序章
月明かりのない夜だった。
木々も鳥たちも息をひそめ、己の息遣いと、時折踏みしめた枝の音が木霊する。
風を切る音がびゅんびゅんと耳をかすめる。森は静かなはずなのに、なぜか騒がしく感じる。道なき道では木々が思い思いに枝をのばしており、腕に、足に、体中に、痛みが突き刺さる。
草木が手足に絡みつく。慣れ親しんでいるはずの森が、他人面してあざ笑っているかのようだ。
どうせ何も見えはしない。それでも何度も振り返る。聞こえないだけ、見えないだけで、後ろに誰かが迫っているのではないかと不安になる。
すべての生き物が死んだように静まり返る森の中、生命の息吹を放つ異質な存在のその少年は、この世の孤独をすべて背負っているかのようだ。
何もない暗闇の中で、先ほどの光景が鮮明に浮かぶ。
親も家も村も全て、自分の愛する者たちが、自分の生きてきた世界が、赤い轟音に包まれていた。
こぼれる涙を拭うこともせず、ただただ一心不乱に逃げることしかできなかった。
悲しみの波が押し寄せては闇に解け、やがて母の最期の言葉が蘇る。
「郷屋敷に逃げなさい。あそこはお殿様が住まう所、きっと助けてくださる。あんただけでも生き延びなさい。」
歯を食いしばり、腕を大きく振って郷に向かう道を急ぐ。
何もできず故郷に背を向けた、己の非力さが悔しかった。
どれだけ走ったのかもわからない。あとどれだけ走ればいいのかもわからない。
わかっているのは、村は炎にのまれてもうないということ、父や母ももういないということだ。
恐怖が支配する、この森と己の弱い心から抜け出したい一心で駆け続ける。
不意に世界が回りだし、身体が浮いた。
(しまった!)
踏みだした右足を木の根にすくわれた、と気が付いたときにはすでに、地面に頭から突っ伏してしまっていた。
(おっかあ……。おいら怖いよ。おっかあに会いたいよ。こんな真っ暗闇怖いよ)
一気に心がくじけた。こらえていた悲しみが、恐怖が、涙と共に溢れ出す。
湿った地面が頬を冷やす。森はなんて静かなんだろう。
どれだけの時間が経っただろうか。不意に足元に光が差した。
「そこにいるのは誰だ」
何者かが、己に何者かと問う。
ガクガクと小刻みに震える細腕でなんとか上体を起こし、振り返る。突然の光は刺激が強く思わず顔をしかめるが、それでも見えたものがある。――月だ。




