一章 二四話 悪魔〈2〉
〈24〉
帝国軍の動きは、すぐさま防衛軍首脳陣に伝わった。その内容は、帝国軍は前哨戦を放棄し、本隊を進軍させようとしている、というもの。
これに対し、アラナイさん、ユーレスさん、シカトリスさんは大いに喜んだ。僕が予想した帝国軍の行動予測のなかでは、もっとも与しやすい選択だったからだ。それはたしかにその通りで、この帝国軍の動きは悪手だ。
そこに裏の意図があるかも知れないという危惧は、勿論ある。なんらかの罠である可能性を、忘れるべきではないだろう。
だが、悪手は結局、悪手でしかない。将棋でもチェスでも囲碁でもリバーシでも、悪手を打つというのは、敵に弱点を晒すという事に他ならない。餌として、敵を誘引する事もできるかも知れないし、そうでなくても意識の誘導が容易くなるという利点はある。行動予測が容易になれば対策も立てやすくなるし、マジシャンがそうするように意表を突く為の布石にもできる。あえて悪手を指すというのは、そういう戦術思想があってこそなのだ。
しかし、それはこの状況には適合しない。圧倒的有利にあるはずの帝国軍が、わざわざ盤面を不利にしてまで悪手を打つ必要性など、どこにもないのだ。戦術的な悪手を、芸術的かつ奇術的に最善手に転じさせるというのは、そうそうできる事ではない。それをやる為には、相応の状況と準備が必要になる。
マジックギャング、ジャスパー・マスケリンが、第二次世界大戦で行った芸術的な欺瞞工作はまた別の話だ。彼は別に、悪手を打ったわけではないしね。
では次は、なぜ帝国軍は、そんな選択をしたのか、という疑問に行き当たる。
とはいえそれも、大方の予想はついている。敵の指揮官が、例の『潰陣』さんから別の人に変わったらしい。この人は、タヴァレスタットから見て西側にある帝国のさらに西側で、それなりに功を立てた軍人だそうだ。
それなりに優秀な人で、普通に手強そうな将軍閣下だ。まぁ、流石に遠く離れた地で起きた戦で指揮を執っていた彼の情報を、この短時間で十全に集めるのは不可能だった。今、こちらの手元にある新指揮官の情報は、彼の為人や勲功などを記した、通り一遍のものでしかない。
それを見る限りにおいては、やはり無能ではないのだろう。敵対する僕らからすれば、頭の痛い話ではある。有能な敵よりも、無能な味方の方が恐ろしいとは有名な言葉だが、だからといって有能な敵も怖いのだ。
だがそれでも、彼が有能かつ優秀な指揮官であろうと予測してなお、やはり少々拍子抜けの感は否めない。
ドラゴンを相手に準備をしていたら、相手がコモドオオトカゲになったようなものだ。大きいし、強いし、毒まである、とても恐ろしい生き物だ。だが、コモドドラゴンという別名を持っていようと、モノホンの潰陣さんと戦おうと思っていた我々の目には、どうしてもそれは、ただのトカゲに見えてしまうのだ。少々不遜かつ、大いに迂闊な感慨だと自覚はしているが、それでも過小評価を禁じ得ない。
当然ながら、敵がドラゴンさんからコモドドラゴン君に変わったのを知ったアラナイさんたちは、大喜びした。いや、アラナイさんたちだけじゃないな。市政館の首脳陣や、街の人々も大喜びだ。それだけで、こちらの士気が上がっているくらいの慶事だ。
それはそうだろう。うん、喜ばしい……。
ともあれ、敵がこちらの想定通りに動いたのだとしたら、こちらもその想定に則して立てた対策通りに動かなければならない。アラナイさんとシカトリスさんは別行動に移り、僕とユーレスさんは二人の分も裏方仕事をこなさなければならない。
これが結構大変なのだ。
