クリムゾンフルーツ2009-B
空が青い。
「なあ林くん、なんで五月一日は祝日とちゃうねん」
そんな青空の真下、昼飯を食いながら同僚の町田さんがつぶやく。
「なんで、って言われてもな。なんか記念日とかだっけ?」
俺はコンビニで買った唐揚げ弁当をつつきながら、町田さんの無意味な発言にいちいち応対していた。
町田さんの弁当箱を覗くと、白米とキャベツの漬物が収まっているだけだった。
「メーデーやんか、メーデー。ほら、ニュースでもやってるやろ。春闘とかなんとか。アタシ子供のころな、ゴールデンウィークにサラリーマンが格闘技大会する日やと思っててん。どうやら違うらしいわ」
「いや、だいたい合ってる」
春に闘う労働者の日、という字面だけを読み解くと、その発想もあるかと俺は思った。
「でも確かに五月一日が祝日だったら、ゴールデンウィークとか長くていいかもな。贅沢を言えば四月二十九日の祝日は三十日にずらすべきだ」
そうなれば四月末から五月頭まで、祝日や振り替え休日のコンボでどれだけ休めるだろう。中高生なんて大喜びだ。
「それはアカン。四月の祭日は、もともと昭和天皇の誕生日やないか。建国記念日と憲法記念日と天皇誕生日だけは、変にずらしたらアカン日やとアタシは思う。成人の日とか海の日はハッピーマンデーで十分やけど。日本が生まれた日と、日本の御主人さまが生まれた日を、庶民の都合でいじるなんてとんでもないわ」
メーデーがなんとか言っておきながら、ずいぶんと伝統保守な意見を真面目な顔で言う女がいた。
「どっちにしたって関係ないだろ、俺らには。畑には土日も祭日もないんだし」
俺がそう言うと、町田さんはいかにも美味そうな音を立てて漬物とご飯を飲み込み、げっぷとため息を同時に吐きながら応えた。
「せやなあ。野菜はカレンダーと関係なしに成長するし、雑草は毎日毎日、律儀に伸びよるしな」
お天道さまにとっては、人間がいくら暦をいじろうとお構いなし。
そう、俺たちは畑で働いているのだ。
自己紹介とかが遅れた。町田さんが相変わらずどうでもいいことばかり言うので、俺も色々とどうでもいいような気持ちになったせいだ。
俺は林洋平、二十三歳。さっきも言ったように農場で働いている。農家の息子ってわけじゃなく、バイトとして雇われてる身分だ。
大学を卒業したものの、内定していた会社が倒産した。そのおかげで就職がポシャり、地元に帰る羽目になった。恐るべし世界同時不況。
この農場で働いている理由は、バイトしながら就職活動をやり直すためだ。実家にもそれほど余裕があるわけじゃないから。
いろんなバイトを受けたけどここしか受からなかった。ここは面接もなかったし履歴書も提出しなかった。
「じゃあ来週から来て」
三月末の金曜日に電話して五分も話さないうちに、そんなことを言われて採用された。世の中が結構適当にできていることを俺は知った。
だから世間で言う大型連休も、大地を相手にしている俺らには関係ない。休みは五日間に一度、班ごとに交代でとっているのだ。
同じ班で働く町田さんは、どうやら関西出身らしい女の子。
俺より一ヶ月くらい先輩だ。女の子といっても年齢はよくわからない。俺と同世代か、ひょっとすると下って感じか。農作業で日焼けしているせいで、他の従業員の歳を予想するのは難しい。別に詮索しようとも思わないのだけど。
長い髪を後ろで無造作に結って、化粧っ気もなく日焼けしている。なにより職場ではいつも目深に帽子をかぶっている。
そのせいで一見、顔の造りすらよくわからない。でも仕事の行き帰りでたまに帽子をはずしているのを見る限り、実は結構な美人。背も小さくて贅肉もない。キャバ嬢でもやれば関西弁が珍しがられて、いい稼ぎになると思う。それは俺の趣味か。
「やっぱな、どんな仕事も尊いと思うねんけど、みんなが暮らしていく中で必要なものを作ったり売ったり、そういう仕事こそやっぱり一番大事やなあ、って最近、しみじみ思うねんなアタシ」
本日、五月一日はメーデーである。それを知った町田さんは、携帯電話からウィキペディアを見て自分なりに調べたらしい。メーデーの由来、労働者の権利、広くは働くということそのもの。
そのせいで休憩中の雑談がやけにプロレタリアな内容になっていた。そのうち安保反対とか言い出すんじゃないだろうか。
「どんな仕事も、必要だから世の中にあるんじゃねえの?」
「んなこたあない。ためしに風俗店が一つ残らずなくなってみい。エロDVDがわんさか売れて、不倫や浮気やナンパが増えるだけで、世の中変わらず動いていくもんやで。むしろツタヤとかラブホテルは儲かるやろ」
性犯罪が増えて、今よりだめな世の中になると俺は思う。
「そうかい、じゃあ野球やテレビゲームもいらねえなあ。なくても寂しいだけで、生活は困らないしな」
「それはアカン。巨人は消えてもええけど、野球がなくなったらアタシ死んでまう。ゲームはそうやな、FFの新作をアタシがクリアした後ならなくなってもええわ」
町田さんはどうやらアホのようだ。
休憩が終わったあと、午後の作業はイモ拾いだった。
一平方キロにも広がるジャガイモの畑。その中でひたすらイモを拾ってカゴに集めて、カゴが満杯になったら等間隔に設置された巨大な麻袋に放り込むという、シシューポスも真っ青の単純作業だ。
地中に埋まっているジャガイモの群れを、大農場の跡取り息子が耕運機でわしわしと掘り返して行く。瞬く間にジャガイモたちが地上に姿を現し、俺たち作業員が畑の縁に、横一列に並ぶ。
ここから自分の前方ラインをまっすぐに進み続けて、ひたすらイモを拾うのだ。畑の端まで着いたら、来た道を折り返して取りこぼしがないかを再確認する。
「病気のイモまで拾ったらアカンで。焦るとチェックできひんからな」
「わかってるよ。町田さんこそやけにイモ拾いが速いけど、ちゃんと見てんのか?」
「アタシが速いのは、一生懸命やっとるからや。林くんなんかいっつもビリやないか。同じ班の先輩として恥ずかしいっちゅーねん。おじいちゃんやおばあちゃんたちに負けてどないすんねんな」
はっきり言ってくれる。確かにあまりやる気はない。第一これが一番、腰に負担がかかる。ずっと中腰でイモをひたすら拾い続けるだけの仕事だから。
そんなことを言われたからか、俺はこの日のイモ拾いに本気を出してしまった。
早歩きを通り越して、ほとんど走って跳んでという作業スピードでイモをひたすら拾いまくる。変に色が変わってる芋は放り投げる。町田さんにぶつけたら、三倍以上の数を投げ返された。乱暴な女だ。
「なかなかやるやないか林くん。脳ある爪は鷹をルルルルルってやつやな」
気づいたら俺は町田さんのすぐ後ろ、同じ班員の中では二位のゴールだった。
「なに言ってるかわかんねえし、色々間違ってるよ。明日絶対、全身筋肉痛だなこりゃ」
作業を終えた開放感からか、早くも俺の体すべてがビキビキと悲鳴を上げているように思えた。今日の風呂は気持ちいいだろう。湯船で眠って死なないように気をつけよう。
「これからしばらく、イモ拾いらしいで。明日も競争やな」
いっそ殺してくれ。
俺たちが働いている農場は、とてつもなくでかい。こんな一平方キロ級の畑を百くらい持っているそうだ。移動距離も長く作業員も多い。だから畑から畑への移動は、中古のバスを使っている。社長や社長の息子、数人の社員は大型免許を持っているのだ。
なおかつこの地域は、夜と昼、夏と冬の温度差は結構ある割りに雪が降らないという気候条件をを持っている。それを生かし、かなりのヘビーローテーションで作物を植えては収穫し、植えては収穫しを繰り返している。
と、バイト作業者のまとめ役である社長息子、トオルさんがバスの中で言っていた。
「一応、有機栽培をうたってるからね。土がやせないように作付けの計画を立てるのが大変なんだぜ。特にうちはジャガイモに関してはブランドだから、味も出荷量も落とせないんだ。こんな仕事でも会社の運命がかかってる、重大なことなんだよ」
