雪兎は見た
夜鳥は夜の闇に紛れて二つの鋭い眼を輝かせ
獲物を仕留めるために全神経を張り巡らせていた。
はらはらと舞い落ちる白い粉は雪。
天候はこれ以上ない絶好の狩猟日和だ。
この一帯に雪が降るような寒い時にだけ、現れる最高の獲物がいる。
夜鳥は大きな翼で凍える寒さをしのぎ、獲物がかかるときを静かに待っていた。
……やがて、狩人が待ち構えるキリングゾーンに雪を踏む音が聞こえてくる。
ぴょんぴょんと雪原を跳ね回るのは白い毛皮と愛らしいルビーの瞳を持った雪兎。
「きゅい?」
周囲をキョロキョロと見渡す仕草は見る人が見れば実に可愛らしいものだ。
しかし夜鳥の目に映っているのは美味そうな獲物の姿。
雪兎は滑らかで上品な味わいを持つが、高い危機回避能力を持ち合わせ
一度姿を捕捉されようものならその俊敏な動きでたちまち逃げ出してしまう。
百戦錬磨の狩人といえども、動き回る雪兎を捕らえるのは至難の業。
故に夜鳥はじっと木の枝の上で静止する。
物音ひとつ立てることなく、存在を周囲の木々に擬態する夜鳥。
その双眸だけが雪兎の一挙一動をくまなく観察していた。
夜鳥と雪兎の目に見えない攻防。
姿を隠す野鳥と狩人の存在を警戒する雪兎。
「きゅいきゅい♪」
二つの戦いは、雪兎がごちそうに目を取られるという形で終息した。
雪兎は警戒していた視線を雪の芝生に移し、しゃくしゃくと咀嚼していく。
そう、積もった雪がこの兎にとっては何にも代えがたい好物なのだ。
普段は穴倉の中で、虫などを食べる雪兎も土に積もった雪を食べるためには
穴倉より出でて地上に出てこなければならない。
そして、滅多に狩ることのできない獲物の隙を見逃すような夜鳥ではなかった。
好機到来。そう判断した夜鳥は、名前の由来となった黒く染まる夜色の翼を大きく広げて飛翔する。
食事に夢中となっている雪兎は夜鳥の羽音を聞き洩らした。
夜鳥は素早く雪兎のいる地点まで飛ぶと、その無防備な背中に自慢の趾を突き立てる。
「きゅわっ!?」
痛みと共に外敵の襲来を悟った雪兎が、短く悲鳴を上げ逃れるように身を捩るも鉤爪のような夜鳥の趾から
逃れることは叶わなかった。なすすべなく空へと持ち上げられる雪兎の白い体、勝敗は誰の目にも明らかだった。
夜鳥が勝ち、雪兎は敗れた。勝利の雄たけびを上げる夜鳥。これから一刻もすれば雪兎はその可憐な体を
弱肉強食の理に従って、夜鳥の嘴に切り刻まれることになっていただろう。
もしも夜鳥にあとわずかの運が残っていたのなら……。
暗い闇の中に生まれたオレンジ色の光。
ドンッと火が爆ぜる音が鳴り響く。
そのオレンジ色の塊はちょうど空へ飛び去ろうとしていた夜鳥に向かってとんでいき、包むように飲み込んだ。
「クワァアアアアアアア!?」
断末魔が空へと溶けていく。
オレンジ色の光は夜鳥を瞬く間に焼き尽くし、無残な灰へと変えてしまった。
光から逃れた夜色の羽が、虚しく宙を舞う。
「居ただか?」
ざっ、ざっ。積もった雪を踏みつけながら、二人の影が現れる。
長い影と短い影。凹凸の組み合わせは周囲を見渡し、焼き払った灰を
見下ろした。
「いや、外れだな。ただの鳥だったみてえだ」
声に答えたのは矮躯な人影、その左手には
赤色に輝く紋章があった。
この人影が放った火球が夜鳥を灰へと変えたのだ。
「この辺に逃げてきてるのは間違いねえと思うんだがなあ」
「さっきから何を根拠にそんなことを言ってるだ?」
矮躯の独り言に、傍にいた長身の影が答えた。
二人には追いかける獲物がいた。
なんとしてでも『呪鎧』を取り戻さなければならない。
