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病院の怪

作者: 万年 貞夫

病院は郊外に建てられていた。だだっ広い駐車場はダンプでも止まれそうだ。

車を止めると沸騰した様な空気が纏わりつく。

エアコンは嫌いなので使っていないが其れでも風があるのと無いのでは大違いだ。

西口を目指して歩き出す。入り口は三つあって間違えると遠回りする羽目になった。

受付の看護婦さんに会釈して通り過ぎる。

三階でエレベーターは止まった。窓から見えるのは山だけだ。緑の壁に見えるのは漫画の影響か其れとも精神科が併設されているからか。

既にクレジットカードの暗証番号並みに染み付いた番号の刻まれた部屋に入る。

暖色系の壁に囲まれた清潔な部屋。個室でないのを除けば職場の寮よりも快適だ。

窓際に置かれたベッドに近づく。

素肌が見えるほど短く刈られた髪。頰は痩け歯の形が浮かんで見えそうだ。

目が開き見つめられる。

「よう、よく来たな」

三ヶ月ぶりに会う父親は三十年程、老けて見えた。

肝臓を悪くして入院したのは去年の事だ。原因は酒の飲み過ぎ。完璧に本人の責任だ。

其処で直ぐに禁酒すれば回復したそうだが辞められなかった。病院で酒を立ち退院してから飲む。其れを繰り返した結果、精神科への入院も検討されていた。

寝台に横たわる姿は酷く薄く見えた。

かつては山の様に大きく見えた。今では紙で出来た人形の様だ。胸の中に苛立ちとも憐れみともつかない感情がよぎる。上手く言おうとした結果、出てきたのは早くよくなれよの一言だけ。それでも親父は薄く微笑んだ。着替えを置くと部屋を後にした。顔を合わせた時間は十五分程だろうか。早く帰ってやる事もないが残る理由も無かった。ロビーから外に出ると振り返って見上げる。位置的に親父の病室は見えないはずだ。だがそれでも目に焼き付けた。


県道沿いに建つファミレスは斜向かいに立つコンビニと並んで蛾の様に若者を惹きつける。閉店は夜十時。人口密度から言っても二十四時間営業は無謀だ。窓の向こうは一切の光が無い。宇宙空間に投げ出されたんじゃないかと不安になる程だ。

そんな中、友人二人と話し合っていた。

二人は地元に残って介護の仕事についている。

成人男性が集まれば話の内容は仕事の愚痴になるに決まってる。其々、嫌な客や生意気な後輩について語り合った。

「そういえばよー」

語尾を伸ばして言ったのは友人の一人だ。瓜の様に縦長の顔をしている。夜なのにサングラスを掛けていた。

「お前の親父さん入院してるんだっけ」

「ああ」

隠すことでも無い。入院理由まで伝えてあった。

「悪いのか」

聞いてきたのはもう一人の友人だ。

青白い肌をしていて背も低い。

「まあな」

医者の話では後、一年待てば良いそうだ。

其れを聞いた時、特に取り乱したりはしなかった。

長く苦しまなければ良いと思った。

金のこともある。

「そういえばよー。知ってるか。あの病院、出るらしいぞ」

夏によく聞く話し方だ。その後に続いたのは矢張り夏によく聞く話だった。

やれ顔の無い看護婦に会っただのトイレに入ったきり消えた患者が居ただの手垢の付いた怪談が語られる。

話は次にキャンプに行こうとなって締めくくられた。


その日、病院に行ったのは母親から行くように勧められたからだ。先の長く無い父の姿を目に焼き付けてやりたい親心とは違うように思えた。面倒くさい事務仕事を押し付けているのだろう。

廊下を進んでいると扉が開いている病室が見えた。

中では寝台を家族と思しき男女と医師と看護婦が囲んでいた。

全員が沈痛な表情をしている。未だ小学生位の女の子も空気を読んで口を噤んでいた。

違和感を覚えた。白いシーツに一点の染みがあるように視線が吸い寄せられた。

一人の女性が立っている。黒い髪を肩口で切り揃え白い肌に赤い唇が映えていた。黒い着物は夏に反逆しているかのようだった。最近見ない和装に目が行った訳では無い。何となく井戸を覗き込んだような負の存在感があった。見ていることに気付かれたのが分かった。目が会う前に視線を戻す。

父親の病室に入る。窓際にいる父親は元気そうだ。

話し掛けても小さく頷くだけだ。昔はよく喋った気がする。明らかに道理にあっていない事が多かった気もするが、今よりはその方が良い。何なら好きに飲ませてやっても良いんじゃ無いかとも思ってしまう。

