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隻眼のミシェル

作者: 小島もりたか

 私の最初の記憶は、冷やかな母親の胸で乳を飲んでいるところだ。

 母親は痩せこけていて、抱かれると骨がごつごつ当たっていたような気がする。母親の体温は常に冷たく、もうずっと調子が悪かったのだろうと思う。


 私が初めて目を開いた時、父と母の顔を初めて見た時、父親は私を見て心底気持ち悪いものを見たような顔をした。

 そのせいだろうか、その日の晩、父は母以上に冷たい手で私を掴むとダンボ―ルに入れ何処かの公園に連れていった。


 そうして父は、海が近い、潮風の匂いが届く公園に私を置き去りにした。


 母親の温かさが恋しくて、私は何度も何度も泣いた。しかし誰も私の声に応えてくれる者は、現れなかった。

 しかしながら、この時、無防備な私がテンやトンビ等の動物に襲われなかったのはとても幸運なことだっただろう。


 朝日が昇り、沈むのを独りでどれくらい見たのだろうか。私にはそれが永遠に続く時間に思えた。

 空腹で、寒く、私は時が経つにつれ急速に自分の命の灯火が弱くなっていくのを感じた。


――もう半日も持たないだろう。


 そう思ったある晴れた日の午後、お母さんは現れた。

 公園の隅の隅に置かれた私が誰かに見つけて貰えたのは、それが初めてのことだった。


 お母さんがそっと私の腹に触れた。温かさが染みて胸が痛くなる。

 しかしお母さんは直ぐに手を放すと、迷ったように二の足を踏んでから何処かに駆けていってしまった。


 誰かに庇護を与えて貰うしか生きる術がなかった私は、私を離れた足音を聞いて、もう自分の命が終るのだろうと思ったが、お母さんは直ぐに帰ってきた。そして何か柔らかい物で私を包み、優しく抱き抱えた。


「可愛そうに……」


 子供が駆けてくる音と声が聞こえた。しかしそれ以降の記憶は曖昧だ。


 ただ、私を抱き抱えたお母さんの温かさだけは、いつまでも忘れられない記憶として残った。



*****



 生きとし生けるもの全てが平等ではなく、不平等で産まれた瞬間から少なからず格差がある。


 それは良い意味での差であったり、悪い意味でであったりする。そしてその差の振れ幅も、人により異なる。

 場合よっては、その生まれもった差を、人は『宿命』と言った。


 そう考えると私の身体もある意味宿命だったのかもしれない。



 誰かに頭を撫でられる感覚で目が覚めた。

 しかし目を開けるのも怠く、私はそのまま微睡むにまかせることにした。小さくて温かい手が、丁寧に丁寧にと心の声が聴こえるぐらい丁寧に、ちょこちょこと私の頭を撫で続ける。


「可愛い~」


 小さな女の子の声だった。


「おばーちゃん、なんで片方の目が縫ってあるの?」


 今度は女の子の声より、さらに少し幼い男の子の声だ。


「生まれつき片目がなかったみたい。お医者さんが悪くなるといけないからって、縫ってくださったの」

「痛いのかなぁ……」

「痛いんじゃないかしら?」


 確かに目は痛かった。しかしそれは縫ったせいであり、目が無いことが原因ではない。

 そもそも、私は『目が片方ない』という認識がなかった。両目があるという感覚が分からないので、片方ない不便さが分からない。


「なんで目がなかったの?」

「母親の身体が悪かったのかもねぇ」

「お母さんの身体が悪いと、赤ちゃんも身体が悪いの?」

「そうよ」


 今更ながら母親のことを思い出す。私が知る限りでは常に冷たかった母親は、もう永くないのかもしれない。

 それはとても悲しいことだと思ったが、ちっぽけで力のない私は何もすることができない。


「この子の名前は何て言うの?」

「そういえばまだ決めてないねぇ」


 少し嗄れているが、ハキハキとした女性の声に私の耳が小さく反応する。私を拾ってくれた、あの温かい女性の声だ。


「この子の名前、千穂ちほが決めていい?」

「いいよ」


 女性が微笑みながら言った気がした。


「姉ちゃんばっかりずるい! ゆたかが決める!」

「めぐが決めるの!」


 小さな姉弟喧嘩が始まると、女性が笑いながら言った。


「それなら、おばあちゃんの気に入った方にしようね」


 えー、と千穂が批難の声を上げたが、暫くすると考え始めたらしい、静かになった。


「クロ!」

「この子は金髪だねぇ」

「ヤマト!」

「女の子だよ」

「花子!」

「いまいち」


 豊が次々と候補の名前を羅列していくが、どれもあっさりと女性に却下されてしまう。実際、私もそれらの名前は気に入らなかったので助かった。

 そうして豊の候補が一通り出尽くした後、千穂がゆっくりと口を開いた。


「――金髪で、洋風で可愛いから、ミシェル。ミシェルはどう、おばあちゃん」


 女性が頷いたのが分かった。


「そうね、この子にはそのくらいの名前がよく似合うと思うわ」


 そうして私の名前は『ミシェル』に決まった。


「ちぇっ、姉ちゃんばっかり……」

「豊のセンスが悪いのが悪い」


 また温かい手がちょこちょこと私の頭を撫でる。


「ミシェル早く元気になってね」


 このタイミングで起きようと思った。私は自然を装いながらゆっくりと目を開ける。

 すぐに千穂と目があった。


 千穂も豊も溌剌としていて、よく食べてよく動いている身体をしている。小さな身体に元気が溢れていた。


「おばあちゃん、ミシェルが起きたよ!」



 小回りがよく利く身体で、クルクルと私の面倒を看てくれた後、二人は夕飯だからと自宅へ帰っていった。


 女性と二人きりになる。


 女性は歳はとっていたが、老婆というにはあまりに若々しい。老婦人と言った方が相応しいだろう。

 ピリッとした雰囲気の中の緩やかな優しさを感じられた。


 その女性がゆっくりと優しく私を抱き抱え、目を会わせる。女性は春の日差しの様に微笑んだ。


「ミシェル。今日から貴女は私の娘です。私のことは、ちょっとおばあちゃん、だけど『お母さん』と思ってくれていいからね」


 その時から、この優しい老婦人は私の『お母さん』になった。



 幼少の頃の時間は特に早く過ぎる気がする。


 毎日のように昼過ぎか夕方から、千穂と豊が私の所に遊びに来て、一通り遊び倒してから帰っていく。二人が居ないときは、お母さんと畑や蜂の世話や散歩、日向ぼっこをして過ごした。


