おもひで酒場
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
おお、つぶらや。どうした、今日はやけに不機嫌じゃないか? 仕事で面白くないことでもあったか?
いやあ、何年勤めても完璧とは程遠くて参っちまうよな、お互いさ。メンタル面のコントロール、もっと学んでいかないと、なんてよく思うことさ。
お前はどうやって下がった気持ちを切り替えていく? 好きなことにのめり込むか、それともうっぷん晴らしに、何かにやつ当たるか。ああ、愚痴を言い合うっていうのもありかもな。
ただ、最後の愚痴をもらすという選択。最近、おじさんからある話を聞いてさ、少々戸惑うようになっちまったんだよね。それが何を意味するのかって。
お前も聞いておかないか? 心の片隅にあれば、いざという時に気をつけられるかもしれん。
おじさんが働き始めて、10年近く経った時のこと。この頃のおじさんは下に面倒見るべき部下がいたし、上からの圧力もあって、相当疲れていた時期だったらしい。
何度、胃痛に苛まれたか分からなかったが、休まずに働くおじさんの楽しみは、同僚相手に居酒屋でこぼす愚痴だったという。
その性質はげっぷと似ていた。はたから見聞きして、気持ちのいいものじゃない。だが、する本人としては我慢しがたく、どうしても漏らしがちなものだ。
その日は久しぶりに、残業なしで帰ることができそうだった。誰かを飲みに誘おうかと思ったところ、頻繁に飲みに行く同僚のひとりが先手を打って、自分に声をかけてきたんだ。行ってみたいお店があるのだという。
業後、彼に案内されるがまま電車に乗り、5つほど下った駅。ロータリーもないその乗り場から、歩いて十分のところに、その居酒屋は存在した。店の前に掲げる提灯には「おもひで」と達筆な字であしらってある。
中は、入り口近くが少人数から中人数まで対応できる、すだれや衝立を使った半個室。奥はふすまできっちり区切られているところを見ると、座敷や完全個室がその向こうに存在するのだろう。
おじさんたちは、手近にある四人掛けの半個室に案内される。お約束として、壁にはおすすめのメニューや注意ごとを書いた紙が貼られているが、そのうちの一枚に奇妙な文言が見受けられた。
「当店、現金以外にも、皆様の「おもひで」をお支払いにご利用いただけます」
同僚はどうやらこれが目的で、おじさんを誘ったようだった。同僚は数日前に、新しい居酒屋をを発掘している時、ここを見つけたというんだ。
その時はひとりで、かつむしゃくしゃしている状態だった。ビールと適当なつまみを頼み、ハイペースでグラスを煽りながら、くだを巻いていたらしい。
明日が休みだということに気が緩んだのもあって、閉店までの数時間、ずっとこの場所に居座っていた。終わりの方など意識が朦朧としてテーブルに突っ伏し、まどろむことしばしばだったという。
店員さんに肩を揺さぶられて目を覚ました時、酔いはそれなりに飛んでいた。おかげで自分のテーブルを埋め尽くさんほどに並んだ空っぽの皿たちを認識でき、頭を抱える。頼んだ覚えのある品をメニューで調べて暗算してみると、それだけで青ざめそうになるほどの額だったらしい。
だが、テーブル隅に置かれていたお勘定を見ると、もろもろのお値段の一番下にある項目で、大幅に差っ引かれていたんだ。それが「おもひで料」という奴だったんだ。
支払いの際、疑問に思って店員さんに尋ねると、こう返してくれる。
「あなたのお仕事の『おもひで』、たくさん聞かせていただきました。その感謝の気持ちを込めて、勉強させていただいた次第でございます」と。
想像以上に安くなった支払いを済ませ、不思議な心地で店を後にした同僚。だが、家に帰って落ち着いてくると、この店を試してやりたい気持ちが湧いてきた。そこで戦力となるだろう、自分を誘ったとのこと。
「だからよ、今日はお前も溜まっているざんざか吐き出せや。そうすりゃ、ここの支払いはどんどん安くなるんだぜ?」
そうこうしている間にも、すだれ向こうの中人数用の席からは、はばからない大声で上司の文句を言っているらしい、男の声が聞こえる。周りもそれに同意らしく、やいのやいのとはやし立てて、収まる気配を見せない。
初めての店ということで少し身構えていたおじさん。だがそれも、最初に運ばれてきた生ビールで乾杯して、ごくりと一口飲んでしまうと、あっという間に気分が良くなってきた。
泡に閉じ込められていた旨味が喉の奥で弾け、胃の中でじんわり熱を持つ。それが思考のΩ(オーム)を除けば、おのずと口を突いて出る。おじさんはその日、仕事が遅れる原因になった部下の仕事ぶりを、徹底的に叩いた。
部下そのものの人格は否定しない。それをし始めると悪口に堕する。あくまで仕事の運びと内容、取り返すこと叶わず固定されてしまった過去について叩く。おじさんが愚痴る時の決め事だった。