とはいえ、準備そのものはもうとっくにできている。いつ帝国軍が攻めてくるかもわからないこんな時期になっても、戦争の準備が終わってないのだとしたら、もうさっさと降参した方がいいという話だ。無論、こういうものに万全の準備などという事はあり得ないのだが、贅沢を言えばキリがない。火縄銃が欲しいし、スイス傭兵が欲しいし、テルシオが欲しいし、それに必要な指揮官も大勢欲しい。うん、キリがない。
なので、今できる最善を整え、それを維持する事に全霊をかけているのだ。
しかし、そんなときに限って、問題を積み上げるヤツというのはいるものだ。例えば、同盟の証にと大量の兵糧を送ってきたリールゥ公国とか(もう置く場所がないところに、さらに持ってきた。いや、嬉しいんだけどさぁ! 嬉しいんだけどさぁ!!)、開戦直前になって鎧兜を用意しろとか言ってくる僕とか(いらないって言ったんだけど、みんな反対した。動けないんだけどなぁ……)。
「なにかご不満ですかな?」
「……へぁ?」
唐突にそう問われて、僕は素っ頓狂な声を上げた。見れば、ユーレスさんがにこにこと好々爺の表情を、その皺くちゃな顔に浮かべてこちらを見ていた。こうして見ると、縁側で膝に猫でも乗せながら、日がな一日のんびりとしているような、穏やかな老人にしか見えない。だが、戦場で槍を取る様は、まさしく猛将であるというのを、僕は知っている。雄叫びを上げながら、盗賊を一突きにしてたもんね……。
「……い、いえ、特に不満はないです。急ごしらえにし、しては、その……、いいんじゃ、ないでしょうか……?」
ユーレスさんの言葉を聞いた鍛冶師たちが不安そうにしていたので、着付けてもらっている鎧兜に不満はないという事を伝えておく。
僕とユーレスさんは今、鍛冶師たちの元を訪れ、急遽用意してもらう事になった僕用の鎧兜を着付けてもらっている。これは服でいう仮縫いのようなもので、ここで仮組して支障がなければ、このまま仕上げてしまうという段取りらしい。
「も、もう、脇盾も作ったんですね……」
脇盾は、プレートメイルの脇にある丸い小さな盾の事だ。肩当も、僕がお願いしているゴシックアーマーのものに近い。仕事が早い……。
とはいえ、当然ながらまだまだ実用的なゴシックアーマーは完成していないようで、その他はありものの寄せ集めといった形だ。胸甲だけは新調したそうだが、薄い板金で造ってもらった。理由は重いから。
ほかの鎧も、現状望みうる限りの軽量化を図った。胸甲とか、ほとんど芸術品レベルで薄い。当初予定していたコートオブプレートなんかとは、比べるべくもない。防御能力を大幅に犠牲にするという、鎧としては致命的な改悪を施したものの、AGIを〇にまで落とすデバフは消えたので良しとしよう。
「いえ、鎧の事ではありません」
「え……?」
鎧について考えていた僕は、意外な言葉に首を傾げた。
「帝国軍の動きに対し、ミチューキ様はどこか不満そうなご様子でしたので」
苦笑するように言われて、僕はバツの悪い思いで目を逸らした。その言葉が、図星だったからだ。
「…………」
「我々にとっては、敵が潰陣でなくなったのは、喜ばしい朗報でした。彼の陣潰しは、戦の申し子のような男です。どのような敵であろうと、あれと戦う事を思えば、難敵とは申せませぬ」
「……そう……ですね」
死せる孔明生ける仲達を走らすという言葉もある通り、英雄というものはいるだけで相手を威圧し、動かすような存在だ。彼の潰陣さんは、まさしくそんな人なのだ。
「ですが、ミチューキ様は喜ばれませんでしたな。むしろ、どこか気落ちしておられるように見受けられます」
「…………」
亀の甲より年の劫とは、この事だろうか。あるいは、僕の対人能力の低さ故だろうか……。どうやら見透かされてしまっていたらしい。
「ヴィンクラー将軍では、食いでがありませんかな?」