 私は特に蜜蜂の世話がお気に入りだった。小さなハコから飛び立つ蜜蜂、花粉をその身にたっぷり抱えて帰ってくる蜜蜂はいつみても愛くるしく、何時間でも見ていられた。

 蜂は外敵を尻の針で刺すというが、頭が良い蜜蜂達はお母さんを保護者と認め、家の蓋を開けたりするにも関わらず、一度も刺したことがない。そして、私に対しても刺すことはなかった。


 住んでいる志水しみず村は、山々に囲まれていて、その間を縫うように小川が流れてる。

 どうやら海までは遠いらしい。潮の香りはちっともしない。


 しかしながら、山と川が家の直ぐ近くにあるので、外遊びには事欠かなかった。


 春は山菜を採りに行き、

 夏は川で水遊び、

 秋は木の実を集め、

 冬は時々薄く積もる雪をかき集めて遊んだ。


 千穂と豊と山々を毎日のように駆け回り、私は夜の暗闇の中でも近所の山々を移動できるようになった。


 山には危険な生物がかなりいるらしいのだけれど、幸いなことに私はあまり遭遇したことがない。

 一度だけ、蝮には遭遇したことがある。お母さんが畑の雑草を草刈り機で刈っていた時だ。


 蝮は草影からにょろにょろとうねりながら現れて、お母さんと私を見つけるなりとぐろを巻いた。

 そして、鎌首を上げて威嚇をした。


「ミシェル近付かないで」


 お母さんは私に牽制したかと思うと、次の瞬間には艶やかな手付きで芝刈機で蝮の首を薙いでいた。

 蝮が痙攣して静かになったところで、蝮の首を取ってきて私に見せる。


「これが蝮。強い毒があるから、見つけたら逃げるのよ」


 その時私は、そんな蝮より、恐ろしいと言う蝮をいとも簡単に蝮を退治してしまうお母さんの方が怖いと思った。



 お母さんや千穂、豊や二人の家族もよく私に喋りかけてくれた。


 私は理解力は良かったらしく、皆の言っている内容は直ぐに理解できるようになった。


――早く皆に言葉を返せるようになりたい。


 そう思って自分の成長を今か今かと待っていたが、いつまで経っても私が皆と同じような言葉を発せるようにはならなかった。

 そうして二年が経ち、私は自分の身体の欠損、障害を理解した。


――私の発声器官には障害がある。


 お母さんや皆はあえて何も私に言わないが、きっと恐らくそうなのだろう。

 食欲が出ず、落ち込む私をお母さんが心配して病院に連れていく。


「最近食欲がでないみたいで、心配で……」

「夏バテでしょう。水分をよく摂らせてあげて、涼しい環境もつくってあげてください」

「夏バテですか……」


 お母さんが心配したように俯く私の頭を撫でる。


「今年の夏は特に暑かったですからね。しばらくしても調子が戻らないようなら、また連れてきてください」

「はい……。ごめんね、気付いてあげられなかったね」


 更に強く撫でるお母さんの顔を私は見上げる。


――違うの。違うのお母さん。私は病気じゃないの。自分の不甲斐なさに落ち込んでいるだけなの。


 そんな言葉さえ、私は伝えることが出来ない。

 もしこの言葉が伝えられたら、お母さんの心配はきっとなるなるはずなのに……。



――言葉がダメなら文字を書けるようになればいい。


 そう思って私は自分の手に指が生えてくるのを待った。しかし、指は一向に延びる気配がない。それはおろか、いざ文字を覚えようと思っても、私は一文字すら理解し、覚えることができなかった。


