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幸せのキャッチボール

作者: 日光一


 会話とはキャッチボールというフレーズがある。

 二十代後半に差し掛かった今でも僕はいつ聞いたかも思い出せないこのフレーズをとても気に入っているし、その通りだと思っている。

 そして、主に恋人との会話や言葉のやり取りに僕は強くそのことを感じる。それがどんな形であれ、僕にとっては幸せなやり取りで、日々の積み重ねの美しさであるとも思うのだ。


 取引先へのメールを送り終えると、僕はパソコンの電源を落とし、コーヒーカップを持って立ち上がった。

 不意にスマートフォンが短く鳴る。メッセージの着信を知らせる緑色のランプが着いて、僕はコーヒーカップを持った手と逆の手で、すぐにパスワードを打ち込んだ。

 恋人の和沙かずさからだった。

「明日、お休みになったよ。どっかお買い物でも行かない?」

 小さな広告代理店の経理を務める和沙とはかれこれ一年以上の付き合いになる。

「いいよ。お昼どうする?」

「パスタがいいな」

「じゃあ、パイシーズだね。十一時半でどう?」

 僕はいつも二人で行く喫茶店の名前とあまり早くない時間を提案する。

「いいよー。じゃあ、今日はもうお風呂入って寝るね。くたくた」

 くたくたの部分は寝っ転がっている人の絵文字が入っていた。微笑して、僕はお疲れ様、ゆっくりお休みと打ち込んで、コーヒーカップを流しに置いた。

 ゆっくりと寝室のベットに横たわり、今日一日のことを思い出す。

 今日も僕の周囲との会話のキャッチボールは上手に続いていた。


 高校生の頃付き合っていた海咲みさきのことを思い出した。初めて出来た恋人のことだ。色んなことが初めてで、お互いに照れてばかりいた。

星志せいじはさ、本当にカッコいいよね」

 バスケ部に所属する海咲はすらりと手足が長く、健康的で眩しかった。

「海咲だって可愛いよ」

 女の子らしい細く煌めく黒髪と笑った時に見える白い歯が印象的だった。

「やだ、もう。照れるよう」

「でも、本当のことだし」

「へへへ」

 中間テストとか、クラスカーストとか、担任の小言とか、塾の時間とか、親の着信とか煩わしいけど優しいものがたくさんある時間の中での恋だった。

 世界は海咲だけでできていたし、僕にはそれで十分だったし、多分彼女にとってもそうだった。初めて知った甘い感情のキャッチボールは永遠に続くものだと信じていた。そう信じられるほどに僕らは純粋で、子供だった。

 ささいなことであんなに楽しかったキャッチボールはドッジボールになった。

「何で、私以外の女子と二人でご飯行ったりしたの?」

「それを言ったら、海咲だって先週何とかって先輩と写真撮ってただろ」

「あれは部活紹介で使う写真だって!」

「僕だってただ勉強の相談受けただけだよ」

 一度崩れたキャッチボールのリズムは中々戻らなかった。

「どうして分かってくれないの?」

「海咲こそ、少し幼稚過ぎない?」

「もういい! 星志なんて大嫌い!」

「こっちこそ、願い下げだね」

 思うに、僕はこの時、海咲のことを心底好きだったんだと思う。多分海咲も同じだった。好きだからこそ、それは相手への凶器になることを実感するのはもう少し僕が大人になってからのことだった。

 世界は決して一人で出来ていない。そして、自分のことですら、自分では独占できない。まして、それが他の人ともなれば絶対に全てを手に入れることはできない。何とも言葉にすると簡単なことなのだが、多くの人はこのことに気付く前に周囲を傷つけている。