「……そ、んな事、ない、です……」
そもそも、ヴィンクラー将軍こと子供ドラゴン君に関しては、それ程情報がないのだ。その技量を推し量る間尺が足りていない。これで相手を侮るなど、迂闊どころか傲慢だろう。
「ハッハッハ!」
だが、僕の否定の答えを、ユーレスさんは一笑する。
「まぁまぁ、わからぬ話でもありませぬ。某も、勝手に好敵手扱いしていた者と、戦場で相対せぬときは、肩を落としたものです。相手が弱くなったわけでも、死んだわけでもないというのに」
ユーレスさんは昔を思い出すように瞑目し、何度も頷きながらそう言った。
「仕方のない事です。それだけ、セイロ将軍という男が強大だったというだけの話。今の敵を侮りさえしなければ、油断とは申せませぬ」
そう、なのだろうか……? 正直な本音を吐露するならば、たしかに敵が潰陣から、よく知らない将軍に変わったとき、僕はガッカリした。調べれば調べる程、ターレス・シュテルン・フォン・セイロという人物は、大きな男だったのだ。生ける伝説と称されるのも、さもありなんといったところだ。
彼が潰陣と呼ばれるきっかけにもなった、王国と帝国の戦争についても、その概要は既に調べている。彼が用いた戦術は、カンナエの戦いと並び、現代の戦術研究にも用いられるロイテンの戦いにおけるプロイセン軍のものとほぼ同じだったのだろう。
違いがあるとすれば、プロイセンとオーストリアと違い、帝国と王国の戦力は拮抗していた点と、ロイテン村がなかった点だろう。
フリードリヒ大王が兵力的劣勢を打開する為に用いた、斜線陣戦術の決定版ともいうべき戦術を、万全の兵力で決行した帝国軍に対し、要塞化できる施設もない状態で受け止めざるをえなかった王国軍の結末は、セイロ将軍の異名として轟いている。すなわち、潰陣である
そんな潰陣を相手にしなくて良くなったのだ。アラナイさんたちに喜ぶなという方が酷だろう。それに、別段子供ドラゴン君が凡愚というわけでもない。
敵が弱体化したと侮るのも、ガッカリするのも、油断でしかない。そう思って、これまで自分を戒めてきたのだ。それが、この人にはバレバレだったようだけど……。もしかしたら、他の二人にもバレていたかも知れない。
「たとえば、今回の戦において帝国軍を退けたとします。しからば、必ずや次は彼の潰陣が出張ってきましょう。もし、今の敵に不足があるとお思いであれば、そのときに思い切り采配を振るえばよろしいでしょう。その為にも、まずはヴィンクラーとやらに全力を尽くしましょうぞ」
「……そうですね……」
無論、そのつもりである。帝国軍は、総勢でこちらの十倍以上。現在結集している分でも、四倍以上だ。油断などできるはずがない。
とはいえ、既に目標は設定し、その為に動いている。心情でそれがブレるという事はない。あるとすれば、モチベーションの違いといったところだ。戦術ドクトリンが、テルシオ目前のカタフラクトであるこの大陸には合わないかも知れないが、フラーの提唱した『目標の原則』だ。むしろ、ジョミニやクラウゼッツの方がこの世界には合っているのかも知れないが。
「……そうですね」
僕はユーレスさんを見上げ、頷きながら繰り返した。
「……モ、モチベーションというものは、じゅ、重要です。敵は俊英のヴィンクラー将軍。あ、相手にとって、不足はありま、せん……」
この言い方も、どこか相手を侮っているような気がして、語尾が揺らいでしまった……。どう言えばいいのかわからず逡巡していたら、くつくつと笑い声を上げていたユーレスさんが、まるで運動会で一等賞を取った孫を褒めるかのような口調で言った。
「ええ。ヴィンクラーめに、ミチューキ様の伝説の嚆矢となる栄誉を与えてやりましょう」