 記号は何となく理解できるが、文字のような複雑なものになると急に覚えられなくなる。

 こうして、私の筆談によるコミュニケ―ションの道も閉ざされた。



 なんということだろう、私は幾つもの障害を抱えているらしい。


 その中でも私を最も傷つけたものは、骨格の奇形だった。


 私の骨格は明らかに二足歩行に向いていない。

 手はあるが、指がない。一応あるにはあるが、無いに等しい。

 鼻が異常に長く、口が大きい。

 そして、全身が毛で覆われていた。


 明らかにお母さん達と身体の出来が違う。

 しかし、私と同じような障害を持つものはそれなりにいるようで、そのような者達は大抵首輪をつけられ、家の庭で管理されていた。


「おいで、ミシェル」


 お母さんに呼ばれて私は家の中に駆ける。そう、私は同じ障害を持つ者としては破格の待遇なのだ。

 一応は病名もあるようだが、忌々しいのでその名前は耳にいれないようにしている。



 私は自分に足りない物を補う為に、次々と物事を覚えた。


「ミシェル、武志たけしから新聞紙貰ってきてくれる?」


 お母さんから言伝てのメモを預り、玄関を出て、隣の家に行く。隣の家の玄関のチャイムを鳴らすと、千穂が出てきた。


「ミシェル。どうしたの?」


 メモを渡した後、私なりの表現で新聞紙が欲しい旨を伝えると、千穂は手慣れた手付きで新聞紙を持ってきてくれた。

 受け取ると千穂は温かい手で私を撫でてくれた。


「ミシェルは本当にお利口さん」


 褒められたこと自体は嬉しいが、そもそもこんなことで褒められること自体が少し悲しく、私は複雑な気分になる。

 しかしながら、こんな出来損ないの私にも出来ることがあって嬉しくもあった。



「ミシェル、お薬の袋取ってきて」


 私は台所に行き、冷蔵庫の横に掛けてある布の小袋の一つを取った。

 しかし持っていくとお母さんは可笑しそうに微笑んだ。


「残念、ミシェル。それはのど飴の袋よ。お薬の袋は赤色」


 私は小首を傾げる。お母さんの言う「色」というものの区別がイマイチ付かない。


 匂いで確認すれば薬の袋は簡単に判別が付くのに、目視確認だと正解の確率は半々といったところだ。

 努力すれば柄の差でも見分けがつくのだろうが、それは疲れるので避けたい。


――やはりこれからは匂いで確認して持っていこう。


 そう思ってから、ふと気がついた。


――もしかすると、私は色覚も悪いのかもしれない。


 よくよく考えてみると、私が認識できる色は『青』だけだった。他の色は全て同じ色の濃淡でしか判別できない。


 またも自分の欠陥に気がつき、私は酷く落ち込んだ。



 こうして自分の出来の悪さに落ち込むことは再三だったが、私の暮らしは概ね幸せだった。



「ミシェルよりは長生きしないとね」

というのが、お母さんの日向ぼっこしたときの口癖だった。


 どうやら私の寿命は、お母さんの寿命と同じ頃に尽きるらしい。それが今までのお母さん達やテレビを観て私が分析した結果だった。

 お母さんがいない生活が考えられない私には、お母さんより早く寿命が来る方が幸せかもしれない。

 何度も優しく私を撫でてくれる温度を感じながら、私は何度もそう思った。


 年の離れた姉や兄も、私より年上の甥や姪も年に数回家に遊びに来ると、私のことをよく可愛がってくれた。

 初めて会ったときは、それはもう驚いた顔をしていたが、よくよく話を聴いてみると、皆私の片目がないことに驚いていたらしい。


 確かに、私を初めて見る人は、大抵驚いてから私を憐れんだように見る。

 私的には片目がないことは、そこまで憐れに思われる内容ではなかった。――奇形であることや言葉を話せないことの方がよっぽど辛いのに……。


 しかし私と深く関わる人は皆私に優しかった。一つ一つの行動に、私に対しての思い遣りを感じることができるくらい。


 幸せだった。

 本当に、本当に――。


 しかし、幸せとはある日突然、呆気なく崩れるものである。



 いつものようにお母さんと蜜蜂のお世話に行っていたときである。


「あ、っ……」


 お母さんが突然胸を押さえながら倒れた。暫く苦しそうに痙攣してから、ピクリとも動かなくなる。

 私は何度も声を上げ、お母さんを揺らし起こそうとしたが、一向に起きる気配がない。


 私は酷く動揺した。


――お母さん、お母さん!


――お母さん、どうしたの?!


 心臓に何か起こったことは分かったが、私は助ける術が思い付かなかった。

 この身体では心臓マッサ―ジをすることも、人工呼吸をすることもできない。


――どうしよう。


――お母さん!


――死なないで!


――死なないで!!


 しかし、恐慌状態に陥っていた私に奇跡が舞い降りる。


 じゃりじゃりじゃり――


 車が石を噛む音が聞こえた。


――そうだ、助けを呼べばいいんだ!


 車が通っただけでは、倒れたお母さんの存在に気がつかないが、私がアピ―ルすればきっとお母さんに気がついてくれる。


 車は山の上の方から下りてくる。

 私は道路の真ん中に出て、何度も大声を上げながら車が下りてくるのを待った。


 ききぃ――


 軽トラックが私の前で停まる。どけと言わんばかりにクラクションを何度か鳴らされた。

 私は何度も大きく跳躍しながら、何度も大声を上げた。


 私の緊急性を察したのだろう、少しすると男性が車から下りてきた。


「お前ミシェルか?! どうしたぁ?」


 車の男性は武志叔父さんだった。僅かに火薬の匂いがする。きっと猟の巡回をしていたのだ。


 私は武志叔父さんの服の袖を懸命に引っ張る。直ぐに私の意図を察してくれたようだ。


「姉さんに何かあったのか?」


 私が駆けると叔父さんもよたよたとついてきた。


「姉さん――!」


 叔父さんは倒れたお母さんを見つけると、直ぐさま呼吸の確認と、心音の確認をした。そして顔色をさっと白く変える。


「ミシェル、村に戻って知らせてきてくれ! お利口なお前なら、分かるだろ?!」


 私が強く声を発すると、叔父さんは任せたと言わんばかりに頷いて直ぐさま人工呼吸と心臓マッサ―ジを始めた。

 私は山を疾風のように駆け下りた。何せこの山は私の庭のようなものだ、村までの最短距離も熟知している。三分も掛からずに、千穂の家までたどり着いた。

 私は再び大声を上げ、何度も玄関のチャイムを鳴らす。


「――ミシェル? どうしたの?」


 直ぐに千穂のお母さんが出てきた。私は何度も大声を上げ、ことの緊急性を伝える。


「ミシェル、どうしたの? 分からないわ」


 しかし、千穂のお母さんには伝わらなかった。


「お母さんどうしたの?」

「さっきからミシェルがおかしいのよ……」


 勉急中だったらしい千穂が玄関に出てきた。私は千穂の服の裾を強く引っ張っる。

 千穂には気持ちが伝わったらしい。


「おばあちゃんに何あったんじゃ……」


 それを肯定するように、私は大声を上げた。続けて、さらに強く千穂の袖を引っ張る。


「ミシェルそうなの?」


 私は肯定の声を上げる。


「お母さん、大変! ミシェル連れていって!」


 千穂が運動靴を履くのを私は焦れったい気持ちで見つめた。


「千穂、携帯! 救急車呼ぶから、場所が分かったらお母さんの携帯に電話して!!」

「分かった!」


 千穂の脚は遅かった。平坦な道なら自転車でも私は全然追い付けるのだが、山の登り道だ。自転車など脚より遅い。

 私なら簡単に駆けられる道も、千穂には難しいので必然的に道路を行かなければなくなる。私が下りで三分かかった道のりが、今度は十分かかった。


 救急車のサイレンの音が聞こえ始める。


「おじいちゃん!」


 老体にも関わらず一人で長時間心肺蘇生を行っていたからだろう、叔父さんは走り続けてきた千穂以上に呼吸が乱れていた。千穂を見た瞬間、叔父さんは助かったという顔をした。


 千穂が来たことで事態は好転した。救急車がお母さんの元にたどり着き、お母さんが病院へ運び込まれる。


 残念ながら、私は不潔なものとしてその病院に入ることはできなかったが、ずっと叔父さんの軽トラックの荷台で吉報を待ち続けた。

 その間もずっと千穂が不安そうな私に寄り添っていてくれた。


 姉や兄も急いで病院に駆けつけて、前のめりに院内に入っていくのを私達は遠巻きでみつめた。


 日も暮れてすっかり暗くなった頃、やっと叔父さんが車に帰って来た。


「姉さんは助かったけど、暫く入院になった。右の手首も骨折しているらしい」


 良かった――と、隣で千穂が安堵の溜め息を吐いた。

 叔父さんが私の頭を撫でる。無骨だが優しい手。


「ミシェル、お前のお陰だな」


――そもそも私がこんなんじゃなかったら、もっと早く助けられたんだよ、叔父さん。


 私は涙を湛えた瞳で叔父さんを見上げるが、叔父さんがそんな私に気が付くわけもなかった。


 お母さんは心臓発作で倒れた、と帰り道に叔父さんが告げた。


 そして、それを切っ掛けに私の環境は目まぐるしく変わってしまった。



「ミシェル、ご飯」


 豊が私のご飯を床に置く。指がなく、手を器用に使いこなせない私のために、私にご飯を提供してくれる人は皆、私のご飯を床に置いてくれる。食卓に置かれるのは寧ろ不便なので、とても助かる。


