第8話【沈黙世界】
何も無い暗闇の世界。光が無い。だから反射も無い、像も映るはずが無い。
なのにジョーカーの姿と白い顔は、浮かび上がっている。
声が出ない。発せられない。音という概念が無い。無音。無声。
もしやここが『沈黙世界』?
“私”は、こちら側に来てしまったの……?
かおりは、ジョーカーに押し倒されていた。(……!)
無表情だった彼の顔が、ニヤリと笑う。仰向けの かおりの上に馬乗りで片手はかおりの耳元につき、もう片手では小さなナイフをゆっくりと何処からか取り出し示す。
光りはしていないが、その存在は大きい。かおりはナイフを見てゴクリと喉を鳴らした。
かおりだけを見ている。かおりの目だけを。
光の無い目で。
私はどうなるの? どうされるの?
歯を食いしばる、かおり……。かおりもジョーカーの魔力がかった瞳には逆らえず、力に捻じ伏せられている。逆らう事など、茶番なように……。
もう一度 言う。
声が出ない。
(クリス……)
神経や脳が麻痺しているのかもしれない。『沈黙』を恐れるかおりは、あまりの恐怖に思考まで侵されてしまった。もはや抗う発想すら思い起こせない。体が動く事を忘れた。死んでいるのか生きているのか、自分の存在すら確かで無い。
(ク、リ……ス……)
かおりは愛する男の名を呼ぶ。しかし花が すぼむように小さく消えていく。
(……)
君は、僕のもの。
ジョーカーの口がそう言った。そして地に ついていた方の手で労わるように優しくかおりの こめかみ辺りの髪の毛に触った。そしてそれに顔を近づけて自分の口唇へ……至近距離となったお互いの顔は、さらに近づく。
口唇から口唇へ。
そっと……
長く…………。
……
甘い夢というものの揺りかごに揺られている幻想を見た。
目を閉じた2人に訪れた『沈黙』の、一つの時という空間を。世界を。
音を発する事無く、終わりが終わり、始まりが始まろうとしている。
かおりの思考が返ってくる。
(あなたは、サイレント……?)
目を細く開けたかおり。ずっと口は塞がれたままで。
(優しいあなたは、サイレントじゃ……)
殺すと言ったのは ジョーカー。
優しいのは サイレント。
ニヤリと笑うのは ジョーカー。
微笑んで笑うのは サイレント。
ナイフを持つのは ジョーカー。
人を殺めたのは……。
……。
……あなたはジョーカー? サイレント?
……どちらも、クリス。
……そう……そうだったの、ね……。
そう……。
ジョーカー。
私が、あ な た を 認 め な か っ た だけなのね。
かおりの腕が、クリスを抱く。ピク、とクリスは反応した。
かおりの手は、クリスの髪を、頭を、かき撫でる。
目を開けたクリスは、かおりを見て信じられないという顔をした。
かおりが、笑っている。……
目は、閉じたままで。……
かおりの口唇を読む。
いいの 好きにしてクリス
私は あなたのもの
と。
クリスの全血管に熱い血液が走る。衝撃が彼の中へと侵入する。
そしてそれは、クリスの心をひどく苦しめ窮地へと追い込んだ。……
僕が君を守る 俺が君を襲う
誰が君を さらう?
僕が君を守る
どうなっても……知らない。
目を閉じていた。何の音も聞こえるはずが無い。
音は、聞こえない。
聞こえない。
しかし、かおりの上から何かがボトボトと落ちてきた。感触は、伝わる。
(……?)
かおりが目を開ける。
驚愕した。
(……!!)
クリスは馬乗りになったまま、上半身は起こし、片手で持っていたナイフで自らの胸を一突きで刺していた。
刺して、まだ奥へと、ナイフ全てをえぐり込むように、押して、押して。
クリスの、苦痛に歪む顔。
音も無く。
(あああ……!)
かおりは無声の声を上げる。かおりの手にはクリスから流れた血が。
鮮明に。
クリスーーーーーーッ……!!