足跡を頼りに追ってきたが、天気は逃亡者に味方した。
降り出した雪が足跡を消してしまい、手掛かりを見失ってしまったのだ。
そんな諦念する自分を叱咤激励し、近くにあった森が怪しいと言ってここまで連れてきたのがこの矮躯な男だ。
「お前、馬鹿か?追われてる奴が目に付きやすい街道を通る訳ねえだろ。おまけに、こっちには足がある。
俺が逃げてる奴の立場なら、強行軍より隠れてやり過ごすことを考えるね」
ならば、街道や付近の村を探すより身を隠せる森の中。
矮躯の男は、そう考えて森を選択したようだ。
「勘弁してくれだ。こげな寒い日に足場の悪い森につき合わされるオラの身にもなってほしいだ」
しかし長身の男にはそれが不服だった。
矮躯の男が自分を馬鹿呼ばわりするのも腹に据えかねるし、雪が降るような寒い日に
当てもなく見知らぬ森を彷徨うなど男には我慢ならなかった。
こんな日は宿に籠って酒でも飲みたい。それも美人に酌をさせて。
これは長身の男が職務より欲求を優先してのことではあったが
馬鹿にだって馬鹿の考えがある。
どうせこの雪だ。逃亡している獲物も遠くまでは逃げれまいと長身の男は考えていたのだ。
ならば、日の悪い今日は英気を養ってもいいだろう?
そんな浅ましいことを思っているのは付き合いの長い矮躯の男でなくとも分かっただろう。
相方の頭のネジが緩んでるとしか思えない発言に露骨に舌打ちした。
お前がそんな調子だからいつもいつも逃げられるんだよと言いたくなるが、その愚痴がこぼれるよりも
先に隣の繁みが微かに揺れたのに気づく。
「動くな!ようやく追い詰めたぞ!」
左手を掲げて紋章に魔力を通して待機状態へと移行する。
矮躯に不釣り合いなほど輝く、その獰猛な双眸に睨まれれば
どんな獲物も蛇に睨まれた蛙のように身動きが取れなくなるだろう。
その鋭利な目を繁みに向けながら、警戒するようにジリジリと距離を詰める。
「きゅうい?」
「……ちっ、なんでい、驚かしやがって!ただの雪兎かよ」
その繁みからガサリと音を立てて出てきたのは一匹の雪兎。
背中に爪で捕まれた傷があり、血が滲んでいる。
きゅーと庇護欲を掻き立てる鳴き声の主は、さきほど夜鳥に襲われた雪兎だった。
幸運にも夜鳥が焼き鳥にされた際に投げ出され、火から逃げ延びた雪兎は繁みに落下していた。
呆気にとられた矮躯の男は振り上げた左手を所在なさ気に下す。
それに従って燃え上がった炎が鎮火するように、左手の紋章も赤色の輝きを失った。
「なーにが『動くな!ようやく追い詰めたぞ!』だってばさ、ぎゃははは!!」
矮躯の男の失態に、長身の男が大爆笑する。
「うるせえぇぇぇええ!!……くそが、さっさと行くぞ」
これには矮躯の男も恥ずかしく思ったのか。強く咎めることもせずに赤面したまま歩き出す。
しかし、不意に立ち止まって繁みを振り返った。
一応確認しておくべきか?そんな考えが頭をよぎる。
「どうしただ?その繁みには雪兎の親子しかいねんべ」
そんな態度を未練がましいと思ったのか、長身の男がからかう口調で嘲笑う。
普段、散々馬鹿にされていることを根に持っている長身の男としては珍しい相方の失態は
宝石よりも貴重なのだ。ここぞとばかりにからかってくる相方をぶち殺してやろうかと本気で考えたが
照れもあったとはいえ、『さっさと行くぞ』と言っておいて、引き返すのは締まりが悪すぎる。
繁みの近くに佇む雪兎が、その愛くるしい瞳で見つめてくる。
そんな雪兎の姿にギスギスしてる自分が阿呆らしくなってきた。
そうだな、きっとさっき感じたのは雪兎のものだろう。そうだ、そうに違いない。