「早く家に帰りたいな」

その言葉に小さく頷くことしかできなかった。


父親の容態が急変したのを伝えてくれたのは母親だった。唇を尖らせふて腐れたような顔をしている。

早く死んで欲しい。そんな呟きも聞いたことはあった。車で病院に向かう。飛ばしても四十分はかかった。道にある灯りはガソリンスタンドとコンビニくらいで狸が横切ることもあった。病院までの道のりは誰も口を開かなかった。

病院に到着する。何時もの場所に止めようとすると母親に止められる。夜の入り口は違うらしい。昼間にしか来た事がないから知らなかった。車を動かす。

距離はそこそこ離れていた。車だから数分だが歩くのは億劫だ。降りるとアスファルトを踏みしめる。未だに昼の熱気を留めていた。

病院の入り口は青白く浮かび上がるようだ。

受付にはひとりの看護婦が座っていた。

要件を伝えるとあっさりと通してくれた。

何も言わなくても大丈夫だったかもしれない。

院内は昼に比べて静まり返っていた。

電灯も落とされ闇に同化している。

エレベーターに乗ると消毒薬の匂いがした。

ドアが開くと母親が左に曲がった。何時もなら右に曲がる。

一応小走りなのは最低限の情なのだろうか。

追い越すのは遠慮した。

病室に辿り着くと医者が報告してきた。

「峠は超えました。大丈夫ですよ」

母の舌打ちが聞こえた。部屋の誰も反応しなかった。勿論、父親も。

直ぐに帰るわけにもいかず母親は医者と話すことになった。待合室で椅子に腰を下ろす。四人掛けの椅子の真ん中に座る。

昼間は人でごった返していたロビーも閑散としている。ラックには雑誌が積まれている。耳を済ますと地球の回る音さえ聞こえてきそうだ。

ふと風が動いた。顔を上げると後ろ姿が見える。どうやら脇を通ってきたらしい。違和感を覚えた。後ろにあるのは正門だ。夜は閉じられている。

どこから来て何処に行こうとしているのか。

視線が吸い寄せられた。後ろ姿が停止する。

本能が叫んだ。見るな。顔を下ろす。薄汚れたスニーカーを凝視する。何処かに行っただろうか。

そう思ったら非常灯が陰った。見下ろされている。

頭を上げて確認したいと言う気持ちと恐れとがぶつかり合う。後頭部が熱を持ち始めた。子供の頃の様に太陽に焦がれた。肩に手が置かれる。

顔を上げると母親が立っていた。

どうやら探させてしまったらしい。スマホを確認してみても何件もメールが来ていた。

「何かあったの」

その言葉に答えることは出来なかった。


その日、病院に行ったのは退院の手続きの為だった。

容態が安定しているとの事で医師から進められた。

精神科への転院は取り消された。

医師の言葉を借りると人を閉じ込めると言うのはとんでも無く面倒臭いらしい。人を殺すかもしれない、なら兎も角たかが死にかけているくらいでは無理な様だ。父親に医者が励ましの言葉を掛けた。

精神論を前面に押し出した言葉は安い宗教の勧誘のようだった。

終わると車で帰った。運転は勿論、自分だ。親父も免許は持っていたはずだがハンドルは握らせられない。

家に帰るまでに山を幾つか超える必要があった。

雄大な自然は街を飲み込もうとしているようだ。


親父が救急車で運ばれたと連絡があったのは一週間後だった。高速を飛ばして家に帰る。

二時間の旅路は肩に重くのしかかった。

家には寄らず直接、病院に向かった。

暗幕が降りたような空の下の窓からの明かりがたよりだった。

前回の反省を活かし緊急用の入り口近くに車を止める。受付から中に入った。特に呼び止められることもなかった。顔を覚えられていたのか怠慢なのかは分からない。

エレベーターを降りると母親が待合室で座っていた。

足元を照らすだけの明かりの中、座り込む姿は哀れだった。息子としての義務感が沸き起こる。

近寄ると顔が上がった。

「親父は」

「今、先生が見てる。隠れて飲んでたみたい」

そう言うとため息を漏らした。気持ちは分からなくもないが嫌な気分になった。子供の頃からその仕草は嫌いだった。愛故にと言うより自分の頭の良さに酔ってているように感じた。

取り敢えず一つ飛ばして椅子に腰を下ろした。

暫くすると男の医者が歩いてきた。この間、檄をくれた彼とは別人だ。偶然かもしれないが女医を見ていない。数が少ないのだろうか。

医者が説明をする。もう酒を飲むのは毒を飲むのと一緒なそうだ。家族がしっかりと見張っていないと駄目だとも言われた。母親はその度に頭を下げた。

それは話の内容に相槌を打つと言うより音に合わせて揺れる人形を思わせた。

話が終わると医師は去っていった。

聴くと母親はタクシーで来たと言う。車に乗せてやる事にした。母は疲れ切った様に口を噤んでいた。


肝試ししようぜ。そう言いだしたのは友達の一人だった。病院に一緒に行くことになった。

流石に何の縁もなく行くのは咎めたようだ。ダシに使われた。断る理由も無かった。親父の顔も後、何回見れるか分からない。別に尊敬もしていないが、それなりに良い思い出もあった。

