第1話【黒いピエロ】
作者、何かにとりつかれた作品。
僕 が 君 を 守 る
俺 が 君 を 襲 う
誰 が 君 を さ ら う ?
僕が君を守る どうなっても知らない
……
「いや……こここ、来ないでっ……!」
女子高生は制服姿のままで、メインストリートから外れた裏通り沿いの雑居ビルとビルの間へ。走り追い込まれて、ゴミの詰まった青いポリバケツに すがるように倒れた。
手元に学生鞄は無い。靴も片方、逃げて駆け回るうちに脱げて何処かへ置いてきてしまった。
腰を抜かすように座り込んでしまい、その拍子にポリバケツの蓋がズレた。女子高生は咄嗟に、蓋を目の前の『敵』へと投げた。
カララララ……
簡単に蓋は弾かれて、横へと転がった。女子高生と『敵』との距離は縮まる。一歩一歩と、確実に……。
女子高生も負けはしない。抵抗を考えつく限り実行しようとする。自分の周りにある物を、例えそれが生ゴミや汚物といった不衛生な物であっても――。
掴めるものは何でも掴み、『敵』へと投げつけた。『敵』は、何が自分に飛んできてぶつかっても あまり気にもせず。衣服が汚れたなら汚れたで構わないといった素振りで近づく。時折、肩にブランとかかったバナナの皮なんかを手で振り払いながら。
見ているのは女子高生だけだ。
お前だけだと。
そう細い目が言っている。
「ひっ……」
辺りは暗い。もう夜の9時だ。女子高生は夜遊びをして帰る途中だった。
自分の軽率だった今までの行動を激しく後悔していた。でももう遅い。遅過ぎた……女子高生は自分のスカートのポケットをまさぐる。携帯電話は落としてきた鞄の中だ。他に何でもいい、危険を知らせる何か、手掛かりを残せそうな、何か! 何か無いの! と。
クシャリと軽い音をポケットの中から出した。昼間に食べたお菓子の飴の包み紙だ。
畜生!
女子高生は激しく悪態をつき頭をブンブン振り回した。
『敵』はコートの袖口からスルリと滑らかに。……刃先が長いナイフを取り出した……。
女子高生の頭髪を、革手袋をした手で掴む。同時に、女子高生は背中に当たっているヒンヤリと冷たく硬いコンクリートへと、頭を強く打ちつけられた。
ガンッ。
ガガンッ。……
……女子高生は歯をあらわにし、苦痛を浮かべた。「いやあああ……」小さな真珠のピアスが飛ぶ。
泣き叫んでも、『敵』は……。
「……」
ナイフが、空いたもう片方の手で振りかざされた。空には満月が煌々と光る。皮肉にもナイフの刃先がよく映えた。
ブスッ。
夜の繁華街は騒がしい。異質な音でも誰も気がつかない。
ブスという音が何十奏と音を奏でていても。誰も振り向いてもくれない……。
『敵』は口唇の両端を限界まで持ち上げて、少しだけ開いた口の隙間から歯を見せた。
笑う。
白い息がそれを隠す。
汚い身なりの野犬が、散り放られたゴミの一つ一つを漁りながら通りすぎて行った。
都市と都市との間には『黒いピエロ』が現れると。誰かがそんな事を言い出した。
都市と都市? ……表と裏の事だ。光と闇。昼と夜。白と黒。
伝説では無い。実際に殺人が行われているのだから。
黒いピエロと称された殺人鬼は不特定な場所、不特定な時間に前触れも無くやって来る。ある時は夜の闇に紛れヒッソリと。またある時は真っ昼間から堂々と。
思いつきで『やって』いるかのようだ。警察も困っている。
ただ犯行は都市部に限られるので、すぐに犯人を割り出せるだろうと勝手な世間は皆そう思っていた。
黒いピエロは電波に乗って世界中にその名を轟かせる。地球の裏側でも名を知る者が居よう。
女子高生は服ごと身を切り裂かれる。
子供は首を吊られる。
男は八つ裂きにされる。
暗闇の中に浮かび上がる顔だとしても、何故だか犯人は捕まらない。
年月が過ぎた……。
明るい茶色煉瓦の外装のマンション。5階建てで、部屋は南向きだった。天気の良い日は、ご近所中で布団がベランダで並び干される。下の階では子供がよく走り回っている様子が窺えた。
木緑はさすがに無いが交通量が都市にしては少なめで、人が住むには静かで最高の好条件かもしれない。
家賃は驚くほど高くも無かった。マンション自体は古い建物だが、煉瓦造りが逆に興趣さを醸し出している。だから、たまたまこの地へ来た かおりはすぐにこの物件話に飛びつき引越しを即決したのである。
綾野かおり。春から新人OLをしている。高校卒業後に単身引っ越して来てからは、もう2年余りになる。
実家からは近いので、時々親元を頼りながらの生活をしつつ、何とか自立を試みていた。
初めてもらった給料では、思い切ってパソコンを買った。持ち運びもしたかったのでノートパソコンを選んだ。自室の簡易デスクの上に、それだけをチョコンと置く。何だかそれだけで自分がとっても賢くなった気分だった。
「さてと……何をしよっかな」
今日は仕事は休み。かおりは購入したばかりのパソコンを前に、手をこすり合わせながら色々と考えていた。
前から同僚や付き合いのある友人達がパソコンの話をしているのを聞いていて、かおりもいつかは話が分かるようにまずは購入して、じっくり勉強しようと思っていたのだ。それで……。
かおりは、しばらく他人のサイトや自社のホームページなどを渡り歩く。特にコレといった調べ物があるわけでも無く……しばらく時間が経って、目の疲れを感じた かおりは紅茶でも飲もうとパソコンからいったん離れた。
