選べッ!!」
心中の迷いを振り払うように、アタシは再び命令する。覚悟をしろ。もし彼等が、こちらを敵と見据えたとしても、容赦せず、躊躇せず、敵として殺す覚悟を、しろ。
今さらながら、足元に転がっていた剣を拾う。笑っちまう事に、その剣にはいまだに、アタシの右腕がぶら下がっていた。肉体より離れてなお、しっかりと剣を把持したままのその腕は、ぶっちゃけ邪魔だ。だが、住人たちにとっちゃ、わかりやすい奇跡の残滓だろう。
アタシの右腕が付いたままの剣を、アタシは右腕で掲げる。これ以上わかりやすい、判断材料は他にない。
「選べ!!」
三度、アタシは命令する。ただそれは、命令の形を取った懇願だ。
どうか、アタシの敵にならないで。どうか、アタシにあんた等を殺させないで。どうかこれ以上、失望させないでくれ。どうかどうか、この憤怒の矛先をあんた等に向けさせないでくれ、と。アタシは神にではなく、人に願う。
果たして、そんなみっともなくも強硬に願うアタシに、住人たちは背を向けた。彼等の視線の先にいるのは、帝国兵。彼等は、帝国を敵と見据えたのだ。
ぶわりと、血液が沸騰する。つま先から髪の毛一本一本に至るまで、沸き立つ気力に突き動かされる。今ならなんでもできるという錯覚すら覚え、アタシは歓喜の咆哮をあげた。右手の剣を振り下ろし、真っ直ぐに敵へと向けて、叫ぶ。
「――立てぇぇええ!!」
第一声と同じ言葉。だがしかし、今度は呼応する者があった。ここに集う多くの住人が、発奮するように喚声をあげた。最初はまばらな声だったが、すぐさま多くの声が束ねられ、地を震わせる大音声となる。
――鬨の声だ。
この瞬間、タヴァレスタットは本当の意味で、蜂起した。
〈6〉
どうしよう……。お姉さんの檄で、周りの人たちのテンションがヤバいくらい昂っている。それだけ抑圧されていたのだろうが、ここから和平交渉なんて双方とも受け入れられないだろう。つまり、否応なく状況は動き出すという事だ。
どうしようもない程に、事態の推移に流されてしまっている。僕個人で、その奔流に逆らうなど不可能だ。
ぶっちゃけ、さっきお姉さんから聞いた話だけでは、説明なんて全然足りていない。判断材料も足りなければ、ノリにもついていけない。それ故に、どこかこの状況にも現実感がない。これがよくある異世界召喚なのだとしたら、説明フェーズが不親切すぎるのだ。
だがしかし、もはや事態は動き出してしまっている。
もしここで手を拱いて、住人たちの反乱が失敗してしまえば、僕は死ぬ。状況は混迷を極め、さりとて戦わねば生き残れない。しかし、だからといって僕は、自分を主人公だと思える程自惚れてはいない。そのような役に足る器が、自分にあるとも思っていない。だからこそ、現実感がないなりに、わかる事だってある。
もしここが現実であろうと、まやかしの世界だろうと、僕のようなモブキャラなどあっさりと死んでしまう、という摂理である。
「まぁ、この状況、どう見ても主人公は、あのお姉さんだよねぇ……」
完全に傍観者としての発言をしつつ、ときを経る毎にボルテージの上がっていく住人たちを眺めていた。いやまぁ、きっとこの街の住人にとっては心に刺さる扇動だったのだろうが、いかんせん数分前に街の名を知ったような僕にとっては、完全に置いてけぼりな話だった。
とはいえ、流されるままに死ぬなんてのは真っ平だ。住人たちには是が非でも、あの兵士たちに勝ってもらわねばならない。その為になら、協力は惜しまない。
とはいえ、僕に屈強な成人男性と組み合えるような体力や技術などない。できる事といえば、知恵を貸す事くらいだろう。
民兵と正規兵との戦いで参考にするなら、やはりクルトレーの戦いだろう。通称、金拍車の戦いである。
フランダースの犬でお馴染み、フランドルの地で起きた武装蜂起。その結果は、当時の軍事的な常識を覆す、一種のパラダイムシフトの象徴となった一戦である。