ここの農場は火山灰の土壌を含んでいるため、なにやらジャガイモがやたらと甘く美味しく育つらしい。俺はトオルさんと歳が近いこともあって、バスの中では運転席のすぐ後ろに座って話し相手になることが多い。こんな話を何度も聞かされる。
町田さんは座席の最後尾中央に陣取り、他の作業者であるジジババとゲラゲラ笑っている。仕事も真面目にこなし、いつもむやみに元気な町田さんは職場のアイドル的存在になっているのだ。あだ名はマッちゃん。
「ほんと、うちの嫁もマッちゃんみたいないい娘だったらよかったのにねえ。いつもジメジメと文句ばかり。ろくに家のこともできないくせにさあ」
その会話のどこに笑うところがあるんだ。というようなダークな話なのに、やたらと後部座席は笑い声で騒がしい。
「おばちゃん、それは違うで。アタシはこう見えても魔性の女なんや。仮に嫁に入っとったら、旦那さんやその家族を不幸のどん底に陥れて、人生狂わせてしまうかもわからん」
町田さんが魔性の女なら、本物の悪魔だって野良犬より怖くないと俺は思った。
バスが本社事務所に着いた。俺たちとは別にトラックで運ばれた野菜が倉庫に搬入されて行く。これからまた別の班が選別したり、包装したりして出荷されて行くのだ。
どの町にも一つはあるような大手スーパーにも、ここの野菜が並んでいる。私用で買い物をしているときに職場の品物を見てしまうってのは、なんだか気が休まらなくて嫌なものだ。
「お、林くん、これあげるわ。頑張ったご褒美や」
そう言って町田さんが作業服のポケットから、なにかを取り出した。それは小さなジャガイモがいくつか。
ジャガイモを拾い集めるときに使っているカゴ。それの網目を抜けるほど小さい物は、商品にならないので収穫する必要はない。町田さんは作業の合間に、それらを拾い集めてポケットに入れていたのだ。
「こんなもん集めながらあのスピードですか……」
俺は呆れと感心の両方を抱いた。こいつは軽自動車のフレームにベンツのエンジンを積んでいるような体をしているらしい。それにしては燃費が良すぎるか。
「煮物とか肉じゃがにするとめっちゃ美味しいで。家の人も喜ぶやろ。ここのイモ、店で買うと微妙に高いからな。商品にならんやつ、たまにこっそり持って帰ってんねん」
昼飯のときに見た彼女の弁当、あの漬物もここの野菜だったのかもしれない。
へとへとの体で自転車をこぎ、俺は家に帰った。町田さんの予想通り、小イモの群れは鶏肉の煮物に混ぜられ、その味は俺の両親をずいぶんと感嘆させた。俺は疲労と眠気と風呂上りの心地よさと腰の痛みから、夕飯の味があまりわからなかった。
翌朝、俺は眠い目をこすりながら自転車で農場に向かっている。
畑仕事の始まりは早いので、七時までには事務所に集合しなくてはいけない。車の通りが少ない田舎道を、自転車で四十分以上の距離と言えば、その道のりの遠さが想像できるだろうか。原付でも買いたいところだけど、就職が決まるまでは無駄遣いしたくない。
実家を離れて一人暮らしをしていた大学時代。あの頃も電車賃をケチって自転車を使いまくったのを思い出す。と言っても、たった二ヶ月前まで大学生だったけど。行く先はゲーセンだったりサッカーの観戦だったり。マクドナルドでハンバーガーだけ注文して夜を明かしたこともあった。今思うと元気だった。
横浜にある小さな工業系の会社に内定をもらったときは、これで俺もシティボーイの仲間入りだぜ、通勤ラッシュの地下鉄に揺られて朝夕を過ごすんだぜ、などと夢想していたのに。まさかつぶれるとは思ってもみなかった。
「おいっす、林くん。今日は残念ながら午後に雨が降るわ」
会社に着くと町田さんが、ラジオ体操第二を倍速で踊りながら言った。朝からテンション高すぎで、見ていてたまにウザい。
「天気予報では曇りって言ってたぜ」
「んー、なんやろな。不思議とわかってしまうんや。根拠はないけど、降るとしか言えんわ。帰りが大変やねえ」
他人事のように言っているのは、町田さんが農場の寮に住んでいるからだ。だからこいつは雨が降ろうと雷が落ちようと、帰りの心配をする必要がない。
なんでも町田さんはテレビのニュースを見て、農場の住み込みバイトをしながら自分探しをしている人たちにひどく共感を覚えたらしい。気がついたら手当たり次第にそういう農場を探しまくって、やっぱり面接なしの電話だけでここに採用されたそうだ。世の中はこんな風にアバウトすぎる。
昨日に引き続き、イモを拾いまくって午前中を過ごす。そうしていると町田さんが言っていた通り、昼前から雲行きが怪しくなってきた。
「このぶんだと午後はキノコかな」
トオルさんが昼食後に煙草を吸いながら言う。俺は心の中でガッツポーズを決めた。
雨が降ると、土の柔らかいイモ畑は作業どころではなくなる。人間も機械も通れないほど、土が水を吸ってグジャグジャになってしまうのだ。反面、水はけはいいので乾くのも早いけれど、リアルタイムで雨に降られるともうお手上げである。
一方、シイタケやシメジなどを栽培しているハウスの中は、雨が降ったところで作業に支障はない。
そして、キノコたちはハウスの中に並んだ鉄の棚に鎮座して育っている。イモ拾いのように中腰の姿勢で地面の作物を拾いまくるわけではないので、体にかかる負担はぐっと減るのだ。キノコ万歳。
「冷蔵庫にベーコン余っとったな。夜はキノコと炒めてパスタの具にしよ」
町田さんは早くも、会社の商品を横領して自分の夕食を充実させる算段をしているようだった。トオルさんも気づいてないふりをしている。話のわかる兄さんだ。
雨がビニールハウスを打ちつける。その音を聞きながら、俺たちは棚に並んだシイタケを菌床からもぎ取っている。菌床というのは、小さい鉢植えのようなものに、シイタケの菌糸がぎっしりと詰まったものだ。ここからニョキニョキとシイタケが生えてくる。
キノコ類収穫の作業が楽な理由は上記以外にもある。
まず、品物自体が軽いこと。手持ちのカゴいっぱいになったとしても、キノコの重さなんてたかが知れている。ジャガイモやカボチャと違い、ほとんど空気みたいなものだからな。
また、キノコハウスは温度と湿度がほぼ一定に保たれて、いつもひんやり涼しく、ジメジメしている感じだ。激しく寒いこともなければ、馬鹿みたいに暑いこともない。もっとも、俺は春に入ったばかりなので暑い日の苦しさをまだ体験していないけど。
そして何よりトオルさんたち社員連中が、キノコ作業に関してはそれほどバイトを急がせない。キノコ、特にシイタケなんかは他の野菜に比べて単価が高い。作業を焦って品物に傷がついたり、規格外のものを梱包のラインに回してしまうとその分、会社の損失が大きくなるのだ。
「そんなに焦らなくていいから、しっかり選別して、丁寧にもぎ取ってね」
「ういーっす」
外の畑では大声を出してバイト作業者たちに発破をかけているトオルさんも、キノコハウスの中では人が変わったように穏やかだ。雨の日は仕方ない、と諦めの心理も働いているのだろう。泣く子と天気には勝てないのだ。
「なあ林くん、ほらほら、このシイタケめっちゃデカいし太い。はちきれそうや」
「はいはいセクハラセクハラ」
キノコ作業ではありあまる体力をぶつける余地がないらしい。町田さんは暇そうな顔で俺に絡んでくる。楽な仕事、大いに結構じゃないかと俺は思うけど。
「なにがセクハラやねんな。気にしすぎとちゃうか。あ、ひょっとしてコンプレックスとかあるんか。大丈夫、男の価値はそれだけやないでっ」
「町田さんねえ、しゃべらなけりゃずいぶんとイイ線なんだけどねえ。もったいない」
「え、なんやねん急におだてて。褒めてもなんも出えへんよ。ふふふ」
皮肉も通じないのかこの生き物は。