 私はお母さんが倒れて数日、千穂の家のお世話になっている。叔父さんも千穂の家族も皆好い人で、私はなに不自由なく日々を過ごしていた。


「いただきま―す」


 皆で一斉に夕御飯に手を伸ばした瞬間、


ピンポ―ン


玄関のチャイムが鳴った。


「誰だ?」


 千穂の父が玄関に行く。玄関からの声が漏れ聞こえてくる。


「夜分にすいません。山川新聞の河合かわいと申します」

「……はぁ」


 私が玄関に確認しに行くと、ちょうど河合なる男性が千穂の父に名刺を渡しているところだった。小綺麗なス―ツを着た河合は私を見て、目を輝かせた。


「助けに村まで走った子は、もしかして彼女ですか?」

「ミシェルですか? そうですよ」


 千穂の父は対応に困ったように頭を掻く。私も流れがよく掴めず、困惑して頭を描いた。


「この度私、ミシェルさんのお手柄を噂でお訊きしまして、是非取材させて頂きたく参りました」

「……はぁ」

「え、ミシェルが新聞に載るの? 凄くね?」


 会話を聞いていた豊が現れて私を抱えて河合に迫る。


「はい。ご了承が頂ければですが――宜しいでしょうか?」

「是非是非!」

「やったねミシェル!」


 いつの間にか、叔父さんも、千穂も、千穂の母まで玄関に出てきていた。


「ありがとうございます! それでは今日は夜分遅いので、また後日参ります。できれば公千穂きみえさんもご一緒に取材させていただきたいのですが、ご都合がよい日はないでしょうか?」


 そうして取材はとんとん拍子に進んだが、お母さんが一緒に記事に載ることはなかった。

 体調が芳しくなかったのだ。お母さんが死ななかったことはもちろん嬉しかったが、お母さんが生きているのに会えないことがとても悲しかった。


 取材の二日後、私と千穂の家族が載った新聞が発行された。

 皆それを嬉しそうに眺めては、呆けたようにそれそわれ呟く。


 この辺りで、新聞に載ることはそれはもう珍しいことらしかった。


「ミシェルは本当に凄いね、新聞に載っちゃうなんて……」


 千穂が嬉しそうに新聞を読み上げるが、私はそれを右から左に聞き流す。


 私は自分の母親の命が危なかったので助けを呼んだだけだ。何も評価されるに値しない。しかし世間は私に好印象を持ったようだ。

 私の『障害』も十分に同情の余地があるのだが、それに加え片目がないことがかなりのキ―ポイントになったらしい。


 これまであまり交流がなかった人も、私が新聞に載ってからは、散歩で会うたびに声をかけてくるようになった。



 そうこうしている間に、週末になった。お母さんはまだ退院できないらしい。

 私の心の中では長雨が降り続き、気力も日々衰えているような気がして、部屋で蹲っていると、やたらめったら明るい声が外から聞こえた。


「こんにちは―!!」


 聞き覚えのある声だが、直ぐに誰か思い出せない。千穂の両親と豊は見舞いに行っていたため、留守番を任命された千穂と一緒に玄関へ確認しに行く。


陽介ようすけくん」


 玄関には兄家族がいた。


「あ、ミシェルだ!!」


 甥の陽介は千穂に挨拶もせず、私を抱き締めた。


「陽介くん?」


 抱き締めた力が苦しい。千穂は私の気持ちを察してくれたようだ。


「ミシェルが苦しそうだよ」


 そう言って、陽介を私から引き剥がしてくれる。引き剥がされた陽介の目はギラギラしていて、何となく私は恐怖心を抱いた。否、陽介だけでない。義姉さんや、陽介の妹の美奈みなまでも同じ目で私を見ている。