 海咲とのキャッチボールはこうして終わりを告げ、しばらく僕は自分のボールを磨き続けることとなった。


 パイシーズのいつもの席で、アップルティーを注文すると、僕は読みかけだった文庫本を開いた。

 待ち合わせの時間まであと三十分。

 人を待つ時間というのは何とも得難い心地よい時間だと僕は思っている。

 相手から返ってくるボールを待つのは待ち遠しくも嬉しい。

 五十ページほど本を読み進め、運ばれてきたアップルティーの湯気が消える頃、和沙がやってきた。

「いつも星志には負けてしまうわね」

「勝ってもらっても困るよ。時間を破っているのは僕の方なんだから」

 くすりと和沙が笑い、ミルクティーを注文した。

「ねえ、今日はどこへ行く?」

 僕が栞を挟んで文庫本を閉じていると、和沙は少し身を乗り出した。

「そうだね、僕は本屋に行ければいいかな」

「じゃあ、表町の方ね」

 すぐにボールを返してきた和沙に僕は少し緩めに返球する。

「うん、ところで、和沙は行きたいところは?」

「服屋かな。後は星志の行きたいところでいいよ」

 ミルクティーに手を付けながら、和沙は唇を緩めた。

 僕は、受け取ったボールを少し撫でて、微笑んだ。彼女のこういうところは好きなところの一つだった。


 大学の頃付き合っていた茉奈まなは外見も派手だが、それ以上に、感情の浮き沈みの激しい女の子だった。

いくつかのゼミの合同の飲み会で出会った彼女との付き合いは始まりから終わりまで嵐の中の船の如く揺らめき、先の見えないものだった。

 よく喧嘩もしたし、一ヵ月くらい顔を会わせない時もあった。

 まるでジェットコースターのような感情の振れ幅に僕も彼女もよく振り回されていた。

 剛速球を投げてきたと思ったら、欠伸が出そうなくらい遅いスローボールが返ってくることもあった。

 それでも、僕はその緩急や荒れ模様の二人のキャッチボールをなんだかんだで楽しんではいた。

けれど、彼女はそうではなかったようだ。

 デートの予定や場所や、キスのタイミングやプレゼントのことなど僕は本当によく彼女にボールをぶつけられた。

「ごめんね、私っていつもこうなの」

 最後には、彼女は泣きながらいつも僕にこう言った。

 その度に僕はいつも笑いながら、いいんだよと言って微笑んでいた。

 そうして、終わりは唐突にきた。

 原因は彼女の浮気にあった。

「ごめんね、星志のことは好きだけど、いつも最後は笑って許してくれるからその優しさに溺れるのが怖くなったの。本当にごめんね」

 僕はその言葉に何と言ったのか、今はよく覚えていない。

 でも、多分、最後に彼女からくたくたになったボールを受け取った時、僕は微笑んでいたのだと思う。

 こういうものなのだと勝手に解釈したのだと思う。

 それにその時は大学生ということもあって彼女以外にも魅力的な事柄はそれこそ星の数ほどあって、たくさんの出会いもあった。

 後から考えれば、選択肢が異常なほど存在していた時期だったのだ。

 当時の僕は、その多くの選択肢に目移りして、ただただ日々の生活を謳歌していた。

 そうやってしばらく、自分も相手も傷つかない道を諦観して選び続けた。

 相手も自分とも向き合わなかった怠惰の結果、手痛いしっぺ返しを食らうのは少し先のことだった。

 