ここの仕事は朝の七時から始まるので、休憩を一時間挟んで夕方の四時には退勤時間が来る。それを超えたら残業ということだ。
出荷の時間がギリギリに迫っている作物がある場合、雨降りの中でも無理矢理、畑に出て収穫作業をしなければならない。今日はそれほどでもないらしく、普通に定時で帰れそうなんだけど。
「雨ウゼー……」
問題はこの天気。無理に自転車で帰っても、晴れのときよりスピードを出せないので家まで一時間近くかかってしまう。風邪とか引くかもしれない。
「夜には止むと思うで。雲も薄いし」
町田さんが根拠のない自前の天気予報を告げる。しかし実際これがよく当たる。前世がカエルかなにかだったんじゃないのかと思う。
俺は天気がどうにかなることを願い、事務所で雨宿りをさせてもらうことにした。ここにはロビー兼喫煙所のような休憩スペースがあり、テレビやふかふかのソファ等がある。
「お疲れさん。林くんは自転車で通勤してるんだったねえ」
日経新聞を読んで時間をつぶしていたら、トオルさんがお茶をおごってくれた。社員の皆さんはバイト連中が帰った後も、事務所でなにやら机仕事をしている。
世界同時不況とは言うものの、製造業や建設に比べれば小売、特に衣料や食品に関しては比較的堅調だ。マクドナルド、イオン、ユニクロあたりを見ればよくわかる。ここの農場も決して暇ではないらしい。
「そうっすね。車は父が通勤に使っているもんで」
「ああ、免許はあるんだね。原付でも買えばいいんじゃない?」
「貯金してる最中ですから。大学通った教育ローンも返さなきゃならないし」
そのためにも、早いところまともに就職を決めたいものだ。
俺とトオルさんが、就職がどうの景気がどうのと話していると、どこからともなく野生の町田さんが飛び出してきた。
「おお、林くん偉いんやなあ。学校通ったお金、自分で返しとるのか」
しかし俺は一瞬、自分の目を疑った。どうやら彼女は俺たちが話し込んでいる間に、寮で風呂を終えたらしい。しっとりしなやかロングヘアの小麦肌美女がそこにいた。着ているのはジャージとTシャツだけど。しかもなにやら学校の名前らしき刺繍が入ってる。
その文字を見る限り、町田さんは工業高校の出身らしい。微妙な親近感を覚える。俺も工業高校から大学の工学部に進んだから。
「髪を下ろしてるからすげえ若く見えるよ。そのまんま女子高生で通用するぜ」
皮肉ではなく本心からそう言った。俺の高校生活は詰襟の男友だちのみが視界に入る世界で、町田さんみたいなクラスメイトがいたらもっと楽しかっただろう。
「ホンマ? もう一回通いなおそうかなあ。今度はちゃんと部活とか入りたいし、修学旅行にも行きたいわ。授業がなかったら最高なんやけどな」
町田さんは大阪の高校を中退してから、プーをやったり、適当に働いたりしてこんな田舎に流れ着いた。歳はやっぱり聞かなかった。ちょっと気になるけど。
「お、野球はじまった。やっぱ事務所のでかいテレビで見るに限るわ」
町田さんは野球を見るためにわざわざ事務所に来たようだ。お前の家じゃないぞ。社長やトオルさんも、残務の傍らで苦笑いしながら野球中継を見始めた。いつものことなんだろう。牧歌的な会社だ。
雨が上がったので俺は家に帰ろうとした。そのとき、一台のタクシーが事務所の前に停まり、スーツ姿の男が中から出てきた。
微妙に色のついた眼鏡と派手なネクタイ。ストライプ模様のダブルスーツ。ネクタイピンがキラッと光っている。靴も腕時計もなんかピカピカだ。どう見てもヤクザ屋さんです本当にありがとうございました。目を合わせないようにそそくさと自転車置き場へ逃げ出す俺。畑にヤクザってミスマッチ過ぎるんですけど。
「あ、お兄さん、ちょう失礼します。事務所はこちらの建物でよろしいんですかな」
そんな努力もむなしく、関西なまりの怪しい敬語で話しかけられた。
「あ、はい、そうです。社長も中にいます。それじゃあ僕は急いでますので」
「おおきに、お疲れ様です。農場の仕事は大変ですやろ」
畑で一日働くより、ヤクザと会話するほうが変な汗がドバドバ出ている。
逃げるように事務所裏に行き、停めてあった自転車に俺は跨った。そのとき、事務所の裏口から町田さんが挙動不審の有様で出てきた。
「どしたの。阪神が一回に連続本塁打でも浴びた? まだペナント始まったばっかりなんだから悲観するなよ」
「うっさい、急いでんねん。お母ちゃん、アタシが働いとるところバラしたな……」
なにやらわけのわからない独り言を放ちながら、町田さんは寮に走って行った。
そう言えばさっきのヤクザと町田さんとは、似たような関西なまりだ。なにか関係があるのだろうか。
あくる日、俺は休みを利用して親父と一緒に母の日のプレゼントを買いに出た。
農場では班ごとに休日をローテーションしている。五つの班があり出勤するのは四つ、残った一つは休みと言うことだ。そのため、俺たちは四日働いて一日休むと言うシフトを組んでいる。
結局、母親へのプレゼントは紅茶のセットと懐中時計にした。定額給付金のおかげで、結構いいものが買えた。
「で、どうなんだ仕事のほうは」
五月三日、祝日のイオンタウンはクソ混みだった。この田舎ものどもはイオンしか行くところがないのかと、小一時間問い詰めたくなる。そんな俺と親父は早々に買い物を済ませて、帰りに馴染みのラーメン屋で昼飯を食っていた。
俺の就職活動が進んでいるのかどうか、心配になっているのだろうか。食い終わったときに親父が聞いてきた。
「どうって言われてもな。祝日あけたらハローワーク行ったり、ネットとか雑誌で求人探したり、面接の予約したりかなあ。履歴書は多めに書いてるし」
農場のバイトは体に応えるので、帰ったらついつい泥のように眠りたくなる。それでもハローワークや会社面接に行けないなりに、求人情報はチェックしている。問題は休日の間に、どれだけ効率よく面接や説明会に行く段取りをつけられるかだ。
「いや、そうじゃなくて畑の仕事だ。やっぱり大変か」
「そっちの話か。体はきついけど、ストレス溜まんないのがいいね。正社員の人たちは結構いろいろ考えてて大変そうだけど、バイトの俺らはひたすら収穫だから」
社長の息子、俺らのリーダーを務めるトオルさんはかなりいい大学の農学部を出てる。大農家のボンボンと侮るなかれ、博識で優秀な人のだ。そういう人でないと上役は務まらないのが大農場の経営なのだろう。まがりなりにも、れっきとした会社なのだ。
「そこで正社員の求人とかがあればいいのにな。それならお前も家から通えるし」
「……いや、ここで就職する気はないって。せっかく工業系の学部出たのに。このへん、そういう会社少ないだろ」
昨今の不況で一番あおりを受けたのは、輸出を基盤とする大手工業系だ。
もともとがアメリカの金融から発生した不況なので、アメリカの景気が回復しないと、この不況は脱出できないだろう。
日本国内でも自動車や家電に関しては、自殺者が大量発生してもおかしくないくらいの派遣切り、生産ライン削減を敢行している。大手の仕事が滞ると、下請けの仕事もなくなる。俺が内定を取り消された横浜の会社もその類だ。
親父としては工業系にこだわらず、いっそのこと地元で職を決めてくれたほうが安心なのだろうか。確かに今は贅沢言ってられるご時世じゃないけど。田舎は田舎で、もともとの求人が少ないのが問題だ。俺が住んでいる町の有効求人倍率は、全国平均よりも三割くらい低い。これでまともに仕事を見つけるのは至難の業だ。
選り好みしなければ正社員になる道はいくらでもある、それが親父の世代。しかし、俺たちの世代ではその前提が存在しない。俺のように大学を出て専門的なことを学んだ人間は、その能力を生かしてピンポイントの職場を探し当てるほうが登用の可能性が高い。
例を挙げるなら、俺がバイトしている農場も農大卒ならコネなし正規採用の道がある。