 異様な雰囲気を千穂も感じ取っていたようだ、僅かに後ずさる。


「皆どうしたの?」

「公千穂おばあちゃん暫く自分のことで大変だと思って、ミシェルを預かりにきたの」


 義姉が言った。


「ミシェルはうちが面倒みるから大丈夫だよ」


 千穂が心細そうに私を抱き締める。


「きっと公千穂おばあちゃんとミシェルの両方の面倒を看るのは大変だわ。だからうちで面倒をみてあげる。だって、息子は悠治ゆうじさんなんですから」


――その考えは破綻している。


 そう言ってやりたかったが、私はそれを言える喉がない。

 そして、お母さんの助けになるどころか、お母さんの足を引っ張ることしかできない自分を改めて悔やんだ。


「ミシェルもおばあちゃんも、私達がお世話するから大丈夫」

「ミシェルは今日から僕らの家族になるんだ!」


 千穂が私を抱き締めながら頭を振る。陽介と美奈が千穂から私を剥がしとる。

 困惑して兄の顔を見上げると、兄は諦めたような顔でことの成り行きを見守っていた。


――でも、本当に千穂達が弱ったお母さんの世話をしてくれるなら、私は邪魔物だ。


 そのことに気がつき、私もろくな抵抗はしなかった。


「ミシェル!!」


 泣きそうな顔で千穂が追い縋るが、阻まれ、私はなされるがまま兄の車に押し込まれた。


「ミシェル――!!」


 車に向かって叫ぶ千穂の姿が痛々しくて見ていられなかった。



「これでミシェルは今日から私達の家族だね」

「そうよ、可愛がってあげるのよ」

「もちろん!」


 したり顔で、嬉しそうに笑い合う三人を、私と兄は冷たい顔で眺めた。



 兄の家は私達の住む村より遥かに人口が多い街に住んでいる。義姉と陽介と美奈は、そこで私を見せびらかすように私を連れ歩いた。


「片目がないのね、可愛そう」

「そうよ、でもこの子はとっても頭が良くて、この前はお義母さんを助けて新聞にも載ったのよ」

「凄い!」


 そんな会話を親子は幾十も繰り返した。

 一ヶ月もすると同情と賛美の声に私は辟易とした気分になり始めた。


 好奇の目はどこを歩いても付き回り、安心できるべき家でも、まだ比較的幼い陽介と美奈の遊び相手をしなくてはならず、私はろくに落ち着くことができなかった。


 唯一安心できるのは、兄と二人で家に留守番になったときだった。兄は三人が出掛けている間に、よく家の掃除をする。


「ありがとな」


 私が僅かばかり手伝うと、兄は私に気を遣うように笑む。


――私こそ、住まわせてくれてありがとう。


 あまり同じ時を過ごしていない兄には、お母さんや千穂のように私の気持ちは伝わらないようだ。兄は続ける。


「母さん、もう一人で自分のこと全部できるまで治ったって、姉ちゃんが連絡くれた」


 どうやらお母さんの看病をしに、姉が戻ってきてくれていたらしい。

 思わぬ朗報に、私は思わず顔を上げる。お母さんの姿は倒れたあの時以来見られていない。私は急にお母さんが恋しくなり始めた。


「母さん、ミシェルを恋しがってるみたいでさ、よく『ミシェルはいつ帰ってくるの?』って姉ちゃんに訊くみたいなんだ。お前と母さんは相思相愛だな」


 兄は大きな優しい手を私の頭に置き、そっと撫でる。


――お母さんも寂しがってくれるんだ。


 私の中をもぞもぞとした、こそばゆい感情が広がってく。


紀子のりこ達はお前とずっと暮らしたいみたいだけど、お前はお母さんの所に帰りたいよな」


――私が帰ってもお母さんの足手まといにならないだろうか?


「母さん、もともと元気が良い方だったけど、お前が来てから見違えるぐらい若返ったんだ」


 兄が私の心中を察したように笑む。


「俺や姉ちゃんはそれぞれ家庭を持ったし、そうそう母さんの所には帰れない。だから、ミシェルに母さんを任せてもいいかな?」


――こんな私に任せてくれるのなら!


 私が肯定するように小さな声を上げると、兄は「お前本当に頭良いよな」と、私の顔を揉みくちゃにする。


「でもなぁ、どうやったら帰してやれるかだよな……。紀子も前まではこんなに変に執着する性格じゃなかったのに……。いっそ脱走して、帰ってくれたら言い訳もたつけど、車で一時間だからなぁ……。遠いな」


 兄はそう言って無理そうだと却下していたが、私には一人で帰られる自信があった。しかし、兄が心配したように、それはとてもリスクが高い。

 だから兄家族達が私を帰してくれる機会を待ったが、二週間ほど経ってもその気配がない。


 私がまだかまだかと気を揉んでいると、電話があった。


「もしもし――あ、お義母さん。お久しぶりです。体調はいかがですか?」


 義姉さんの声に私はピクリと反応する。


「そう、すっかり宜しいですか。それは良かったです。――え、ミシェル? はい、すっかりこちらに馴染んで、元気にしていますよ」


 話題が私のことになり、すっかり緊張してしまう。私が義姉さんの側に行き、耳をそばだてていると、義姉さんに頭を撫でられた。

 頭を撫でてくれる相手はお母さんが一番良いと改めて思った。


――お母さんに、このまま兄さんの所で暮らしてほしいと言われたらどうしよう……。


 兄には「お前と母さんは相思相愛だな」と言われていたが、やはり不安が残る。

 小さくお母さん声が聴こえる。


『ミシェルがいいなら、ミシェルとまた暮らしたいんだけどねえ……』


 久しぶりに聴いたお母さんの声と、私を必要としてくれる言葉に、私は声を上げて泣きたい気持ちになる。


「ミシェルはこっちの暮らしが気に入ったみたいよ」


 義姉さんの言葉にうなじの毛が逆立つ。私に確認もしないで、あんまりだ!

 私は怒りの声を上げる。


「こら、ミシェル、煩い!」


 義姉さんに頭を軽く叩かれ、私は押し黙る。驚いた兄と甥と姪の驚いたようなの視線を感じつつ、私は義姉さんを睨む。


『ミシェルはこっちではそんな声はほとんど上げたことがないわ。本当に気に入っているの?』


 お母さんの言葉に、今度は義姉が押し黙る。そう、私は兄の家に来て、甥や姪にどれだけ意地悪されてもこんな声は出したことがない。


「とにかく、ミシェルはもう私達の家族になりましたから。お義母さんの所には帰しません」


 義姉さんはそう早口で言ってしまうと、電話を素早く切ってしまった。



 そうして、私の心は決まった。



 一日に一回だけ、夕方に私は散歩に行く。その時を見計らって私は逃げ出した。


 首輪に付けられた紐を姪が掴んでいる時、紐を掴む手が弛くなった瞬間を狙った。


「こら、ミシェル、待って!!」

「ミシェル!!」


 後ろから聞こえる、義姉や姪の声を振り切って全力疾走する。少々衰えてきたとはいえ、私の脚に義姉も姪も全く敵わない。


 私は暫くの間清々しい気分で街中を走り抜けた。途中から首輪に繋がった紐を持ちながら走る。紐を引き摺りながら走ると、いかにも『逃げ出した』という雰囲気が出るからだ。


 何とか私の掛かり付けの病院までたどり着く。ここまででやっと四分の一。ここからが本番だ。

 ここまでは兄の家に行ってから入念に道をリサーチできていたが、ここから先は車ででしか通ったことがない。それでも私は帰る自信が少なからずあった。

 しかし不安要素はもちろんあった。ここからは視覚に頼った情報になる。暗くなってしまっては道を見失う可能性が多分にあるのだ。


――日が完全に暮れてしまうまでに、近所の村までたどり着かなければ。


 辺りが闇に覆われるまで、後およそ2時間しかない。急がなければ、と立ち止めていた足を進めようとすると、背後から声がした。


「――あん? 脱走?」


 私が驚き、振り向くと男が立っていた。病院から出てきたのだろう、僅かに病院の臭いを纏っている。しかしそれ以上に安いタバコの臭いと獣臭が鼻についた。薄く残る身体に残された記憶が騒ぐ。

 男も私の顔を見て驚いた。そして何かを思い出すように間があった後、汚く笑んだ。


「お前――」


 嫌な予感がした。私は男の言葉を最後まで聞かないまま駆け出した。


「――待て!」


 背後から走る音がした。しかしそのまま無我夢中で走ると、音は聞こえなくなっていた。

 私は思い出した。


――あれは私を捨てた父親だ。


 もうほとんど覚えていない母親の顔が思い出され、どす黒い嫌悪感が私の胸の中をのたうち回りはじめる。


――きっと母親は死んでいる。


 恐らく私と同じ障害を持っていた母親は、いったいどんな最期を迎えたのだろう? 今更、産みの母親が恋しくなった訳ではないが、父親に対しては地の底で尚も熱を保つマグマのような気持ちが燻っている。


