01
雨。雨がただひたすらに降っている。篠突く雨は、まるで僕の心を突き刺さんとばかりだ。普段の僕であるなら、たかだか雨なんかに気を沈ませることもなかっただろう。だが今は違った。たぶん、それほどまでに僕は疲れていた。僕が彼女に出会ったのはそんな時だった。真っ赤な彼岸花の模様の映える漆黒の和装少女。彼女との出会いが僕の生活を一変させてしまった。
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目覚ましの音に促され、僕は目を覚ました。枕もとのスマートフォンをのぞき込む。
10月21日月曜日十時ちょうど。この時間に起きても特に問題がないのが僕の仕事のいいところだ、といっても、ぐだぐだしているのももったいない。さっそく身支度をし、軽い朝食を食べ家を出た。
車を走らせること三十分で職場には着く。ただ、やはりまだ早いようだ。そこで、僕はコンビニで暇をつぶすことにした。これならもともと家でゆっくりしていればよかったという話だが、まあそれはそれ。缶コーヒーとそのほか家で切らしていたものをついでに購入し、車に戻る。そのまま駐車場でコーヒーを飲みつつスマートフォンで最新ニュースをあさる。不況で倒産やら、自殺やら殺人やらの暗いニュースと、なんだかよくわからないコミカルな記事が同等に列挙されている。なんだか妙な感じだが、割といつもこんな感じだから世の中謎である。
そんな特に興味もない記事を流し読みしていると、ふとSMSの通知が目に入った。すぐに開いてみるとそれは所長からだった。
「急な仕事が入ったので今すぐ来てほしい。いや、すぐに来てくれ。来るときにはいつものものも買ってきてくれ」
僕は無言でスマートフォンをポケットにしまった。どうも呼び出しがかかってしまったらしい。早く出た分ちょうど良かったかもしれない。しかも、こんなこともあろうかと「いつものもの」もすでにコンビニで購入済みだ。僕はすぐに車を走らせ職場に向かった。
僕の勤める職場は海に面した県道沿いにある、築うん十年の古びたアパートの一室だ。二階建てのアパートで一階は普通の住人が二世帯分。そして、二回に僕たちの事務所とそのおとなりさんである。お隣さんも事務所らしく、表には「新山弁護士事務所」とある。その看板の通り弁護士さんらしいのだが、この仕事を初めて以来今まで、客らしき人が訪れたのを見たこともないし、そもそもこの部屋の住人の姿すら見たことがない気がする。
海風にさらされすっかり錆びてしまった階段を上がり、一番奥の部屋。ここが僕の職場である。「離艾院靈異相談所」という墨で書かれた木の表札がなんともいえない胡散臭さを出している。しかし、残念ながらここは間違いなく僕の務める場。もし無関係者であれば、あまり立ち寄りたくない雰囲気ではある。
僕はビニール袋を手に扉を開け中に入る。
「おはようございます。いま来ました」
「ん、おはよう。早かったね。早速で悪いがこっちへ」
奥から声が聞こえてくる。少し低くはあるが少女らしさを帯びた声。奥の部屋に行くと一人の少女がソファーに腰掛け僕に手招きをしていた。彼女がここの所長、離艾院枢だ。仰々しい名前だが、彼女は旧い家の出らしく、齢十五にしてこの相談所を経営している。今日も彼女は全身黒ずくめの服装だった。黒が大好きなのだとか。今日はいつもよりはラフだったがやはりほぼ黒一色だ。その服装の配色と彼女の細く鋭い目つき、絹のように艶やかな長い黒髪が彼女を大人びてみせる。実際に大人びているのは見た目だけではないが。
「ほら、早く座りたまえ。仕事の話だ」
このように口調があれである。所長の声はなんだか楽しそうだ。僕は言われるとおりに彼女の対面に座る。僕らの間の机にはすでに何枚もの資料らしき紙が広げられていた。
「今回の仕事はいつものより少しは楽しいぞ。場所は羽滝町」
「……仕事に楽しいも何もないですよ。それにこんな仕事なのですから」
僕がそうたしなめると所長は少しだけ顔をしかめた。
「ふむ。そうは言うが、やはり楽しまないことには仕事の出来にも影響する。仕事は楽しみながら速やかにこなす。これが鉄則だ」
「そ、そうかもしれませんけど……」
こう言われてしまうと僕はもう何も言えない。所長はだいたいこういう人だ。楽しいことが大好きで、とくにこの仕事が楽しくてしょうがないようなので、なんというか質が悪い。
僕は早速資料に目を通した。
今回の仕事はとなり町である羽滝町。依頼主は町で農家を営んでいる男性で、ここのところ毎夜のように家中から奇音が聞こえてくるという。それで主人は堪えかねてビデオカメラを設置したところ、いろいろと奇妙な映像が撮れていたらしい。
「この撮った動画というのはあるんですか?」
「ああ、もちろん。同封されていたよ」
所長はテレビのリモコンを操作して依頼主の送ってきたというビデオを再生した。
ご丁寧に暗視カメラ。画面端に表示されているのは時刻だろう。時刻はAM2:07。映っているのは和室だろう。座敷の部屋に一人の男性が寝ているところを見ると、どうも寝室らしい。依頼人だろうか。