しかし、バイトのままだとずっとバイトで飼い殺されるのが落ちなのだ。バイトから頑張って正社員の道を開くより、農大に通って卒業したほうが正社員になるのは早い。もちろん、そんなことができる人間は限られている。
「洋平、お前、鉄腕アトム知ってるか」
いきなりなにを言い出すんだこの親父は。
「まあ全部じゃないけど少しは。アトムより火の鳥のほうが俺は好きかな」
「父さんが小さいころなあ、二十一世紀になったら、世の中があんなに便利になって、仕事も楽になるんだとばかり思ってた。その頃は携帯電話もインターネットも、想像すらしない時代だったからな。それが今、科学は発達したはずなのに、大学まで卒業した息子が就職に苦しむ時代になるなんて、思ってもいなかったよ。父さんの会社も不況で人を減らしてるから、仕事が昔に比べて楽になった実感は、ちっともない。いったいどうなってるんだろうな」
どうもこうもない、そんな話。
一つ言えるのは、科学の進歩と人類の進化は関係がないってことだろう。工学部卒の俺が言うせりふじゃないけど。
ラーメン屋の会計は俺が払った。そのときもらったお釣りの硬貨に、俺は微妙な違和感を感じた。
「あ、旧五百円玉か」
しかも昭和六十四年と書いてある。本当に実在してたんだ。
これで運を使い果たして、就職がいつまでも決まらない、そんなのは嫌だな。
ただでさえ少ない休日は、出かけたり家で就職資料の整理をしたりで、あっという間に終わってしまった。今日からまた四日間、気まぐれな山間の空模様をうかがいながら、大地と格闘する日々の再開だ。
「おいっす町田さん。今日も相変わらずイモかねえ」
休日明けの仕事はブルーなものだ。こういうときこそ総天然色ガール町田さんの、ウザいくらいにあまっているパワーを分けてもらおう。
「おはようさん、林くん。人生ってうまくいかんもんやな」
暗い。
彼女もなにやら憂鬱を抱えているようだ。町田さんの眉間にしわがよっているなんて、はじめて見た。今日は雪が降ったりしないだろうか。
「なにかあったのかよ。そう言えば、事務所に見慣れないオッサン来てたな。町田さんが蒔いたトラブルの種じゃなきゃいいけど」
「……別に会社に迷惑なんかかけへんよ。トオルさんに、ちょっとごまかしてもらっただけや。アタシは仕事を休んで、北海道に花見に行ってるって設定になっとる」
よくわからない話だけど、それって迷惑かけてるんじゃないだろうか。しかし桜を追いかけるために北海道とは。こいつなら本当にやりそうで嫌だ。
「あのヤクザ風のおっさん、やっぱり町田さんの知り合いだったのかい。組の金を持ち出して大阪から逃げて来たとかじゃないだろうな」
「ヤクザとちゃうよ。前にいた職場の上司なんやけどな。アタシ、あの人にプロポーズされてん。こんな田舎まで追いかけてくるとは思わんかった。うっとうしいなあ」
なんとまあ驚きだ。そんな恋愛ドラマみたいな人生を送っていたとは。それでも町田さんが語るせいか、全然ロマンチックに聞こえない。
話の続きを聞きたいのは山々だった。しかし作業開始の時間がやってきて、俺たちはニンジン畑に運ばれる。バスの中でいつも響き渡る町田さんの笑い声も、今日は小さく少ない。
ニンジンと言う作物に俺は悲哀を感じる。料理の中では主役を張ることなどほとんどなく、子供からも嫌われやすい。味や食感にもそれほど強力な個性や売りがなく、見た目の鮮やかさとか栄養価の高さだけで評価されているような商品だと思う。さらに畑に来てから知ったけど、ニンジンは出荷の価格が恐ろしく安いそうだ。
「時期によっては、売れば売るほど赤字になるときもあるよ。経費とかで」
トオルさんが俺にニンジンの間引き方を教えながら、そう話してくれた。
ニンジンと言うのはとても弱い作物であり、植えても根腐れなどを起こしやすい。だから育てばラッキーとばかりに、植えるときは隙間なく大量に植える。
しかしあまり密集しすぎていると太く大きく育たない。そのために葉が無事に土から出た頃合を見計らって、余分なニンジンを等間隔に抜いてしまい、残りのニンジンが育つためのスペースを確保するのだ。
せっかく植えられ、これから育つぞと思った矢先に引き抜かれて一生を終えてしまう。そんな間引かれたニンジンたちの群れを見るたびに、俺は自分たち人間もこんなようなものだと重ねて感傷的になる。
少し前に、勝ち組負け組という言葉が流行った。根腐れを起こしたり、間引かれて畑に打ち捨てられるニンジンは明らかに負け組だ。出荷されて食卓に並んでも、その中で人の舌と胃を満足させる勝ち組ニンジンはほんの一握り。
俺たちが生まれて子供から大人になり、世の中に出てなにごとかを成し遂げる人物になれるのかどうか。確率的にはこの畑のニンジンと、大差ないんだろう。
横で作業している町田さんを見ると、間引いたニンジンの葉っぱをかじったり、匂いをかいでみたりしている。
「さすがにこれは持って帰らないだろ」
俺は笑いながら聞いてみた。町田さんは少し驚いたような表情で応えてくれた。
「なんや、林くん知らんのか。にんじんの葉っぱを味噌汁に入れると、ええ風味付けになるんやで。おひたしにしても結構食えるし、野菜のかき揚げに混ぜてもいけそうや」
俺はちょっと感心した。捨てる神あれば拾う神ありとはこのことだな。こいつ、結構かっこいい女なのかもしれない。
少なくとも町田さんは、勝ち負けという次元を超えた別の概念で生きているようだ。
「町田さん、元気なかったっすね」
夕方の作業が終わり、事務所に移動するバスの中で俺はトオルさんと話していた。今日の町田さんはとても静かで、それでも作業に入ると体だけはシャカシャカ動くのが凄い。
「彼女もいろいろあるみたいだからね。仕事は申し分ないし、みんなにも好かれてるから辞めて欲しくはないんだけど。こればっかりは本人の問題だから」
「辞めるとか、そんな話になってるんですか」
町田さんを追いかけて、地元の男が連れ戻しに来たということなんだろうか。確かに自分探しという名の逃亡劇で、大阪からこんな田舎に若い女が来て、一人で働いて暮らしているのはちょっとおかしい話だ。
しかし普段の町田さんを見ていると、そんな経緯があってここにいるということも、特に不自然とは感じないから怖い。
「彼女も深く話してくれないし、立ち入ったことを聞くのもどうかと思うんだけどさ。なにか力になれることがあるかもしれないからね。今日の夜、町田さんをご飯に誘おうと思ってるんだけど、林くんもどうかな。ほら、うちで町田さんと歳が近いのって、俺らだけだし」
照れくさそうに鼻をかきながらトオルさんが小声で言う。ひょっとしてこの兄さん、町田さんみたいな女の子が好みなんだろうか。誘うなら堂々と誘えばいいものを。
「俺は構わないっすけど。帰ってシャワー浴びたいんで、夜六時くらいでいいですか」
「ああ、うん。確か林くんの家、駅の近くだったよね。じゃあ六時半に駅前で」
結局、町田さんをメシに誘う役も俺に回された。仕事では頼りになる次期社長も、プライベートを女と過ごすことに関しては腰抜けらしい。
町田さんのような勝気な女の子とコンビを組んだら、絶対に尻にしかれるタイプだ。
家でシャワーを浴び着替えた俺は、六時半きっかりに駅前でトオルさんと合流した。
トオルさんの愛車であるランサーエボリューションの後部座席には町田さんが座っている。なんとびっくり、外にメシを食いに来ていると言うのに、いつだかの高校ジャージといういでたちだ。俺も破れたGパンにスカジャンなので人のことを言えた義理じゃないけど。ストライプのカットソーで爽やかに決めているトオルさんが、逆に浮いていて悲しい。
「俺が助手席でいいんすか」
意地悪くトオルさんに聞いてみた。
「車に乗り慣れてないから、助手席は怖いんだってさ。乱暴な運転なんて、してないんだけどな……」