――あの人と関わってはいけない。


 そう思って、見覚えがある道路の路側帯を駆ける。


――あれだけ逃げたのだから、もう追ってこないだろう。


 しかしその考えが甘かったことを知る。


「――?」


 車が一台並走してきていると思った瞬間、私の身体にぶつかった。


「――っ!?」


 反射的に避けたものの、その衝撃は私を一時的に行動不能させるには十分だった。

 車が停まり、運転手が降りてくる。


「手間かけさせんなよ」


 父親はそう言って私の首輪を掴み、私の顔を上げさせる。


「――やっぱりお前、俺が昔捨てたやつだな」


 私は唸り声を上げる。身体中が痛かった。男は油断しきった顔で笑う。


「まあ、脱走したのが運の付きだな。これからは俺のために尽くしてもらおう」


 そう言って私の首輪を引っ張って、無理矢理車に乗せようとし始めた。


 プツン――


 頭のなかで何かが切れた音がした。もうどうにでもなってしまえばいい、と私は肉を噛みきる勢いで男の手に噛みついた。


「いってぇぇ!!」


 男の血が口の中に広がり、それとともに噛みきれた指等の肉塊が私の口の中で踊る。私がそれを吐き出したのと同時に腹部に衝撃がはしった。


「くそっ!!」


 男に強く蹴飛ばされ、私は道の端の草むらに転がる。


「うぅぅぅぅ……」


 暫くの間男と睨み合った末、私は山に飛び込んだ。道路だと車で追いかけられる、苦渋の選択だった。


「くそっ! 覚えてろよ!!」


 男の怒声が背後から虚しく響いた。



――母親の仇をとった!


 私は暫くの間、ドロドロトした高揚感に浮かれながら山を駆け抜けた。だいたいの方角を計算しながら走り、道路が見えた所で山から出る。


「……」


 なんとなく判っていた結果を、私はゆっくりと受けとめる。その道路は一度も通ったことがない、全く知らない道路だった。

 もしかしたら、と考えていた結果は得られなかった。


 山を突き進んでも方向感覚と体力が奪われるだけなので、再び道沿いを歩くことにする。今度は走らない。走ったところでもう時間は関係ないからだ。辺りは闇を深め、ぽつりぽつりと点在する街頭が光を増す。


――お母さん……。


 心の中でお母さんを呼ぶが、お母さんはおろか歩行者が通る気配がない。


 夜の帳が下りてしまってからも孤独で歩き続け、やがて町に着いた。そこはまだ人気が僅かにあった。


――志水村はどっちに行けばいいですか?


 通りすがりの人に口に出して問うことができたら、文字を書いて問うことができたら、如何に楽なのだろう。


 助けを求めることができないと分かってはいても、ついつい思いがけない助けを求めて私は通りすがりの若い数人組の女性に近付く。できるだけ愛想よく、笑みを浮かべるよう心掛けながら近づいた。


 しかし彼女らは思いがけない反応をした。


「ひっ……」


 明らかに私に怯えたように、彼女達はお互いに顔を見合わせる。


「片目がない……この子って、さっき放送であった子?」

「血が顔に付いてるし、そうだよね?」

「ヤバイ、ヤバイって!」

「噛まれる!!」


――誰が噛むものか。


 私がむっとした瞬間、彼女達は一斉に私から逃げるように走り去っていった。私は追いかけることはしなかった。代わりに、何故? という疑問が浮かぶ。


 私は一度もあのように人から怯えられたことはなかったのだ。


 ふと一人が言っていたことを思い出し、胸元を見る。


――これか。


 顔から胸元にかけて、赤黒いものが付着していた。男の血だ。手を噛みきったときに着いたのだろう。でも、『さっきの放送』とはなんなのだろう?


 答えは直ぐに分かった。


 私が町をとぼとぼと歩いていると、不気味なワゴン車が私の目の前で停まる。中から頑丈そうな服を着た二人の男性が下りてきた。男性の一人が無線機に言う。


「発見しました。顔に血痕らしきものを着けているのも確認」


 男達は明らかに武装していた。そして、明らかに私に敵意を向けていた。


――敵うわけがない。


 そもそも争う理由がないと、私は素早く身を翻し逃走を謀る。


「逃げたぞ!」


 男達も走り出した。しかし足で私に敵うわけがない。再び山に飛び込み、男達の気配がなくなるまで走り続けた。


 走りながら私は理解した。あの男が――父親が私を捕まえるようどこかの団体に訴えたのだ。捕まったら恐らく私は殺されるのだろう。



 それからは暫く逃走の日々が続いた。捜査の手は山の中にまで及び、私は車の音がする度に猪や鹿等の動物のように逃げなければならなかった。

  家に帰る道を探すどころではなく、日中人里に下りることすら恐ろしい。しかし時折孤独に堪えられなくなり、夜人里に下りては人の気配がする家の窓辺に踞って休んだ。


 はじめは民家の残飯を漁るか、空腹を我慢するかしかなかったが、やがて野うさぎや野鳥、野ネズミや蛇狩ることを覚え、瓜坊や小鹿を狩ることもできるようになった。

 山の生活にもかなり馴れはしたが、一つだけ不便なことはあった。髪の手入れができないことだ。私の手は髪をすくことに酷く不向きなのだ。私の髪には日に日に小枝や枯れ葉等のゴミが絡み付いていき不衛生なことこの上ない。その上、蚤やダニも私の身体に寄生したが、それを取り除くことすらままならなかった。


 どの程度の日付が過ぎたか細かいところまでは分からない。ただ、山にいる間に満月を二回は見たので、二ヶ月は経過していただろう。気がつくと追手の気配を感じなくなっていた。そうして私はやっと人里に下りることができるようになった。油断はならないが、私が狙われて追いかけられることはなくなる、それはもう大きな違いだ。


 しかし、何度も町に下りて、何度も町を確認したが、知っている場所には一度も行けることがなかった。

 私もすっかり山に馴染んでしまい、独り山で生きていくことも可能だったが、私はどうしてもお母さんと暮らすことが諦められなくて、延々と町から町に渡り歩き続けた。


 そうして、兄の家を飛び出してから十回目の満月を見た次の日、知っている場所にたどり着いた。


――ここは……?


