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俺は忘れない。
大好きだったその人を。
その声も、仕草も。
繋いでくれた手の温もりも、撫でてくれた優しいその手も。
たった一人の家族を。
そして、小さかった自分の無力さを。
最後の時を迎えていた。
長い長い、苦難の道を越えて。
ようやく辿り着いたのは、魔王と呼ばれる敵の根城だった。
数多迎え撃つ奴の配下を打ち破り、味方も自分も、既にボロボロだった。
だが、引けない。
人類の敵、悪の親玉。
勇者に選ばれてしまった以上、魔王は討伐しなければならなかった。
ただの少女だった自分が、まさか剣を携え魔物を狩り、魔王と対峙する事となろうとはほんの6年前には思わなかっただろう。
そして。
少女だった勇者は、魔王に剣を向けていた。
その瞳に涙を浮かべて。
既に言葉は尽きていた。
既に心は尽きていた。
なぜなら、すべては遅すぎたからだ。
思い出の中に答えを求めても、どうにもならない。
もっと早くに気付けていたら。
否。
旅を始めてすぐに教えてくれていたならば。
否。
もっと前だ。
勇者に選ばれるよりも、その前に。
いや、そんな事は言っても栓がない。
どう足掻こうとも、既に時は流れ、今に至ったのだから。
きっと違う道はあった。
結末は同じでも、心は違う道は、あったはずだった。
だが選んだのはこの道で、この有様で。
だから、少女は唇を噛み締めて魔王と対峙する。
全てを諦め。
全てを受け入れ。
駆け巡る思いを、想いを、押し込めて。
慈愛に満ちた笑みを湛え、静かに両手を広げる魔王へと。
剣を向けたまま、体ごと、飛び込む。
さながら、恋人のように。
貫く感触と、呻きと共に吐き出された吐息に涙が決壊する。
香りが、鉄臭いそれに取って代わり、温かく手を濡らす。
命の残り火が消えていくのを肌で感じるが、抗いようもなく。
自分を刺した勇者を魔王は、静かに見下ろしていた。
葛藤に溺れて、涙にあえぐ小さな少女を。
腕の中で静かに嗚咽する勇者の耳元に、魔王が囁く。
口元から溢れる赤い雫が、勇者の肩口を濡らす。
優しい優しい、囁きの遺言。
最期の吐息まで囁き切った魔王は、そっと勇者の頬を撫でた。
弾かれたように顔を上げるその瞳に映ったのは、笑みを刻んだまま力なく倒れていく魔王の姿。
反射的に抱き止めようとしたその手に。
魔王の体は粒子となった。
キラキラ、キラキラと。
粒子は留まる事なく霧散した。
何一つ残す事なく、そこはもぬけの殻となった玉座のみ。
ガシャンと、刺さる事で支えられていた剣が床に落ちた。
静寂が一瞬訪れ、喪失を突き付ける。
「・・・ぁぁあぁああぁぁぁぁああァあああアああアアア!!!!」
悲痛な悲鳴が木霊する。
仲間たちは涙しながら、静かに黙祷した。
それ以外、どうする事もできなかったから。
勇者にかける言葉も、彼らは持ち合わせてはいなかったのだから。
その日、魔王は討ち滅ぼされた。
歴代最悪と言われた魔王は、勇者による攻撃に成す術なく討伐された。
数多の犠牲はあった。
だが第32代勇者、初の女勇者による討伐は、成就した。
こうして世界は、一時の安寧を得たのだ。
・・・史実にはそれのみが、残されている。