一章 三話 嚇怒〈3〉
〈3〉
「――がはッ――!!」
ムカつくその顔に、なにかを言ってやろうと思った途端、アタシは再び血を吐いた。そういえば、アタシはもう虫の息だったのだと思い出して、それにも怒りがわいた。
眼前の天使と、その奥にいるであろう超常のナニカがアタシに求めているものはわかった。要は、この胸中に渦巻く怒りのままに暴れろというオーダーなのだろう。だがしかし、アタシにはもうその時間が残されていない。
もう間もなく、アタシは死ぬ。
こうまで傷付いた体では、どれだけの名医に診てもらったところで死は免れ得ない。もし死神の鎌から逃れおおせたところで、両腕すら残っていないこの身体で、どう暴れろというのか。
端から、この超常の何某が望むものなど、見せられないようなあり様だった。死への恐怖よりも、ざまあ見ろという思いが湧いた。
「否。其方の座興、ここで終える事、許さず。重ねて命ずる。其方の憤怒の炎、消沈を許さず。命全くしあらば、其は大いに燃え猛りめや」
しかし、超常の存在というものは、実に超常の存在だった。男はそう宣った直後に、パンと一度だけ手を打った。それだけだ。
だが、あまりにも呆気なく、仰々しさなど欠片もなく、その程度で神秘などおこがましいとでもいわんばかりに、当然のように――アタシの両腕が元に戻った。
切り落とされたはずの右腕も。炭と化した左腕も。どころか、槍に穿たれていたはずの土手っ腹にも、ズタズタに切り裂かれていたはずの両脚にも、一筋の蚯蚓腫れ残さず再生していた。ついでに、そこにあった槍だの短剣だの、ついでにアタシの身に着けていた鎧だの服だのも、一切合切なくなっていた。つまり、いまのアタシは素っ裸だった。
ありえねえ……――
怒りの感情は胸に燻ぶりつつ、それでもやはりちっぽけな人間として、眼前の存在に畏怖してしまった。半死半生どころではない。九死一生の人間を、手拍子一つで治してしまう――否、直してしまう存在など、尋常であるはずがない。超常なのだ。
やはり、眼前の存在は神々の一柱であるのだろうかと、いまさらながらアタシは、自らの無礼を後悔しだす。なにせこれは、紛れもない奇跡なのだ。そして、アタシの無礼な態度に恐々と顔を強張らせていた住人たちは、この奇跡を目の当たりにして再び地に伏して畏敬の念を表している。
「――フッ」
微かに、その男が笑ったような気がした。勿論、改めて見ても、あどけないその表情に、色などない。まるで精巧な人形であるかのように、のっぺりとした無表情が貼り付いているだけだ。
だが、アタシはこの天使の向こうにいる超常の存在が、笑ったのだと確信した。
「――フハハハハハはははははは!!」
そして、アタシも呵々大笑する。これが笑わずにいられようか。奇跡そのものに気を取られていたが、その奇跡によってアタシに迫っていた死は、退けられたのだ。生の実感に、アタシは狂ったように、笑い転げる。
素晴らしい! アタシは生きている!! これ以上の喜びはない! だって、アタシはまだ死なないのだ! ならば、まだ殺せるのだ!! 帝国兵を、あの悪魔どもを、まだまだ殺せるのだ!
なんと寿ぐべきか! 生きているならば、死ぬまで死なせられるではないか! 殺されるまで殺し続けられるではないか!! これ以上の事など他にない! 至上だ!
ああ、生きているって素晴らしい!!
アタシは狂っていた。怒り狂っていた。ここで心底おかしそうに笑い転げているのは、炎だ。もはや燃え尽きるまで燃え続けるしかない、一つの炎。できるだけ強く。できるだけ広く。できるだけ赤く、燃える炎。そうあれかしと命ぜられ、そうざらめやと自らに誓った。ならばあとはもう、灰になるまで――
「善哉。懈怠なく、躊躇なく、容赦なく、励み、猛り、怒れ」
そう言って、男はゆっくりと瞑目する。その全身から放たれていた、神気とでも呼ぶべき威圧感が薄らいでいくのを感じ、アタシはそれが遠ざかりつつあるのを覚った。だからアタシも、最後に声をかける。
「神よ!!」
声を張る。この超常の存在が、本当に神であるのか、それとも邪悪ななにかであるのかは、わからない。だが、この超常の存在のおかげで、アタシは再び復讐の機会を得られた。ならば、先程の無礼を謝罪し、感謝を奉ずるべきだ。そして約束すべきだ。
「必ずや――」
「――諾」
しかし、皆まで言わせずに応諾する返答があった。それだけで、アタシと神との対話は完了したのだ。口にせずとも、アタシの約束は伝わった。
――必ずや、この復讐劇を御身に捧げ、その無聊を慰めよう。喜劇となろうと、悲劇となろうと、全力で演じてみせようではないか。感謝と怒りを込めて。
天使の奥にいる超常の存在がなんであろうと、アタシはその存在を神として奉る。アタシに復讐の機会をくれなかった、その他大勢の神々よりも、その神を崇敬する。例えそれが、なんであろうと。なんであろうとだ。
「「…………」」
数瞬の沈黙。その僅かな時間で、アタシは伝えられるだけの感謝の念を胸に抱き、先の無礼を謝罪した。きっとこれだけで伝わるだろう。神も、穏やかに沈黙してそれを受け入れる。
そして急速に、神気は霧消する。神は去った。
シンと静まり返ったその場で、アタシは生の実感と帝国への殺意を噛みしめる。そう。アタシは生き延びた。生きて帝国に復讐する機会を得た。神のおっしゃられた通り、これからはわき目もふらず、一切緩みなく帝国の連中を皆ごろ――
「――ふひゃぁ!?」
素っ頓狂な声が響き、天使はあまりにも呆気なく地に落ちた。神の重々しい声音とは違う、どこか頼りなくあどけなさの混じる悲鳴に、なにが起きたのかと町人たちは面をあげた。神々しい気配がなくなった事で、住人たちも動けるようになったようだ。何人かは気を失ったままだったが。
「ってて……。なにが――」
黒髪の少年のように見える天使は、尻をさすりながら身を起こした。どうやらこの天使は、天使のくせに空が飛べないようだ。
「大丈夫ですか、天使様?」
「は――ひ?」
アタシは神の使いである天使に手を差し伸べ、助け起こそうとする。だがアタシを見た瞬間、天使の動きはピタリと停止し、反応が消えた。動きはなかったが、見る見るうちになんだか赤くなっていく。なんだろう、火でも吹くつもりだろうか? いくら天使だからといって、流石にここで殺されるのは勘弁だ。アタシはまだ、帝国を踏み躙ってないんだからな。
「はひゃぁあぁぁあああ!?」
絹を裂くような悲鳴をあげて、天使はその紅潮した顔面を両の手で覆った。
「おいおい、どうしたい天使様?」
「てん――っていうか、それ――なん――はだ――っ」
ああ、もしかしたらアタシの言葉遣いが失礼だから、怒っているのかも知れない。だが残念ながら、どだいただの町娘でしかなかったアタシには、この程度の言葉遣いが関の山だ。
「――なんで裸なんですかぁぁぁぁ!?」
ああ、そっちか。それはそれで失礼だぁな。