 私は感動のあまり頭が真っ白になった。


 そこは志水村から二つ離れた村だった。お母さんが夕飯の買い出しによく使っている町だ。間違えるはずがない。


 今まで泥を引き摺っていたかのように重かった足が急に軽くなったように思えた。よく見覚えがある道を軽々と駆け抜ける。家が見えるまでそう時間はかからなかった。家の玄関を引っ掻いて開ける。人の気配はある。私が声を上げると中から慌てて人が――お母さんが飛び出してきた。


「――ミシェル。ミシェルなの?」


 震える体で私を抱き締めるお母さんの身体は、元々細かったのに更に一回り小さくなった様に思えた。久しぶりに感じるお母さんの体温や匂いに、私は気が付くと涙を流していた。お母さんは私の存在を確かめるように、何度も何度も私を強く抱きしめ、身体に触れた。私もお母さんを確かめるように何度も何度も身体をすりよせた。


「ミシェル、本当に会いたかった」

「もう会えないかと思ってた」

「無事でよかった……」


 お母さんが何度も私に言った言葉は、全て私もお母さんに対して思っていたことだった。


 弱り切ったお母さんを見て、私はもう二度とお母さんと離れないことを誓った。



 翌日、警察が私とお母さんの元を訪れた。山の中を彷徨っていたせいで忘れていたが、そういえば私には傷害罪の容疑がかかっているはずだ。疑いというか事実なのだが、ここで捕まってしまっては昨日の私の誓いが崩れてしまうことになる。しかし、ここで初めて私が話せないことと筆談すらできないことが役に立った。


 私が警察の事情聴取に黙って俯いていると、お母さんや慌ててやってきた千穂の家族が私を擁護してくれたのだ。


「ミシェルはそんなことしません」

「私、ミシェルに一回も怪我なんてさせられたことありません!!」

「怒ったことをほとんど見たことがないくらいの大人しさっすよ!!」


 皆の反発に二人の警官が顔を見合わせて苦笑いする。


「ミシェルちゃんに関わった人のお話を聴きに行くと、皆さん同じようなことを仰るります」

「ミシェルは本当に良い子なんですから!」

「本当にそうみたいですね。穏やかで賢そうな目をしています」


 若い方の警察官が私の頭を撫でようとするので、私は大人しくされるがままに撫でられた。


「じゃあミシェルの疑いは……?」

三橋みつはし氏が噛まれたのは別の子でしょう。確かに左目がないことといい外見は似ていますが……」

「そもそも彼は捕まりましたからね」


 皆で苦笑いしてから、警察達は去っていった。


――父親は、あの男が逮捕された?


 意外な事実に私は目を白黒させる。何故? と考えていると、それを察してくれたように千穂が説明をしてくれた。


「ミシェルがいない間にね、ミシェルとそっくりな子に三橋って人が手を噛み切られたらしいの。危険だからって捜索隊まで出る始末になったんだけど、見つからなかったみたい。それで三橋が躍起になってまだ捜索を続けろって主張し続けたみたいなんだけど、この前三橋が動物愛護法に違反したブリーダーだってことが判明して、逮捕されたみたい。きっと天罰だったのよ……」



 それからは、ずっと平和な日々が続いた。お母さんと共に過ごす春夏秋冬は幸せなものだった。


 私は特に冬が好きだった。

 年々体温管理ができなくなるお母さんの冷えた身体に、私の身体を押しつけると、お母さんが「温かい」と喜んでくれるからだ。山の冬は厳しく、一晩だって外に居続けたくないと思うが、お母さんと一緒に寝られる布団は誰にも譲りたくないぐらい大好きだった。


 お義姉さんや甥、姪達とも仲直りし、幸せに暮らしていく間にあっという間に時間は過ぎ去っていった。

 気が付けば、私と同じくらい小さかった千穂は立派な女性に、豊も逞しい男性になっている。千穂は隣町の役場に就職し、自分の力でお金も稼げるようになった。私は皆の成長を、お母さんと共に温かい気持ちで見つめた。羨ましくもあったが、この身の上だ、仕方がない。私はお母さんと共にあれるだけで幸せだ。


 私もお母さんは、皆が成長するのに合わせて衰えていった。二人ともちょっとした段差を越えるのにも一苦労するようになり、そんな時はお互いの顔を見合わせて笑い合った。


――もうお互いに寿命が近づいている。


 一つ一つの動作ができなくなることに気がついては、そう思うようになった。今では小走りすることも辛くてできない。否、できるにはできるのだろうが、それをすることで命という燃料が著しく減ってしまう。


 しかしながら、お母さんは運動だと言って畑と蜜蜂の世話を止めることはしなかった。


「今日は久し振りに千穂が帰ってきたから、蜂蜜を採りに行きましょうか」


 お母さんが重い腰をあげたのを見て、私も腰を上げた。

 ゆっくりと、蛞蝓が歩くような速さで二人でのろのろと山を登る。


「今日は天気が良いね」


 私は顔を上げる。木々の向こうに美しい青が広がっていた。

 気温も丁度いい。山を登っていても汗は滲んでこないが、日向ならじっとしていても寒くはない。


 お母さんが蜜と採集しているのを横で感じながら日向ぼっこしていると、お母さんから小さな悲鳴が上がった。

 慌てて振り向く。


「いったぁ……」


 お母さんの脛に蛇が食らいついていた。


――蝮だ!


 私は咄嗟に起きあがり、蝮を掴み取ろうとしたが、蝮の方が一枚上手だった。お母さんの脛から離れたかと思うと、瞬時に視界から消えた。数秒後に左目があるはずの場所に激痛が走る。ドロドロとした生温かいものが傷口から入ってきているのが分かった。


「ミシェル!」


 お母さんが老人とは思えない素早さで蝮の顔を掴む。私の顔から素早く蝮を引き剥がすと、近くに置いてあった鋏で蝮を貫いた。地に刺しつかれた蝮は、暫くすると動かなくなった。


「ミシェル! 今毒を出すからね!」


 お母さんが傷口に口を当てる。そうして毒を吸い出す様、傷口から私の血を吸い出しては口から吐き出した。


――私よりお母さんの手当てを……。


 私もお母さんの傷口から毒を吸い出したかったが、私の口では「吸う」という行為ができない。私に対しての応急処置が終わった後、お母さんは頭に巻いていた手拭いで血を止めるように膝下を縛った。


「ごめんね。急いで病院にいかないとね」


 そう言ってお母さんはよろよろと立ちあがった。山を降りるお母さんの足取りは不安定で、今にも倒れてしまいそうだった。家の屋根が木々の隙間から見え始めた頃、とうとうお母さんは倒れた。


――お母さん、助けを呼んでくるから!