そう言えば町田さんはバスでも最後尾席しか座らないな。
なんだかトオルさんが可哀想になってきた。天然女ってのは悪気がないのに間をはずす。
夕食の目的地は、町田さんのリクエストで串カツ屋になってしまった。俺としてはもっと腹にたまるものが良かった。本場大阪の味、という触れ込みの店がここの近くにできたので、町田さんが興味を示したらしい。
「本当は牛串とかホルモンが良かってんけど。このへん、そういうお店ないみたいや」
「どっちにしても肉ばっかりじゃねえか。どんだけタンパク質を摂取したいんだよ」
ついつい呆れて突っ込んでしまったけど、よく考えるとそれらは町田さんの故郷である大阪ではごくメジャーな食べ物だった。町田さんの中では、外食イコール肉、という方程式が厳然と存在するのかもしれない。俺たちの町では、外食と言えばラーメンだけど。
後部座席の町田さんは、口数少なくあたりの景色を眺めている。中小都市の寂れた駅前がかもし出す、暗さと静けさを持った町並みは大阪育ちの町田さんにとって、かえって珍しいものなのかな。大きな建物と言えばイオンタウンくらいのものだ。ロフトも東急ハンズもパルコも高島屋もない。地方都市のテンプレート。
俺にとっては見慣れた景色。俺はこんな閉塞した空気が嫌いで、離れた町の国立大学に入るために結構ガリ勉して大学に受かった。就職先はさらに都会を選んだ。都会だったらどこでも良かったのだ。その選択で痛い目を見たけど、今さら後悔しても始まらない。
「はあーっ、生き返るわあー」
運ばれた中ジョッキを嚥下して、親父臭い感嘆を漏らす町田さん。
そのさまを俺もトオルさんも苦笑いで見つめていた。学生ジャージ姿でいきなりビールを頼むな。
「念のために聞いておくけどさ、町田さん、ちゃんとハタチ過ぎてるよね?」
人間が建前で決めた細かい法律など、町田さんという生き物には余り関係がないのかもしれない。それでもなにかトラブルをこうむるのはご免なので俺は聞く。
「大丈夫、昭和六十四年生まれや。免許もあるで。原チャリやけどな。林くんも飲んだらええやん、年上やろ?」
またマニアックな年に生まれたもんだ。早生まれだから学年だと二つ下か。
「そうそう、運転は俺だから安心して飲んでくれていいよ。明日の仕事を二日酔いで休まない程度には」
トオルさんが、自分は優しい上司であるアピールをしている。せいぜいしっかりと町田さんの前でポイントを稼いでください。そのためにも遠慮なく飲ませてもらおう。
「そうね、じゃあ仕事に響かないくらい。ところでどうだい、町田さん。ここの串カツ。ちゃんと大阪の味を思い出せるかい」
「さあ? こんなもん、どこで食っても大した変わらんやろ」
一瞬、トオルさんが固まったように思えた。怒っていいところですよ、ここ。
「あんた、天然もいい加減にしないといつかヒドイ目に遭うよ」
代わりに俺がとげを刺す。上司のために汚れ役を引き受ける俺って世渡り上手。
「いやいや林くん、女の子はちょっとくらい天然な方が可愛いって。ゲホッ」
慣れないことを言って恥ずかしかったのか、トオルさんが咳き込んだ。この人もこの人で疲れる。
話の本題に入らないまま、俺たちは串カツを食いまくってキャベツをかじりまくっていた。その間に町田さんのどうでもいい話が続く。主に野球やゲーム、映画の話だ。この女の口から、ファッションやスイーツの話題が出たのを聞いたためしがない。
本題と言うのはもちろん、町田さんを追いかけて来た大阪の男に関してや、その話を受けて町田さんが今の職場を離れてしまうのかどうか。
町田さんがトイレに行った隙を見て、俺はトオルさんに促す。
「で、聞かなくていいんですか」
「うーん、やっぱり聞きにくいよね。林くんに来てもらって正解だった」
「俺が聞くんですか」
「頼むよ、ここの払いもどうせ俺なんだし」
最初からそのつもりだ。社長の息子にメシを誘われて、自分で払う意志なんざあるわけない。なにしろ俺は財布すら持って来ていない。
「男二人でなんの相談やねん。プレステ3なら貸さんで」
日焼けと赤みが程よく混じった顔の町田さんが戻ってきた。一日ブルーだったはずなのに、酒と串カツですっかり上機嫌になっている。その単純な生態がうらやましい。
「いやあ、町田さんを追いかけて大阪から男が来るくらいだから、やっぱり辞めて帰っちゃうのかなあと。そうなったら寂しくなるなってことをトオルさんと話してたんだよ」
「辞めるほどのことやないと思うで。適当にごまかしとったらホトボリ冷めるやろ」
前に大阪のオッサンが来たとき、町田さんは一目散に逃げてトオルさんが口裏を合わせたらしい。その程度じゃまた確認に来るんじゃないだろうか。仕事場にいることがバレたらどうするつもりなんだろう。
「そ、そっか。辞めないならこっちも助かるよ、町田さんは新人のバイトに教えたりするのも上手いから」
一人だけウーロン茶を飲みながら、トオルさんも安心したように言っている。それでも内心はいろいろ複雑だろう。ヤクザじゃないと町田さんは言うものの、ちょっと怖いオッサンが事務所に来て女を出せって言ってるんだからな。その現場はあまり居合わせたくないものだ。
「それでも、一度は相手と話し合ったほうがいいんじゃねえのか。ごまかすったって限度があるだろ。会社にだって、なにか迷惑かかるかもしれねえし」
酒が回り始めた頭にしては、至極妥当な意見を俺は言えた。それでも町田さんは俺の発言に驚いたように、声のトーンを若干上げて言い返してきた。
「話し合うって、なにを話し合うねん。結婚したい言うてるのは向こうの勝手や。アタシは知ったこっちゃあない。いちいちめんどくさいわ」
俺は一瞬、この女はなにを言っているんだろうと思った。少なくとも俺の常識では出てこない感覚だ。トオルさんも若干驚いて目を大きくしている。
「そりゃ、そうかもしんねえけどよ、相手はちゃんと話をしたいと思ってるから会いに来てるんだろ? 逃げて回ったってグダグダになるだけで、なにも解決しねえだろっ」
「せやから、プロポーズされたときにちゃんと『考えさせてください』って言ったわ! 今は考え中で保留やねん。そのためにこんなのんびりしたところに来てるんやないか。黙ってアタシがどっか行ったかて、真剣に結婚を考えてくれてるなら一年や二年、平気で待てるんちゃうんかい。まだたった三ヶ月くらいやで。こらえ性がないっちゅーねん」
俺はあいた口がふさがらなかった。なんという自分勝手な考え。いつだか町田さんが、自分を魔性の女と言っていたのを思い出す。確かにこんな女に引っかかったら、ちょっとやそっとの苦労じゃ済みそうにない。
「えーと、二人とも、ちょっと落ち着いて」
俺と町田さんの言い合いをハラハラして見ていたトオルさんが仲裁に入る。俺も少し酔っているようだった。酒の代わりに水を飲み下し、深呼吸をする。
「町田さんは、その話を断るつもりじゃないの? 大阪の元上司の、プロポーズをさ」
トオルさんが、この人にとっておそらく一番気にかかる質問を直球で投げる。
町田さんはそれにけろっとして答えた。
「せやから、ようわからんねん。しばらく考えて、やっぱエエなあと思ったら受けるし、やっぱ嫌やなあと思ったら断るし。ただ」
一呼吸をおいて、町田さんが残っていたビールを一気飲みする。俺のビールまで飲む。
「アタシはアホやけど、流されて生きるのは嫌やねん。今まで自分のしたいことなんて、いっこもできんで育って、それでもアタシ、アホやからしゃあないなあって諦めててん。周りの言うこと聞いとかなアカンって。せやから、プロポーズされて、お母ちゃんも別に反対せえへんかって、それでエエかなって思ったとき、めっちゃ自分にムカついてんやんか。このままやったらアタシ、自分のやりたいこと、なんもできんで死んでまう。ちゃんと探せばやりたいこととか、アタシでもできることとかあんのに。ずっと大阪におって、周りの言うことハイハイ聞いとったら、それがわからんねん。せやからここに来たんや」