矮躯の男は踵を返して歩き出す。
良い男は過去に囚われない生き物なのだ。
「えー、まだ探すだか?疲れて無理してもいいことないっぺ?」
「黙って歩け。今夜は、この森を徹底的に洗うぞ」
過去に囚われなくても受けた屈辱は決して忘れない。
男は、徹夜とか勘弁してくれよぉと
泣きわめく相方の尻を蹴り飛ばして森の奥へと歩き出す。
立ち去っていく姿はどんどん小さくなり、
足音もやがて聞こえなくなった。
「きゅっ!」
そんな二人の凹凸コンビの姿を見送っていた雪兎は、くるっと繁みの後ろへルビーの瞳を向ける。
二人の男達からは影になって見えず、近くにいる雪兎からは丸見えの場所。
そこに一人の少女が小さな体を丸め、息を潜めていた。
珍しい黒色の長い髪。この状況で声を漏らすどころか、表情すら歪めぬ少女からは負けん気の強さを感じる。
少女は完全に二人がいなくなるのを見計らって、小さく息を吐いた。
『……今のは肝を冷やした』
少女は繁みから抜け出すと傍にいた雪兎へと駆け寄った。
『ありがとう。そなたのおかげで命を取り留めた。
そなたは妾の命の恩人……いや、人ではなく兎じゃから恩兎かの』
「きゅい?」
少女は雪兎を抱え上げると、背中に大きな傷がついていることに気付いた。
その傷跡はこの寒さもあって固まったのか、出血は止まっている。
そんなことはお構いなしと少女は傷跡に優しく息を吹きかけた。
冬のように気温が低い時に吐き出す息は白い。
それは息の中に含まれる水蒸気が冷気にさらされ、目に見える細かい水の粒へと変化するためだが
少女が吐き出した白い息には人知れない神々しさを感じる。
白の息吹を受けて、傷跡が雪のように溶けて消えていく。
抱きかかえられていた雪兎には少女の喉に白い紋章が輝いているのが見えた。
『……さて、これで借りは返したの。妾と共におると危ない、住処へ帰るのじゃ』
「きゅあ!きゅあ!」
傷が消えた雪兎は、目を丸くしていたが
治った元気な身体で再び雪原を飛び跳ねて帰っていった。
『うまく撒いたと思ったが、しつこい奴らよ。
しかしこれではいつ見つかるか分からぬ』
雪兎を見送った少女は思案に暮れた。
この森でやり過ごそうと思って逃げてきたのに
相手に思考を読まれて追いつかれるなど笑えない話だ。
彼らが森を探すと言っていた以上、ここに留まるのは危険。
進むのは論外。鉢合わせの可能性があるためだ。
しかし、来た道を引き返しても途中で見つかった場合逃げきれない。
男たちは追跡に大きな角を持つ馴鹿を用いている。
馴鹿を見つけて殺してしまえば逃げ切れるだろうが、まさか分かりやすいところに足を
放置しておくはずもない。馴鹿を探してる間に見つかってしまえばやはり捕まってしまう。
『そうなると人も獣も通れぬ場所を通るしかないかの』
その目はここから少し離れた場所にある泉を見つめていた。
泉は森を横断するように広がっているが、この寒さで氷が表面を覆っている。
氷の厚さ次第ではその上を通れるかもしれない。
大人である追手が間違いなくついて来れず、子供である自分が通れる場所。
土地勘のない自分が見つけられるのはおそらくあの場所だけだろう。
あそこまで遠回りするだけなら仮に追手に捕捉されても逃げ切れる。
「『呪鎧』を奴らの手に委ねる訳にはいかぬ。然るべき人に預け、然るべき場所に保管せねば」
少女は荷物の入った包みを抱え、木々の間を通って泉に向かうべく歩き出す。
命を繋ぐために、追跡を撒くために、文字通り薄氷を踏む覚悟で。
明けましておめでとうございます。
本年の抱負で「小説書いてみよう」と思い立ったため、書きました。