見知らぬ男を看護婦は警戒したようだが友人だと言うと通してくれた。そのまま進んでいく。

着いたのはトイレ。何処にでもある施設が薄暗がりの中にあると怪談スポットに変貌する。

初めに友人が入っていった。帰ってきたから自分も行くことになっていった。帰りに何処で飯を食うか考えながら待つ。暫く待っても帰ってこない。とは言え十分程度の話だが。ついでに用を足しているのか。それとも驚かせようと待ち構えているのか。

取り合えず向かうことにした。扉の無い入り口を潜る。洗面台を通り過ぎると右手側に小便器が並び反対側に個室が並んでいた。個室を一つ一つ確認して行く。一つ目、二つ目。どちらも空だった。

三つ目に居た。便座に考え込むようにして座り込んでいる。声を掛けながら近寄る。それでも返事は帰ってこない。流石に肩を掴む手にも力が篭った。

顔が挙げられる。白目をむいた表情は明るい所で見たなら笑えたかも知れない。恐怖のあまり失神した。其れが分かる顔だった。取り敢えず肩を貸して立ち上がらせる。意識のない体は思い。持ち上げようとしても滑ってしまう。何とか肩を持ち上げると歩き出す。一刻も早く医者に診て貰う必要がある。

洗面台には鏡が置かれている。何故か気になった。

徐に顔を上げる。其処には黒い着物の女が立っていた。焼いた骨を固めて作ったような白い顔には目が付いていなかった。赤い唇だけが存在していた。

よく見ると縮尺がおかしい。鏡のほぼ全てに写り込んでいる。これでは自分の前に居ないと辻褄が合わない。女が近づいた。いや遠ざかっているのか。鏡面に波紋が出来た。鼻先が出ようとしているのを見て駆け出した。廊下を掛ける。何故か看護婦も医者も見ない。窓からは巨大な獣の様な山の影が見えた。

辿り着いたのは親父の病室だった。並ぶ寝台を過ぎて親父のベットの下に潜り込む。

動く物は何も無い。クリーム色に塗られた寝台の足が並んでいた。何も起こらない。安心しかけた時、其れは現れた。音も無く黒い着物に包まれた足が現れる。音も無く滑る様に移動する。時々、立ち止まっていた。どうやら寝台を覗き込んでいる様だ。

入り口から一つずつ確認している。自分を探していると確信した。一つ、二つ、三つ。目の前にやって来た。口と鼻を手で押さえる。少しでも痕跡を消したかった。長い。足元を見ているのにも疲れた。顔を上げる。其処には白い顔があった。猫を探す様に体を屈めている。その顔は目が無く口からは真っ黒な歯並びが覗いていた。無意味だと分かっても手を離さなかった。目から涙が溢れるのが分かった。手が伸ばされる。優しげな仕草だが其れが死を与えるものだと分かった。右の視界が掌に覆われる。其処で止まった。

不思議そうに顔が戻っていく。その肩を掴む手があった。別人の様に細くなった其れは親父のものだった。

化け物は顔を戻した。再び足だけしか見えなくなる。

寝台の上で何かが行われた。其れは恐らく捕食に近い物だった。その間、亀の様に蹲っていた。

ひたすら終わるのを待っていた。

気付くと何も居なくなっていた。下から這い出て周りを確認する。静かな病室が広がっているだけだ。

全てが幻の様だ。親父の顔を見る。安らかな顔。安らか過ぎる。頰に触れてみる。硬く冷たい。

ナースコールを押した。

直ぐに看護婦さんがやって来て親父を見てくれた。何故、自分が此処にいるかは説明できなかったが家族ということで大目に見てもらえた。医者が呼ばれ死んでいることが確認される。


畳の敷かれた和室では喪服の男女が犇めいて居た。

喪主として参加している。一週間の年休もたやすく取れた。愛想笑いを浮かべて親戚と話す。結婚は未だかと十回は聞かれた。トイレに行くといってその場を離れる。外に出ると一息ついた。森に囲まれた静かな場所だ。考えを纏めるのに最適だ。

あの夜のことを思い出す。黒い着物の女。あれが何だったのかは分からない。親父の手が何故、動いたのかも。ただ、どうせなら俺を助けてくれたと思いたい。

母親に呼ばれた。火葬が済んだらしい。歩き出した。骨を拾ってやらねばならない。

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