ジョッキをきつく握ったまま、若干涙ぐんだ町田さんの演説。それでもなんとか涙を流すまいと踏ん張り、こう言って〆られた。
「大阪からこの町に来るまでの電車、気持ちよかったなあ。財布と通帳と携帯と着替えだけ持って。アタシなんでもできるやん。どこにでも行けるやん、って。せやから、今の暮らしを誰にも邪魔されたくないねん。しばらく結婚なんてありえん」
店を出たとき、トオルさんはかなり意気消沈しているようだった。変な空気になってしまったのは俺にも原因があるので、謝っておこう。
「すいません、なんつうか色々とアレで」
「……いや、大丈夫。でも、手強いね、彼女」
行きと同じく、町田さんを後部座席に乗せてトオルさんのランエボが走り去る。
うなだれるのも仕方がない。町田さんの発言は、しばらく男なんかイラネーという意味にも聞こえたからだ。このタイミングでトオルさんがモーションをかけても、九割九分九厘九毛の確率で玉砕するだろう。南無阿弥陀仏。
翌日、町田さんは生理がひどいという理由で仕事を休んだ。それは二日酔いの言い訳だろう。今まで一度も仕事に穴を開けたことがなかったのが、町田さんの取り柄なのだ。
いつもは町田さんの尻を追いかけながら、イモを拾ったり雑草を抜いていたりするはずなのに、今日はそれがない。同じ班の人が全体的に静かで、覇気がないように感じる。
雑草抜きレースは俺が一位だった。畑に並んで、自分の前の雑草をひたすら抜きながら進むのだ。地面にちょろちょろ生えているハコベという草も、一応は食べることができるらしい。町田さんならそんなものも持って帰っただろうか。
家に帰り、パソコンのメールを開く。ネットで資料請求や面接の応募ができる会社にもいくつかあたりをつけているので、そのチェックをするためだ。
俺は東京、大阪、名古屋、横浜などの都市圏の会社ばかりを狙っている。田舎を出たいと言う理由がまず一つ。そのほかにも、大きな都会や工業地帯なら、就職して万が一に会社がつぶれたり、首になったり、あるいは仕事が嫌になって辞めたときにも次の行動に移りやすいからだ。
横浜の内定先が倒産したとき、俺は痛いほどにそのことを実感した。一々田舎に帰るロスを考えると、本格的に生活の拠点を都市へ移したほうが、進むべき道の選択肢がぐっと増えるのだ。
パソコンを触る手をふと止めて考えた。町田さんが串カツ屋で言ったせりふ。流されて生きたくないということ。
俺は自分の意思で工業系に進み、その仕事を探しているはずだった。もちろん、都会がいいというのもある程度は考えた上でのことだ。
しかし、どうしてそう思うようになったんだろう?
俺が物心ついたころには、世の中は不況不況の大号令だった。とにかく、平成という時代は不況から始まって、ずっと不況と言われていた。おそらくそれは、バブル全盛期と比較してテレビや新聞がそう言っていたんだろう。うちも裕福じゃなかった。
そんな中でも、自動車なんかを中心とする工業系は、文字通りの鉄板業界と言われていた。地道に物を作っている仕事なら、好不況の波にそれほど左右されない。技術職は食いっぱぐれない。そういう信仰が世の中に確実にあったのだ。
俺が大学に入るころには、トヨタの自動車生産台数が世界一になるとかならないとか、そんなことを言われ始めていた。アメリカはITバブル全盛期で、中国は巨大な人口を抱える消費市場として、世界中からの注目を浴びた。
就職活動をしていた大学生時代、工業系を中心に景気は上向きだとニュースで言っていた。高校の同級生はシャープの工場で派遣社員として働き、一ヶ月で三十万前後の金をもらっていた。
「こんなにもらっても使う暇がないんだよな、残業ばっかりでさ」
そう言って、成人式で会ったときに飲み会の金を全部出してくれたのを覚えている。
そいつも今では派遣切りに遭って、地元に戻っている。俺も似たようなものだ。工業系に進めば大丈夫と言う世間の情報に流されて、今ではなぜかイモをひたすら拾う日々だ。不況の中に咲いた一瞬の工業バブル、俺は見事にタイミングをはずした。
だからと言って他の道に進むことができるだろうか。親父が言うように近場で就職したり、町田さんのようにまったく新しい生き方を探したり。
難しい相談だ。近場にはそもそも求人が少なく、機械いじりが好きで選んだ工業系以外の進路にも、特に興味は持てない。流されて生きるのが嫌だと言っても、自分が好んで乗った流れから方向を変えるのは難しいのだ。最悪、溺れて身動きできなくなる。
「洋平、なにか郵便が来てたぞ」
外出から帰って来た親父が、手に封筒を二つ持っている。
一つは先月に面接を申し込んでおいた関東の会社からだった。不況のせいで中途採用を予定通り行うことができなくなり、残念ながら今回の話はなかったことに。と言った内容が丁寧に書かれていた。それもパソコンの文書ではなく、人事課長という署名が入った自筆の手紙だ。
先月の時点では大丈夫だった会社が、今月になってピンチになる。同情できる立場にはない俺にさえも、その会社のギリギリ感や無念が伝わってくるようだ。
もう一つは船の部品などを作っている、中規模の企業からだった。工作機械を修理したりメンテナンスしたり、現場の生産活動を改善したりする技術職なら募集があると書かれている。本社は大阪の郊外で、俺の住んでいる隣の市に支社がある。
勤務地が支社と本社のどこになるかはわからないけれど、支社に来てもらって一度面接をしましょう。そんな内容だった。
俺はすぐにその話に飛びついて、書かれていた支社の番号に電話をした。誰も出なかった。よく考えたら今日は祝日だ。早く終われゴールデンウィーク。
五月六日。世間では振り替え休日でも、俺たち農夫は野良仕事。
町田さんはいささか眠そうな顔をしているものの、ちゃんと出勤してきた。
「おはよ、林くん。この前はそのう、まあなんちゅうか、悪かったな」
先手を打たれて素直に謝られてしまった。こんなさばさばしたところも町田さんの魅力なんだろうか。トオルさんの気持ちもわからないではない。
「俺のほうこそごめん。そうだ、これあげるよ。確か昭和六十四年生まれだって言ってたろ。居酒屋で渡そうと思ってたんだけど、忘れてたからさ」
俺は財布に入っていた五百円硬貨を渡した。昭和六十四年と書かれた一品。あの時は頭に血が上っていてそれどころじゃなかったからだ。
「お、サンキュ。前から欲しかってん、これ。大事にするわ」
「やっぱいろいろ人によって事情もあるし、他人が口出すのも良くないよな。よく知らないのに勝手なこと言っちまったお詫びと仲直りのしるしってことで」
「いやな、他人にわからんってのはそうなんやけど、他人やから客観的に判断できることもあるしな。いつかは相手と話合わなアカンことやし」
「ずいぶん冷静なんだな今日は」
「あんときは疲れてたし、酔っとったからカッとなっただけや。ゲームで徳川の軍勢を片っ端から殺して回ったら頭も冷えたわ。家康が大坂城の堀をだまして埋めんかったら、日本の首都は大阪やったんや。今じゃ江戸城なんて、天守閣も燃えてなくなってしまっとるやないか。首都やのに情けないわ」
「大坂城だって城の形した鉄筋コンクリートのビルだろ……」
燃えているのはお互い様で、日本じゃ燃えてない城のほうが珍しい。ちなみに大坂城は幕末戦争でも太平洋戦争でも、攻撃ではなく戦後の失火で消滅したと言う悲しい城だ。徳川対豊臣の戦争を含めると、歴史の上で大きな戦争の攻撃を三度も潜り抜けながら、戦後のウヤムヤで火事になって城としての機能を奪われている。
「な、なんや詳しいな自分。行ったことあるんかい」
「中学の修学旅行は大阪と京都だったからな」