はじめは静かに眠っていたらしい彼は、ビデオが始まり約五分、うんうんとうなりはじめた。しきりに身をよじり、なんだかとても苦しそうだ。数分その状態が続くと、男は次第におとなしくなった。また、静寂が訪れる。
「メインディッシュはそこからだ。なに、つまらんテレビ番組の特集動画レベルではあるがな、お前なら視得るものもあるかもしれん」
所長はいつの間にかカチャカチャと知恵の輪にはげんでいた。本当にこの件に興味が有るのかないのかわからない。
2:17。画面に変化が現れた。ぽつぽつと画面に黒い円形の何かが浮遊しているのが映り始めた。更に二分後、カタカタと木を打つような音。画面をよく見ると、障子が僅かに揺れている。また一分ほど、障子の音は更に大きくなり開いたり閉じたりを繰り返している。男もまた苦しそうに身をよじる。今度は窓を叩く音が聞こえ始め、部屋中から様々な音が響いている。さながら地震のようだったが、カメラは揺れていない。2:24。雷が落ちるような大きな音とともに賑やかだった部屋の中は急に静まり返る。同時にほんの一瞬だけなにか大きな黒い影が横切り、不意に画面が停止した。録画時間の数字が増えていることから録画は続いているようだが、画面は真っ暗で換気扇のような音だけが響いていた。
テレビの電源が切れる。所長が切ったみたいだ。机の上には所長が解いた知恵の輪が山積みになっていた。わずか十分ほどの間によくこれだけ解いたものだ。その所長はというと何かこちらをじっと見ている。感想を聞きたいのだろう。ただ、感想と言われても。
「まぁ、特におもしろみもないポルターガイストの映像ですね。僕達なんかより、テレビ局にでも送ったほうがよっぽど受けそうです」
ポルターガイストというのは、心霊現象の一つで、誰も手を触れてないのにものが音を立てたり動いたりする現象のことだ。科学的に説明がつく場合もあるそうだがすべてがそうではなく、オカルトの一種である。所長は僕の感想ともつかない言葉を聞いて一応うなずいた。
「だろう? でも、もう少しわかることもあったはずだ。画面に映った黒いオーブ、そして画面が止まる直前の黒い影。君にはどう視えた?」
「どうって……」
どう、と聞かれても見たままのとおりだ。それ以上でもそれ以下でもない。でも、僕は所長が僕に何を求めているかもわかっている。だからこそ所長は僕に映像を見せたのだ。
「そうですね……。いたかどうかは判断つきにくいです。やはり映像は映像ですから見えるものも視得ません」
「そうか。残念だ」
所長はおおげさに落胆の意を表情に示した。どうも所長の気分を損ねてしまったらしい。容姿とその大人びた口調で実年齢より多少上に見られやすい彼女だが、こういうところはなんとも子供っぽい。そこが僕を安心させてくれる。
僕は所長に機嫌を直してもらうために、部屋にある小さなキッチンに向かった。今日、来るときに持ってきたビニール袋を開き、中から粉末のココアのパッケージを取り出す。所長は甘いものが好きだ。特に飲み物で言えばココアが好きで毎日のように飲んでいる。好物で機嫌を直してもらおうというのは安易かもしれないが、常套手段ではあるだろう。
僕はココアを作りながら、ふと、あることに気づいた。ここには僕を含め、所長以外に三人の従業員――と言っていいのかはわからないが――がいる。しかし、今日は姿が見えない。こんなに狭い事務所だ。どこかにいるということもあるまい。
「所長、今日は紬希さんと士道さんはいないんですか」
尋ねると、所長は面倒くさそうに、
「ああ、あいつらなら昨晩から別件を処理させている。ほら、先週に言っていた除霊してくれと泣きついてきたサラリーマンのやつだ」
「あー、あの人ですか」
先週ここを訪れたそのサラリーマンの男性は、「最近、不自然なほどに不幸続きだ。きっと悪いものが憑いているに違いない」と除霊を依頼してきた。準備が整うまで待ってもらっていたのだが、その処理を今日行っているらしい。
「そういうわけで、今日は君だけだ……、お、ありがとう」
淹れたばかりのホットココアを出すと、所長は少しだけ嬉しそうな表情になった。
「それで、今回の依頼はどうするんですか。受けるんですか」
「ああ。来るもの拒まず、しかるべきものには適切な処置を。まあ今回の特に楽な案件のようだから君一人で行ってくるといい。今すぐ」
「え、今すぐにですか」
あくまで真顔の所長。あのメールの内容はこのことを意味していたのか。
「先方も今日の昼間が都合が良いらしくてね。早速行ってきてくれたまえ。概装は……まあ必要ないだろうが、最下位等級のものを持っていけ。あくまで保険としてだ。四の匣に旧い万年筆が入っている。お護りくらいにはなるだろう」
「四の匣って、クローゼットに無造作に入っていたアレですか」
「ああ……。ないとは思っていたがそんなところに紛れ込んでいたのか」
元の場所にしまっておいてくれ、なんて無関心そうに言う。とても大事なものだというのに。そういうことには無頓着な人だ。
「わかりました。とるついでにしまっておきます。では、行ってきますね」
「ああ、いってらっしゃい。住所はそこの資料の中だ。それと、そうだな。帰りに何かおみやげをな」