03
緩やかに箱馬車が止まると、門柱横にある門番部屋から中年の男がひょっこりと顔を出した。エルビアンは小窓を開け、親しげな様子で彼に声をかける。
「久しぶりだねオルター。マクシムはいるかい?」
「これはこれは、エルビアン様ではありませんか。お久しゅうございます」
ラジュエル公爵家の門番頭オルターは、厳つい顔をくしゃりとさせると、自分の息子ほど年の離れた相棒に門を開けるよう指示をした。
「おや? 確認を取らなくても良いのかい?」
顔を顰めるエルビアンに、オルターはますます相好を崩す。
「今日はあなた様がいらっしゃると、マクシミリオ様から伺っておりましたので」
それは即ち、あれを届けた後エルビアンがどういった行動をとるか、マクシミリオは予想済みであった――という事だ。
「へぇ、そう……」
面白くない――と、エルビアンは短く舌打ちをしたが、それは誰にも聞こえないほど小さなものだった。
二人を乗せた箱馬車は、門を通り過ぎ敷地内に入ると、建物のある方へと向かって行く。クリスティアは小窓から外を眺めながら、左右対称に整えられたその前庭の美しさに溜息を漏らした。母にも見せてあげたいなどと思っていると、速度がゆるゆると落ちていく。どうやらそろそろ着くらしい。
「あぁ、着いたようだね」
完全に停車してから内鍵を開けると、エルビアンは扉を開く。屋敷の中から使用人達が出てくるのが見え、しかも先頭にいる夫人は柔らかな笑みを浮かべていた。
「いらっしゃいませエルビアン様。お久しぶりでございます」
「こんにちはアビントン夫人。最後にあなたに会ったのはいつだったかな?」
「最後にお会いしたのは確か……一年と四ヶ月ほど前だったかと」
「そんなになる?」
「はい」
にっこりと笑った夫人に、エルビアンもやんわりと口角を上げる。ああそうだ――と、彼は自分の後ろに隠れるようにして立っている妹を紹介した。
「アビントン夫人、これは末妹のクリスティア。ティア、彼女はこの屋敷の雑務を取り仕切っているアビントン夫人だ。彼女はマクシムの乳母なんだよ」
クリスティアはドレスの横を摘まんで、ちょこんと腰を落とす。そんな彼女に夫人は、丁寧かつ優雅に頭を下げた。
「初めましてクリスティア様。わたくしはコニー=アビントンと申します。本日はようこそおいで下さいました」
「初めましてアビントン夫人。クリスティア=ウィロックです」
緊張しているのか、少々ぎこちない笑みを浮かべるクリスティアに夫人の目もとが緩む。うふふと、夫人は小さく笑った。
「エルビアン様、わたくし……マクシミリオ様が酷く焦っていた理由が解りましたわ」
「夫人?」
訝しげに片眉を跳ね上げたエルビアンに、夫人はもう一度「うふふ」と笑った。
「さあ、どうぞこちらへ」
そう言って、二人が通された部屋は、上品な青色で纏められていた。過去、何度もここに来ているが、エルビアンも初めて入った部屋であった。模様替えをしたのではない。窓から見える風景に見覚えが無いので、初めてだと判ったのだ。失礼にならない程度に室内を見渡し、調度類のどれもこれもが、さり気なさを装った最高級品である。生活の質の違いに、軽く頭が痛くなったエルビアンであった。
「お茶をお持ちいたしました」
「ありがとう、夫人」
小花模様のカップに注がれた紅茶は、その香りを嗅いだだけで上質の物だと判る。夫人はお茶を淹れると、すぐに退出してしまった。クリスティアは香りを楽しんでから、砂糖とミルクを少しだけ落とし、ぐるぐるとスプーンで掻き混ぜて一口飲んだ。あまりの美味しさに、口もとがほにゃりと崩れる。
「遅いな……マクシムの奴、何をしているんだ」
この部屋に入って、かれこれ三十分は経っているだろう。エルビアンは眉間に皺を寄せ、砂糖もミルクも入れていない紅茶を一口啜った。
「エル兄さま……やはりいきなり来たのは拙かったのではありませんか?」
「それは無いよティア。オルターが言っていただろう? 今日、私が来ると聞いていたって……。それはつまり、マクシムの奴はあの使者を送った事で、私がここにすぐ来る事など始めから解っていたんだよ」
もったいぶって出てこないだけだろう――と、エルビアンは鼻を鳴らした。
「誰がもったいぶっているって?」
突如不機嫌さ丸出しの声がして、この屋敷の主マクシミリオ=ラジュエルは、声と同じくらい不機嫌な顔で二人のいる部屋の中へと入ってきた。くしゃりと金色の髪を掻き上げて、じろりとエルビアンを睨む。
「きみ以外に誰がいるんだよ」
肩を竦めるエルビアンに、マクシミリオは眉根をきつく寄せた。