 朦朧とする意識の中、私はお母さんにそう訴えると、

「ミシェル、大丈夫。歩けるから、独りで先に行かないで……」

と、お母さんは懇願するように言った。


 どう見積もっても、どれだけ休んでもお母さんがここから歩けるようになるとは思えなかった。寧ろ悪化する一方だろう。私はお母さんの言葉を振り切って獣道に足を踏み入れた。


「はっはっ――」


 久しぶりに本気で走った。節々が悲鳴を上げる。五メートルも走っていないのに、もう呼吸がこんなに乱れている。噛まれた場所も悪かった。きっと脳に毒が回り始めている。視界が霞が掛かって見え始めた。脚先の感覚がなくなり始める。思考が「お母さん」のことしか考えられなくなる。


――助けて!


 私は千穂の家につくと、大声を何度もあげた。すぐに何事かと千穂と千穂の母親が顔を出す。今日は豊も帰っているようで、豊まで顔を出してきた。私を見た千穂の判断は素早かった。


「ミシェル、おばあちゃんに何かあったの?」


 私は肯定するように強く声を上げた。豊が目ざとく私の顔の傷に気が付く。


「…毒蛇?」

「嘘、ミシェル噛まれたの?」


 私の怪我を確認しようとする千穂の母親の手を振り切る。私より、お母さんの方が重要だ。


「豊、車で追い掛けるから、ミシェルに付いていって! お母さん、救急車!」

「分かった!」


 今にも倒れてしまいそうな四肢を懸命に励ましながら、私は走った。お母さんが倒れている場所に向けて。


――お母さん! お母さん!


 もう私の脚力は豊よりかなり劣ってしまっていたようだ。私に追従する豊には余裕が見て取れた。


「おばーちゃん!」


 豊がお母さんに駆け寄る。後ろから車で付いてきていた千穂も飛び出してきてお母さんに駆け寄った。素早く車に運び込まれ、村に戻る。

 いつまで経っても呼吸が戻らない私を、よく頑張ったと豊が励ましてくれた。座りこんだ車のシートが底なし沼のように感じた。私はもうここから立ち上がれる気がしなかった。

 お母さんが救急車に運ばれるところも、ろくに見ることができないまま、再び車は走り出す。


「ミシェル、今すぐ病院に連れていくからね」


 隣から千穂の声がした。どうやら車の運転は豊と交代したらしい。千穂の掌が私の頭を撫でた。千穂の声は湿り気を帯びているように聞こえた。泣いているのかもしれない。だけどもう、千穂が泣いているのかすら確認することができない。瞼を上げることすら難しい。否、瞼をあげられてももうこの瞳が光を捉えることはできないだろう。嗅覚も馬鹿になったようだ。隣に座っているはずの千穂の匂いすら感じられない。


――もう私はもたない。


 だからこそ、私はお母さんの無事を心から祈った。


――私の命は死神にくれてやる。だからお母さんはまだ連れていくな。


 いるかどうかも分からない死神に私はそう啖呵を切る。


「ねぇ、ミシェル助かるよね」


 弱々しい千穂の声が聞こえる。豊は返事をしない。代わりに歯ぎしりの音が聞こえた気がした。


――ごめんね千穂、私はもうダメみたいだ。


 今までの記憶が巡り始める。これが走馬灯なのかと漠然と思った。


 冷たい母の身体。

 救いを待ち続けたどこかの公園。

 私を抱き抱えた時のお母さんの体温。

 本当の兄弟のように接してくれた千穂と豊。

 蝮を草刈り機で薙ぎ切ったお母さん。

 蜜蜂の世話をせっせことするお母さん。

 珍しく降った雪で千穂達と雪遊びもした。

 一緒にのんびりとお母さんと日向ぼっこをしたりもした。

 山を独り彷徨っていた時は、本当に孤独で、その分お母さんと再開できた時の喜びは計り知れなかった。


――私は本当に幸せだった。


 せめて千穂と豊だけにでも感謝の気持ちを伝えたかったが、それは産まれたときから無理なことであった。



 車が急停車する。病院に着いたらしい。車のドアが荒々しく開閉されてから、外に複数の人の気配を感じた。


――あぁ、もう私にも限界が来たようだ。


 呪いが掛けられたように続いていた体中の痛みがなくなった。呼吸が浅くなり、身体の力が抜ける。

 せめてお母さんの安否を知りたかったが、きっとお母さんは無事だろう。


――お母さん、長く生きてね。



「蝮に咬まれたワンちゃんは――」


 遠くで誰かの声が聞こえた気がした。それが私の最後の感覚だった。

 最後までお読み頂きありがとうございました。

 卑怯な手かもしれませんが、物語の中で表現できなかった設定を一部記載いたします。


 物語の主人公「ミシェル」は「ゴールデン・レトリーバー」の雌でした。

少なくとも犬の視覚は黄色と青色で表現されているそうで、ちなみに言葉は基本的に「母音」しか聞こえないそうです。しかし一部の犬は「子音」などもちゃんと聴きとれるらしく、ミシェルはその「一部」の犬に属されている設定です。

 つまりミシェルは「犬」としてはとても優秀な部類に入っていたのだと、ここで無駄に主張しておきたいと思います。


 昔、私の家にもワンコがいましたが、ミシェルの様な優秀さはこれっぽちもありませんでした。ただ、自分を「人間」だと思っているような仕草はかなりあったのはミシェルと同じですが(笑)

 ウチのワンコは私の腕の中で息絶えてしまいましたが、最期は何を思いながら亡くなったんでしょうね……。今でもワンコのことを思うと寂しい気持ちになります。今、お家にワンコが――というか、ペットがいる方は、その子を大切にしてあげてくださいね。亡くなってから、改めてその子も家族の一員だったことを思い知りますので。


 またお暇なときにでも、「犬」としてのミシェルを想像しながら拙作を読んで頂けると、別な楽しみ方ができるかもしれません。

 それでは、また何かのご機会にお会いできることを――。

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