 四件目の服屋を回る頃には和沙の両手には紙袋が握られていた。

「ダメね、つい買い過ぎちゃう」

 少し照れたような口調で和沙は口を尖らせた。

「まあ、君に似合う服だったし、仕方ないんじゃない?」

 緩やかに投げられたカーブを受け取って、僕は下手投げで優しく言葉を返す。

「今月結構厳しいのよ」

「あれ? 残業結構あったのに?」

「それは来月分の給料ね」

「ああ、なるほどね」

 キャッチボールは楽しく続く。

「星志は仕事どう? 上手くいってる?」

「ぼちぼちだよ。今月二件目のプロジェクトがもうすぐ終わる」

「在宅で出来る仕事って本当にいいわよね」

 ふんわりと山なりのボールを僕はキャッチして、少しボールを眺めた。

「たまに人恋しくなるよ」

 ゆっくりと綺麗なストレートを僕は投げた。

「じゃあ、恋しくならないように頻繁に会ってあげるわ」

 彼女から投げ返されたそのボールは美しい弧を描いた。

「それは素晴らしいね」

 これだから、彼女とのキャッチボールは止められない。


 仕事を始めたばかりの頃に出会って付き合った夕希ゆきは非常に現実的な女性だった。

 大手のIT企業に勤める彼女には、僕の不安定な収入の職業には結局ずっと不満だった。

「貴方のことは好きよ。でも、私は整地されていない道を歩くのが嫌なの」

 最後に会った時、彼女はそうはっきりと僕に渾身のデッドボールを見舞った。

 僕は大学を卒業した後、フリーのプログラマーとして働き始めていた。

 当然、この頃はそれだけで食べていくことはできず、様々なバイトをして食いつないでいた。茉奈と別れ、最後の学生生活の貴重な時間を使って、僕は趣味だったプログラミングに没頭していた。その時、就職活動の最中だったため、僕はまともな職探しもせず、季節が一巡りして、僕はようやく自分の置かれている状況を把握したが、時すでに遅し、良い条件の新卒の採用はほぼ終わっていた。

 それならと、僕は自分のやりたいことを職業にしようとプログラマーの道に進んだ。

 それは今から考えても甘すぎる判断だった。大学時代の先輩の伝手で幾らかの仕事をもらったが、もらえる仕事はどれも当時の僕には重すぎるものだった。

 結果、重すぎる荷物を抱えきれず、僕は仕事を干されていった。

 少しずつこなせる仕事をやってもやればやるだけ、自分の肉体と精神を痛め続ける結果となった。誰のせいでもない。大事な時期に必要なことをやらなかった自分の怠惰の責任をその時取らされていた。

 夕希と出会ったのはちょうどその頃だった。

 取引先の実務担当者が彼女で、何度か直接のやり取りをする中で、プライベートの時間を共有するようになり、僕らは恋人になった。

 けれど、彼女は多分ずっと僕のことなど眼中になかった。僕の生み出す利益にこそ価値があり、その価値が頭打ちになった時、僕らの関係はあっさりと終わった。

 その時、僕は必死だった。何とか仕事をこなせるように改めて勉強もしたし、効率よく仕事をこなせるように努力をし続けたと思う。

 ある程度僕の仕事が認められるようになると、彼女は僕に彼女の会社への入社を薦める様になった。でも、僕はそれを断った。自分の塩梅やペースで仕事が出来ないことは僕にとって想像以上に苦痛なこととなっていた。そのことを僕は必死で彼女に訴えたが、彼女はまるで理解しようとしなかった。

 ルールの中で投げ続けていたら、きっとそのキャッチボールは綺麗に続いていたのに、僕がそれを嫌がったのが良くなかったのだと思う。

「貴方はずっとそうやって、皆で作ったアスファルトの道を歩かずに、自分だけの不安定な道をただ一人で歩いて行くんだと思うわ」

 彼女の別れ際の一言は今でも僕の心に突き刺さっている。


 本屋で文庫本とコンピュータの専門誌を買って、僕らの買い物は概ね終わった。夕食を取るにはまだ幾許かの時間があった。

「少し歩こうか。まだ夕飯には早い」

「そうね、そうしましょう」

 和沙の荷物を駅前のコインロッカーに仕舞い、僕らは街を歩いた。

 遊歩道の木々が花を咲かせ始める季節だった。

 誰かに整地された道を僕らは歩く。

 どちらともなく、ただ何となく、僕らは街の中央にある大きな公園へと足を向けた。

 ベンチに座る老夫婦、自転車で並走する小学生、ビニールシートを広げる家族、サングラスをしてジョギングをしている中年男性、手を繋いで談笑している若い男女。

 公園内の至る所で何気ない日常が続いていた。

 それは僕らの日常でもあった。

 ゆっくりと僕らは人々の間に溶けていく。

「ねえ、あれ見て」

 和沙に指された方に目を遣ると、公園内のグラウンドで草野球が行われていた。

 まだ試合開始前らしく、年齢が様々な選手たちがキャッチボールやストレッチを行っていた。

「私、野球部のマネージャーだったのよね」

 和沙は悪戯っぽく笑って小走りにグラウンドの脇のフェンスに近寄っていく。

 僕はゆっくりと彼女の後ろを付いて、キャッチボールの風景を眺めた。

 投げられたボールは綺麗な放物線を描いて、しっかりと相手に受け取られた。

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