「待たせたくて待たせたわけじゃない。きみ等よりも先に、王宮から陛下の使いが来たんだよ」
うんざり顔で大きく息を吐きだすと、呆然とこちらを見ているクリスティアに彼は艶然と微笑んだ。
「ようこそ我が屋敷へ……クリスティア嬢」
クリスティアの右手を攫うように掬い上げると、マクシミリオはその指先に唇を寄せた。
「マクシミリオ=ラジュエルです」
「え、あ、は、はい。ク、クリ、クリスティア=ウィロックです」
真っ直ぐに見つめられ、クリスティアの心臓はドキドキとうるさく、目はチカチカしていた。あの噂は本当だったんだわ――と、ごくりと唾を飲み込む。 もう一度マクシミリオの唇が指先に触れ、クリスティアの頬が瞬時に熱くなった。
「おいマクシム、いつまでそうしているつもりだ。ティアから離れろ!」
苛立たしげなエルビアンの声に、マクシミリオはわざとらしく溜息をつくと、彼女の手を握ったまま顔だけをそちらへ向けた。
「野暮だなエルビアン。きみ、気を利かせてはどうだ?」
「は? 気を利かせろ? 可笑しなことを言うね、きみは」
クリスティアは二人の間に、見えない火花がバチバチとぶつかり合うのを見たような気がした。このままずっとこの状況が続きそうな予感がして、ここは自分がなんとかしなくてはいけない――と、こほんと小さな咳払いをしてから用件を切りだした。
「ラジュエル公爵様、本日兄と共にこちらに伺いましたのには……その、理由がござます。実はわたくし、公爵様にお訊きしたい事があるのです。公爵様……嘘偽りなく、それにお答え下さいますでしょうか?」
軽く眉根を寄せ、クリスティアは唇を噛み締める。マクシミリオは彼女の横に腰をおろすと、握ったままの彼女の手の甲を、もう一方の手でそろりと撫でた。
「勿論ですよ。なんなりと……クリスティア嬢」
ふわりと優しい笑みを浮かべるマクシミリオの菫色の瞳が眩しくて、クリスティアは眩暈を起こしそうになった。彼女は大きく息を吸うと、おもいっきり吐きだし、そしてキッと挑むようにマクシミリオを見て、どうして自分になど結婚を申し込んだのか――と、問うた。
「公爵様がわたくしを妻にして、何の得があるのです? 何も無いではありませんか。むしろ損をなさるのではありませんか?」
「損? 私が? 何故です?」
解らないな――と、マクシミリオは首を傾げる。
「得する事は沢山あっても、損をする事など私には一つもありませんよ」
「と、得など……それこそ一つもありませんわ。あなたの言っている事は嘘ですっ!」
激しく頭を振るクリスティアに、マクシミリオは眉根を寄せた。
「嘘? 私の言っている事を嘘だと、どうしてあなたはそう思うのです?」
「だって、だってわたくしは……姉さま達のように高い教養もなければ、美しい容姿でも無いもの。そ、そんなわたくしを妻にしては、公爵様が笑われるだけです。恥をかくだけです」
「何を可笑しな事を……」
マクシミリオは額を右手で押さえると、深々と溜息をついた。彼は苦しげに双眸を細め自分を見つめるクリスティアの、白く柔らかな頬に優しく触れる。
「愛しいあなたを妻にできる事以上の喜びなど、私には無いというのに……」
「……それこそ嘘です。大嘘です。公爵様にお会いしたのは今日が初めてですのに、わたくしを愛しいなどと……どうしてそんな嘘をあなたは仰るのですか?」
からかうのは止めて下さい――叫ぶようにそう言ったクリスティアに、マクシミリオはからかってなどいないと顔を強張らせた。
「それにね、初めてではないのですよ。私達は前に一度、会っているのだから」
「え?」
やはり覚えていないのか――と、マクシミリオは寂しそうに微笑んだ。
「でもまぁ……それも仕方がないか。あなたは寝ぼけていたから」
「はい?」
「おい、マクシム。一体何を……」
身を乗り出したエルビアンに、マクシミリオは楽しそうに目を細めた。
「八年前にね、私は彼女と会っているんだよエルビアン。きみの姉君に確かめるといい」
「ジェニー姉上に?」
「ああ。あの方もその場にいらしたから」
くつくつと喉を鳴らし、マクシミリオはぽかんと口を開けているクリスティアを散歩に誘った。少し二人だけで話がしたいのだと言う彼に、クリスティアはこくりと頷く。とはいえ、独身の男女を二人きりにするのはよろしくない。自分も付いていくと言うエルビアンを制し、マクシミリオは自身の腕にクリスティアの腕を絡めさせると部屋から出ていった。一人残されたエルビアンは、がしがしと頭を掻き、カップの中に残っていた紅茶を一気に飲み干した。