紅茶。
かおりの好物に入る。
砂糖を入れないという こだわりもあった。
デスクに向かって座り直しながら、湯気立つ紅茶を飲んで落ち着いた。「おいし……」
部屋に入ってすぐ壁沿いに置いてある全身鏡に、安堵するかおりの姿が映る。
ベランダに続くガラスの引き戸の側に、折りたたみ式のベッド。戸に向けた頭側の方に小さなディスプレー・ボックスが置いてあり、そこには壊れている……ラッパを吹く兵隊のオルゴールが、ポツンとあった。
決して鳴らないオルゴール。『サイレン』という曲が鳴るはずだった、もらった始めから一回も鳴る事の無かったオルゴール……。
かおりは捨てなかった。何故かコレだけは。何故なのか、自分でも分かってはいない。
コレが一年前、付き合っていた彼からもらった物であっても。
他の写真や小物は別れた後、思い切って全部処分した。見るだけで辛かった時期が かおりにはあった。その時に、捨てる事を拒んだ自分が居た……。
不思議ね。どうして壊れているのに捨てられなかったんだろう……。
カタカタタ……ベランダに吊り下げられた、小さな円形の洗濯ハンガーが風のせいでガラス戸を叩いた。辺りは静かだった。掛け時計は夜の9時を指している。
奇妙な事だが、かおりは静かなのは好むが、『沈黙』は苦手だった。
犬の吠える声や、さっきのように風によって騒ぐ小物達の音。何処からか聞こえてくる子供の足音……それぞれは小さく、うるさいと感じた事は無い。普通に“静か”なだけ。
でも『沈黙』は。
人との会話の合間に突如として現れる『沈黙』。
生活音も人の気配も全く無い空間。
かおりには、耐えられなかった。
「『サイレン』か……」
そういえば一度も、オルゴールどころか原曲すら聴いた事が無かった事を思い出すかおり。
「そうだ。調べてみよう」
パソコンのキーボードを叩き出した。ち、ん、も、く……。
『沈黙』
検索をかけてみると、とても迷うほどのサイトの数々。「ううーん……」
かおりはずっと、ズラリと並ぶサイト名を順番に見ていった。すごく多いんだなぁと、うなだれながらも。
やがて、一つのサイトが目にとまる。無料動画のサイトだった。
開くと、バンドのドラムソロで始まった曲と共に映像が勝手に流れ始めた。「……」
かおりは見入る。ボーカルの彼――西洋人のような若い男の子。シャツを重ね着してネクタイを締めている。その上から緑を含んだ黒いコートを着て、頭にはコートよりも緑が濃いような色のニット帽を被っていた。
画面の中央で、こちらを真正面で見つつ。始め真剣な表情かと思ったら変わって、楽しげに笑って英語で歌っている。曲のテンポやリズムに合わせて弾むように、時々ネクタイを締め直そうとしたり頭を抱えたりしてアクションをつけて。笑顔がとても可愛らしい。
曲は、静かなのかと思い込んでいたがエレポップ風だった。意外だなと驚く。
これが『サイレン』? 沈黙という意味では無かったの?? と。
かおりは一瞬分からなくなってきそうだったが……。
画面の中の背景が暗闇だと気がつく。「……」
ピエロ。
……沈黙とは違う単語が思い浮かばれた。
『ピエロ』? 何で彼がそうだと思った?
かおりは探る。自分のインスピレーションの原因を。何故。どうして。
すぐに分かった かおり。
「そうか、肌が白いからだ……」答えは簡単だった。
暗闇の中でボーカルの彼だけが、浮かび上がっているのだ。白人だから、その白さは際立つ。目立ってしまうのだ。
それが……かおりの中から『ピエロ』という単語を引き出してきたというわけで。
「ピエロ……」
かおりは何度も何度も この動画を繰り返し見続けた。理由は分からない。まるで魔力のようなもので吸い寄せられ何かにとり憑かれたかのように、画面に釘付けになってしまった。
英語の歌詞は、全く分かりそうにも無い。
かおりには別に、それは苦では無かった。
……
沈黙、サイレン、ピエロ……
何かを忘れている。思い出せないけれど……。
かおりは そう感じて、イスから離れた。もう時間は夜遅い。明日も仕事だ、そろそろ……。
動画は まだ流れ続けていたが、かおりはベッドの脇にある折りたたまれたパジャマをとろうと、そちらに近づいた。
全身鏡の前へ。屈み込んでいるかおりが映っている。
すると突然、照明がチカチカとチラつき出した。「アレ?」
かおりが立ち上がって変だなあと天井の蛍光灯を見上げると、照明はフッと消えてしまう。「ヤダ! 停電?」
パジャマを抱えながら。全身鏡へは背を向けて。
幸いな事に今夜は月明かりが部屋の中を照らしてくれていた。おかげで……。
かおりの背後に立つ者の顔が 白く不気味に暗がりに映える。
動画の歌う彼とほぼ同じような、コートと帽子を着て被り。指先をカットした手袋をした両手は両ポケットにしまい込んで。
鏡の中に居た『彼』は。
かおりの後ろから肩を掴む。
「昔に会ったね 会いたかったよ か お り 」
かおりが振り返る。
自分の肩を掴んでいる男を見る。見て……動画が鏡に映っているのかと、有り得ない事を考えた。「きっ……」
白く浮かび上がった彼の顔は、笑う。ピエロのよう、に。
そして。
「君は、 僕 の もの」
と、ポケットから取り出したキラリと光るナイフを、背後から かおりの首筋に……当てた。