とはいえ、ここで重装騎兵の潰し方など論じても仕方がない。あの兵士たちは、装備こそ重装備であるものの、騎乗はしていないのだから。故にここで参考にすべきは、重装騎兵が落馬してからどう殺されたか、に尽きる。
勘違いされがちだが、フルプレートの騎士が一度転べば起き上がれない、というのは間違いだ。動きが鈍重というのも偏見である。フルプレートメイルは、意外と機敏に動けるのだ。そういった勘違いの一因となったのは、中世の馬上試合用のプレートメイルだろう。馬上試合用の鎧は、機動性を殺してでも安全性を重視した代物だった。
だがしかし、いかに大きく動きを阻害する事はないといっても、やはり重いものは重いのだ。
金拍車の戦いにおいても、落馬した騎士たちは起き上がる事に四苦八苦しているうちに、民兵たちに『こんにちは』された。重武装の兵士が立ち上がるというのは、それだけで修練を必要とする技能だったのである。
鎧の重量と同じく、金拍車の戦いで重視すべきもう一点が、前述の『こんにちは』だ。
正式名称は〝ゴールデンダッグ〟であり、『こんにちは』は愛称である。これはフットマンフレイルの一種であり、柄の先に鉄製の棘の生えた頭が繋がれた、打撃武器である。元は脱穀に使う農具であり、使用したのも農民出身の民兵だったといわれている。
板金鎧というものは、刃物に対しての防御力が非常に高い。また、多少の衝撃とて緩和する。だが、それも程度問題なのだ。槍などの刺突武器が一番効果的ではあるのだろうが、訓練されていない住人に板金を貫く突きを放てというのは、無体というものだろう。その点、殴るだけなら子供にもできる。
ヴィッラーニの記した『始末記』においては、金拍車の戦いではこのゴールデンダッグで武装した農民兵に、フランス騎士六〇〇〇名が殺されたとある。
それら考慮すれば、重装歩兵の殺し方は二点に絞られる。すなわち――
「転ばせて、殴れ!!」
生まれて初めてじゃないかというくらいに、大声でそう叫んだ。興奮して叫んでいた群衆が、瞬時に黙り込んで僕の方を見てきた。思わず怯みそうになるも、そんな些事に頓着していたら死んでしまう。仕方がないのだ。彼等と僕は、否応なく一蓮托生。僕が生き残る為に、彼等には勝ってもらわなくてはならない。
「ああいう、重い鎧を着た兵士は転ばせてから、鎧の上からぶん殴って倒せ! 転んでいる間は、まともに反撃もできない!! 殴るものはなんだっていい!! 石でも棒でも、そこ等に落ちてる兜だっていい!!」
ゴールデンダッグだって、鉄製の棘が付いてるとはいえ、打撃部のほとんどは木製だ。まぁ、フレイルという点を考慮すると、杓子定規に木製の鈍器と評するのは憚られる威力になるだろうが……。
「とにかく殴れ!! ひたすらに殴れ!! 死ぬまで殴れ!! それで勝てる!!」
あまりにも端的な指令。それ故に単純明快であり、学のない中世の農民にだって理解可能だろう。
声を発した僕を見ていた住民たちは、言葉の意味を咀嚼し、嚥下すると、それまで以上に活力に漲る表情を浮かべて、今一度喚声をあげた。否。それはもはや、喊声だったのかもしれない。
僕の言葉が終わって数秒、一斉に一〇〇人を超える暴徒たちが一〇人にも満たない兵士たちに襲いかかる。怖気付いた兵士たちは即座に逃げの姿勢を見せるも、残念ながらほとんどなにも装備していない住人たちと、二〇から三〇kgもある鎧を身に付けた兵士とでは、徒競走をするにはハンデが大きすぎた。
背後追いついた住民たちに引き倒された兵士が、その辺にあった槍の柄や石で滅多打ちにされ始める。なかには、さっき僕が言ったように、死んでいた帝国兵のバシネットを外してそれで殴っている者もいる。
「うわぁ……」
あまりにも一方的な展開に、指示を出した僕の方が引いてしまうくらい、凄惨な光景だった。
彼等とて、鎧を装備した際に起き上がる訓練くらいは修めていただろう。だが、群がる民衆に四方八方から攻撃を受けつつ起き上がる訓練など、していようはずもない。そうなればもう、状況は一方的な蹂躙にしかなり得ない。
兵士たちの声が聞こえなくなるまで、一〇分とかからなかった。