都会への憧れが決定的になったのも、その経験が大きいかもしれない。大坂城から見下ろした街並みは、四方八方がコンクリートの畑だった。冗談ではなく何百万の人が、狭い大阪府にひしめき合って生きているのだ。こんなところが楽しくないわけがないと強く感じた。
コンクリートではなく、本物の畑では春キャベツが群れを成している。鮮やかな黄緑色の行列をなすこれらは、店に並んでいるどんな野菜よりも生き生きとして美味そうだ。
実際このバイトを始めてからは、野菜の本当の美味さが少しわかった気になる。特に白菜やキャベツなんかの葉っぱものは水分が抜けやすい。そのため店に並んだ時点ではどうしても瑞々しさが少し失われている。含んでいる水分の率が下がった野菜は、どうしても甘く爽やかな味を落としてしまう。
「雪が降る地域にも畑を持ってみたいよ。雪の中から掘ったニンジンとか、冬を越させたキャベツとか、あれは水分や糖分の関係から結構なメリットがあるんだ。雪国もやしも有名だろう?」
キャベツの入った段ボール箱をトラックにひたすら積みながらトオルさんが話す。
他の班員が収穫し、別の人が箱に詰め、俺とトオルさんだけでひたすらトラックに放り込む。
キャベツ重い。キャベツ地味に重い! そしていつまで経っても終わらない! なんだってここの畑はこんなにでかいんだ。平気な顔で作業をこなすトオルさんが化け物に見える。
「よその土地を買って、違うブランド野菜を、作るってのも、いいんじゃないですか。経営の、多角化って、やつでしょう。不況に強く、なりますよ、多分。はあふう」
必死に話を合わせながら、適当に受け答えする。頭がくらくらしそうだ。これからの人生、友だちがキャベツを残して捨てる光景を見たら俺は切れるだろう。どれだけ苦労して出荷してると思ってるんだ。キャベツの箱は地味に重いんだぞこの野郎、と。
「そうだねえ。他に男の兄弟がいれば、そういうことを俺がやってみたいんだけどね」
苦笑いしながら言うトオルさん。
そう言えばトオルさんには男の兄弟がいない。農場の経理や庶務をしているお姉さんと妹さんは事務所で見かけるけど。大農場の息子にしては珍しいんじゃないか。
ひょっとすると、トオルさんは嫁探しと子供作りを真剣に考えているからこそ、女に関して人並み以上に慎重になるのだろうか。若いころは遊びで恋愛していれば十分かもしれない。しかしそれがいつまでも許される立場じゃないのだ。
大阪から出てきたばかりの町田さんに、いきなり農家の嫁になってくれと言っても上手くいくわけはない。元気で明るい町田さんなら、トオルさんの事情からは理想的な相手だろう。しかし、町田さんの事情がそれに噛み合うかどうかは、まったくの別問題だ。町田さんはまた別の生き方を探すために、どこかへ飛んで行く印象しかない。
彼女と俺は対極的に見える。町田さんは、やることを見つけるために都会から逃げてきた女。俺はやりたいことがはっきりしていて、そのために都会に行こうとしている男。
それでも自分の根っこを張る場所を探し、さまよっていると言う点で共通している。トオルさんに比べると俺たちはまだ子供なんだ。どこで何をしてどう生きるかというビジョンが明確じゃない。
奇しくも、昨日は子供の日だった。町田さんが少し落ち着いていたのも、これから大人になっていく自分をいろいろと想像したのだろうか。テレビ画面の真田幸村を操って、本田忠勝をぶち殺しながら。
カレンダーの赤い日がやっと終わった。俺は五月七日の昼休憩で、封筒を送ってもらった会社に面接予約の電話を入れた。
早ければ明日にでも行けます。そう伝えたらあっさりOKだった。農作業のバイトが休みなのを利用して電車に飛び乗れる。忙しいし体中のあちこちが痛いけれど、ここは弱音を吐いていられない。
「ああ、そういや林くんは就職活動中やったな。採用が決まった電話?」
昼食を終えた町田さんがガムをくれた。風船ガムなんて何年ぶりだろう。町田さんは手のひら以上に大きな風船を作りながら、俺の電話を聞いていたようだ。
「いや、まだ面接だけ。かなり条件がいいところだから、受かって欲しいんだけどな」
俺は工業高校に通っていたころ、旋盤を回したりドリルで穴を開けたりと言う実習作業が大好きだった。それでも周りの同級生は卒業後にさっさと就職したやつが多かったけど、俺はどうしても都会に行きたかったので必死に勉強して大学にまで行った。
今回の募集は技術部署ということで、俺が好きだった分野に近いと思う。回り道はしたけど大学で勉強したことだって生かせるだろう。
そしてなにより本社が大阪で、そこには社員寮があるということが大きかった。地図で調べると、近鉄電車に乗れば三十分もかからず難波の繁華街にアクセスできる場所だ。
まだなにも決まっていないというのに、面接をするというだけで俺の胸はかなり高まっていた。できれば本社勤務、すぐじゃなくてもいずれは。そうなったら最高だ。
「ええなあ。アタシも高校さえまともに出とったらなあ。ちゃんとした会社に入るアテあったのに。今さら言うてもしゃあないけどな」
「そういえば町田さんも工業高校だっけ」
「うん。親戚のおじちゃんが東大阪の工場で部長やっとってな。ちゃんと卒業したらそこに入れてくれるって話やったんや。それまでにパソコン覚えろって言われとったけど」
「もったいないことしたね。俺が受ける会社も東大阪が本社だよ」
「あのへんは工場が多いんや。確か船の部品とか作ってる会社やったわ。最近不景気らしいけど、大丈夫なんやろか、おじちゃん。リストラされてへんかな」
「部長クラスが簡単にリストラなんてされないでしょ……って、なんの会社だって?」
「な、なんや急に大声出して。船の部品やって。平成マリーンKKってとこやったわ」
そこは、俺が受ける会社だったりする。
月日が流れ、六月も半ばを過ぎたころ。
農作業を終えた俺は、トオルさんや社長に挨拶をするために事務所に入った。
「短い付き合いだったけど、今までお疲れ様。最期の給料は月末までに振り込めると思うから」
トオルさんがいつもどおりの爽やかな笑顔で、握手を求めてくれた。俺はその手を握り返す。分厚い、仕事をする男の手だった。俺もいつかこうなるんだろうか。
「こっちこそ、今までありがとうございます。邪魔じゃなければ、たまに遊びに来て手伝いますよ。なんか畑も結構好きになっちまって」
俺はこの日を最後に、農場でのバイトを終える。三ヶ月にも満たない間だったけど、この人には良くしてもらった。いつまでも元気でいて欲しい。
「ははは、そんなことを言ったら盆休みに早速お願いしちゃうよ。バイトの人たちもその時期は休みたがるからねえ。人手が足りなくて毎年困るんだ」
畑の作物はカレンダー通りに成長を止めてくれたりしない。俺たちが遊んでいる間でも、働いている人なんて世の中いくらでもいるのだ。この前のゴールデンウィークで十分に理解した。考えてみたらイオンと串カツ屋にしか行ってない。
事務所の人に挨拶を終えた俺は、外に町田さんがいたのに気づいて声をかけた。
「やあどうも。今まで世話になったね」
「別になんもしてへんわ。ちゃんと自分の実力で受かったんやし」
俺は結局、平成マリーンという会社を町田さんのコネを使わずに面接した。
そして、見事に落ちた。町田さんからは散々、アホだのカッコつけだのと罵倒された。
そのすぐ後に、全然別の会社を受けて、なんとか採用にこぎつけた。福岡市の近くなので、ここよりはいくらか都会と言えなくもない。いわゆる北九州工業地帯に属する、金属加工の会社だった。
「まあ、ここのバイト正直きつかったけどさ。トオルさんは丁寧に教えてくれるし、町田さんはいちいち発破かけてくれるし、楽しかったよ」
「せっかく、おじちゃんに口利いたろかって言うたのに。止めるんやもんなあ。福岡より大阪のほうが楽しいに決まっとんのにい」