不満を漏らしながらだと、酒も料理も進むもの。同僚と共に、たっぷり3時間は店に居座り、支払いの時を迎える。素の額だったならば、お互い、今月の残りの過ごし方を考え直さねばならないほど。それがちょっとしたファミリーレストラン並みの値段になっていたんだ。「おもひで料」によって。
「こいつはいい場所を見つけた」とおじさんはほくそ笑んだ。
文句を垂れるだけで、格安で飯が食える。ストレスフルな立場に、これほどうってつけの食事処があるだろうか。
その翌日。おじさんが出勤早々、ひとりの社員が席を立ち、自分に向かって頭を下げてきた。
「はて、誰だろう?」と内心、首を傾げた。目の前の人物が誰か、とっさに分からない。彼が勝手に話す言葉を聞く限りでは、昨日の仕事ぶりに関する、改めての詫びだったようだが……。
そこでおじさんは、相手が胸ポケットに差している名札を見て、ようやく相手のことを悟る。昨日の「おもひで」酒場でさんざん話題に出した、部下だったんだ。今の今まで、顔もすっかり忘れていた。
「飲み過ぎたかなあ」と、頭をなでつつもデスクワークをし始めるおじさん。その時は自分の二日酔いだと思っていたんだ。けれど「おもひで」に何度か足を運び、愚痴をこぼしたことで仮説が補強されていく。
あの酒場は文字通り、個々人の「おもひで」を買い取っているんじゃないか、とね。
仕事関連を話すのは危ないと、悟った時には遅かった。自分が担当している顧客について悪口を漏らしてしまった同僚は、その後の交渉に失敗。会社に大損を招いて降格が決まってしまう。
おじさんはこの「おもひで」酒場から遠ざかりたいと思っていたが、身体は正直だ。ビールののど越しと、焼き鳥を頬張った時に広がる肉汁の味は、忘れた頃に味わいたくなってしまう。それも愚痴をこぼしながらだと、味が一層引き立つんだ。
迷った末、おじさんは自分の卒園、卒業アルバムを家で熟読する。すでに過去となり、今の自分とは滅多に関わらない人。その記憶を引っ張り出して、酒の「肴」に仕立てようとした。
誘惑は、その力をいささかも緩めない。最初の来店から半年が経つと、おじさんは週二回、「おもひで」に足を運ぶ常連となっていた。この頃、同僚はすでに会社を辞めており、連絡も取れなくなっていたとか。
不満の湧くままに飯をかっ食らい過ぎたために、お腹はすっかり前へ出て、ベルトのサイズを考えなくてはいけないほど。店内は当初の賑わいがほとんどなくなり、空席が目立つ日が増えていたとか。
そしてその晩。おじさんは自分の失恋を、肴に捧げたらしい。
思えば思うほど言葉は途切れず、のどの渇きと空腹を覚えるたび、延々と料理を頼んだ。他の客がいなくなり、ひとりっきりになりながらも店はおじさんを追い出そうとしない。
時間の感覚など、とっくに失せた。外してテーブル脇に置いたはずの時計は、なぜかそこにない。そしてついに、彼女との「おもひで」を語り尽くし、もう一片も出てこないというところで、おじさんは机に突っ伏してしまう。
付き合っていた頃なら、彼女について語るなど三日三晩は軽くできると思っていた。だが吹っ切ってより十数年。自分の中で彼女が薄れてしまっているのを、どこか寂しく感じた。
「お疲れ様でした」とおじさんのそばに、お冷を置く店員さん。霧がかかったようにぼんやりとした視界と頭で見上げるおじさんへ、言葉が続く。
「今日のお代、結構ですよ。素敵でしたから。そこで折り入って、お願いなのですが……あなたを、買っていいですか? この店で。お酒もお料理も好きなだけご用意します。ここでずっと、過ごしませんか?」
おじさんは酔いのために判然としない耳で、たぶん、そのような言葉を聞いたはずだと話してくれたよ。その時には意味が理解できず、首を横に振ったとも。
すると店員さんは軽く首を傾げて去っていき、ほどなく電話でタクシーを呼んでいる会話が聞こえてきた。やがて店外からエンジン音がし、もう身体をほとんど動かせなかったおじさんは、店員さんに肩を貸してもらったそうだ。
ただカウンター前を通る時、奥のすだれがかかった従業員用の部屋の中に、何人もの人が寝かされていたのが、ちらりと見えたらしい。その一番手前側にいた男は、同僚ではないかと思ったとか。
翌日の休みは頭痛がしっぱなしで、一日中、横になっていたおじさん。その次の日の退勤後に「おもひで」酒場へ向かったところ、店はなくなっていたらしい。
建物は壁ひとつ、柱一本も残らず、「分譲中」の看板が立っていた。おじさんはあまりの仕事の速さに、寒気を覚える。同僚も相変わらず、連絡がつかないままなのだとか。
おじさんは今はもう定年を迎えようとする歳。それなりのポジションについているが、同窓会に呼ばれる時が、ちょっと辛いと話している。
あの時、売り払ってしまった「おもひで」のせいか、誰一人顔が思い出せない。思い出話をする時も蚊帳の外で、結局、料理をもくもくと食べるより他に、なくなってしまうから、とのことだ。