ずいぶんと勝手なことを言っている。離れてはいても、本当に大阪が好きなんだな。わかりやすい関西人のイメージだ。
「アンタに人生の大事なところで借りなんか作りたくねえよ」
笑いながら憎まれ口を叩く。それでも町田さんの気持ちはありがたかった。俺が口利きの申し出を断ったのは、別に格好をつけたわけでも、ありがた迷惑だったわけでもない。
町田さんの力を借りて会社に入ったとしても、そこが気に入るかどうかはわからない。また、その会社が俺の仕事ぶりを評価してくれるとも限らない。どっちにしたって町田さんに対し、申し訳ない気分になるだろう。場合によっては迷惑をかけるかもしれない。
要するに、この道に間違いはないという覚悟が決まってなかったのだ。俺もまだまだガキなんだろうな。
「町田さんはどうすんの、これから。しばらくここ?」
「せやなあ。とりあえず今年の野球が終わるくらいまではここにおるやろな。夏には海で泳ぎたいし。この辺、結構綺麗なんやろ?」
「まあそうだね。電車でちょっと行けば泳げる海あるし、船で島とかに行ったらスゲー綺麗だよ。大阪湾みたいな汚い水溜りと比べたらびっくりして心臓止まるぜ」
「なんや自分ー。喧嘩売っとんのかー。もう同僚やないねんからな、手加減せえへんで」
町田さんのローキックが俺の膝を襲う。俺はそれを食らいながら、置き土産代わりのいたずら心が芽生えた。こいつ、どんな顔をするだろうな。
「いてて、なんでこんな乱暴な女がいいんだろうな、トオルさんも。同情できねえよ」
「うわ、林くんまで知っとるんかいな。いやらしい男どもやなあホンマ」
蹴り足を止めて、町田さんが苦々しい顔をする。驚かせてやろうと思った俺が逆に驚いた。
「気づいてたの? トオルさんが町田さんを好きだってこと」
「んなもん、とっくにわかっとったわ。めんどくさいから知らん顔しとったんや」
「さすが魔性の女だね。それで、どうするの。お得意の逃げ作戦?」
「逃げたら逃げたでつまらんことにしかならんって、どっかの誰かさんが言っとったな」
町田さんが、道路の方向を見て口をへの字に曲げた。
タクシーが向かって来る。停車したドアの中から、見覚えのある下品なスーツのオッサンが出てきた。町田さんが言っていた、大阪の元上司だ。
「おおう、修羅場かよ。野次馬してから帰ろうかな」
「ちょうどエエわ。一緒に来て。いつかの五百円、お礼したるわ」
俺の手が町田さんに握られる。
そのままズカズカと、タクシーから降りた男へと向かう。
「お、おいおいなんだよ、俺はヤクザと会話するのは嫌いなんだよ! コエーよ!」
「ヤクザやないから大丈夫やって、多分な。エエから黙っとき」
相手の前に俺を連れて向かい合う。いったいなんだと言うんだろう。俺は貝になってうつむくのみ。
「久しぶりやなあ、マッちゃん。どんだけ心配したと思っとんねん。って、そっちの兄さんはなんや」
なんやと言われても、俺もよくわからない。しかし、前の職場でも同じあだ名だったのかこの女は。
「専務、アタシ好きな人ができたんや。せやからあの話、なかったことにしてくれへん? これからは普通に恋愛して、普通に青春したいねん。アタシもまだ若いんやしな」
畑から魚が飛び出たのを見た、というような顔を、専務と呼ばれた男が浮かべる。専務という割には若い気もする。こいつも経営者の息子とかそういう感じだろうか。
「ま、マッちゃん、何を言うとるんや。もしかしてその兄さんが相手の男かいな」
違います! そう大声で即答しようとしたとき、俺の口が町田さんにふさがれた。彼女の唇によって。
引き離そうとしても、町田さんが俺の首根っこを腕で抱きかかえている。細い腕でとんでもない力だ。
そのまま俺たちはキスを続けた。しかも、彼女の舌が俺の唇をもてあそび始めた。最初は動転するばかりだった俺も、なんだか気持ちよくなってくるほどに、町田さんのキスはエロくて上手い。知らず知らずに、俺も慣れない動作で彼女の唇をむさぼっていた。
男は放心したようにそれを見つめた後、タクシーに乗って帰って行った。
「これでもう大丈夫やろ」
俺から離れた町田さんが、去っていくタクシーを満足げに見る。
「えーと、実は町田さんが前から俺を好きだったとか言う話は……」
「んなことあるかいな、アホ。調子に乗んな。むしろ嫌いなタイプや」
やっぱり魔性の女だ、こいつは。
そしてなんか、後ろのほうで大口を開けたトオルさんが見ているんですけど。
「これでトオルさんも諦めてくれるとええな。一石二鳥や」
怖い、この女は怖い。よほどの男じゃないと手に余るに違いない。
「町田さん、若いくせにどんだけ修羅場くぐってんだよ。キスが上手すぎだって……」
「五百円のお礼にしては、奮発しすぎたかな」
なにやらおかしなことがあって、気持ちがまだふわふわしている。それでも、農場でバイトしたことはいい経験になった。願わくばトオルさんには、もっと素直で落ち着いた女性とめぐり会い、幸福な家庭を築かんことを。
最後に、ウナギの生態について語ってこの話を終えよう。今まで畑の話なのに、最後は魚か、関係ないだろうと思わずに聞いて欲しい。
日本のウナギは太平洋のはるか南で生まれる。卵からかえった稚魚は、温かな海流に乗って、流されるままに日本の海岸にたどり着く。
しかし、そこは外敵があまりにも多く、彼らにとっての楽園ではないのだ。流されて生きていた子供のウナギは、それじゃまともに生きられないと知り、敵の少ない河川の上流を目指す。
その課程がすさまじい。細く頼りない若いウナギが、ひたすら新天地を目指して川の流れに逆らう。山林に雨が降ったら、川のない場所を蛇のように這ってまでさかのぼる。地面にしみこんだわずかな水で生きながらえ、少しでも高い場所へ、少しでも上流へと登り続ける。そこまでしないと、敵の少ない水の澄んだ上流にたどり着けないのだろう。
しかしそこまで苦労してたどり着いた上流には、餌となる他の生き物が少ない。やはりそこも楽園ではなかったことに彼らは気づき、せっかく登った川を、今度は逆に下り始めるのだ。そうした紆余曲折、回り道を経てウナギは太く丈夫に育っていく。
人生最後の仕事である子作りを迎えたウナギは、海流をまったく無視して日本のはるか南をひたすら泳ぐ。そして故郷の海に帰り、子孫を残して一生を終える。
そこまでして生きるのだから、ウナギがスタミナの源と呼ばれるのもなにやら納得がいく。しかも、ウナギは調理法を間違えると毒になる。基本的に生では食えないのだ。
なにやら町田さんにそっくりだ。文字通り、つかみ所がないところまでも。彼女も今、世の中の流れを無視したり逆らったり、あるいは流れに乗ったりしながら自分にとっての楽園、自分の使命を探しているのだろう。
流されているばかりでは、自分の人生が食い物にされるだけだと感じて。
俺も仕事を始めたら、忙しさに殺されるかもしれないし、不景気で干上がるかもしれない。仕事以外でも、世の中にはおかしな誘惑や、厄介な敵があちこちに隠れている。
そうした周りの環境に流されて人生を食いつぶされることと常に闘いながら、俺たちは太くたくましくなっていかなきゃいけないんだ。それが子供から大人になると言うことなんだろう。
話を野菜に戻して結べば、自分と言う根っこをしっかり張っておかないと、地面から栄養も摂取できずに、風雨にも負けてしまう。どこに住むとか何をするとか以前の問題だ。結局は、なにごとにも揺らがない自分自身を持つことなんだろうな。
農場から自転車で帰るのもこれで終わり。唇に町田さんとのキスの余韻が残っているけど、思わせぶりな態度をしなかったのは彼女の優しさかもしれない。
「こんな程度のことで流されて、いい気になってたらアカンで」
そんな彼女の声が聞こえてきそうだ。二重の意味でありがとうございました。